2012年12月23日日曜日

今年も残り少なくなりました


 いよいよ今年もあと一週間となりました。残り少ない、ゆく年の一日一日が、名残りおしくなります。

 先日、韓国の大統領に初めて女性大統領が誕生しました。韓国に先を越されたようで少し残念ですが、女性としてとても嬉しく思います。御両親を突然の不幸で失った悲しい経験は、他者の痛みを知ることのできる、リーダーとしての資質の一つになっていると思います。日本、中国、韓国が、新しいリーダーのもと新しい年をスタートさせるこの節目に、各国全国民が、大きな期待を寄せていることと思います。

 今年は2月20日からブログをスタートさせ、毎日せっせと原稿を書き、執筆活動をしてきました。新しいことへの挑戦をしたという達成感で、とても清々しい気持ちです。新しい年も、こつこつと一歩ずつ続けていきたいと思っています。

 明日から冬休みに入り留守をしますので、ブログをしばらくお休みします。高齢の義母と冬休みを一緒に過ごし、親孝行をしようと思っています。新しい年に入りこちらへ戻りましたら、ブログを再開します。

 皆様、どうぞ良いお年をお迎え下さい。

2012年12月22日土曜日

クリスマスの思い出


 もうすぐクリスマスです。クリスマスの思い出はたくさんありますが、最初にして最大の思い出は、我が家にサンタクロースがやってきたことです。今から六十年前のこと、クリスマスイブの夜、真っ赤な服を着て帽子をかぶった白ヒゲのある小柄のサンタクロースが、突然家へやってきました。私は祖父の膝の上にだっこしてもらっていました。サンタクロースが何者かもわからず、突然変なかっこうをしたよそ者が家の中へ入ってきたことに驚き、大声を出して泣きました。兄や二人の姉、父、祖父、祖母はニコニコ笑っています。サンタクロースは、子供達にプレゼントをくれました。私はプレゼントもなんのその、驚きのあまりずっと大声で泣き続けました。その記憶がクリスマスの思い出としてずっと残っています。

 大きくなって振り返った時、あのサンタクロースは母だったのだと理解しました。母は、小学校六年生の時に母が亡くなり、二十歳の時には父も亡くなりました。結婚して家庭を築き、子供に恵まれ、三十代の母は、自分の理想とする家庭像を実現していたように思います。六十年前といえば、家庭でクリスマスパーティーをする家は、まだ少なかったのではないでしょうか。母はケーキを作り、クッキーを焼き、チキン料理も用意しました。そしてプレゼントは、数々のお菓子と母特製のセーター、マフラー、手袋でした。食事が終わると家族みんなで歌を歌いながらの合奏です。「ジングルベル」「きよしこの夜」です。最後に祖母が独唱します。十八番(おはこ)の披露です。流行歌「籠の鳥」です。普段めったに歌わない祖母が、この時はすまし顔ですました声を張り上げて歌うのです。今、思い出せばクリスマスパーティーに「籠の鳥」です。おかしくて吹き出してしまいます。そんな変なクリスマスパーティーは、私が小学校五年生ぐらいまで続きました。

そのあとは、華道の師匠をしていた母が、生徒さん達を集めての門下のクリスマスパーティーへと変化していきました。そのクリスマスパーティーは年々盛大になり、兄が大学生、社会人になり、その友人達も加わり、ダンスパーティーを主としたものになりました。医者の卵達もたくさん来ていて、いろんなロマンスが生まれ、デートへと発展していくカップルもありました。現在の婚活の場を提供していたようにも思います。

母は孫が八人できて孫が幼稚園の間は、またサンタクロースに扮して、孫達を喜ばせていました。

私達が二人の子供へ贈るクリスマスプレゼントは、普段の生活の中で、何気なくどんなものを欲しがっているかを聞き出しておいて、用意しました。子供達が寝ている枕元へプレゼントを置く時は、目を覚ますのではないか、ばれたらどうしようとドキドキしたものです。成長とともに、サンタクロースは父母だったと、自然にわかっていくものです。幼い子供達と親との懐かしいゲームのようなクリスマスでした。

外国では、クリスマスが最大の家族行事のようです。クリスチャンでもない日本人にとっては、一つのイベントになっているクリスマスです。楽しく和やかにクリスマスを過ごし、思い出の一つになればそれで充分だと思います。美しいクリスマスソングを聞いて、静かに過ごしたいと思います。

2012年12月21日金曜日

日本から世界へ


 知人の在仏十年の日本女性から聞いた話です。いつかのブログに書きましたが、彼女は、南仏のモンペリエで東日本大震災の支援団体を、日本人、フランス人、いろんな国の人達と力を合わせて立ち上げ、チャリティーコンサート、支援のためのスタンド、募金活動など精力的に展開させています。そしてそのことが、日本という国を外国の人々に知ってもらうきっかけとなり、日仏交流が民間人のなかで盛んに行われているそうです。

 彼女は、ピアニストでありピアノ教師です。子供から22歳ぐらいまでの、青少年のオペラ・ヴォーカル・グループの専属ピアニストをしており、日本の合唱曲もいろいろ取り上げて歌っています。「気球の乗ってどこまでも」「あの町この町」「赤とんぼ」「その人が歌うとき」「もののけ姫」などです。

 日本人の心にひびく名曲が、どんどん世界へはばたいています。日本人が心のふるさとを感じるように、世界の人の心にも通じる何かがあるのかもしれません。

2012年12月20日木曜日

独居老人


 現在日本では、独居老人が増加しています。圧倒的に女性が多く、夫を見送ったあと一人暮らしがはじまり、核家族化が進む中での構図です。非婚の単身世帯が増え続けている今、何十年か先には、男性の独居老人も増えると思います。

 義母は現在八十八歳で、一人暮らしは四十年近くになります。六十歳で仕事を終えてから、いろんな趣味を楽しみ、友人もたくさんいる活発な優良高齢者です。長年続けてきた俳句は、今もしています。血圧が高くなり薬を飲み始めてから、25年も過ぎていますが、いたって健康でどこへでも歩いていけるほどの、元気な暮らしを続けてきました。家の近くのクリニックを主治医とし、2週間に一度は病院へ行き、薬をもらい、何か気がかりがあれば相談にのってもらっていたのです。

 ところがここ最近ちょっと様子が変わってきました。「しんどい、しんどい、もうあかんは」と、私達にしょっちゅう電話をすてくるようになったのです。病院へ行っても何の異常もなく、先生から「何の心配もいりません、大丈夫です」と言ってもらっても気持ちがしんどいようなのです。私達は、昨夜車で4時間かけて、義母の様子を見に行きました。いつもと変わらず食欲もあり、よくしゃべります。外から見ている限り「しんどい、しんどい、もうあかんは」の実状はわかりません。一人暮らしが長く、元気に陽気に人づきあいもこなしてきた義母の、どこがどう変化してきたのか、しばらく一緒に過ごし、身近で接してみようと思い、私達のところへ連れ出してきました。昨夜は義母のところへ一泊し、仕事があるので今日こちらへ移動しました。

 私が推察するところ、人間最後のその時についてへの不安・恐怖が、精神的にまいらせているのではないだろうかということです。どんなに元気に過ごしても、最後のその時は誰にも訪れます。今、世界最高齢は、京都の115歳の男性です。ピンピンコロリはみんなの願いですが、それは誰にも予測不可能なことです。義母は、夜一人でいるとそのことばかり考えて、パニック的症状を起こしているのかもしれません。息子夫婦とおしゃべりしながら、食事をし、買い物に出かけたりして、そばに誰かがいてくれるという安心感が、一番の療法かと思っています。

2012年12月19日水曜日

世界が恋に落ちた


 先日テレビで四人組のヴォーカル・ユニットILDIVO(イル・ディーヴォ)を見ました。八年前にデビューしているのに、私は全く知りませんでした。家族もその情報をキャッチせず、八年が経っていたのです。テレビの三十分番組を見ただけで、私はとびつきました。「世界が恋に落ちた」というキャッチフレーズで宣伝されていますが、私はまさにその壺にはまったというわけです。テレビを見た次の日には、CDを買いに行きました。10月14日に発売されたばかりの2枚組のCDです。プレゼントに四人のプロマイドが入っていました。

 ILDIVOは国際的なグループです。スペイン、スイス、フランス、アメリカの出身です。四人はそれぞれ音楽専門の道を歩んで来ており、オペラも経験して舞台で活躍してきました。しかしその音楽だけで生きていくのは厳しく、アルバイトしながらの暮らしでした。イギリスのプロデューサーのもと、国を越えて音楽を作り出すという大プロジェクトがスタートしました。音楽は世界を結ぶ、言葉も肌の色も国の垣根を越えて、音楽は世界を一つにする。素晴らしい取り組みです。

 収録されている曲は、なじみのある曲ばかりです。ロマンティックな愛のうた、数々の映画音楽、美しい声のハーモニーは最高です。しかもさすが国際的ヴォーカル・ユニットです。いろんな言語で歌っています。

 日本へは何度も来ていて、日本の子供達とも共演しています。彼らが日本語で歌う「故郷」は、胸に深くしみ入ります。東日本大震災チャリティーコンサートにも参加して、暖かい支援をしてくれています。彼らのこれからのさらなる活躍を応援したいと思います。

2012年12月18日火曜日

徒然に想ううた 短歌三首


バッジなく 地盤は神と 思う今
 

      ただの人へと 審判受けて

 

 

百越えて 「それまで助走」 言う翁
 

     みながまねして 高齢天下

 

 

夕焼けの 赤く輝く 陽が届き
 

     部屋にいる身も 顔上げ見入る

2012年12月17日月曜日

「孫」


もうすぐクリスマスがやってくる

庭一面にイルミネーションを飾る

塀、屋根、あらゆるところに飾る

最高のものを飾る

金に糸目は付けぬ

孫たちのために孫たちの喜ぶ顔が見たくて一心不乱に飾りつける

巷ではじじバカと噂されているようだが構わない

 

かつて私は今の自分を想像したことがあっただろうか

仕事は頂点まで登りつめ悔いはない

短気でわがままで世間は自分のために回るととらえていた

自分の欲しいものは何でも手に入れた

数々の浮き名を流しプレイボーイと評された

自分はもてる男だと自負していた

しかしそれらはすべてうたかただった

 

三十過ぎて結婚した

子供が一人二人と生まれても私は何も変わらなかった

仕事にかこつけ子育ては妻に任せた

そしていつのまにか子供らは成長し離れていった

 

退職してから孫が誕生した

もみじのような小さな手足

純粋無垢な眼差し

それでいてこちらのすべてを見抜いているかのような眼差し

私は孫の前で緊張した

今までに経験したことのない自分になっていた

 

孫は自分の分身だった

かわいくてかわいくて

愛しくて愛しくて

目に入れても痛くないと言われる孫の存在

私にはそれどころでない孫の存在

孫は私のすべてとなった

孫は私の天使になった

 

孫とともに過ごせる時間は最早カウントダウン

私はあせりだした

孫に与えられるものはすべて与えよう

私のすべてを与えよう

物質的なものも愛情もすべて

 

今までの恋はすべてうたかた

今までの愛もすべてうたかた

今 私は真実の愛を知った

真実の愛は純粋なもの

真実の愛はみかえりを求めない

真実の愛はみかえりを期待しない

 

私はただひたすら愛を捧げる

孫の笑顔が至福の時をもたらす

 

今 私は感謝する

妻に感謝

子らに感謝

子の嫁や婿に感謝

 

そして孫の成長を祈る

孫の幸せを祈る

2012年12月16日日曜日

徒然に想ううた 自由句三句


 

子が育ち 夫育ての ギアチェンジ

 

 

うるさいぞ 帰る帰ると カエル鳴く

 

 

古稀越えて 童の歌を 口ずさむ

2012年12月15日土曜日

十二月の花 さざんか


 十二月の花として、さざんかをあげたいと思います。今、私の住んでいるマンションの庭のさざんかは、満開です。つぼみもまだたくさんあって、長い間美しい花を見せてくれます。散歩していると、色の違うさざんかも、たくさん咲いているのを見ます。
 



 二十数年前のことです。私達は、初めて手に入れた戸建住宅の庭の垣根に、さざんかを植えました。白、赤、ピンクの花が咲き、寒くなってきた十二月には、帰宅する家族をにぎやかに迎えてくれました。さざんかはとても丈夫で、毎年たくさんの花を咲かせ、私達を楽しませてくれたものです。

 童謡・唱歌「たきび」の二番の歌詞に、さざんかが出てきます。子供の頃、家の近くのお寺で高齢の住職さんが、冬の間、毎朝たきびをしておられました。登校する前に、子供たちはそこへ集まり、しばらくたきびにあたって体を暖めました。寒い朝は、たきびにあたるのがとても嬉しくて、いつもより少し早く家を出て、たきびの周りで登校前のひとときを過ごしました。男の子は石をたきびの中へ投げ入れ、登校する時に熱くなった石をポケットに隠し入れ、得意気に満足気に「あったかい、あったかい」を連発していました。そして女の子達は「たきび」の歌を、一番二番三番と歌いながら登校しました。私は今でもさざんかの花を見ると、自然に「たきび」の歌を口ずさんでしまいます。

2012年12月14日金曜日

今年の漢字


 先日、恒例となっている今年の世相を一字で表す「今年の漢字」が、京都清水寺で発表されました。ロンドンオリンピックでの選手団の活躍による金メダルラッシュ、山中京都大教授のノーベル賞受賞、金環日食などを理由に「金」が選ばれました。清水寺の森清範貫主は「東日本大震災などによって日本中が暗い中、世界的な偉業に一筋の光明を見つけ、将来を見ていこうとの気概を感じた」と話されています。テレビのニュースの中での街頭インタビユーでも、みなさんそれぞれ理由ある「今年の漢字」をあげておられました。輪、和、産、吐、信などがありました。

 私自身は「挑」をあげたいと思います。シニアの仲間入りをしてから、いろんな新しいことに挑戦し続けてきた私は、ここ何年も連続で「挑」をあげています。ホームヘルパー二級の資格を取得し、大学で社会福祉の勉強をし、卒業証書を手にし、ボランティア団体へ入会し理論と実践を学び、音楽療法も専門的に勉強し、心理学も学び、英会話・水泳をスタートし、振り返ってみれば、我ながら驚いてしまいます。この気力・体力はどこから来るのか、自分でも不思議です。

 森清範貫主が話された「気概」とは、何があってもくじけない強い心、と辞書に書かれています。これからの一年一年と年輪を重ねていく中で、気概を持って、もっともっと「挑」を積み上げていきたいと思います。

2012年12月13日木曜日

私の好きなこと(Ⅱ―3)


 私の編んだ作品はずいぶん多くなりました。下手の横好きです。セーター、カーディガン、ベストなど多数です。寒くなってくると毛糸の手編みの小物も、寒さから身を守ってくれます。家族の数だけマフラーを編みました。そして帽子、レッグウォーマー、室内ばきになるソックスなど、どんどん編みました。作品はまだまだこれからも増え続けます。
 
 

 家族みんなにマフラーを編み上げた時、どこからか「ぼくにもマフラーを編んでほしいなー」という声が聞こえてきました。顔を上げると、カバくんが微笑んでいます。「ごめん、ごめん、すぐ編むからね」と私は言って、すぐにカバくんのマフラーを編みました。すると今度は「私もマフラーほしい」「ぼくもマフラーほしい」という声がしました。見上げると、カエルくんたちが見つめています。「そうだったわね、二人の分も編むからね」と私は言って、すぐカエルくんたちのマフラーも編みました。カバくんもカエルくんたちも「うれしいなー、あったかいよ、ありがとう」と言っているようです。私の心もあったかくなりました。

 

 原作アガサ・クリスティー「名探偵ポアロ」に対する女性版「ミス・マープル」の中で、マープルは編み物をしながら、いろいろ考えます。そしてひらめくのです。そこから事件の解決へとつながる糸口が見つかるのです。マープルが編み物をしながら、丸い目をくりくりさせる姿がとてもほほえましく、私はマープルの大ファンです。

 おばあさんになっても、炬燵に入って編み物を楽しみ、一本の毛糸から作品を仕上げる創作の喜びを持ち続けたいと思っています。

2012年12月12日水曜日

私の好きなこと(Ⅱ―2)


次に編み出したのは、母親になるということがわかり、赤ちゃんのためのおくるみや、ポンチョ、ロンパース、くつしたです。小さな作品を作り上げていく過程で、母親になるという自覚や心構え、覚悟も身についていったように思います。小さな命を守り、大切に育て、命がけで産むという女性としての大きな仕事です。私は、血液型がABRHマイナスで、確か2000人に一人の率です。妊娠がわかってから月に一度、県の血液センターで抗体化検査を受けていました。リスクを抱えての妊娠、出産です。出産は実家に戻ってということになったので、検査も実家のある県でしました。輸血が必要になった時のための準備もしました。無事生まれた子供は約4キログラムの赤ちゃんで、私が編んだ小さな作品は、着る間もなく、おくるみだけが愛用されることとなりました。

 二人の子供に恵まれ、子育てと仕事に追われるてんやわんやの毎日が続き、編み物のことは遠くに置き去りにされていたのですが、下の子供が小学校へ入った頃から復活となりました。子供達のセーターを編みながら、編み物ができる喜びをかみしめて、だんだん仕上がっていくセーターを見て、一人ほくそ笑んでいました。
 

 いつかのクリスマスプレゼントは、ポアロ(夫)へ再びセーターを編みました。本を見ながら棒針を使い、なわ編みに挑戦しました。我ながらうまくできたと、自慢したくなるほどのセーターが完成したのですが、結婚○十年過ぎた彼には、丈が少し短くて、それ以来毎年冬になると「丈をのばして!」と、言われ続けています。実はその毛糸が手元に残っていないのです。それは何年か前、東京にいた時に買い求めたもので、男性のセーターができる分量より多い目を買ったのですが、それでも少し足りなかったのです。その毛糸は廃番になっているので、よく似たものを探して丈をのばそうと思いつつ、また何年も過ぎてしまいました。
 
 
 

 自分勝手にいいかげんに、編み物を楽しんできた私ですが、近頃は「ええかげんはあかんぞー」という声が、ちらほら聞こえてくるようになりました。

                                   つづく

2012年12月11日火曜日

私の好きなこと(Ⅱ―1)


 私の好きなことの一つに編み物があります。少し寒くなってきて炬燵が恋しくなってくると、編み物がしたくなりうずうずしてきます。今年もそんな季節になりました。炬燵に入って音楽を聞きながら、編み物をするのは最高です。好きなことに没頭する、没頭できる幸せを感じます。仕事ではありません。趣味です。そんな状況に感謝します。ひと編みひと編みに自分の想いを込めて、一心不乱に編み物を続けます。無我の境地です。

 編み物をすることに対して、子供の頃からあこがれを持っていました。編み物をする女性の姿から、ほのぼのとした幸せのイメージを感じていました。子供の頃、母は子供達のために、冬が来る前から編み物をしました。小さくなったセーター・カーディガンは、ほどいて編みなおします。私はそのそばで、毛糸を丸める手伝いをよくしました。

 私は二十歳を過ぎてから、自分のために大判ショールを編みました。仕事の行き帰りの電車の中でせっせと編みました。同じ模様の繰り返しなので本はいりません。かぎ針でどんどん編み続け、真知子巻き(「君の名は」の主人公がよくした巻き方)ができるほどのものが完成しました。

 次に編み出したのは、恋人のセーターです。通信教育の手編み講座を申し込み、テキストを見ながら棒針でアフガン編みをしました。通信教育の教材が欲しかっただけなので、入門・初歩から段階を経ての講座は受けていません。自分勝手にいいかげんに編みました。ここが編み物のよいところです。サイズはLサイズを目指して編みました。テキストに書いてある毛糸材料分よりも、たくさんの毛糸を使いました。びっしり目がつまり、風を通さないような、暖かいジャケットにもなるくらいのものが編みあがりました。今も大切に手元にありますが、ズシリと重いものです。毛糸の重さだけでなく、ひと編みひと編みに愛情がこもりすぎて重いのかもしれません。これを着た彼は、きっと肩が凝ったことでしょう。                     

                    つづく

2012年12月10日月曜日

徒然に想ううた 短歌三首

はらはらと 雨に打たれて 散るもみじ

      去年(こぞ)も今年も 誉れの美あり



しょうがない 運命といえ しょうがない

       まな板の上 の鯉になって



青い目の 花婿来たり 我が家へも

     地球家族へ 一歩前進

2012年12月9日日曜日

「おまえへ」


おまえが家を出てから早五年
元気にやっていますか

たまには 手紙を書いて下さい
たまには 電話をかけて下さい
たまには 会いに来てください

おまえの 元気な声を
おまえの 元気な顔を
おまえの 幸せな笑顔を

お父さんと二人で
待っています

2012年12月8日土曜日

珍しい訪問者


 今、私が住んでいるのはマンションの12階です。ここに住んで早9年が過ぎました。地面から30メートル以上も上に上がると、まるで天空に住んでいるように感じます。景色は抜群です。遠くの山々がいろんな表情を見せてくれます。春、夏、秋、冬と、山の色も変わります。そして朝日が昇り夕陽が沈む、その色合いも毎日微妙に違います。山の向こうに夕陽が沈みかける頃から沈んだあとまで、美しい夕焼けの色は刻々と変わり、自然の織りなす芸術に感動します。残照も素晴らしいものです。私は時々その美しさに見入ってしまいます。
 そんな私の家のベランダに、先日珍しい訪問者がありました。真っ白な鳩です。毎日普通の鳩は飛んでくるのですが、この真っ白な鳩は初めてです。我が家のベランダに、真っ白な鳩が飛んできてしばらく滞在していったのです。本当に驚きました。真っ白な鳩は、そのあとも時々飛んできます。
 真っ白な鳩は、平和の象徴と昔から言われています。真っ白な鳩は、何か幸運を運んできてくれるのでしょうか。淡い期待を持って、真っ白な鳩の訪問を見つめています。

2012年12月7日金曜日

ノロウイルスの猛威

 ノロウイルスがすごい勢いで流行の兆しを見せています。先日のニュースでは、ノロウイルスによる死者も出たと伝えています。特に高齢者、乳幼児、体力・免疫力の落ちている人にとっては少しの油断もできません。
 私の2012年(平成24年)は、ノロウイルスでスタートしました。大晦日は近くのお寺へ行き、新しい年の絵馬をもらい、除夜の鐘をつかせてもらい、甘酒をいただくというのが我が家の恒例行事となっていました。いつものように出かけ108人の行列の30番ぐらいの順番で並び、絵馬をもらい除夜の鐘をつき甘酒をいただき、遠くからも聞こえてくる除夜の鐘の音を聞きながら、ゆく年くる年の感慨を胸に帰宅し、一年をしめくくりバタンキューと眠りにつきました。元日は、家族が起き出してくる前に洗濯物を干しておこうと思い動き始めました。干し終える頃、突然、胸をつき上げられトイレへかけこみもどしてしまいました。そのあと何度もその症状が続き、胃液が出るまでもどし続けました。何も食べられず飲めず元旦は布団の中で一日が終わりました。おせち料理を作った私は、家族がおいしそうに食べるのを横目に見ながら、一日二日と絶食状態で過ごし、やっと落ち着いた状態になってから、りんごをすりおろして少し食べました。ところが2日の未明から、休暇でフランスから帰っている娘が、突然嘔吐と下痢を発症しダウンして寝込んでしまいました。私と娘を突然襲ったものは何か、全く見当がつきませんでした。家族4人が同じ物を食べ同じ物を飲んでいたのに、あとの2人には何も起こりませんでした。のんきな話で申し訳ないのですが、そのあとずい分経ってから、ひょっとするとこれがノロウイルスだったのではないかと思い始めた次第です。
 突然発症し一日で治まるわけのわからないもの、しかし死者まで出る怖いもの。つわりもなく、嘔吐をした記憶もほとんどない私ですが、2012年(平成24年)の元旦は本当にひどいスタートでした。外出から帰宅した時の手洗いとうがいは重要なことだと気がつきました。今までの私は軽く見ていました。健康に対して自信過剰だったのかもしれません。2013年(平成25年)は、良いスタートであるように願っている私です。

2012年12月6日木曜日

悲しい知らせ


 12月5日朝テレビをつけると、中村勘三郎さんの訃報を伝えるニュースがとびこんできました。闘病中とのことは知っていましたが、しばらくお休みされたらまたお元気になられ活躍されるものとばかり思っていたので、訃報を聞いて本当に驚きました。人生100年の今、57歳は早過ぎます。中村勘三郎さんは、私達世代の弟的存在で、お若い頃から歌舞伎の世界だけでなく、テレビのドラマにも出演され、よくテレビで拝見していました。気さくな人柄がにじみ出て、愛嬌のある笑顔が見る者の心を和ませてくれました。歌舞伎の伝統を現代へそして未来へつなげる任を、歌舞伎を親しみやすいものへと普及活動、その場を世界へ広げ、新しいものへの挑戦、開拓と全力で取り組まれました。歌舞伎界にとっても日本にとっても大きな損失です。本当に残念ですが、中村勘三郎さんの志を二人の息子さんも受け継がれ、悲しみを乗り越え大きく羽ばたかれることと思います。

 この悲しみを静かに受けとめ、心よりお悔やみを申し上げたいと思います。

2012年12月5日水曜日

師走の選挙戦


 12月16日投票の衆議院選挙の選挙戦がスタートしました。投票日まで火花を散らす激戦が繰り広げられることでしょう。衆院選が12月に行われるのは29年ぶりとのことです。過去最多の多党乱立12の党で争われます。昨年3月の東日本大震災後、初めての本格的な国政選挙です。国民はよく考え見極め、大切な1票を投じねばなりません。

 先日の山梨県中央道笹子トンネル崩落事故は、国民を安心安全な暮らしの日本から、国に対して信頼できないという思いに突如落とし入れました。個人の所有するものに対しては、あくまで個人が責任をもって維持管理しますが、国の道路、橋、川、その他諸々に関しては、国が国民のために、国民の命を守るために、あらゆる手段、方策、対策を講じなければなりません。そのために国民は税金を払い、国を信じて国に任せているのです。

 イギリスの元首相サッチャー氏の伝説的な名言に「言って欲しいことは男性に頼みなさい、やって欲しいことは女性に頼みなさい」というのがあります。いよいよ女性の力を発揮する時が来たのではないでしょうか。日本で女性が参政権を獲得したのは、第二次世界大戦後1945年(昭和20年)12月で、翌年1946年(昭和21年)4月戦後初の衆議院選挙で日本初女性議員39名が誕生しました。国会議員に占める女性の割合は、2011年の比率ランキングで世界176ケ国中、日本は125位で11パーセントでした。先進国では最低レベルです。1位はアフリカのルワンダ(56パーセント)2位はヨーロッパの小国アンドラ(54パーセント)で、国会議員の半数以上が女性だということです。あらかじめ選挙時に女性に議席枠を配分するクォータ制を導入している国が多いヨーロッパ諸国は軒並み高い比率となっています。ランキング3位のスウェーデンは、閣僚のほぼ半数が女性です。世界を見渡せば、女性の大統領、首相が少しずつですが登場しています。

 今回の衆議院選挙では、女性党首が二人おられます。女性の飛躍を心から望み、いつの日か日本に女性の首相が出現することを願わずにはおれません。国民に奉仕する政治家を選びたいと思います。

2012年12月4日火曜日

京都へ(3)妙心寺


 法輪寺(だるま寺)から西へ30分ほど歩いて妙心寺へ辿り着きました。 妙心寺は臨済宗妙心寺派大本山で、全国にある臨済宗寺院約6000のうち約3500が妙心寺派だそうです。創建は1342年、創立者は花園天皇で離宮を禅寺に改めたのがはじまりとされています。初代住職は関山慧玄で、本尊は釈迦如来です。建造物は三門(1599年)勅使門(1610年)大方丈(1654年)法堂(1656年)仏殿(1827年)とのことで、広大な敷地に立派な古い建物があります。塔頭は48で山内塔頭が38境外塔頭が10あり、それぞれが立派で紅葉の素晴らしさを見せてくれました。塔頭には古い歴史があり、記憶にある人達にゆかりのあるものでした。団体の観光客もたくさん来られていて賑わっていました。

 


 
 
  

 下鴨神社からスタートし、法輪寺(達磨寺)妙心寺とあわただしく回りましたが、最高の季節の京都、最高の紅葉の京都に出会い大満足しました。

2012年12月3日月曜日

京都へ(2)法輪寺-だるま寺


 下鴨神社から御所を通り抜け、下立売通りをどんどん西へ歩きました。あまりによいお天気でふれあい街歩きをしたい衝動にかられ歩き出しました。

 御所の紅葉も素晴らしく、大木のイチョウが黄色一色になり、もみじも色とりどりに色づき、つい見とれてしまいました。




 
 通称達磨寺と呼ばれている法輪寺は、臨済宗妙心寺派に属し、1727年(享保12年)万海和尚が創立したとのことです。達磨堂には、諸願成就に奉納された達磨が八千余祀られています。いろんな達磨が所狭しと並んでいる様は、ほほえましい感じです。本堂の貴寧磨(キネマ)殿には、日本の映画関係者約400人が祀られているそうです。

 突然英語で「すみません、写真を撮ってもらえますか」と声をかけられて驚きましたが、シンガポールから来たカップルで、男性は夏のような半袖シャツ姿で寒くないと言っておられました。私はコートを着てマフラーをしていたので、服装の違いに少し驚きました。外国からの観光客も多いと知って、京都の古いお寺は、世界の人々に関心を持ってもらっているということを改めて感じました。




 
 達磨寺での短い時間でしたが、また次の目的地を目指して歩きました。

                              つづく

2012年12月2日日曜日

京都へ(1)下鴨神社


 先日京都の下鴨神社へ行ってきました。京都駅から北東へバスで30分ほどのところにあります。一週間前のブログに書いたのですが、鴨長明が「方丈記」を完成させてから800年が経ち、800年記念ということで書店にはいろんな「方丈記」が並び、テレビでもいろんな番組が製作され、昨年の東日本大震災、原発事故が起こって以降「方丈記」が注目されています。下鴨神社では「方丈記」800年記念事業として、コンサートや文化講座も開催されています。「方丈記」で盛り上がりを見せています。たくさんの人が訪れていました。


 紅葉真っ只中で、素晴らしい色とりどりの木々の中、少し歩くと鴨長明ゆかりの摂社河合神社があり、方丈庵が再現されていました。約3メートル四方の方丈庵は、とてもかわいらしい広さで、鴨長明は一人生活するのにちょうどよい広さと考えたようです。物質は剥ぎ落とされ、愛する和歌と琵琶・琴を友として、晩年を方丈庵で過ごした鴨長明の心の内は、どんなものだったのでしょう。遁世とは、世間をさけて仏門に入ることと辞書にありますが、人間は人との関わりの中で、生まれて、生きて、去る、のが自然の成り行きだと考えている私にとって、鴨長明の晩年は孤独なものだったと感じます。

 

 下鴨神社は世界遺産になっています。広大な糺の森は、町の中にありながら、ホタルも生息しており自然林の姿を残しています。毎年ニュースで取り上げられる、1月の「蹴鞠はじめ」や5月の「葵祭」は古都京都の雅びを全国に見せてくれます。本殿へ参拝してから次の目的地へ移動しました。
 
 
 
                             つづく

2012年12月1日土曜日

徒然に想ううた 俳句三句


 

紅葉の 今年も来たり パラダイス 

 

見渡せば 四方八方 色の原 

 

楷の木の 色づき見事 力わく



 

2012年11月30日金曜日

「母の背中」


あんなに大きかった母の背中が

今はこんなに小さくなりました

五人の子供を背負ったあの背中

母の歩いてきた長い道のり

石ころだらけの長い道のり

今日から私が母を背負います

 

私が小さかった頃

いつも子守唄を歌ってくれた母

きれいな声で 優しい声で

これからは 私が子守唄を歌います

お母さん 聞いてくださいね

 

私が小さかった頃

いつもお話を聞かせてくれた母

面白おかしく そして楽しく

これからは 私がお話を聞かせます

お母さん 聞いてくださいね

 

子供の時 いつも見上げた母の顔

私はどんどん大きくなった

私は母を追い越した

大きく育った私は

いつからか母を見下ろしている

 

子供の時 いつも私の手をつないでくれた母

今日から私が母の手をつないで歩きます

 

あんなに大きかった母の背中が

今はこんなに小さくなりました

五人の子供を背負ったあの背中

母の歩いてきた長い道のり

石ころだらけの長い道のり

今日から私が母を背負います

2012年11月29日木曜日

自分史


 今から10年前のことです。私が所属しているボランティア団体の代表をされている男性が、自分史についてよくお話しされていました。

 その方は、大手企業で300人近い部下を率いて先頭に立って働き、海外でも長年仕事一筋で活躍されてきました。60歳で無事に退職の日を迎え、夢に見ていた待望のサンデー毎日がスタートしました。大好きだったゴルフ三昧の贅沢な暮らしです。何の不自由も文句も無い日々が続きました。ところが1年もたたないうちに、心の中に隙間風が入ってくるようになり、人に勧められ自分史を書くことになったそうです。巻き物になっている障子紙を購入し、小筆で丁寧に自分史を書き始め、何とか現在地点迄筆をすすめました。そこまで自分史を書いて、60年の人生を振り返り、いかに自分が企業戦士として仕事人間で生きてきたかを、改めて思い知ったと言われます。その上でこれから先の人生を思った時、何をしてどのように日々を過ごしていくか、真剣に考えいろいろ迷ったそうです。自分史を書いてみて、なおいっそう将来、限られた自分の人生の先を見つめ、考えるきっかけになったとおっしゃいます。そこで辿り着いたのがボランティアの世界です。「他者のために何か自分にできることがある」その思いにつき動かされ、当時住まわれていた近畿地方から東京へ日帰りで、勉強に週一度1年間通われました。夜行バスで東京に早朝に着き、1日大学で講義を受けて、又夜行バスで帰られました。年金暮らしの身には、新幹線利用の交通費は高過ぎて、まして目的はボランティアということでなおさらです。そして資格を取り、ご夫婦でボランティアをこつこつ始められました。高齢者施設や病院のホスピスを訪問し、人の悩みや苦しみを聴く傾聴ボランティアです。施設や病院を自分の足で訪ね、傾聴させてもらえる場をどんどん開拓されていきました。私がその会に入った10年前で、すでに会員は30人ほどおられました。企業戦士、仕事一筋に生きてこられたこの方は、自分史を書いたことによって新しい生き方を見つけられたのです。

 今では自分史を書くノートや本が、たくさん書店に並べられています。自分史を書くことは、今迄の自分を見つめなおし、これから先の自分を考えるよい機会になるようです。「自分史を書く」という自分史の勧めをこの代表から教えてもらいました。

2012年11月28日水曜日

免許更新


 先日運転免許証の更新に行ってきました。今回の免許更新は多分9回目だと思います。何年前からか更新が5年毎になりましたが、それまでは3年毎でした。最近は更新の時に写真を用意していかなくても、あちらで撮ってくれるので楽になり、スムーズに手順よく流れ作業で進み、待ち時間も短くなったように思います。

 二人の子供は、18歳になってすぐ運転免許を取得しましたが、私は20代が終わろうとする頃に、一念発起して自動車学校へ通い始めました。子供が4歳と1歳の頃で、当時私の姉が車で20分ほどの所に住んでいたので、子供を預けて自動車学校へ通いました。仕事もしながらのことだったので大変でしたが、数ヶ月のことだから頑張ろうという思いで、何とか免許証を手にするまでやり抜きました。自分で車を運転することの素晴らしさ楽しさは最高です。機械のことは何もわからず、いじれませんが、それはプロにまかせて、ハンドルを握って車を走らせるだけのドライバーです。

 人間が歩く、走ることによって、自分の体を移動させるのには、限界があります。しかし車に乗って移動するのは、どこまででも行くことができます。まるで魔法のじゅうたんのようです。車は、私が大人になって手に入れた初めてのおもちゃです。暑い日も寒い日も何のその、雨が降ってもぬれません。雪が降る日は危険なので車に乗りません。車の運転は、気持ちを快適にしてくれます。車の運転に有頂天になって、横着になったりすると大変です。自分の命も人の命もかかっています。私は大げさですが、自分の命をかけてハンドルを握ります。

高齢者講習はこちらという案内がありました。何年か先には私も受けなければなりませんが、何歳ぐらいまで車を運転できるのでしょうか。父は88歳で亡くなりましたが、その2年前迄は、車を運転して買い物や病院通いは自分でしていました。ところがある日突然、スーパーへ車で買い物に行ったまま行方不明になり大騒動になったのです。数時間後に見知らぬ若者に車を運転してもらって、家の近く迄無事に帰ってきたので安堵しましたが、86歳は立派な高齢者です。スーパーの駐車場に車を停めて、お弁当を食べながら意識が薄らいだのか眠ってしまい、目覚めてからフラフラ運転していたのを、若者が発見して何か変だと思い声をかけてくれたので助かったのです。大事に至らなかったことは、本当に不幸中の幸いでした。父は老化による膝の痛みがあり、歩くのは少ししんどかったのですが、車を運転するおかげで行動範囲が広がっていました。車は父の足になっていたのです。前述の一件が起こってから、家族が車の運転をやめた方がよいと父を説得したのです。車の運転をやめてから、行動範囲は限られたものとなり、介護を受けての病院通いへと父の生活は一変しました。はつらつさや生き生きさが徐々に無くなり、淋しい表情の老人になりました。父にとっての車の運転は、自立の術の一つであり、生きがい、はりあいだったのだと、後になって気付きました。

 安全運転に心がけ無事故で、あと15年ぐらいは車の運転をしたいものだと、今の私は思っていますがどうなりますことやら。

2012年11月27日火曜日

徒然に想ううた 自由句三句


 

力あり 無党派層の 目と意識

 

 

マドンナの 姿無き党 しぼみゆく

 

 

選挙戦 何れの党に さくらさく

2012年11月26日月曜日

「セーター」


私の編んだセーター 届きましたか
いっしょうけんめい 編んだセーター 届きましたか

編んでは ほどいて
ほどいて 編んで
やっとやっと 編めたのですよ

生まれて初めて 編んだセーター
あなたのために
いっしょうけんめい 編んだセーター

私の編んだセーター 届きましたか
いっしょうけんめい 編んだセーター 届きましたか

いっしょうけんめい 編みすぎて
あなたには 小さいかもしれません

きゅうくつなセーターを着て
私の想いを感じてください

2012年11月25日日曜日

方丈記

 今から800年前に鴨長明が書いた「方丈記」が話題をよんでいます。今のこの時代を生きている人々の心の不安に何らかのヒントを与えてくれているのかもしれません。昨年の東日本大震災、原発問題、経済の不安定さなど、人々の心は迷える子羊のようです。こんな時、人々の心を救うのは信仰なのかもしれません。しかし現代の日本では無宗教の人が増えて、仏教さえ葬式仏教と揶揄されています。葬儀に始まり法事、お彼岸、お盆、お正月などのお墓参りは、日本人の生活の中に定着していますが、自分の心を救う信仰とは少し違っているように思います。
 鴨長明が言う「人間が生きることにおける無常さ」は、どんなに文明・科学が進歩発展しても無くなるものではありません。ずっとずっと昔の古代の人々も、今もそのことは普遍のものです。人間の命には限りがあるからです。しかし人間の寿命が、人生50年といわれていた時代に比べ、現代は医学医療技術の進歩により人生100年になっている分、無常を抱えて生きる年月が長くなっています。
 無常とは、すべてのものは、ほろびたり、うつり変わったりして、同じ状態ではないこと。はかないこと。と辞書に書かれています。この苦しみ、哀しみからほんの少しでも逃れる方法は、能動的に人生の無常を受け取ることだと思います。人の生きる道は無常で当たり前、苦しいこと悲しいことがあって当たり前、命には限りがあるということをいつも頭のどこかにおいて生きていれば、小さな喜びにも気づき、小さな幸せにも感謝する自分がいるということを発見するのではないでしょうか。

2012年11月24日土曜日

徒然に想ううた 短歌三首


空青く 都に集う 紅葉狩り

    神社仏閣 人の波満ち



逝く人の 背中を照らす 色映えて

     山野賑わせ 散るもみじ



侘び寂びの 境地になりし 紅葉は

      一人静かに 詩を詠みつつ

2012年11月23日金曜日

たそがれ族

 先日ラジオから懐かしい言葉が聞こえてきました。「たそがれ族」です。今から20数年前に流行った言葉と記憶していますが、仕事や子育てに追われる身には、あまり心に響かず聞き流していました。ところが今回この言葉を聞いて身につまされたように感じ、悲哀をともなって心の中にしみこんできました。
 「たそがれ」とは、日の盛りを過ぎた頃、夕暮れや夕方の薄暗くなってきた頃をさします。そこから人生の盛りを過ぎた年代をたとえて言うようにもなりました。団塊の世代に属する私は、まさに「たそがれ族」の仲間入りです。子供達が立派に社会人となり、老親も見送り、夫婦二人だけの静かな生活の中で、自分のしたいことに没頭できる喜びを謳歌している私に、この言葉は一瞬立ち止まらせ、少し考える時間を運んできました。人間の一生の盛りが過ぎた年代というのは事実です。やり遂げたという達成感とその反面少しの淋しさを感じているのも事実です。しかし人間誰もが歩む過程です。「たそがれ族」にどっぷり埋没し、過ぎ去った日々のことばかりに気をとられていたのでは、これから先の暮らしが思いやられます。最後のその時まで人生を楽しみたいものです。
 今、話題の人になっている某政治家は、80歳になられても「暴走老人大いに結構、私は暴走老人です」と豪語されています。「たそがれ族」の人達も、たそがれないで、暴走老人のパワーを持ち続けてほしいと思います。

2012年11月22日木曜日

私の出会った城下町 岡山城


 岡山城を訪れたのは、今回が2回目です。35年前、上の子の手をひき、身重の私は、予定日を2ヵ月後に控えた頃に、家族3人プラス1で車で岡山へドライブしました。その頃は近畿地方に住んでいたのですが、片道4時間の1泊2日の旅に出たのでした。35年という長い年月を経て今度は夫婦だけの日帰り旅行です。岡山駅から桃太郎電車に乗って岡山城へ向かいました。岡山城は別名烏城と呼ばれているように、お城を見上げると真っ黒で納得できます。小春日和の中、お城を巡り、日本三大名園の一つになっている後楽園も散策しました。ついつい子供が小さかった時の思い出に話が進み、顔を見合わせて笑ってしまいました。私の場合、子供は二人ともジャンボベイビーで4キログラムほどあったのですが、そんな大きなお腹を抱えて、何の心配もせず、大胆にも旅に出た若さの怖さを今更ながら感じています。
 
 

 岡山城は、1597年(慶長2年)宇喜田秀家により築城されました。主な城主は、宇喜田氏、小早川氏、池田氏です。一級河川旭川に守られるように建っています。何代にもわたり岡山藩主として岡山城を守り続けてきた池田家の現在の当主は、今年の7月に死去されたそうです。その夫人は、今の天皇陛下の姉君です。
 
 

 岡山は、長野と並び文化水準の高い歴史ある町です。お城の周辺には、県庁、県立図書館、美術館などの文化施設が集まっていました。

 帰りも桃太郎電車に乗り、お土産にきび団子を買って岡山をあとにしました。

2012年11月21日水曜日

徒然に想ううた 俳句三句


 

一列に 並ぶ銀杏の 色多彩

 

 

漆の葉 真っ赤に映える 一等賞

 

 

唐楓 色かわいくて 頬ゆるむ

2012年11月20日火曜日

徒然に想ううた 自由句三句


 

関が原 人にかつがれ 火の中へ

 

 

傘寿越え まだまだやる気 御輿乗る

 

 

党の名が 覚えられずに 投票へ

2012年11月19日月曜日

「ツバメの学校」 (3)

そんな練習をしばらく続けていたと思ったら、お父さんとお母さんは、電線まで飛んでいきました。そして子供たちに「さあ、今度はここまで飛んでおいで」と言っています。あいちゃんは、子供たちがどうするのかと興味しんしんです。すると、五羽の中の一羽が、お父さんとお母さんのいる電線まで飛んだのです。それを見ていた他の子供たちが、順番にあとを追って電線まで飛びました。五羽の子供たちの性格は、それぞれ違うということを知って、あいちゃんは、思わずニヤニヤしてしまいました。「一番に飛ぶ子は、元気で勇気があるんだな。お兄ちゃんかな、お姉ちゃんかな。最後に飛ぶ子は、末っ子で甘えん坊なんだ。まるで私みたい」と、思ったのです。

 五羽の子供たちが電線に並びました。お父さんとお母さんは、次のステップへと子供たちを誘います。もう少し遠い電線まで飛ぶ練習です。お父さんとお母さんは「ツバメの学校」の先生です。少しずつ飛ぶ距離を伸ばして、子供たちに勇気と自信を教えています。   
今日は日曜日なので、あいちゃんのお父さんもいます。あいちゃんのお父さんお母さん、お兄ちゃんお姉ちゃん、そしてコロも、家族みんなで「ツバメの学校」を見ています。素晴らしい「ツバメの学校」を見て、感動しています。

 五羽の子供たちは「ツバメの学校」の先生の上手な指導で、うまく飛べるようになりました。あいちゃんの家の周りで、あっちへ、こっちへ、飛ぶ練習をして、どんどん遠くへ飛んでいきました。そして、それからは、もう巣へ帰ってこなくなったのです。
 ヒナたちの巣立ちは嬉しいことです。でもツバメ一家の姿が見えなくなって、あいちゃんは、とても淋しくなりました。

「ツバメさん 来年もここへ飛んできてね」
                              あいちゃんは願っています。

       おわり

2012年11月18日日曜日

「ツバメの学校」 (2)

 卵からヒナがかえりました。ツバメの赤ちゃんが五羽誕生しました。あいちゃんのお家の玄関ポーチがにぎやかになりました。フンもするので巣の下に新聞紙を敷きました。お父さんツバメとお母さんツバメは、代わり番こに出かけます。お父さんとお母さんは、エサを取りに行っては巣に戻り、子供たちにエサを食べさせます。お父さんとお母さんが、エサを運んでくると、子供たちは黄色い口を開けて「エサちょうだい、今度は私の番よ」とにぎやかに鳴き立てます。時々、あいちゃんは、ツバメの巣を下から静かに見て観察しました。するとヒナでもフンをする時は、おしりを巣の外に向けてするのです。「何てかしこいのかしら」あいちゃんは、感心しました。
 コロが人間のお客さんに、うるさく鳴いても、ツバメの一家は平気の平左です。ヒナたちの合唱とコロの鳴き声で、あいちゃんの家の玄関ポーチは、いちだんとにぎやかです。

 あいちゃんが、ツバメの巣を下から見上げると、今まで見えなかったヒナたちの顔が見えるようになりました。ヒナたちは、ずいぶん大きく育ったようです。梅雨に入り、毎日雨がしとしと降っています。雨の合間にヒナたちが巣から出始めました。初めの一歩は巣から庭へ降りることです。五羽のヒナたちが、順番に巣から庭へ降り、短い距離を飛んだのです。お父さんツバメとお母さんツバメは、近くで見守っています。
                              つづく

2012年11月17日土曜日

「ツバメの学校」 (1)

 あいちゃんのお家はニュータウンにあります。新しいお家へ引っ越してすぐのことです。玄関ポーチの軒の下に、お客さんが来るようになりました。二羽のツバメです。二羽のツバメは新婚さんです。一生けんめい巣作りが始まりました。まずは家作りです。どろを運んできます。小さな口ばしで器用に軒の下へくっつけていきます。あっという間にお家ができました。今度はベッド作りです。枯草をたくさん運んで、フワフワベッドのできあがりです。

 お母さんツバメが巣にこもり始めました。卵の誕生です。この日からお母さんとお父さんが、交代で卵を温めます。お父さんが卵を温めている時に、お母さんはエサを食べに飛んでいきます。本当に仲睦まじく、力を合わせての子育てです。あいちゃんのお家には、柴犬のコロがいます。コロの家は玄関の横にあります。門番が仕事です。お母さんツバメが卵を産んでしばらくたった頃、コロの異様な鳴き声に驚いて、家にいたあいちゃんとお父さんとお母さんが玄関へ駆けつけると、ヘビがツバメの巣へ近づこうとしていました。ツバメの卵をねらっていたのです。お父さんが、ヘビを遠くへ追いやり、危機一髪を脱するという事件が起こり、コロのお手柄となったのでした。
                            つづく

2012年11月16日金曜日

紅葉


 今、日本列島は最高の美しさで、人々を楽しませています。自然の力が織り成す素晴らしい紅葉は、同じものは二つとない美しさです。桜並木、いちょう並木、けやき通り、とうかえで通り、そしてもみじにうるし、その美しさにうっとりします。

 高速道路を走っていると、地味な色合いの中に、ひときわ目立つ赤のうるしが目をひきます。こんなにうるしの木々があったのかと驚くほどです。子供の頃、うるしの木には近寄らないようにといつも親から注意されていましたが、ふとした拍子にふれたのか、兄や姉がうるしにかぶれたことを覚えています。そんなうるしの木が紅葉のこの季節には、まるで自己主張しているかのように、真っ赤な色になります。とても愛らしい赤です。とうかえでの紅葉も色とりどりですが、真っ赤に色づくのもかわいい風情です。

 

 家の近くに楷の木があります。紅葉は今が見頃です。最高の美しさです。楷の木を見ると、何年か前に訪れた岡山県備前市の旧閑谷学校を思い出します。閑谷学校は、岡山藩主池田光政が庶民の教育のために1670年に建てた学校で、特別史跡になっています。そこに中国山東省の孔子廟から種を持ち帰り植えたという楷の木が二本あり、今は大木になっています。この楷の木の紅葉は素晴らしく秋の観光スポットになっています。紅葉を見て感動し、歴史に思いを馳せた場所です。
 
楷の木