2016年2月29日月曜日

マンション大規模修繕工事



 このほど住んでいるマンションの大規模修繕工事が無事終了しました。私の住んでいるマンションは、築16年になります。75世帯が住む11階建ての小さめのマンションです。15年経った時点で大規模修繕工事をすることが決まっており、3年前に修繕委員会がつくられました。建築専門家のポアロ(夫)が委員長となり、始めの頃は月に一度の割で、終盤は毎週のように話し合いがもたれました。都会の中の狭い間取りのマンションには、小さい子供のいる家族や夫婦だけになったシニア層、そして幅広い年齢層の女性単身者が多く住んでいます。
 専門知識のない入居者の中で、建築専門家は唯一人です。住民のために、大規模修繕工事の説明からスタートしました。住まいは資産です。業者任せで進むのではなく、所有者の立場に立ち、あくまでもこちら側が主導権を持って、チェックもしていかねばなりません。業者と管理組合の間に立ち、さまざまな問題について協議を重ね、委員長としての責務は大変だったと思います。管理組合の六人の役員は、理事長だけが男性であとは女性です。その女性達は、仕事を持っている単身女性です。日本の今の社会の縮図のようです。離別、死別、非婚のお一人さまです。理事長は、六十歳の退職を機に、憧れの京都にご夫婦で移住された東京人です。京都暮らしを始めた時から、地域に溶け込むために、青少年育成委員、民生委員、老人会役員など、いろんな役を自発的に引き受けてこられた貴重な方です。理事長は二期目で、細かい点にもよく気がつき、配慮の行き届く人生の先輩です。その方とポアロは良きパートナーとなり、修繕工事を進めてきました。ボランティアですが責任は大きいものです。
 工期は5ヶ月で、修繕費用は約8000万です。基本的工事は、外壁の塗り替えやタイルの張り替えです。今後を考えて、高齢者、障害者に配慮し、玄関外側の扉も自動扉にしました(玄関内側の扉は建築時から自動扉です)。また、今までは手で鍵を回して開錠していましたが、これからはICチップを当てる、あるいはかざすだけで開く非接触錠に替わりました。階段の扉は、ガラス入り戸に替えました。これにより階段は明るくなり、今まで扉を開ける際にぶつかることもありましたが、ぶつかり防止ができるようになりました。ベランダには、希望者にハト防止ネットが取り付けられました。玄関ホールには、ソファーとミニテーブルが設置され、緊急の来客に対しての応対や、お年寄りや小さい子供達に「どうぞのイス」として活用されると思います。

 9月に足場が組まれ、ネットが張られ、工事が始まった時には、職人さん達の出入りが激しくなり、話し声もあり賑やかになりました。ベランダに出してあったもの、物干し台や植木鉢などすべてを室内に入れて、住まいは薄暗くうっとうしくなり、工事の音も騒音や振動など、耳障りの時もありました。工事が終り元通りの静けさに戻ってみると、静けさがいやに気になり、賑やかだった工事期間が懐かしく思われます。次回の大規模修繕工事は、予定では15年先です。今回の工事で中心となって貢献した、理事長とポアロの後継者の出現に期待をしている私です。

4か月間足場がありました

廊下は昼でも真っ暗でした

危険な段差に手すりを付けました


市の補助もあり自動扉になりました

右のプレートにICチップを近づけるだけで扉が開きます

石庭を壊してソファを置きました

ぶつかり防止で耐火ガラスが入りました










2016年2月26日金曜日

私達は粗忽者?

 おなかをかかえて笑いころげるようなハプニングが起こりました。先日ポアロ(夫)がグアムへゴルフ旅行に出かけた日のことです。会社の先輩や同僚と四泊五日の日程で、グアムでゴルフコンペに参加するというものです。久しぶりの海外旅行ということで、私達は緊張していたのだと思います。出発の日は、朝6時半にタクシーを予約していたので、定刻通り、私は玄関で見送りました。無事に帰ることを願い、やれやれと思っているところへポアロから電話がかかりました。「朝早かったから道がすいていて5分で着いたよ。一本早いリムジンバスに乗ろうか」と、ゆったりのんびりした口調です。電話が切れた瞬間、またすぐに電話がかかりました。「スーツケース忘れた。すぐ帰る」切羽詰まった声です。私の頭は真っ白です。「タクシーで駅まで私が持って行くから!」私は、普段着のまま、コートを着て、財布と携帯電話を持って、早朝のことで起きたままの顔で、スーツケースを引っ張って飛び出しました。とにかく緊急事態です。格好をかまっている暇はありません。一刻も早くスーツケースを届けねばなりません。顔面蒼白、心臓ドキドキ、油汗が滲みます。運よくタクシーはすぐつかまり「京都駅八条口関西空港行リムジンバス乗り場までお願いします」と、息急き切った私は早口で運転手さんに言いました。ポアロから電話がかかります。「今どこ」「御池よ」又かかります。「今どこ」「四条よ」又かかります。「今どこ」「五条よ」又かかります。「一本後のバスにするよ」とのことです。買っていた切符のバスには、少しの違いで間に合いませんでした。無事スーツケースを届けることができました。予定より20分遅れのリムジンバスに乗り、ポアロは出発しました。私は再度ポアロを見送りました。張り詰めていた気が緩み、脱力感でいっぱいです。まだ7時20分です。ラッシュアワーとなってきました。私はラッシュアワーの中を、一人とぼとぼ地下鉄に乗り帰りました。もし空港まで行ってから気づいたらそのまま行くしかなかったでしょうが!
 午後五時頃、グアムに無事着いたと電話がかかりました。やれやれです。どうしてこんなことが起こってしまったのか、ついつい考えてしまいます。驚きと大きなショックです。それも二人して。誰にも信じられないことでしょう。ポアロは、ゴルフバッグと貴重品を入れたショルダーバッグだけを持って、家を出たのです。ゴルフバッグは玄関に立ててあったのですが、何日も前から用意したスーツケースは、リビングに置いたままでした。久しぶりの渡航で緊張し過ぎていたのでしょうか。前夜は興奮しているのか眠れず、目覚まし時計で飛び起きて頭が回らず、どこか変になっていたのでしょうか。自分が渡航する時は、覚悟を持って日本を出るのですが、家族が渡航する時には、私はいつも無事を祈り願い念力をかけています。そのことが第一優先となり、荷物は眼中になかったのかもしれません。
 この日、私は英会話教室で、このハプニングを話しました。講師もクラスメイトも大笑いしてくれました。自虐ネタですが、みんなに笑ってもらって何故かほっとした気持ちになりました。四泊五日の旅を終え、ポアロは耳まで日焼けして無事帰りました。高齢者の4人旅、他の皆さんもバスの渋滞、カードを飛行機内に落としたこと、お土産の高級ウイスキーを空港で落として割ってしまったなど、事件があったそうです。
 留守中ゴムが伸び伸びになっていた私ですが、精神的には念力をかけ続けて、ぐったり状態です。とにもかくにも感謝です。

 お土産はきれいな写真でした。









2016年2月25日木曜日

十年の歳月

 以前傾聴のボランティアで一緒に活動した友人に久しぶりに会いました。毎年の年賀状でのあいさつと、時々電話でおしゃべりする友人です。八十歳を超えておられる人生の先輩です。電話で話されるお声は、いつも若々しくお元気で年齢を感じさせません。十年ぶりに会って一緒に食事をし、おしゃべりしようということになり、先日出かけました。大阪と京都のちょうど境目に住んでおられるので、京阪四条駅のそばにある南座の前で待ち合わせることにしました。私は10分前に約束の場所に到着しました。南座の前に年配の小柄な女性が一人立っておられましたが、私はその方が友人だとは気づかず、南座のポスターをキョロキョロ見たりして、京阪四条駅から友人が出てこられるのを今か今かと待っていたのです。そうしているうちに約束の時間となり、いよいよ友人が来られると思ったその時、年配の女性が突然私に話しかけてこられました。「待ち合わせするのも難しいですね」とおっしゃったのです。その声を聞いて私はびっくり、その人が友人だったのです。二人が同時に手を取り合って、大きな声をあげました。十年の歳月が流れたのは事実ですが、お互いにわからなかったことが驚きでありショックでした。私も小柄ですが、以前は私より少し小柄という友人が、とても小さくなっておられて、とても華奢な体だったのです。それから積もる話をしながら、岡崎方面へ向けて歩きました。私は、最近オープンしたばかりの京都ロームシアターへ案内しました。八坂神社、円山公園、知恩院、青蓮院、の前を通り、平安神宮のそばの京都ロームシアターへ向かいました。京都ロームシアターは、館内にゆったりしたスペースで、くつろぎのイスやソファーがたくさん用意されています。自由に出入りできて、誰でも利用できます。
 友人の小さい華奢な体は、つまずいてこけたら大変です。私は彼女の腕を組み、気をつけて歩きました。電話でのお声通り、お話しされる声はとても元気です。散策は好きで、2時間ほど歩くのは何ともないとおっしゃったので、おしゃべりしながら歩きました。京都ロームシアターで、ゆっくりした時間を過ごし、ちょうどお昼になったので、食事をすることにしました。館内のレストランのメニューを見ると、洋食ばかりです。「できることなら和食がいいわね」とのことで、また少し歩いて和食の店へ入りました。この日は平日で、お店はすいていました。私達は食事をしながら、そして食事がすんだあとも、ずっとおしゃべりをしました。気が合う人間同士は、考え方も生き方もまあまあ似ているのだと思いますが、彼女はしっかり者で行動力があり、仕事をバリバリこなし、その功績の褒賞を受けて、アメリカへ二度も招待されています。六十歳で夫を見送ったあとは、ボランティア活動に燃え、単独での海外旅行へもたびたび出かけられ、訪問した国は20ヶ国ほどです。彼女の生き方を聞いて、私はいつも感心し、自分はそんなことはできないと思い、「すごい、すごい」とエールを送っていました。
 人生の最終ゴールに向けての彼女は「最期まで自立していきたい、そろそろ終活をしないとね」とおっしゃいます。一人娘さんは家庭を持ち、遠いところで仕事、子育てに奮闘中です。娘さんは嫁がれているので、友人は「お墓も仏壇もどうするかを決めて何とかしなければね。これも終活ね」とおっしゃいます。
 いつも思うことですが、毎日毎日、一日一日は点となり、それがひと月、半年、一年と連なり、いつのまにか十年が過ぎたということです。十年の歳月を経て、五時間ほどのデートでしたが、「お元気で、また会いましょうね」と、京阪三条駅で友人を見送りました。

2016年2月24日水曜日

読書の楽しみ(4)「殉愛(原節子と小津安二郎)」を読んで

 西村雄一郎著「殉愛(原節子と小津安二郎)」を読み終えました。知らなかったいろんなことを知り、本を読み進める過程は、驚きの連続でした。親世代のお二人には直接お会いしていませんが、二人の人間性に強くひかれています。人間性というのは、生き様です。いくつもの小津作品には、家族、人間、絆、愛、生と死、戦争と平和が、テーマとしてあります。登場人物の台詞や背景や映像の作り方の中に、監督の思いが込められています。テレビで放送された懐かしい小津作品を見たことがありますが、目で映像を追っているだけの私は、小津監督の深い思いのことは知りませんでした。今回この本を読んで、映画鑑賞の奥深さを知りました。
 小津監督は、1937年(昭和12年)中国戦線に配属され、戦争の非情さを目撃し、地獄を体験されています。自分の映画作りを通して、平和への願いと反戦を、自分なりに表現されたのです。社会の一番小さい単位である家庭という枠の中にある家族も、もろく壊れやすいものと捉えておられます。だからこそ人と人との絆を大切にしなければなりません。「人を思いやる心と感謝の気持ちを忘れないで」は、小津監督からのメッセージのように思います。
 小津監督が日記に書かれていたことも、この本に登場します。その中に胸打つ文がありました。「人とちぎるなら 浅くちぎりて 末までとげよ」1935年(昭和10年)8月1日の日記です。小津安二郎も原節子も生涯独身を貫きました。原節子は、小津安二郎亡きあと、映画界から遠ざかり、公的な席には一切出席しなくなり、五十年以上も姿を見せることはありませんでした。小津作品のヒロインとしての原節子の台詞には、小津監督の思い願いが、素直に表現されているそうです。
 最後の作品の中に、小津監督が言い続けた信念の言葉が台詞にあります。「品性の悪い人だけはごめんだわ。品行はなおせても、品性はなおらないもの」この言葉にも感動しました。また最後の作品のモチーフは、「生と死とは紙一重、生と死とは隣り合わせ、死は日常のすぐそばにある」ことだとこの本の著者は書いています。小津監督の大好きな言葉「せんぐりせんぐり」が台詞に登場します。「死んでも死んでも、後から後から、せんぐりせんぐり生まれてくるヮ」輪廻転生です。自然の摂理(人間の知恵をこえた神の意志)を言いつくした台詞として有名だそうです。
小津監督が考えていた究極の愛の形は、真摯で崇高な愛だと著者は書いています。人間の理想像のような、一途で潔癖で純粋な人がいるのでしょうか。小津安二郎と原節子は、そんな愛を全うしたということを知りました。
蓼科にある別荘は、小津安二郎が1956年に借り受けて「無藝荘」と命名したそうです。没後十年目の1973年に建立された有縁地碑には「会い度い 会い度い もう一度 中学生になりたいなあ」と刻まれているそうです。鎌倉の円覚寺にある墓碑には「無」と刻まれているそうです。

 本を読んで三重県松阪市の青春館、飯高オーヅ会資料室へ行ってきた私ですが、今度は蓼科と鎌倉を訪れたいと思っています。小津安二郎の子供時代、青年時代、そして晩年の足跡を辿ろうと思います。

2016年2月18日木曜日

久しぶりの大阪

 用事ができて久しぶりに大阪へ行ってきました。行きは、三条から京阪電車で淀屋橋まで行き、そこから歩いて梅田へ向かいました。地下鉄で一駅です。久しぶりの大阪の中心地です。堂島川と土佐堀川にはさまれた中之島には、日本銀行、大阪市役所、大阪府立図書館、大阪中央公会堂などが集まっています。この日本銀行は明治36年に建てられたもので五代友厚の家があったところだそうです。

日本銀行大阪支店

大阪市役所

その近くには、大阪高等裁判所や数多くの銀行も大手企業も見事なほどに並んでいます。大阪のメインストリートである御堂筋は、梅田から難波までの4キロほどの通りです。東京と大阪を結ぶ国道1号線は、梅田で終点となり、梅田から下関を結ぶ国道2号線がスタートします。

交差点の東は国道1号線

交差点の西は国道2号線

 少しややこしいのですが、JRの大阪駅があり、阪急電車と阪神電車の駅は梅田駅です。デパートは、阪急百貨店、阪神百貨店、大丸、伊勢丹と四つも集まっています。私が、学生の頃に慣れ親しんだ梅田とは、ずいぶん様変わりしています。田舎から出てきた私が、大都会と感じた梅田は、もっともっと発展し進化し続けているようです。

右が建て替えられた阪急、正面は建て替え中の阪神です

 
正面は大阪駅と大丸です


 高いビルに囲まれて、露天神社がありました。通称「お初天神」です。今NHKで放送されている「ちかえもん」の主人公近松門左衛門(1653~1725江戸時代前期・元禄期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者)が書いた「曾根崎心中」の舞台です。これは、はつと徳兵衛の心中事件を題材にした物語です。私は、初めて参拝しました。賑やか過ぎる商店街に挟まれて、驚くほどの繁華街の中にあります。
  






 大阪の南に比べて、梅田はすべてにおいて大阪をリードしてきた場所のように思っていた私ですが、梅田を歩くだけでも圧倒されそうな雰囲気を感じました。帰りは阪急電車で四条河原町へ戻りました。

2016年2月17日水曜日

歴史街道(和歌山街道)

 先日、松阪と和歌山を結ぶ和歌山街道のほぼ中間地点にあたる飯高町へ行ってきたのですが、小津安二郎資料室を見学したあと、25キロほど先にある波瀬宿まで足を延ばしました。国道166号線を西へ約一時間走りました。
 波瀬宿は、国道から少し入った旧道にあります。大きな家が建ち並び、昔の街道の雰囲気です。山のふもとの静かな村で、人の気配が感じられないほどの、静かで淋しい印象を受けました。本陣であった大きな屋敷には、その面影があります。和歌山街道にはいくつもの宿がありますが、波瀬宿だけを見ても、今は訪れる人もなく、昔の栄華はまさに歴史に残っているだけのように思います。どれほど多くの人が、和歌山街道を行き来したのでしょうか。想像すると胸がワクワクします。和歌山のお殿様も、籠に揺られて松阪を目指したことでしょう。伊勢神宮へ参拝する多くの人の、賑やかな話し声が聞こえてきそうです。





 波瀬宿には、波瀬神社があります。誰もいない本殿へお参りしました。伊勢神宮を遠くから拝む、遥拝所がありました。長い長い歴史を感じる波瀬神社でした。



 波瀬宿を後にし、いよいよ今回のプチ旅は終わりです。波瀬宿を出て少し走ったところの高台に素敵な建物が見えたので近寄ってみました。波瀬小学校と書かれていますが現在は使われていません。立派な建物ですが子供が少なくなってしまい、休校となっているそうです。日本の少子高齢化と過疎化を目の当たりにしました。



次に飯高道の駅へ寄りました。三重県で最初に登録された道の駅です。天然温泉施設があり、お茶・野菜など特産品の販売所やレストランもあります。この日は土曜日だったので、多くの人で賑わっていました。埼玉や千葉、静岡ナンバーなど遠くからの車もあり、驚きました。


 広大な茶畑が見えてきたので、写真を撮りました。とても美しい景色です。三重県はお茶の生産量国内第三位とのことで、一位は静岡県、二位は鹿児島県だそうです。美しい茶畑が連なるその近くに、茶倉という道の駅があったので寄りました。展望台からは、櫛田川の美しい流れや渓谷が見えて、のどかで風光明媚な所です。





昭和7年に建てられた元郵便局舎

 日本中にたくさんの街道がありますが、実際に走った街道は少ないものです。高速道路が整備され、どこへ行くにも高速道路を利用します。司馬遼太郎著「街道をゆく」は、家族全員が大好きな本ですが、この本に登場する街道を少しずつでも走りたいと思っています。それぞれの街道に伝わる歴史や地理を、知る楽しみを楽しみたいと思います。

2016年2月16日火曜日

読書の楽しみ(3)「飯高オーヅ会」

 西村雄一郎著「殉愛(原節子と小津安二郎)」をあと少しで読破します。先日三重県松阪市飯高町にある小津安二郎資料室へ行ってきました。小津安二郎が代用教員として務めた小学校の跡地に建てられた、かつての役場の一室が資料室となっています。時代は移り、その役場は市町村合併により、老人福祉センターになりました。駐車場の隅に記念碑が建立されており、小津安二郎が、教え子からもらった暑中見舞いへの返事が彫られていました。




 小津安二郎が代用教員を務めたのはたった一年でしたが、若き教師は子供達と密度の濃い学校生活を送りました。子供達と裸のつきあいをして、川や山へと教え子達をつれ出し、マンドリンを弾いて聴かせたり、映画の話を面白おかしく話して喜ばせたり、子供達に「オーヅ先生」と呼ばれ慕われました。その教え子達が発起人となり、平成五年に「飯高オーヅ会」が発足したのです。 


来訪者の色紙

 資料室には、小津安二郎ゆかりの品がたくさん展示されています。小学校の模型があり、当時の小学校の様子がわかります。





小津作品に出演された女優さんも訪問されています


写真や直筆の手紙、書もたくさんあります。遺族から寄贈された生活用品も多くあり、愛用のカバンや白いシャツも展示されています。卒業写真には、十九歳の小津安二郎と二十五人の子供達がうつっています。


 小津安二郎は、小学校の隣の家に下宿していたのですが、その家は今も現存しています。


小学校のすぐ裏が下宿でした

学校の近くにある櫛田川や花岡神社や、標高1029mの局ヶ岳(つぼねがだけ)は、子供達とともに慣れ親しんだ場所です。局ヶ岳は、伊勢三山のひとつで、尖った山の形状から「伊勢の槍ヶ岳」とも呼ばれているそうです。「オーヅ先生は、下駄で登った」と、かつての教え子達は証言しています。花岡神社の入口正面には、大銀杏の木があり、草創は八百年以上前と伝わっているとのことです。


 小津安二郎資料室には、年配の女性がおられて、親切に丁寧に案内・説明してくださいました。かつての教え子で発起人の一人である、「飯高オーヅ会」の初代会長をされた方の娘さんでした。御存命のかつての教え子は、もう誰もいらっしゃらないとのことです。

かつての教え子達が「オーヅ先生」とのいっぱいの思い出を記しています。
*オーヅ先生は、いつも着物に羽織、袴に下駄履きやったなあー。
*オーヅ先生は、ニキビ顔で体格のええやさしい先生やったなあ。
*オーヅ先生は、体操の時間は厳しかったなあ。
*オーヅ先生からローマ字を教えてもろて仕事に役にたったんサ!
*マンドリンを下宿で聞かせてもろた。
*花岡神社ではオーヅ先生とようすもうをとった。
*オーヅ先生のお話は面白て面白て身を乗り出して聞いたワ!

資料室に、二時間も長居してしまい、小津安二郎の飯高での一年間の軌跡に浸りました。

和歌山街道沿いの建物


飯高町は、松阪と和歌山を結ぶ和歌山街道のほぼ中間にあります。三重県と奈良県の県境は、高見山・高見峠です。三重県側が飯高町で、峠を越えると吉野です。江戸時代、紀州藩主の参勤交代の道として、また伊勢神宮への参詣道として、多くの人々が行き交いました。江戸時代には本陣が置かれ、国道166号ができる昭和の時代までは、旅館や商店が建ち並ぶ、この地域のメインストリートでした。小津安二郎が暮らした頃も、何軒もの旅館があり、芝居小屋もあり、宿場として賑わっていたのです。かつての賑わいを思わせてくれる写真もあり、古い建物もいくつか残っているようです。