2012年3月31日土曜日

「地球のうた」


トホホ トホホ
アース大王 今日も嘆いてる
一体全体 どうしたの
すっとずっと昔の御先祖様が
大事に 大事に育てた緑が
どんどんなくなっていくんだよ
私はどうしたものかと
困っているんだよ
トホホ トホホ


プンプンプン
アース大王 今日も怒ってる
一体全体 どうしたの
ずっとずっと昔の御先祖様が
大事に 大事に守ってきた水が
どんどん汚れていくんだよ
私はどうしたものかと
怒っているんだよ
プンプンプン


僕らの地球だ みんなの地球だ
僕らが守ろう みんなで守ろう
輝く未来へ 伝えよう
美しい緑を
美しい水を


僕らの地球だ みんなの地球だ
僕らが守ろう みんなで守ろう
輝く未来へ 伝えよう
美しい世界を
美しい地球を
みんなの力を 合わせて
育てよう 守っていこう

2012年3月30日金曜日

私の好きなことば「忘却とは忘れ去ることなり」


  忘却の対極にあるのは記憶です。歴史の年号、化学の元素記号、数学の方程式など、記憶すべきことは無限大です。人は、それぞれ得手不得手がありますが、なんと言っても試験をうまくくぐり抜けるには、記憶力がものをいいます。「私の特技は忘却です」と、得意気に言えば、それはイコール試験には「カーン、残念でした」ということになります。記憶することは覚えること、暗記すること、丸暗記すること。「つべこべ言わず、何がなんでも丸暗記しなさい」試験に臨む受験生へのアドバイスです。人間は、本当に優秀です。そのアドバイスに忠実に従い努力できた人は、見事「サクラサク」という結果が出ます。
 私は、記憶することは、とても苦手です。暗記、丸暗記、そして楽譜をすべて頭の中へ入れる暗譜、人のなせる技とは思えません。私の場合、ピアノに没頭し、日々努力を重ね、暗譜もできた、ということで試験に臨みますが、人間は生き物、その時に何が起こるかわかりません。体調、精神的状況、原因が一つではなく複合的な原因で、アクシデントが起こります。いざその時に、頭の中が真っ白になるのです。その恐怖は、口で言い表せないほど大きいものです。しかし努力の成果が出ます。手が勝手に動くのです。終わった途端、今、自分はどういうふうに弾いたのかということさえ、記憶にありません。中身は別として、弾き終わったというだけです。数々の苦い経験が思い出されます。ここには、しっかり天分の差が出ているのでしょう。
 記憶することは苦手でも、考えることは大好きな私です。丸暗記は苦手でも、不思議なことに、心はしっかり記憶していきます。そしてそれは、楽しかったこと嬉しかったことよりも、悲しみ苦しみつらさの方が、しっかり記憶されます。
 でもあえて私は「特技は忘却です」と、言いたいのです。
 悲しいこと、苦しいこと、つらいことに、押し潰されないように、
 「忘却とは忘れ去ることなり」と口に出して、
そのあとに、
 「試験はカーン」と言って、ガハハと笑いたいと思います。

2012年3月29日木曜日

「嫁ぐ娘へ」


いよいよあなたの出発(たびだち)の時が、やってきましたね。あなたとともに過ごした二十四年の歳月(としつき)が、走馬灯のように思い出されます。お父さんとお母さんが、結婚して早二十五年。もうすぐ銀婚式を迎えます。若いパパとママは、あなたが生まれた時、二人の愛の結晶の誕生に、新しい命の誕生に、それはそれは大変感激したものです。二人が力を合わせ一致団結し、初めて体験する子育てに取り組みました。パパの大きな手に抱かれてのお風呂は、あなたに心からの安心と安らぎを与え、とても気持ちよさそうにしていたものです。無我夢中で子育てをしているうちに、あなたはいつのまにか少女になり、乙女になり、そして美しい女性になりました。

 いつまでも子供だと思っていたあなたが、素晴らしい人とめぐりあい、私たちのところから羽ばたいて行くのですね。大きな喜びとともに少しの淋しさを感じます。お母さんが結婚する前、心に記した一文を、こんどはあなたに贈ります。

 「愛とは相手を思いやる心。愛とは相手の苦しみを自分のものとする心。愛とは相手のために自分の痛みに耐える心。結婚生活は、尊敬、知識、配慮、責任の四本柱の家屋みたいなものである」

 幸せを二人の手で築いて下さいね。遠くから祈っています。

2012年3月28日水曜日

救急車


今、私が住んでいる町には、大きな病院がたくさんあります。そのせいもあって、救急車の出動が、一日に平均十回ほどあります。早朝、救急車のサイレンで目をさますこともよくあり、夜、または深夜も、時間に関係なく救急車のサイレンは鳴り響きます。救急車のサイレンを聞くと、ある知人のことが思い出されます。

 知人は、一流大学を出て一流企業に入り、バリバリ仕事をするスポーツマンでした。社会人になって十年目、突然の事故が彼を襲いました。交通事故に遭い右手が不自由になったのです。彼は、右利きだったため、生活面での不自由さは、大変なものでした。右手を失ったというわけではありませんが、何ヶ月もの入院、再手術、リハビリをしましたが、右手は元に戻りませんでした。職場復帰はしましたが、彼の精神的苦痛は和らぐことなく、お酒の力を借りて、その苦しみから逃れるようになってしまいました。仕事をして生計は立つものの、生きる喜びからは、遠い毎日でした。そしてある日、大動脈瘤破裂で危篤状態になり、救急車で運ばれましたが、帰らぬ人となりました。前途洋々の彼を突然の不幸が襲い、人生がひっくり返り、もったいないほどの能力を思う存分発揮することなく、独身のまま旅立ちました。働き盛りの四十三歳でした。とても惜しまれた彼の人生でした。
 救急車の音を聞くたびに、温厚だった彼の姿が偲ばれます。

2012年3月27日火曜日


いよいよ春ですね。高知で321日に桜が開花し、あと一週間もすれば、あちこちで開花し、桜前線が北上します。

 日本人にとって花といえば桜、桜といえばソメイヨシノですね。桜に魅かれる日本人の心は、侘び寂びの心に通じるものかもしれません。きれいに花を咲かせ、人を楽しませたかと思うと、いっせいにハラハラと散っていく。花吹雪となれば、桜の花びらが舞っているかの風情です。

 春は、別れと出会いの季節です。入園、卒園、入学、卒業、入社、退職、人生の節目に春があります。私が子供だった頃、卒業式で歌われた「仰げば尊し」は、感謝、別れ、旅立ちが入り交じり、哀調を帯びたメロディーは、今でもこの曲を聞くと胸がキュンとなります。

 四月は、新学期、新生活が始まります。みんな期待に胸ふくらませ、少しの緊張とともにスタートします。その未来には、新しい人との出会い、喜び、そして試練もあるでしょう。胸をはって、いろんなことを受けとめる覚悟を持って、歩いて行ってほしいと思います。

2012年3月26日月曜日

フランス人漫画原作者

  3月23日(金曜日)NHK夜9時からの全国ニュースで、フランス人のジャン・ダヴィッド・モルヴァンさんのことが、取り上げられました。モルヴァンさんは、漫画原作者で、去年の東日本大震災の日に、仕事で東京にいて、遭遇されたのです。日本に起こった大きな出来事を目の当たりにして、すぐ行動を起こされました。世界中の漫画家に呼びかけ、自分達にできること、漫画家として漫画を通して、日本を支援しようと立ち上がられました。日本の漫画に出会ったことがきっかけで、漫画の道へ入ったという親日家です。フランスで出版されたmagnitude9,日本でmagnitude0が出版されました。大震災から1年が過ぎ、被災地を改めて訪ね、被災者の人達から取材を重ね、日本の漫画家、世界の漫画家、と共に、作品を作っていきたいとのことです。一生の仕事として取り組むとのことです。
 以前、このブログに書きました知人の女性(日本人)が、南仏のモンペリエで、東日本大震災で未曾有の被害を受けた東日本を、支援しようと立ち上がり、南仏に暮らす日本人、フランス人、その他の国の人々と、力を合わせて、支援の活動をずっと続けていますが、モルヴァンさんとも連携しています。日本とフランスの文化交流(音楽、漫画、スポーツ、華道、茶道、書道、武術、生活など)を通して、日本を支援、応援してくれています。
 世界中から日本へ向けて、暖かい思いが届け続けられています。


下記はフランスモンペリエでの東北大震災支援団体のURLです。
http://solidaritejapon34.org/

2012年3月25日日曜日

「愛」


愛は見えますか
愛はつかめますか
愛は量れますか

愛って何ですか
人は皆 愛を求めて生きている
愛が無いと生きられませんか

愛は買えますか
愛は売っていますか
愛はどこにあるのですか

人は皆 愛を探して生きている
愛が無いと生きられませんか

地位、名誉、お金、
があってもダメですか

あっ 今
あなたのそばを
愛が通り過ぎていきます

なぜ気がつかないのですか
なぜ見えないのですか

いつも 心のアンテナを
すぐキャッチできる 心の準備を

大切に
一人一人の小さな愛を
大切に
人の小さな愛も

ありがとうを忘れないで
きっと
きっと きっと
あなたのもとへ愛が届きます

2012年3月24日土曜日

「おやつ だいすき」


今日のおやつは 何だろな
楽しみ 楽しみ 嬉しいな
ママのお手製 シュークリーム
とろりとろける シュークリーム
とっても とっても おいしいな

今日のおやつは 何だろな
楽しみ 楽しみ 嬉しいな
ママのお手製 アップルパイ
こんがりこげた アップルパイ
とっても とっても おいしいな

今日は日曜 パパがいる
今日のおやつは ぼくとパパとで作るんだ
玉子に牛乳 小麦粉を
まぜて まぜて 焼くんだよ
ほらほらできたよ ホットケーキ
ふわふわホットケーキのでき上がり
お味は ぴかいち 世界一

2012年3月23日金曜日

私の好きな言葉「ど根性」

 「思い込んだら 試練の道を 行くが(   )の ど根性」

 星飛雄馬「巨人の星」のテーマ曲の始まりの部分です。(   )のところは、男女の区別なく、大人・子供の区別なく、(わたし)とかえて、人生の応援歌にしたいと思います。

2005年兵庫県相生市の歩道の脇に生えた大根を、ど根性大根と呼び、有名になりました。そのあと、ど根性ナス、ど根性みかん、ど根性スイカなど、「ど根性」野菜なるものが、次から次と生まれ、話題をさらいました。人々は、堅い石やコンクリートなどを、突き破って成長するという意外性をつかれ、「ど根性」ということばに、胸を打たれるのだと思います。
 ゴルフ、テニス、野球、柔道、卓球、サッカー、水泳、など、スポーツの世界で力を発揮している人達や、音楽の分野で才能を発揮している人達は、幼少の頃から厳しい練習を続け、「ど根性」も、自ずと身についていったのでしょうね。技術や技能だけが、上達するのではなく、ともに、精神的な成長があったと言えると思います。
 私は、小さい頃から習い事として、ピアノを続けてきました。ピアノ科へ進学するまでは、楽しく楽しんでピアノを弾いてきましたが、その道へ入った時から、睡眠・食事・トイレ以外のすべての時間を、ピアノの練習に費やしました。大曲、難曲を弾きこなすには、そうせずにはおれなかったのです。自分が、まさに凡人ということを知りました。しかし、自分の限界まで、努力したと言えることは、自信につながりました。ピアノだけでなく、生きていく上での、諸々の障壁を、乗り越えていこうという力を、持てるようになりました。前向きな姿勢で、どんと来いと、受けて立てるようです。自分に「ど根性」があるのかと問えば、?マークがつきますが、根性はあると言えます。そのうち「ど根性」になるのかは、期待しているところです。

 「ど根性」ということばに、あこがれ、魅力を感じています。

2012年3月22日木曜日

告知、最期のその時について(4)


星野一正氏は、告知に際して重要な点をあげておられます。

    患者が病状や不治の病についての告知を希望するかどうか事前に本人の意思を知る努力が必要である。

    誰であろうと生きる望みを失わせるような表現で告げる資格も権利もない。

    患者に嘘や作り話を言ってはいけない。

    医師を訪れる患者は治ってもっと生きたいと思っていると考えたほうが無難である。

    告知の時期を慎重に選ぶ必要がある。

    真実を知る権利を放棄する人には「真実を知らされたくない」 という自己決定権や「構わないでそっと放っておいてほしい」というプライバシー権を尊重して、告知するべきではない。

    患者の個人的な生き方にまで立ち入る権利は医師にはない。

    誰に告知するのか慎重に考える。本人の同意なくしてする家族への告知はプライバシーの侵害に相当する。病態からやむをえない事情がある場合に限り、家族または代理人に告知してもよいと考えるべきであるが、患者の意思に任せるのも一案である。

    誰が何をどのように告知するのか慎重に考える。

    告知後のアフターケアの必要性を認識する。

告知は大変難しい高度な医療行為であり患者の年齢・性別・既往症・発病以来の経過・現在の病状や予後の見込み・患者の気分・精神状態や感情の起伏など考慮し、患者に適した告知の仕方を研究してから告知するのが好ましい。

                      「医療の倫理」から

 告知後の患者の心理的変化は、否認、怒り、抑うつを、行ったり来たりしながら受容に至りますが、そう簡単なものではありません。どんなに身近な人間でも、当人の心の中を100パーセントキャッチすることはできません。しかし、手を取り合い泣いたり悔しがったり怒ったり、ありのままの思いを受け止めることはできると思います。当人が、一人で残りの日々を孤独で淋しい思いで、過ごすことは避けなければなりません。悲しみを一緒に共有したいと思います。

2012年3月21日水曜日

告知、その最期の時について(3)


私の母は、脳血管性障害による軽い認知症の症状を起こしましたが、姉亡きあと三年もたたないうちに、心筋梗塞であっけなく本当にころっと亡くなってしまいました。四十年間華道の師匠として、最後まで現役を貫いた母でした。

 愛する人の最期のその時に接し、私が持った死生観は、自分の最期のその時への取り組みは、自分で選択し、自分が決定権をもつべきというものです。人は生まれた時から多くの人に支えられて、一生を送りますが、自分の考え自分の意志で生きてきたように、一生のピリオドは、自分が納得して打つべきだと考えます。人が生まれて何年生きるかは、千差万別ですが、命あるものは、遅かれ早かれいつかは最期のその時がきます。必ずその時を迎えるのです。それはどんな人間も逃れられない事実です。富を築いた人も、天才と呼ばれた人も、その時は避けられません。その事実を認めたら、誰でも自分の最期のその時は、自分の手の中にあると思いたいと、私は考えます。悲しいかな、不治の病に冒されているとわかった時、それがイコール即「死」と、つながるものではありません。なぜなら人の寿命は、医学だけでは、計り知れないものがあるからです。

病気について勉強し、どんな治療法があるか、そして、その効果はどうかなど研究し、医師と相談しながら、多くの選択肢の中から、自分が選び、納得し、決定すべきだと思います。自分が納得し、積極的に病気に立ち向かった結果がどう出ようと、病気と共存しながら、命ある限り生きようと思います。と同時に、いつピリオドが打たれることになるかは、自分の力ではどうすることもできないので、後悔することのないよう、一日一日を大切に生きようと思います。

2012年3月20日火曜日

告知、最期のその時について(2)


  私の姉は、四十歳頃から体調をくずし、入退院を繰り返しました。始めの頃はがんを発見してもらえず、子宮を摘出しても症状はよくならず、検査が続きました。そして、膀胱炎と言われていたのが、膀胱がんとわかるまでずいぶん時間がかかりました。姉の時も、義父と同じように、本人への告知はなされませんでした。姉の夫が、最期まで本人には知らせたくないと決めたからです。膀胱を摘出し人工膀胱をつけました。本人も周りの者も、肝心なことにはなるべく近づかないよう、不自然に明るく振る舞いました。それでも皆、一縷の望みを持ち、奇跡が起こることを願いました。
  両親は、六人の子供に恵まれたものの、すでに二人亡くしているので、また子供に先立たれることを恐れ、必死に抵抗しました。神だのみ、漢方、民間療法、あらゆる情報を集め実践しました。それでも義父の時と同様に、膀胱を摘出したにもかかわらず、がんは、すでに転移していたのです。入退院を繰り返していた姉が、激痛に襲われ再び病院へ戻った時、医師は、痛み止めの注射を脊髄にしました。痛みが和らぐと同時に、姉は、半身不随になりました。当時、私の夫が、仕事の関係で大きな病院の先生方とつきあいがあり、最新の医学情報を収集できる立場にあったので、そのことを姉に少し話したことがあります。姉は、転院したいと言いました。ホスピス病棟もあり、一人苦しんでいる姉に、少しでも楽になってもらいたいという気持ちからだったのですが、義兄は、地方から都市へ転院しなければならないこともあり、医師から余命わずかと知らされていることもあり、むやみに姉に期待を持たせることは、本人にとってむごいことだと考えたようで、その話はうやむやになりました。そのあと姉は、希望も失いベッドに縛りつけられたような日々を送りました。私は私で、姉に関する決定権は、義兄が握っていることを思い知らされ、悲しい気持ちになりました。
 自分の命に関して、すべてを知りたいと思うのは当然であり、こうしたいと思うのも当たり前のことで、自分の命に自分が責任を持つことは、当然であり権利でもあると、その時痛感しました。四十四歳という若さのため、頭はしっかりしたままでそういう状態になり、真実は伝えられないまま、姉は、どんどん孤独の世界へ落ち込んでいきました。きっと医師、夫、肉親など周りの人間皆に対し、不信感でいっぱいだったのではないでしょうか。看病している母に「大声を出して叫びたい」と、チラッと心情をもらしました。夫には「あなたは本当の事を言ってくれなかったわね」と、言ったということを、後になって私は知りました。そして亡くなる前日には、二人の子供に「こんなことになってごめんね」と、言い残し意識混濁になりました。最後の入院は、三ヶ月で終わりました。姉が亡くなったのは、二十四年前のことです。

2012年3月19日月曜日

告知、最期のその時について(1)


がん告知について、最期のその時について、愛する人の最期を身近で見つめ、そして体験したことを取り上げます。夫の父、私の姉、そして私の母です。

 義父は、退職と同時に五十五歳で悪性骨肉腫を発病しました。右足を大腿部から切断するまでの治療・検査の連続の日々と入退院の繰り返しは、家族と共につらく長いものでした。今から三十五年前の日本では、まだ本人へのがん告知はほとんど行われておらず、家族が医師から真実を聞かされ、動揺しこの不幸を嘆きながらも、一縷の望みを持ち、奇跡が起こるかもしれないと、患者本人を、そして自分を励まし闘病生活を送りました。義父の場合は、足を切断することを決める段階で、自分はがんなのだと知ったと思います。それでも最期まで医師や家族にそのことを尋ねませんでした。本人も家族も肝心な部分に関しては、各人が心の中でふたをしていました。義父は、足を切断したあと義足をつけ、松葉杖を使い、しばらくは調子よく自宅で過ごしました。片方の足を失うことになりましたが、この調子で生きていくことができたらそれでよいのだと、本人も家族も皆思っていました。しかしがん細胞は着々と進行しており、足を切断したにもかかわらず、すでに転移をしていて肺へ脳へと進行したのです。再び入退院を繰り返すことになり、本人も家族も明るい希望は持てないのではないかと、少しずつ事実を心の中で認めていくようになりました。それでも誰も口には出さないで、日が過ぎていきました。私が結婚する前に義父は発病し、足を切断した頃に、私は妊娠しました。私のお腹の中で、子供が順調に育っていくのと反比例するかのように、義父の病状は、悪いほうへと進んでいったのです。義父が自宅で療養していた時、私は、八ヶ月でお腹もだいぶ大きくなっていました。義父は、「お腹をさわらせてもらってもいいかな」と、私にたずねました。私は、恥ずかしかったのですが、義父の気持ちを察し承諾しました。義父は、目を閉じ静かに私のお腹を撫でていました。「初孫の顔を見ることはできなくても、この子の命の鼓動を、今、自分は確かにこの手に感じている。会えないのは残念だが、生と死は自然の摂理だ仕方がない」と、義父は考えているのだと、私は感じました。そして私は、臨月を迎え実家に帰り出産することになり、最期になるかもしれないと覚悟し、病院へ義父を見舞いに行きました。義父は、もの言わず静かに微笑んでくれました。義父が亡くなり、本当に入れ替わりに長女が生まれました。


2012年3月18日日曜日

「海の詩(うた)」


海眺め

遠い未来を思い

胸を熱くした日々

白い砂浜を

裸足でかけて

海に向かって

大声で叫んだ

我が思い

遠くなりゆき

十代の頃



砂浜に

書いては消され

消えては書いた

君の名前

君に届けと

波に託した

ラブレター

遠くなりゆき

初恋の頃



海眺め

君と語り合った

青春の日々

白い砂浜を

君と手をつなぎ

どこまでも歩いた

楽しい思い出

遠くなりゆき

二十歳(はたち)の頃



たおやかな海は

私の心を癒し

怒濤の響きは

体の底の底まで

打ちまかす

和太鼓のように



私の海は

父であり母であり

そして

広がる海は

輝く未来を

2012年3月17日土曜日

「みんなであいさつ」


あいさつしましょ おはよう

にこっと笑って おはよう

元気な声で おはよう

ほらほら 小鳥も言っている おはよう

みんなで みんなで おはよう 



あいさつしましょ こんにちは

にこっと笑って こんにちは

元気な声で こんにちは

ほらほら お日さまも言っている こんにちは

みんなで みんなで こんにちは



あいさつしましょ こんばんは

にこっと笑って こんばんは

元気な声で こんばんは

ほらほら お月さまも言っている こんばんは

みんなで みんなで こんばんは



あいさつしましょ お休みなさい 

にこっと笑って お休みなさい

元気な声で お休みなさい

ほらほら お星さまも言っている お休みなさい

みんなで みんなで またあした

2012年3月16日金曜日

ナルドとの日々

 ナルドが我が家へ来た時、兄のレオは、三歳でした。
レオは、ナルドをいじめることなく弟分として優しく迎えてくれました。
レオは、シェトランド・シープドッグ(シェルティー)、ナルドは、柴犬の雑種です。
兄のレオと弟のナルドの性格の違いは、とても面白いものでした。
レオは、よその犬に一声吠えられただけで、一目散に家へ逃げ帰るような、お坊ちゃん育ちの、おっとりした優しい性格でした。
雨上がりの公園で、池から出て来たカメにも、レオは、遠くから得体の知れないものを怪訝そうに見るだけで、近づきませんでしたが、ナルドは、自分が納得するまで、カメに近づき何者かをチェックしていました。
ナルドは、成長と共に、柴犬の気性の強さを、時々私達に見せました。
散歩で出会ったピレネー犬に馬乗りになるなど、私達が想像できないことをして、皆を驚かせました。ピレネー犬は体長1メートルほどあり、それに比べてナルドは体長40センチたらずです。気性の強さには、本当に驚きました。
ナルドは、優しい性格のレオを、兄として一目置き、決して出しゃばることはしませんでした。
レオは、シェトランド・シープドッグの牧羊犬のDNAを持っているせいか、追いかけるのが大好きで、又とても早いので、ナルドと追いかけっこをしてよく遊びました。
レオは、十歳で亡くなりましたが、東京へ単身赴任をしていたお父さんが、帰るのを待っていたかのように、家族皆に見送られて旅立ちました。
レオの最期のその時、体中の力をふりしぼり、体をのけ反り、声にならない声を出して「ワン」「ワン」と2回鳴いたのです。本当に「ありがとう」「さようなら」の、言葉でした。
レオの亡骸を車に乗せ、火葬場へ向かう途中、ナルドは、私達が今までに聞いたことのない声で、レオに向かって鳴くのです。「お兄ちゃん、お兄ちゃん、イヤダ、イヤダ」と言っているようで、私達の涙を誘いました。
レオが旅立って七年後、ナルドは、十四歳で亡くなりました。
ナルドの最期のその時も、レオと同じように「ありがとう」「さようなら」と、声にならない声で2回鳴いたのです。
レオとナルドと私達人間との、日々の生活の中でのふれあいは、私達家族に、とても暖かい思いを、育んでくれたと思っています。
そして生と死という垣根を越えて、今でも、いつも、私達を見守ってくれているという気がしています。

「レオ、ナルド、楽しい思い出たくさんありがとう。いつもいつも一緒だよ」
ぼくがナルドです

お兄ちゃんあそぼ!


お兄ちゃんそれなーに

芝生で鬼ごっこ

はっけよい!


ぼくのおもちゃ

棒遊び

ナルド3才になりました

2012年3月15日木曜日

「ぼくの名前はナルド」 (8)

  どこからか、たくさんの子どもたちの声が、聞こえてきた。声のする方へ、歩いていった。小学校の運動場で、子どもたちが遊んでいる。ワーワーキャーキャーとてもにぎやかだ。ぼくは、運動場の中へ入っていった。トコトコ、トコトコ。何人かの子どもが、ぼくを見つけて寄ってきた。「捨て犬かしら」女の子が言った。「迷い犬かもしれないわ」もう一人の女の子が言った。「名前は?おうちはどこ?」二人の女の子は、しゃがんで聞いてくる。ぼくは、しっぽをふって、愛想をふりまいた。「かわいいわね」「でもすごく汚れている。汚いわ」すると、それを見ていた男の子が、「よし、この犬と追いかけっこだ」と、言って、ぼくを追い回し始めた。ぼくは、走った。何人かの男の子に追い回され、疲れてしまった。チャイムが鳴り、子どもたちは、教室へもどり、運動場は静かになった。
ぼくは、公園へもどった。だんだん日が落ち、薄暗くなってきた。向こうから、女の人と大きめの犬が歩いてきた。優しい目をしたシェルティーだった。お父さんのような、お母さんのような、においを感じた。ぼくは、夢中でシェルティーに近寄った。「ああ、やっぱり、お父さんとお母さんのにおいだ。ぼくの探していたにおいだ」ぼくが近寄っていっても、シェルティーは怒らなかった。後をトコトコついていった。お父さんとお母さんのにおいから、離れられなかった。家までついていった。エサも水もミルクももらい一晩泊めてもらった。次の日、女の人は、警察や知り合いに問い合わせた。ぼくが迷い犬かもしれないと思ったようだ。ぼくが、話せたら、「迷い犬じゃないよ、捨てられたんだ」と、言いたかった。捨て犬らしいということで、もらい手を探してくれたが、いなかった。近所の人たちは、「保健所へ、つれていったら」と、言っているようだ。女の人は、ぼくをきれいにシャンプーし、ケガをした足に、薬を塗ってくれた。「この家においてもらえたらなあ」ぼくは、かすかに期待した。東京へ単身赴任をしているお父さんと、ピアノの先生をしているお母さんと、高校生の二人のお姉さんと、シェルティーの家族だ。ぼくは、家族のみんなを大好きになった。家族会議の結果、ぼくは、家族の一員になった。心の底から、この幸運に感謝した。 
シェルティーは三歳上のお兄さん。名前は、レオ。「レオナルド・ダ・ヴィンチ」という偉い人から、名前をもらったそうだ。弟だから、ぼくの名前はナルド。

今日からぼくは、新しく生まれかわった。
あの日から三年が過ぎた。「今、ぼくは、家族の一員として、深い愛情と信頼の、強い絆で結ばれている」と、ボスに伝えたい。

                                         おしまい

2012年3月14日水曜日

「ぼくの名前はナルド」 (7)


「こんな悲しいことってあるのだろうか。ぼくの思いを、誰もわかってくれなかった。やっぱりぼくは、一人ぼっちなんだ。淋しいなあ。悲しいなあ」ぼくは、じっとしたまま泣き続けた。その時、野良犬のボスの声が、聞こえてきた。「人間に、裏切られたとわかった時、決して負けるんじゃないぞ。たくましく生きるんだぞ。俺たちがいることを忘れるなよ」ぼくは、立ち上がった。

「野良犬のボスのような、強い強い犬になろう。頑張ろう」そしてゆっくり歩き出した。足のケガのことも忘れていた。歩き始めると、やはり足が痛い。足をかばうようにして歩いた。空を見上げた。美しい星空だった。たくさんの星が、キラキラ光っていた。小さなお月さんが、ボーッと見えていた。歩きながら、辺りをキョロキョロ見回した。新しい家が立ち並び、団地のようだった。ノロノロ歩いた。「いつかまた、野良犬たちに会える日がくるかもしれない。その時、自慢話ができるように頑張ろう。会えたらいいのにな。きっと会えるよ」ぼくは、自分を励ました。しばらく行くと、大きな公園に出た。「何か食べる物は、ないかな」何日間も水だけで、飢えをしのいできたが、その時、食欲を強く感じた。「人間は、ぜいたくで、まだまだ食べられる物でも捨てる」と、ボスが言っていたのを、思い出した。公園に設置されているゴミ箱を、あさった。あったあった、パンのかけらが、いくつもあった。もっともっとあさった。出てきた出てきた、お弁当の残りが出てきた。「おにぎりもある。お肉も、魚も、ウインナーもある」こんなことは、今までしたことがなかった。「ボスの言ってたことは、本当だ。食べる物なんて、いくらでも自分でみつけられる」久しぶりにお腹がいっぱいになり、眠くなってきた。しげみの中へ入っていった。ちょうどいい場所を見つけた。「ここでゆっくり寝よう」疲れきっていたぼくは、すぐ眠ってしまった。赤ちゃんの時の夢を見た。お母さんのおっぱいを口にふくみ、まどろんでいた。お母さんの心臓の鼓動が、ぼくの体に心地よく響いている。隣では、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、気持ちよさそうに眠っている。お母さんの体温を、全身で感じていた。ポカポカポカ。ずいぶん眠ったようだ。まぶしくなって目をあけた。お日さまが、高く昇っていた。ぼくは、幸せな気持ちになっていた。とてもつらく悲しかった、たくさんのできごとが、もうずいぶん前のことのような気がしていた。



つづく

2012年3月13日火曜日

「ぼくの名前はナルド」 (6)


 家が見えてきた。いっそう大きな声で鳴きながら門をくぐった。「おじさん驚くだろうな。こんなに早くぼくが帰ってくるなんて、びっくりするだろうな。みんなどんな顔するかな。ぼくが、どんなに頭がよいか、感心するだろうな」広い庭を一目散に通りぬけ、玄関へと走った。家の中から、みんなの笑い声が聞こえた。ぼくは本当に嬉しかった。大きな大きな声で鳴いた。家の中から、一番下の子が顔を出した。「あっコロが帰ってきたよ」大きな声で叫んだ。おじさんもおばさんも他の子どもたちも、とんできた。ぼくは、一生けんめいしっぽをふり、ワンワン鳴いて、喜びを表現した。その時、おばさんの腕の中に、ちっちゃな子犬がいるのが、目に入った。「おやっ」変な気がした。みんなの顔を見た。みんなの顔は、喜んでいなかった。「大変な思いをして、やっと帰ってきたというのに、どうしたのかな」みんな困った顔をしていた。おじさんが、突然言った。「ダメだったか。近すぎたか。もっともっと遠い所へつれていかないとダメか」すぐに、ぼくを車に乗せた。みんなは黙って見ていた。  

車が走り出した。ぼくは、体中から力が抜け、体も心も氷のように、冷たくなっていくのを感じた。空腹も疲労も足の痛みも、何も感じなかった。スピードが、どんどん速くなる。ぼくは、体を横にし、目を閉じた。「もうどうなってもいいんだ。このまま眠って二度と目をさまさなくていいんだ」さっき見た子犬の顔が、頭に浮かんできた。「青い目をしていた。誰?今、人気のハスキーの子どもかな?わかった。みんなは、ぼくがじゃまなんだ。ぼくが帰ってきたら困るんだ。どんなに遠くへつれていかれても、家へ帰れる自信があるが、そんなことはしなくていいことなんだ。野良犬のボスが言ってたことは、正しかったんだ。でも、もうどうでもいいことだ」目を閉じて寝たふりをしていた。どれだけ走ったのだろうか。本当に遠い遠い所へ来たようだ。おじさんは、車を止め、何も言わずにぼくを降ろした。前と同じように、すごい勢いで車は走り去った。ぼくは、すわったまま車を見送った。「おじさん、そんなに急がなくていいよ。ぼくは、もう車のあとを、追いかけていかないから。おじさんさよなら、みんなさよなら」涙があふれてきた。今まで抑えていたものが、どっとあふれてきた。

                                             つづく

2012年3月12日月曜日

「ぼくの名前はナルド」 (5)

三つ目の町を、通り抜けた。いよいよぼくの住んでいる町だ。夜が明けた。川の水を飲み、空腹をしのぎ、橋の下で少し休んだ。そしてまた、どんどん、どんどん歩いた。走った。家は、どっちの方角だろう。ぼくは、一生けんめい考えた。一生けんめいにおいをかいだ。一生けんめい勘を働かせた。何となくわかった。たぶんこっちの方角だ。走った。走った。ポツリポツリと雨が降ってきた。体が少しずつ冷たくなってきた。お店の軒先へ入って休んだ。お店から、肉を焼いているいいにおいが、ただよってきた。空腹のぼくは、あまりのいいにおいに、気を失いそうになった。お店の中から出てきたおばさんが、「シッシッ、あっちへお行き」と、手を振った。ぼくは、また歩き出した。雨が、だんだんやんできた。また夜になった。四つ目の町を、ウロウロ歩いた。体は雨にぬれて冷たく、ぼくは、寒気でブルブル震えていた。空腹と疲労でフラフラしていた。その時、キュキュキューンと、車がすごい勢いで、飛び出してきた。ぼくは、何が起こったのか、すぐには、わからなかった。気がついた時、ぼくは溝にとばされていた。「どうしたんだ?車とぶつかったのか?どうしたんだろう。足が痛い。痛い痛い痛い」足から血が出ていることに、気がついた。そうっと血をなめた。生ぬるかった。足がズキズキ痛む。「立てるかな」おそるおそる立ち上がった。足だけケガをしたようだ。「歩けるかな」そうっと歩いてみた。ケガをした足が痛い。足をひきずって歩いた。ゆっくり歩いた。「あー危なかった。もう少しでひかれるところだった。足のケガだけですんだなんて、不幸中の幸だ」ぼくは、足をひきずりながら、ノロノロ歩いた。お腹がすいているのも、忘れていた。体は雨にぬれ、よごれ、とても汚くなっていた。「もう少しだ、頑張れ頑張れ」どんどん歩いた。かすかに、家のにおいがした。その瞬間、ぼくは、猛スピードで走り出した。ケガをした足のことも忘れ、猛スピードで走った。「やっと帰ってきた。やっと帰れたのだ」ぼくは、嬉しくて嬉しくて、大きな声でワンワン鳴きながら走った。

                                                つづく

2012年3月11日日曜日

「ぼくの名前はナルド」 (4)


今日311日は東日本大震災から1年です、日本各地、世界各地で追悼式が行われます。犠牲となられた多くの方々の、鎮魂の祈りとともに、被災された方々や、被災地への一日も早い復興を祈りたいと思います。知り合いの女性はフランスの南の都市モンペリエで東日本大震災発生後すぐに支援団体を立ち上げ、モンペリエで暮らす日本人フランス人その他の国々の人たちと力を合わせ、東日本を支援するために、チャリティーコンサートを始めいろんな活動を続けています。そしてその活動を永続的に行いたいと言っています。 
世界各国の人々が日本の国難といわれる大震災を受けた日本に対し、大きな支援と励ましを送ってくれています。感謝の気持ちでいっぱいです。

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「ぼくの名前はナルド」 (4)


とても大きな町だった。夜になり、だんだん人影が少なくなり、真夜中の町は、シーンと静まり返っている。ヒタヒタヒタ、ぼくは、自分の足音を聞きながら走った。その時、前方に黒い大きな影がたくさん見えた。前方から大きな犬が、五匹群れになって現れた。そして、ぼくの前に立ちふさがった。一番前の犬が言った。「こら、どこへ行くんだ。見ない顔だな。まだ小僧か。どうした、迷子になったのか、自分の家がわからないのか。それとも、お前も俺たち同様、勝手しほうだいの、わがままな人間の奴らに、捨てられたのか。かわいそうに。そうだろう」ぼくは、五匹の犬に取り囲まれた。他の犬たちは、「ぼくのにおいを、くんくんかいでいる。「違うよ。ぼくは、遠い所へ連れていかれて、そこから家へ帰れるかどうか、どんなに頭がよいか、テストされているんだよ。ぼくは、絶対、帰れるよ。帰ってみせるよ」ぼくは、小さな声で言った。一番体の大きい犬が、フフンと鼻で笑いながら、「お前はバカだ。捨てられたのがわからないのか。人間たちは、いつも気まぐれで、自分の都合で、俺たちを、かわいがったり、じゃまものにしたりするのさ。どうだ、俺たちの仲間にならないか。自由っていうものが、どんなに素晴らしいものか、お前に教えてやろう。町には食べる物なんか、何だってあるのさ。人間は、ぜいたくで、まだまだ食べられる物まで、どんどん捨てるんだ。おかげで俺たちは、食べるのに事欠かないってわけさ。主人にへこへこして、ろくにエサももらえず、年がら年中くくりっぱなしにされて、人間って奴は、俺たちを何だと思っているのか。あーごめんだごめんだ。人間たちに飼われるなんて、まっぴらだ。時々、人間どもに、こわい顔してうなってやるのさ。皆、こわがって逃げていくってもんだ。悪いことは、言わねえよ。俺たちの仲間になった方が、お前にとってどんなに幸せなことか」と、言った。ぼくは、よくわからなかった。ぼくのお母さんも、人間と仲良く暮らしていた。ぼくも、ずっとずっと、いつまでも人間と一緒に暮らすものだと思っていた。「ぼくには、よくわからない。でも、自分で正しいと思ったことを、したいんだ。ぼくを遠くへ、置いていったおじさんに、ぼくが人間と一緒に、仲良く暮らそうと思っていることを、伝えたいんだ。そして、ぼくが、どんな遠い所からでも、家へ帰れるってことを、証明したいんだ」と、ぼくは、答えた。五匹の犬は、かわいそうに、というあわれみの表情で、ぼくを見ていた。大きな犬が言った。「そうか、これほど言ってやっても、お前は、人間を信用しているのか。でも、もしかして、人間に裏切られたと、わかった時、決して負けるんじゃないぞ。たくましく生きるんだぞ。俺たちがいることを、忘れるなよ。じゃあ行け。チビ頑張れ」他の犬たちもそれぞれに、「頑張れ」「チビ頑張れ」と、言ってくれた。

                つづく

2012年3月10日土曜日

「ぼくの名前はナルド」 (3)


ずいぶん歩いて、ずいぶん走って、ぼくは、とてものどがかわいていた。周りを見渡すと、小さな川が流れていた。水をガブガブ飲んだ。そして、お腹もすいていることに、気がついた。「そうだ、今日は、一日一回のエサも、もらっていなかったのだ」もっともっと水を飲んだ。お腹が、水でいっぱいになってきた。「さあ、頑張るのだ。絶対に家へ帰ってみせる」ぼくは、また走り出した。だんだん暗くなってきた。少し心細くなってきた。「頑張れ、頑張れ」心の中でつぶやきながら走った。どれだけ走ったのだろう。真っ暗な闇の中を、休まず走った。でも、家のにおいは、まだしてこない。真っ暗な闇の中を、トボトボ歩いた。前方に、かすかに明かりが見えてきた。やっと町が見えてきたのだ。ぼくは、嬉しかった。ホッとしたのか、疲れを、どっと感じたぼくは、道のわきの草むらに倒れこんでしまった。どのくらい眠っていたのだろう。目がさめると、夜が白みはじめていた。また、ぼくは、立ち上がり歩き出した。やっと町へもどった時、もう朝になっていた。その時、ぼくは、おじさんに、車に乗せられ、いくつもの町を通り過ぎて、やって来たことを思い出した。「町は町でも、この町は、ぼくの住んでいる町ではないんだ。たしか、三つの町を通り過ぎたはずだ。それ走れ走れ、ぼくの住んでいる町を目指して走れ走れ」一つ目の町を通り過ぎた。また夜が来て、朝になった。ぼくは、水を飲んでは、少し体を休め、一生けんめい、帰るべき家へと向かった。やっと二つ目の町を通り過ぎた。「ここまでくれば、もう大丈夫。家も、もうすぐだ」少し元気が出てきた。町の中をウロウロ歩いた。まだ家のにおいはしない。ずいぶん歩いたが、家へ続く道が、まだ見つからない。足が痛くなってきた。また日が暮れてきた。二つ目の町から三つ目の町までは、ずいぶん遠かった。一生けんめい走ったり、歩いたりして、足は、棒のようだった。三つ目の町に、たどり着いたのは、次の日の夕方だった。

               つづく

                 

2012年3月9日金曜日

「ぼくの名前はナルド」  (2)


その日は、日曜だった。おじさんが早く起きて、つなを持ってぼくの方へやってきた。「散歩に行くのかな、珍しいことだ」ぼくは、大喜びだった。が、違った。「今日は遠くへ行くんだ。さあ、車に乗るんだ」と、おじさんは言った。車は走り出した。家がどんどん遠ざかっていく。「どこへ行くのだろう」その時、小さな頃の思い出が、フッと頭にうかんだ。大好きなお母さんから離され、車に乗って遠いところへつれていかれたあの日。不安になってきた。「どうして、おばさんも子どもたちも、一緒に来ないのだろう。おじさんは、ぼくをどこへつれていくのだろう」胸がドキドキしてきた。おじさんは、何も言わない。スピードがどんどん速くなる。町をいくつか通り過ぎ、だんだん山が近づいてきた。山のそばで、車は止まった。おじさんは、ぼくを降ろし、つなをはずした。首が軽くなった。スッとした。突然ドアがしまり、車はすごい勢いで走り出した。ぼくは、びっくりしたが、すぐ車のあとについて走り出した。一生けんめい、それはそれは一生けんめい、死にものぐるいで走った。わけもわからず、一生けんめい走った。でも、車は、どんどん遠ざかっていく。ぼくは、心臓がつぶれそうになるまで、一生けんめい走った。車は、どんどん小さくなっていく。「ぼくを、どうして置いていくのー」大きな声で叫んだ。だが、車は、見えなくなってしまった。ぼくは、立ち止まった。胸が苦しくて、心臓がつぶれそうだった。ハアハア、ハアハア、荒い息が続いた。「これからどうしたらいいのか。そうだ、歩きながら考えよう。おじさんは、どうしてこんな意地悪なことをしたんだろう。ぼくをためしているのか。こんな遠くまでつれてきて、置き去りにするなんて。ひどいよ。ぼくは、何も悪いことをしていないのに、ひどいよ。ぼくが、どんなに賢いか、おじさんは、テストをしているのだろうか。そうかもしれない。そうだ、きっとそうだ」ぼくは、そう思うことにした。そうと決めたら、気持ちが落ち着いてきた。「何が何でも帰るんだ。あの家へ帰るんだ。頑張ろう。おじさんは、ぼくが、いつ帰ってくるか、きっと待っているんだ。ぼくが、どんなに賢いか、見せてやろう。ぼくが帰ったら、みんな驚くだろうな」呼吸も少し落ち着いてきた。ぼくは、少し走ったり、歩いたり、道ばたのにおいをかぎながら、家へと向かった。

                    つづく

2012年3月8日木曜日

「ぼくの名前はナルド」 (1)


小犬の一人旅のお話です。


  ぼくが生まれたのは、海の見える町だった。お母さんと、お兄ちゃんとお姉ちゃんがいたんだ。よちよち歩けるようになった時、ある日突然お兄ちゃんがいなくなり、次の日お姉ちゃんもいなくなった。「どうしたの?どこへ行ったの?」ぼくは不安になった。次の日ぼくは、小さな箱に入れられ、車に乗せられた。お母さんのおっぱいが大好きで、いつまでもお母さんと一緒にいたかったのに、本当に悲しかった。
箱から出た時、驚いた。そこは、知らない家だった。おじさんとおばさんと、小学校六年生、小学校二年生、幼稚園、の三人の男の子と、小学校四年生の女の子のいる家だった。
ぼくは、コロという名前をつけられた。大きなおうちで、子どもたちは、ぼくをとりあいして、広い庭で遊んでくれた。この家のみんなが、ぼくのことを気に入りかわいがってくれていると、信じていた。この家へ来て、六ヶ月が過ぎた頃、一番上の子は中学校へ、一番下の子は小学校へ入学した。朝、みんなは、ガレージの前につながれているぼくのほうを見ることもなく、バタバタと出かけていく。おばさんは、ぼくの前にポンとエサをおいて、パートの仕事に行く。ぼくの仕事は、留守番だと思って、一生けんめい仕事をした。家族以外の人が来たら、一生けんめいほえたよ。バイクに乗った郵便屋さん、軽トラックでやってくる宅配便のおじさん、セールスのおじさんやおばさん、お姉さんも来たよ。そして回覧板を持ってくる、隣の家のおばあさん。おばあさんには、ぼくはほえなかった。隣の家の人だとわかったし、顔も覚えたから。おばあさんは、時々そばに来て、「今日も一人だね。毎日毎日立派に留守番して、本当に偉いよ。それにしても、この頃は、遊んでもらえないし、ろくに散歩にもつれて行ってもらえないんだろう。はじめのうちは、かわいい、かわいいとおもちゃにしていたのにね。本当にかわいそうなことだよ」と言ってパンをくれるのだった。小さい頃の時のようには、遊んでもらえなかった。誰も声をかけてくれなくなった。「ぼくは、一人ぼっちなんだ」淋しくて悲しくて、お母さんや、お兄ちゃんお姉ちゃんのことを思った。鎖でつながれているぼくは、どこへも行くことができなかった。「かわいがってくれなくても、散歩につれて行ってもらえなくても、一日一回エサはもらえるし、これでも幸せなのかもしれない。もっともっと不幸な友達もいるかもしれない」と、自分をなぐさめた。

                                 つづく

2012年3月7日水曜日

私の好きなことば 「おかげさんで」


  子供の時、周りの大人のあいさつ言葉として、よく耳にする言葉でした。
「おかげさんで」の言葉の奥には、誰々の「おかげで」という意味があると思います。
でも誰の「おかげで」なのでしょうか。
自分の周りのすべての人の「おかげで」しょうか。
はたまた、大いなる者の「おかげで」しょうか。
大いなる者の「おかげで」今、自分は生かされている。
家族の「おかげで」今、自分は順調に毎日を過ごしている。
周りの人の「おかげで」今、自分は仕事をさせてもらっている。
どの「おかげで」にも、多くの感謝の気持ちが込められています。
日々感謝の気持ちを忘れないで「おかげさんで」と言えるといいですね。
感謝の気持ちと同時に、謙虚さがにじみ出ています。

2012年3月6日火曜日

「真実」

  真実は一つ
 誰もがそう思っている

 真実は多面体
 あなたの見ている真実も
 裏から見れば
 そうではない
 かもしれない

 真実は不可解
 人の数だけ真実がある

 人は皆 真実を求める

 自分にとっての真実
 人にとっての真実

 いろんな真実を
 認め合うのが一番

 その時
 世界に平和が訪れる
 という真実に気づく

2012年3月5日月曜日

「七行ポエムでラブレター」


幸せは
どこにありますか
幸せは
見えますか
幸せは
つかめますか
二人で幸せを育てましょう


あなたにとって
一番大切なものは
お金ですか
地位ですか
名誉ですか
学歴ですか
気づいたら迎えに来て下さい

2012年3月4日日曜日

「ぶきよう先生大好き」


 わたしの名前は、かあこ。小学三年生の女の子。
 担任の先生は、愛先生。
愛先生は、金太郎みたいな先生だ。金太郎といっても男じゃないよ。
どこが金太郎みたいかというと、愛先生は、右手に一人、左手に一人、そして背中に一
人、三人の子供を一度にぶらさげることができるんだ。
いつも愛先生のまわりには、子供たちが集まって、先生にぶらさげてもらうのを、取り合いしてるんだ。でも愛先生は、いつも忙しそうに走り回っている。だから、なかなかぶらさげてもらえない。それでわたしは、愛先生に聞いた。
「愛先生は、どうしてそんなに忙しそうに走り回っているの?」
愛先生は、言った。
「先生は、ぶきようなの。ぶきようだから人より時間もかかるし、いつも一生けんめいなのよ」
わたしは、よくわからなかった。お母さんに聞いてみた。
「ぶきようってどんなこと?」
「何でも楽にパッパッとできる人がいるけど、一つ一つ一生けんめいしないと、ってことかしら」
「愛先生は、「ぶきようだから、いつも一生けんめいしているの」って、言ってたよ」
「自分のことぶきようだと言える人ってなかなかいないのよ。誰でも楽したいでしょ。自分はぶきようだから、いつも一生けんめいしなくちゃ、って思う愛先生は立派な人ね」
愛先生はぶきよう先生なんだ。でも立派な人なんだ。愛先生大好きっ、と、わたしは思った。

ある日、学校で飼っているうさぎのももが、急に元気がなくなり病気になった。愛先生は、病院へももをつれて行ってくれた。
「ももは、重い病気になってしまったの。ももの病気が良くなるように、みんなでお祈りしようね」みんなで鶴を折ろうということになり、たくさんの鶴を折った。夜は、ももが一人になるので、愛先生は、ももを家へつれて帰ってくれた。教室に、たくさんの鶴が飾られている。でも、ももは、元気にならなかった。
 校庭の隅へ、ももを埋めてお墓を作った。みんなが泣いている。愛先生も泣いている。
「ももが、いなくなって淋しいね、悲しいね。ももありがとう。たくさんの思い出ありがとう。みんなで言おうね。ももも、みんなにありがとう、って言ってるよ。ももは、空からいつもみんなを見ていてくれるよ。みんなといつもいっしょだよって、言ってるよ」
「いつまでも、もものこと忘れないよ」わたしは、ももに言った。

わたしのクラスは、みんなで八人。男の子が五人、女の子が三人。ときどきケンカが起こる。誰かが泣く。そんな時、愛先生は、じっくりと話を聞いてくれる。仲直りの握手ができるまで、話を聞いてくれる。誰かが意地悪した時は、「自分が、されてイヤと思うことは、人にしないようにしようね。とっても大事なことだから、覚えておいてね」愛先生は言った。

わたしは、三年生になって愛先生から教えてもらったことを、考えた。
l  うそをつかない。
l  コツコツでがんばろう。
l  されてイヤなことは、イヤと言おう。
l  正しいのはどれか、よく考えよう。
l  人の気持ちになってみよう。
わたしは、寝る時、愛先生の顔を思い出しながら、これを三回言う。
愛先生は、今日も忙しく走り回っている。
愛先生は、ぶきようだ。
でも立派な人なんだ。
わたしは、愛先生が大好きだ。