2012年8月31日金曜日

夏季休暇


 いよいよ八月も今日で終わります。日本ではほとんどの学校で、9月1日から二学期がスタートしますが、今年は土曜日と重なるので、二日遅れて3日から始まります。
 夏休みが始まる前は、40日もの長い休みという感覚で夏休みを迎えますが、夏休みに突入したとたん、あれよあれよというまに日が過ぎてしまいます。大人たちは、お盆休みが長い人で十日間ほどありますが、旅行、レジャー、里帰りにと、スケジュールはいっぱいです。そしてお盆が過ぎると、夏休みも終盤を迎えます。
 ヨーロッパでは社会人の夏季休暇が、30日ほどあると聞きましたが、休みが30日もあると、どのように過ごせばよいのか戸惑いそうです。旅行するにも長期にわたると、経済的負担が大きくなって実行できそうにもありません。そして肝心な仕事も、心身が休みボケを起こして、平常に戻るまで時間がかかりそうです。でも、30日も休暇が取れることは夢のようです。
 欧米では、9月から新学期が始まります。多少のずれはあると思いますが、年度が9月から6月半ばまでです。日本の年度は、桜が咲く4月から始まり、3月末までです。それに慣れているので、9月から新学期がスタートするということに対し、違和感があります。9月に始まって、6月になったら、1学年が終わるので、学校へ通う1年が非常に短く感じられます。また欧米では、夏季休暇以外にも、いろんな名目の休日があるようで、一年間を通しての休みは、日本に比べると多いようです。
 それぞれの国の国民性、民族性によるのかもわかりませんが、日本も少しずつ欧米スタイルに近づきつつあるのかもしれません。

2012年8月30日木曜日

旅の途中で詠んだうた(4)東北


 二十五年前の夏、東京から東北地方へ家族で旅行した時に、いくつかの俳句を作ったものです。

              

   弘前の ねぷた祭りに 知識増え

 

 

   七夕の 飾りにぎやか 皆願う

 

 

   満月の 光をともに 旅の帰途

2012年8月29日水曜日

「虹」


ふと見上げると 虹がかかっている

バタバタと生活に追われ 気づかなかった

大空に大きな虹だ

ゆっくりと虹を見るのは 久しぶりだ

 

七つの色が ハッキリ見える

赤、だいだい、黄、緑、青、あい、紫

胸がどんどんふくらんでいく

虹は 私に 夢をくれる

虹は 私に 希望をくれる

思わず「オーバー・ザ・レインボー」を口ずさんだ

 

子供の時 虹を見つけるのが早かった私

友達に 兄や姉に 父 母に

大声で 知らせたものだ

「みんな!! 虹だよ!!」

 

小さい時から 虹が大好きだった私

空の宝物だった

たまにしか見れない虹

虹を見つけた時 有頂天になった私

 

虹のトンネルをくぐった

どこまでも続く虹のトンネル

手を伸ばせば届きそうな虹

虹の橋を渡りたい

 

虹がどこからどこまで続いているのか 知りたくなった私

手が届きそうで届かない

近づいても近づいても 虹は空の向こう

また「オーバー・ザ・レインボー」を口ずさんだ

虹の彼方に 思いを馳せて
 
 
  東京の高層ビルにかかった虹(産経新聞2012年8月28日)

2012年8月28日火曜日

徒然に想ううた 短歌三首


 

我が心 君の笑顔に 会うまでは

 

    首うなだれし 咲く百合の花

 

 

青空の 虹の彼方に 見る夢は

 

    国境こえて 咲くさくらかな

 

 

今いずこ 近き遠きは 気持ちのみ

 

    メール飛び交う 地球の裏へ

2012年8月27日月曜日

旅の魅力 北海道


 私は、旅に出るのが大好きです。日常から解き放され、未知との遭遇に胸は高鳴り、ワクワク、ドキドキする時間は最高です。

 たくさんのアルバムに、今迄に出かけた旅の記録が残っています。二十歳を超えてから、旅をするようになった私は、友達との旅は、近い所から始まりました。二十二歳の時、夏に初めて北海道へ行きました。男女二人ずつの計四人で、近畿地方から車で出発しました。ポアロ(夫)の友人と私の友人を誘っての、スリルあふれる旅行です。二人の男性は、大学の自動車部に所属していて、運転の腕は磨いています。私の兄も彼らと同様、自動車部に入っていたので、両親は安心したのか、反対せずに見送ってくれました。

 車は中部地方、関東地方を通り抜け、栃木県の那須で、一泊目を迎えました。ポアロ(夫)の友人のお父さんが所有する別荘に泊めてもらうことができ、感謝感激でした。次の日は、東北地方を一直線に走り抜け、青函連絡船で、北海道に上陸しました。初めての北海道、気持ちよい気候、はるばる遠くへ来たものだと感動しました。そのあと北海道内を五泊六日で回りました。学生の旅なので、ぜいたくはできません。若者らしい、気持ちのよい旅となりました。帰りは、青森と秋田で宿をとり、日本海回りで帰途に着きました。

 今から四十一年前のことです。走った高速道路は、東名だけです。名神と東名はできていましたが、他の高速道路はありません。北海道では、舗装されていない地道を走りました。青春時代の懐かしい思い出です。一緒に北海道旅行したポアロ(夫)の友人は、四十五歳で病気で亡くなり、アルバムに残っている優しい温厚な人柄の彼の笑顔が、忘れられません。
 
 人生は旅、旅の途中で旅に出る。夢は世界一周へと広がります。      

2012年8月26日日曜日

夏の終わりに


 処暑(しょしょ、暑さが峠を越えて後退し始めるころ)が過ぎても、まだまだ厳しい暑さが続いている日々ですが、どことなく秋の気配を感じるのは、気持ちのせいでしょうか。

 夏休みも残り少なくなって、子供たちは、宿題の仕上げに忙しい頃かもわかりません。海辺も少しずつ静けさを取り戻しています。ギラギラ輝く太陽と海辺のにぎわいが、真夏に似合います。学校が静まりかえり、近隣のプールからは、子供たちの元気な声が聞こえていましたが、そのにぎやかさも遠のいていきました。にぎやかだったセミたちの合唱も静かになり、蜩(ひぐらし)のカナカナと鳴く声や、ツクツクボウシの鳴き声が、夏から秋へと季節の移りを知らせています。

 毎年のことですが、夏の終わりが近づくころには、気持ちが秋を迎える準備に入ります。心に淋しさを感じ、なおいっそう深く思考し、秋生まれの私は、愛を語るハイネのようになります。「四季の歌」に出てくる歌詞のとおりです。

 古代中国では、人生を青春・朱夏・白秋・玄冬の四つの季節にたとえたといいます。

青春(青い春)は、未熟な世代で、家庭と社会に守り育てられる時代。

朱夏(赤い夏)は、真っ赤に燃える世代で、家族と社会のために一生懸命働く時代。

白秋(白い秋)は、自分のための世代で、今迄に得たものすべて(お金、経験、知恵)や時間を自分のために使う時代。

玄冬(黒い冬)は、再び人の助けを必要とする世代で、体の自由が利かなくなり、終末への準備をする時代。

今、私は、まさに白秋の時代を過ごしているように思います。            

2012年8月25日土曜日

旅の途中で詠んだうた(3)東北


 二十五年前の夏、東京から東北地方へ、家族で旅行した時に、いくつかの俳句を作ったものです。

 
 

東北に 芭蕉をまねて 一句詠む

 
 

竿灯の 祭りのさなか 雷雨あり

 
 

お目文字の ねぶた祭りが ドンと来る

2012年8月24日金曜日

先進国FRANCE? つづき


 将来何が起こるか、それは誰にもわかりません。天、神、仏が知るだけです。そんなことを心配するのは無駄だと思います。今を一生懸命生きたいと思います。

 フランスの結婚・離婚の法手続きが非常に厄介という理由で非婚を選ぶというのは、あまりにも単純で、人生最大の事業「結婚」を軽く見ているような気がしてなりません。また、いろんな法的保護や特典、リスクを比較し、計算し、少しでも楽な安全な道はどれか、など打算まで見えてきます。

 フランスの女性の精神的・経済的自立が進んで、このことも非婚の理由にあげられていましたが、このことは、結婚・非婚の選択に関係ないのではないでしょうか。精神的・経済的に自立した二人の男女が、人生の伴侶として縁あって夫婦となり親となるのは最高だと思います。根底には助け合いの精神があるので、何が起ころうと、乗り越えられると確信しています。

 日本でも15年ぐらい前から、事実婚のカップルが、存在するようになりました。社会的には結婚した夫婦と見られ、式も披露宴も執り行いますが、婚姻届は出していません。新しいことばで事実婚と言いますが、結局のところ昔から使われてきたことば内縁関係です。私の周りに事実婚カップルが三組もいます。女性は、しっかりした職業を持ち、男女平等の教育を受け、学歴も収入も対等で、子供を持たないカップルです。女性達の考え方は、日本では進歩派に属すると思います。誇りを持ち、精神的・経済的に自立し、夫という男性とは対等であると自負しています。団塊世代の私から見れば、女性としてもう少し優しく大らかな目もあった方がよいのではないかと心配しますが「甘やかすと増長し規律が崩れていく」と言い、初心を貫いています。

 団塊世代の結婚観は、ニューファミリーと呼ばれた友達夫婦です。家族はいつも一緒で、キャンプに行ったり、旅行、ショッピング、レジャーなど、家族一緒に行動していました。戦後の男女平等の教育を受け、学歴も対等ですが、心の隅に「夫の一歩後に立つ」といった気持ちがあるのは事実です。それは古い意識の両親の元で、育てられたからかもしれません。

 いつかのブログに書いたことですが、結婚は、愛情・信頼・尊敬・責任の四本柱の家屋みたいなものです。二人の力を合わせて、一生かけて、築いていくものだと思います。

 人生の節目節目における選択は、本人の自由です。誰の強制も受けません。しかしながら、スイミーのように「考えた、いろいろ考えた、うんと考えた」その結果選択した道を歩んでいけばよいと思います。私の考えは、あくまでも個人的なものです。あしからず。

2012年8月23日木曜日

先進国FRANCE?


 フランス在住の日本人女性から、聞いた話です。現代のフランスでは、恋愛をしてもそう簡単には、結婚しないそうです。婚姻届を出さずに共同生活をしているカップルがたくさんいるそうで、若い世代では多数派になりつつあるとのことです。初婚カップルの90パーセント以上が、結婚前に共同生活を始めています。フランスで生まれた赤ちゃんの43,7パーセントが婚外子です。(2002年)日本で婚外子というと、正規の婚姻届を出していないカップルの間にできた子という暗いイメージがありますが、フランスではそうではありません。夫婦を名乗っていても、実際は非婚というカップルが増えています。結婚か非婚か、正しくは知りませんが、フランスの現大統領も前大統領も、ひっついたり離れたりと、シルバー世代でさえ、男女関係において安定しないお国柄というイメージを持ってしまいます。

 フランスで結婚の制度を選ばない人が増えている理由として、両親からの若者の自立、女性の精神的・経済的自立が進んで、結婚の制度に頼らなくてもよくなったことと、結婚・離婚の法手続きの厄介さがあげられます。

 フランスでのカップルの生活の形態が三つあります。

  結婚・・・民法の制度で税法など他の法制度にも一貫したかたちで関わってきます。

  ユニオン・リーブル・・・「自由な結合」という意味で、法律上は内縁です。民法上それぞれ独身ですが、現実の生活上において、保護や特典があります。結婚と同じくパートナーの社会保険の受給権者になれるので、疾病保険、出産保険、パートナー死亡時の一時金などが給付されますが、遺族年金はなく、遺言によって相続しても、結婚よりうんと高い相続税がかかります。結婚よりはるかに自由で、解消は簡単です。

  パクス(Pacs)・・・1999年公布の法「連帯の民事契約」Pacte civile de solidariteの略です。きっかけは、同性カップルの法的承認が目的で作られましたが、同性、異性どちらのカップルでも利用できます。居住地区の裁判所で契約を結べば、台帳に登録され、証明書がもらえます。被扶養パートナーは、保険の受給権者であり、パートナー死亡時の一時金はもらえますが、遺族年金はもらえません。負債は結婚と同様連帯責任で、相続税は結婚より重くユニオン・リーブルより軽く、結婚とユニオン・リーブルの中間のようなものです。

結婚は「祝福」、ユニオン・リーブルは「少々無関心」、パクスは「許可」というような感じです。すでにユニオン・リーブルが「結婚を前提とした同棲」でない時代に入っていて、「脱結婚化時代」になっていると指摘されています。

 日本とフランスでは、社会に対する考え方に大きなちがいがあります。日本では、戸籍制度に代表されるように、家庭が社会の基礎単位とされ、フランスでは、個人が社会の基礎単位で、個人登録簿が戸籍のかわりになっています。

  フランスの離婚率は高く、パクス法ができて三年間の合計で、パクスの解消率は7,8パーセントと低く、離婚率は約38パーセントなので、それに比べるとずっと少ないようです。               

 棚沢直子著「現代のフランス人たちはなぜ結婚しないのか」より

 

 フランスでのカップルの三つの生活形態を知りましたが、それでもいろんな疑問が残ります。恋愛した二人が、お互いを人生のパートナーとして生きていこうと決めた時、何の迷いもなく結婚し家庭を築き、子供を産み育てるという人生最大の事業に、挑もうという熱い大きな情熱を持ってスタートするものだと、私は思っていました。

                         つづく

2012年8月22日水曜日

旅の途中で詠んだうた(つづき)


 二十五年前の夏、東京から東北地方へ、家族で旅行した時に、いくつかの俳句を作ったので、その中から三句選びました。



夏祭り 喜多方の月 ほほえんで



暑き日に 芭蕉たずねて 松島へ



金色の むかしの光 今もなお

2012年8月21日火曜日

「都会暮らしの君へ」


何年ぶりかの 君からの便り ありがとう



ここには 今も 澄みきった青空

昔と変わらぬ川の流れ

飛びかう蛍のむれ

手が届きそうな満天の星

秋の夜長を楽しませてくれる虫達の声 があります

これらの全てを

都会暮らしの君に 送りたいと思います



クラスの友も 皆 田舎を離れて行きました

君の初恋のあの人も 隣の町へ嫁いで行きました

淋しくなったものです

今では 私の子供達が 野山をかけ回っています  

にぎやかだった学び舎も

今は廃校となり 淋しそうです



こんどの夏は クラスの仲間を集め

あの頃にもどり

ひとときを 過ごそうではありませんか

2012年8月20日月曜日

徒然に想ううた 短歌三首




里帰り 日本列島 嵐去り


    静けさ戻り またうたを詠む





夏燃えて オリンピックの 中継に
 

    金銀銅で 一喜一憂





甲子園 熾烈な試合 若人の 


    汗と涙に 平和を願う

2012年8月19日日曜日

旅の途中で詠んだうた

 毎日暑い日が続いています。お盆が終わっても、まだまだ厳しい暑さが続きそうです。二十五年前、夏の暑さの中にもカラッとした暑さを体験しました。初めて訪れた東北地方への旅で、夏の暑さにも違いがあることを知りました。気温が高くても湿度が低いので、蒸し暑さがありません。私にとって、中部地方、近畿地方、中国地方と、少しの間の関東地方が、馴染みのある地域です。二十五年前の夏、東京から東北地方へ家族で旅行しました。福島県、山形県、秋田県、青森県、岩手県、宮城県を、ぐるっと回りました。九人乗りのワンボックスカーで、旅をしました。せっかくだからと、各地の夏祭りを見れるような日程を組んで回りました。六泊七日の旅でした。アルバムを開ければ、懐かしい当時の様子がよみがえります。そして旅の途中で詠んだうたも残していました。

象潟や 芭蕉たずねて 雨の中

弘前の 古城の中に 秋の風

見上げれば 朝もやの中 中尊寺

2012年8月18日土曜日

思い出の中の匂い

 誰にも思い出の中の匂いがあると思いますが、私は、蚊取り線香の匂いが、実家に結びつく匂いの一つです。昔は蚊取り線香だけしかありませんでしたが、昭和50年頃から電子蚊取り器も登場し、蚊取り線香は、昔懐かしいものになっていきました。今となっては、網戸も普及し、蚊取り線香を使う家は、田舎の網戸も入っていない窓を開け放す家ぐらいだと思います。私は、今でも夕涼みする時は、蚊取り線香をそばにおいて、夏の夜のひとときを過ごします。
 二つ目の思い出の中の匂いは、線香の匂いで、いつも実家の仏壇から座敷中にただよっていたものです。線香も厳密に言えば、香の材料となるものが多種多様ありますが、父は長年白檀のものを好んで使っていました。全国各地にある有名なお寺へは、観光でよく寄りますが、靴を脱ぎ、本堂へ足を一歩踏み入れた時には、懐かしい線香の匂いで、ホッとし、心の故郷へ帰ったような気がします。
 三つ目の思い出の中の匂いは、実家の母の和箪笥に入れてある匂い袋から、にじみ出ているお香のいい匂いです。旅行のお土産に、子供達に匂い袋を買ってきてくれたりして、子供達も、小さい時からお香の匂いが大好きになりました。
 振り返ってみれば、私の思い出の中の匂いは、みな実家に結びつくものばかりです。子供達は、蚊取り線香の匂いは、小さい時から「おじいちゃん、おばあちゃんの家の匂い」と、言っていました。実家を離れて四十年近くなりますが、子供達の実家となる、我が家の思い出の中の匂いは、何なのか、あるのかないのか、子供達がどう言うのか楽しみです。

2012年8月17日金曜日

知る・学ぶ・気づく


 小学校教諭をしている知人女性から聞いた話です。現在小学校3年生の社会科の授業で「地域の発展に尽くした人々」という勉強をするそうです。日本の歴史に登場する有名な人物については、6年生の社会科で勉強しますが、3年生では、自分の住んでいる地域に注目し、それぞれの地域別に取り上げた人物について学ぶそうです。
 私は、夫の転勤で、あちこち転居しましたが、それぞれの地域には特性があります。気候、場所から生まれる産業、特産物、人への影響(生まれてから成長する間に受ける影響など)様々な特性があると思います。私の二人の子供が小学校3年生の時は、住んでいる地域の産業について勉強したと記憶していますが、現在は人物を取り上げているそうです。
 大人でもなかなか知らない「地域の発展に尽くした人々」です。先日山陰の旅で書いた、鳥取県安来市の和鋼博物館、島根県大田市の石見銀山など、旅をして知り・学び・気づかされたことがたくさんありました。史跡、遺跡には、たくさんの人々の生きた証が残されています。そして先人達の苦労が実り、今へと続いているのです。先人達のおかげで今があるのです。人から人へ、脈々と歴史は流れていきます。
 小学校3年生の子供達に負けないよう、私もそれぞれの「地域の発展に尽くした人々」に関心を持って、知る・学ぶ・気づくの旅を続けたいと思います。

2012年8月16日木曜日

お盆に


 今日は8月16日、京都では五山送り火が行われます。昔から、お盆には亡き人達の霊が戻ってくると言われ、16日の夜には帰っていくので、五山送り火で見送るのです。お盆の行事は、先祖の霊(祖霊)を迎えて供養するものです。祖霊は、家の守り神のような性格を持ち、盆の期間中に子孫に迎えられ、もてなされることで、その家に平和をもたらすといわれます。全国各地で、いろんな形でお盆の迎えや送りがされています。ある地域では、キュウリやナスに割り箸で足をつけて、馬や牛のように仕立てます。家へ戻ってくる時は、馬(キュウリ)に乗って早く、帰っていく時は、牛(ナス)に乗ってゆっくりと、そんな思いからのようです。霊がこちらへ戻ってくる時に道に迷わないように「あなたの戻る家はここですよ」と、それぞれの家の玄関で火を燃やし迎え火で迎えます。また霊が帰っていく時には、送り火で見送ります。それぞれの土地、地域に、昔から伝えられてきた風習があり、興味深いものがあります。新盆(にいぼん、人が亡くなって最初に迎えるお盆)に関しては、派手な飾りつけをするなど、その地域独特のやり方があるようです。
 この夏は、田舎で二週間ほど過ごしていますが、郊外を車で走っていて、素晴らしい景色を見ました。お盆を迎える頃に、タイミングよくたくさんの蓮の花が、見事な花を咲かせているのです。薄いピンク色の大きな花が、100本近く咲いています。とても美しく、私は目を奪われ、しばらく佇んで蓮の花に見とれてしまいました。まさに、お盆に戻ってくる多くの霊を迎えるために、咲いているかのようです。各地に蓮の名所もたくさんあると思いますが、自分の故郷に、自分の身近に、こんな風景が広がっていたとは、本当に嬉しい驚きです。大きな発見です。今年の夏の大きな収穫です。田舎での夏の楽しみが増えました。




2012年8月15日水曜日

「夏休み」


遠い記憶の中の夏休み
四十日もの長い夏休み
学校から解放されて
遊びに遊んだ夏休み
暑さなんか何のその
「前から見ても後ろから見ても、日焼けして真っ黒だね」
と言われたわんぱく少女
夏休みが残り少なくなると
あわてて宿題にとりかかる
俄か仕立ての作品の数々
懐かしい子供時代の夏休み

遠い記憶の中の夏休み
子供引き連れ帰省する
待ちに待った夏休み
親から子へと変身できる
甘えん坊の夏休み

子供が育ち
親が旅立ち
淋しくなった夏休み
それでも私を待ってくれている
故郷の山や川
自然の中の虫や鳥
私を優しく包んでくれる空や風
私を慰め励ましてくれる故郷

お盆です
父、母に会いにお墓参りに行ってきます

2012年8月14日火曜日

猛暑 つづき


 庭にいたカエルのために、小さなお池を作った次の日のことです。お池に2匹の小さなトノサマガエルがいるのを、発見しました。彼女がいたようです。この猛暑の中、ホッと一息つける憩いの場を得たようです。小さな池なので、この暑さでは水の温度もすぐ上がってしまいます。強い日射しから守る対策として、植物を植えている鉢で、陰を作ってありますが、水はしょっちゅう補給しないといけません。2匹のトノサマガエルに命名することにしました。ピョンタとピッコロに決まりました。
 以前二匹の愛犬がいたのですが、すでに旅立ち、現在は愛玩動物としては何もいません。もちろん人間の孫もいません。周りの人達は、ほとんどの人達に孫がいます。まるでペットのように孫と接しています。確かに孫も小さい時は、ペットのようなものかもしれません。おじいさんおばあさんを、楽しませてくれる存在かもしれません。おじいさんおばあさんの癒やしや生きがいになっているのかもしれません。
 私達は、しばらくピョンタとピッコロが、そんな存在になってくれそうです。毎日ピョンタとピッコロに、目を向け、ケアをして、気がかりな存在になることまちがいありません。


こちらがピッコロです(背中の筋がまっすぐ)


手前がピョンタ(4cm)、向こうが小さなピッコロ(3cm)です


2012年8月13日月曜日

猛暑


 今年の夏は、35度以上の猛暑日が長く続いていますが、地球の悲鳴が聞こえてきそうな、大地からのうだるような熱を感じます。人間もこの暑さに閉口し、どこか涼しいところへ避難したいと思うほどの毎日です。でもそれは限られた人達にしかできません。どんなに暑くても寒くても、誰もがその土地に縁あって生きているのです。
 旅行した時に思うことですが、日本のどこへ行っても、どんな山奥でも、そこで生活している人達がいます。こんな不便な所で何故生活し続けるのかと思うほどの僻地でも、生活している人達がいます。徐々に過疎化が進み、限界集落と呼ばれる地域も出てきていますが、人間は「住めば都」と昔から言われてきたように、土地との縁、先祖からの流れで、どんな所にでも住めるようになっているのだと思います。
 我が家も、どこか涼しい所へ避暑に行きたいものだと、願望を持ちながら、それは所詮夢の話なので、一室だけゆるく冷房をかけ、避難所にしています。家中全館冷房するなど、この節電の時にできません。避難所があるというだけで、どんなに汗をかいても、涼しい部屋へ入るとホッとして、また活動できます。
 この暑さには、自然界の生き物たちも、人間同様に悪戦苦闘していることと思います。庭に小さなカエル(体長4センチほどのトノサマガエル)がいるのに、気づいたうちのポアロ(夫)が、小さなお池を作りました。するとそのすぐあとから、カエルがお池に入って遊んでいるのです。小さなお池は、直径約20センチのかわいいものです。カラスの襲撃から守る為の対策や、あまりにも強い日射しから守る為の対策も施しました。ささいなことですが、人間と他の生き物とのふれあいを感じて、ほほえましく、カエルの水浴び、水遊びを眺め、暑い夏の日のひとときを過ごしました。
 カエルの水浴び、水遊びの写真が撮れたので見て下さい。






2012年8月12日日曜日

守護神


 守護神の存在に気づいたことがありますか。目には見えませんが、不思議な力をもっているもので、その何かにいつも守られているような、その何かの気配を感じることがあります。そんな話をすると、家族は大笑いします。もちろん友達にも誰にも話していません。この何かを感じるということは、主観的な感覚なので、誰にでも共通しているものではありません。
 思い起こせば「ああ、あの時は危なかった、本当に危なかった。よくもまあ大事に至らず無事だったことだ」というようなことが、何回かあります。そういう時、私の守護神が守ってくれたのだと思います。そして感謝します。
 家族の健康、無事を願う時、私が家族の守護神になります。そういう想いは必ず通じるものです。家族が、守護神の存在を感じているかどうかは知りませんが。
 願うと感謝は、表裏です。願うばかりではいけません。感謝の気持ちを持たねばなりません。人間は、高慢、傲慢になると、感謝の気持ちを忘れてしまいます。
 謙虚な姿勢で、感謝の気持ちを持って生きていれば、誰にも、守護神がそばにいてくれると思います。

2012年8月11日土曜日

徒然に想ううた 短歌三首


すくすくと 育つ命は のびやかに

      皆の愛受け 天使のごとく



うだうだと 時を過ごすも 再生の

      新たなパワー 泉のごとし



時移り 隣に住むは どんな人

    ころころ替わり とんとわからず

2012年8月10日金曜日

かくれんぼ


 誰もが子供の時に遊んだかくれんぼ。「かくれんぼ」と聞いただけで、子供の時の故郷の風景、一緒に遊んだ友達の顔が思い出され、郷愁の響きがあります。
 岡山県出身の小説家・随筆家内田百閒(うちだひゃっけん)1889(明治22年)~1971(昭和46年)の人生を描いた黒沢明監督最後の映画「まあだだよ」(1993年)は、彼の晩年の教え子たちとの交流を題材にしたものです。内田百閒は、夏目漱石の門下生です。岡山県岡山市の老舗造り酒屋の一人息子で、東大へ進学し、教鞭をとりながら文筆活動をします。彼の人となりがユニークで、面白い人物です。岡山県岡山市に百間川(ひゃっけんがわ)があり、そこから筆名をとったそうです。百閒の誕生日を祝い、教え子らが、還暦の翌年から「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生パーティーを開いてくれました。これは、「還暦はもう祝ってさしあげた。それなのにまだお元気なのですか」という「まあだかい」に由来するということです。百閒一流のユーモアと諧謔(かいぎゃく、気のきいた、おもしろい冗談)を垣間見ることができるとの評を得ています。
 映画「まあだだよ」を見た時、思い出したことがあります。姉が四十五歳で亡くなった時、その日の夜、かけつけて下さった遠縁の高齢の女性が、しみじみと「死ぬって、かくれんぼのようだね」と、おっしゃったのです。その言葉は、ずっと心の奥に記憶され、二十四年の歳月が過ぎました。この二十四年の歳月には、当たり前のことですが、人間の生死が繰り広げられてきました。自分の身近な人達が、旅立つ度に「死ぬって、かくれんぼのようだね」高齢の女性が言ったこの言葉が頭をよぎりました。子供の時に遊んだ「かくれんぼ」は、「もういいかい、まあだだよ」「もういいかい、もういいよ」と呼び合い、遊びが終われば、元の元気な姿を見せますが、「かくれんぼ」のように、旅立った人達は、残念ながら元の元気な姿は見せてくれません。夢の中で、元の元気な姿と再会するだけです。年齢を重ねれば重ねるほど、「かくれんぼ」が、大きな深い意味をもって私に迫ってきます。
 映画のラストシーンは「まーあだかい」「まあだだよ」が繰り返されて、「もういいよ」で終わります。

2012年8月9日木曜日

田舎の夏


 今年の夏は、珍しく二週間も田舎で過ごします。田舎の朝は、とても早く、そしてにぎやかに始まります。5時半頃から、セミたちの合唱が始まります。窓を閉めきった部屋の中まで、その大合唱は聞こえます。セミたちの短い一生を思うと、うるさいほどの鳴き声にも、腹を立てることなく、逆にしみじみ聞き入ってしまいます。
 庭にはいろんな生き物がいます。たくさんのコオロギの赤ちゃんたち、殿様ガエルに雨ガエル、小さなトカゲ、トンボ、糸トンボ、赤とんぼ、ちょうちょうも飛んできます。白セキレイも来ます。そして大木には、いろんな種類の鳥がいます。つい先日まで、カラスが大きな巣を作り、子育てをしていました。ヒヨドリ、ムクドリ、鳩も来ます。黄金虫もいます。私が子供だった頃は、キジの親子も来てくれました。まるで宝石のように美しい玉虫も住んでいました。玉虫は年々減少していき、そう簡単には見ることができなくなりましたが、たまに、玉虫のあのきれいな羽根が落ちていることがあるので、少ないながらも生息しているようです。父が玉虫のきれいな羽根を、大切にお財布に入れ宝物にしていたのを思い出します。私も、今度玉虫の羽根を拾ったら、父の真似をしてお財布に入れたいと思っています。
夕焼けもきれいです。夕日が沈んだあとの残照にも、心うばわれ、しばしの間、見入ってしまいます。星が出始め、たくさんの星を眺めていると、宇宙へと思いは広がります。行き交う飛行機も見えます。国内線、国際線、飛行高度が違うのでよくわかります。あの飛行機に乗れば、世界中のどこへでも連れて行ってくれる。そう考えると、世界が身近に思えます。亡き父は、夏の夜は、庭に縁台を出し、縁台に寝転び、蚊にさされないようにうちわをパタパタ動かし、寝る前のひと時を過ごしていました。「飛行機が、あっちへこっちへとたくさん飛んでいくものだ」と言っていたのを覚えています。戦争を経験した父は、若かりし頃、満州にも住んでいたので、遠い異国を思い出すこともあったのではないでしょうか。
よしずが倒れるほどの風も吹き、まるで高原の別荘地にいるような気分を味わわせてくれます。今、私は、懐かしい思いで、田舎の夏を楽しんでいます。

2012年8月8日水曜日

私の好きなことば「のほほんと生きる」


 以前、私が通っていたパソコン教室の名前は「のほほん倶楽部」というものでした。中高年を対象としたパソコン教室です。この名前に惹かれて入学してみると、私の年齢が一番若手で、最高齢は九十歳の歯科医の女性でした。少し離れたところからタクシーを利用して、週一回の教室に通って来られました。九十歳になられても好奇心、向上心、意欲の持ち主で、その方とお話をしていると、親子以上の年齢差がありながら、その年齢差を感じることもなく、こちらが「オタオタしておれないぞ」という気持ちになりました。
 「のほほん」という言葉のイメージは、のんびり、ゆったり、ゆっくり、というような余裕を感じさせる響きがあります。パソコン教室の名前の由来も、きっとそういうところからつけられたのだと思います。人間は年輪を重ねるごとに、若い時よりは、いろんな面で時間もかかり、パッパッとスピーディーに対応するのが、少しずつですが難しくなってくるものです。でも精神面は、徐々に成熟していきます。心に余裕、ゆとりができてきます。若い時は、カリカリ、キリキリ、まるで時間と競争しているかのようですが、自分の能力もまあまあ自覚でき、度量は大きなものになっていきます。
 現代に生きる人達の必需品となったパソコンを使えるようになるため、今の時代を知るため、理解するため、新しいものに挑戦する仲間が集まった、パソコン教室「のほほん倶楽部」でした。
 生きることにおいて、年齢に関係なく「のほほんと生きる」面も大切だと思います。ゴムが伸びたり縮んだりするように、心のどこかに「のほほんと生きる」を、おいて生きていきたいものです。肩の力を抜いて生きるということも、大切だと思います。

2012年8月7日火曜日

八月の花 ひまわり


 私の八月の花は、ひまわりです。漢字では、向日葵と書きます。太陽に向かって大きな花を咲かせます。黄色の花は、夏によく似合います。全国各地からひまわり畑のニュースが報じられています。5万本のひまわりが一斉に咲いている風景は、夏の風物詩です。
 今から三十年前のことです。今は亡き姉の家の庭に、とても背の高い向日葵が5本ありました。私の背よりもうんと高く、空に向かってそびえ立つような、りりしい姿でした。幹も5センチに近い太さで、まるで「ちょっとやそっとでは折れないぞ」と、言っているようでした。黄色の大輪の花を咲かせ、夏の厳しい暑さの中、太陽を自分の見方にして堂々と威厳をもって、庭を一人じめしているようでした。ひまわりの花を、身近でよく見ていた私ですが、こんな大きな立派な向日葵は見たことがありません。そこで「この向日葵は、特殊な向日葵なのかしら」と、姉に尋ねると「大手の種専門の会社から取り寄せたのよ」と、言っていました。名前は何か、原産国はどこか、などもっといろいろ聞いておけばよかったと悔やまれます。そのあと、姉は体調を崩し入退院をくり返すようになり、旅立ち、向日葵のことも遠い記憶になってしまいました。
 夏が来て、ひまわりが咲くと、姉との思い出がよみがえってきます。

2012年8月6日月曜日

旅の記録―山陰(3)


 山陰の旅の三日目は、出雲市から石見銀山を目指します。石見銀山は、島根県大田市にあります。石見銀山遺跡とその文化的景観は、2007年7月にユネスコの世界遺産に登録されました。石見銀山遺跡は、自然との共生の中で栄えた銀鉱山であり、その産業の衰退とともに、遺跡が周囲の自然の中に溶け込みながら残っています。石見銀山の価値は、遺跡とそれを取り巻く自然、そこに住む人々の調和した姿にあります。これを人類共通の財産(たから)として後世に引き継いでいかねばなりません。それを理由として石見銀山方式パーク&ライドが実施されており、交通規制がかかっています。車、バスの乗り入れは、石見銀山世界遺産センターまでです。ここからは、路線バスで大森代官所跡まで行き、そのあとは徒歩です。ルートは、村の中を通るのと銀山遊歩道の2本あります。私達は、行きは銀山遊歩道を歩き、帰りは村の中を通りました。雷がゴロゴロ鳴り、途中雨も少し降り「マムシに注意」「熊に注意」の看板を見て、ビクビク、恐る恐る遊歩道を歩きました。
 清水谷製錬所跡を見ました。明治期、本当に短い期間(1年半ほど)しか使われていません。とてももったいないことになりましたが、江戸時代に銀が盛んに採掘され、ほとんど残っていなかったためということのようです。そのあとも銀山遊歩道を30分ほど歩きました。



 次に龍源寺間歩を見ました。間歩(まぶ)とは、銀を採掘した坑道のことで、大小さまざまなものがあり、600以上確認されています。龍源寺間歩は、一般に公開されている間歩で通り抜けることができます。有料で大人400円小人200円でした。入口から出口まで10分ほどでした。入口からは、冷気が外へ流れ出て白く霧状になっており、中はどんなに低い温度なのかと期待して入ったところ、何と温度計は14度を示していて、冷蔵庫の中へ入ったようになりました。酷暑の中、汗を流し、足をひきずり、もう少しもう少しと自分を励まし歩き続けた先に、素晴らしいプレゼントが待っていたのです。感動しました。感激しました。


 龍源寺間歩を出てからは、気分も足どりも軽くなり、道も下り坂となり、村の中を通り抜け大森代官所跡を目指しました。途中に古い木造の小学校があり、懐かしさを感じさせる面影に惹かれ写真を撮りました。酷暑の中、熱中症にならないよう、ペットボトルのお茶を飲みながら歩き、体力的にもそろそろお店に入って休憩・食事をしなければと思い、適当なお店を探しつつ村の中を通りましたが、冷房のあるお店が見つけられず、結局最終地点の代官所跡の前で昼食をとりました。そして路線バスに乗り、世界遺産センターへ戻り、パネルや模型、映像で当時の集落や製錬所を再現し、紹介している展示室を見学しました。
 これで二泊三日の山陰の旅は終わり、帰宅の途につきました。山陰地方のこの時期の酷暑には、本当に驚きました。冬は雪が降り、積もり、その上、夏のこの暑さです。きっと、春・秋は、とても気持ちのよい過ごしやすい気候なのだと、一人納得しました。
 旅は、日常から離れる体験で、私は大好きです。旅はロマンです。あこがれや夢をかきたてるものです。そして多くの先人たちの生涯に思いを馳せ、多くのことを知り学び、気づかせてくれます。

参考  石見銀山は、1526年に九州博多の豪商によって発見されて以来、約400年にわたって採掘されてきた日本有数の鉱山です。16~17世紀の約100年の間には、大量の銀が採掘され、大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源として使われました。海外にも多く輸出され、中国や朝鮮半島などのアジア諸国とポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国を交易で結ぶ役割の一端を担いました。17世紀前半の石見銀山の産出量は、世界の産出銀の約三分の一を占めていたといわれています。戦国時代に銀山争奪のために築かれた城も多くあります。銀や物資輸送のために使われた銀山街道なども遺跡として残っています。明治期に操業された清水谷製錬所跡や永久坑道、永久製錬所跡、発電所跡など近代の産業遺産も残り、石見銀山の歴史的景観を形成しています。

                     石見銀山遺跡案内マップより

2012年8月5日日曜日

旅の記録―山陰(2)


 山陰の旅の二日目は、皆生温泉から、安来市にある和鋼博物館へ行きました。日本古来の伝統的製鉄法「たたら製鉄」について学びました。「和鋼」は、「たたら」で生産される日本(和)独特の鋼という意味です。中国山地は、良質の砂鉄と豊かな森林資源に恵まれ、古くから「たたら製鉄」が盛んな地帯であり、江戸時代の後半には、国内総生産の約80パーセントを占めたそうです。「たたら製鉄」で生産される「和鋼」の中で、最も質的に優れたものが、日本刀の材料となる玉鋼(たまはがね)です。ここから全国の刃物産地へ出荷され、各地域の産業の発展を支えたという歴史があります。先人の知恵と技を受け継いだ鋼の歴史を知り、何も知らないで、ただ恩恵を受けていただけの自分に気付かされました。と同時に、亡き父が伝統的美術品として愛し、自慢にしていた日本刀を丹念に手入れしていた在りし日の姿を思い出しました。

 次に松江市にある島根県立美術館へ寄り、ロビーから宍道湖を眺め、写真を撮り、あわただしく次へと移動しました。ここから見る夕日は絶景ということです。

 そして松江城、武家屋敷、小泉八雲旧居は、三十年前に幼い子供たちをつれて家族で来ているので、車で通り抜けました。その時は、運よく宍道湖花火大会を、ホテルの前の特等席、芝生で見ることができました。三十年ぶりに訪れたこの日も宍道湖花火大会で、その準備を忙しそうにしているたくさんの人がいました。



 次に今回の旅の大きな目的地である出雲大社へ行きました。現在本殿は修造中ですが、神話博しまねを開催しており、たくさんの人が来ていました。投句箱が置かれていたので、旅の記念にと俳句二句を俄かに作り投句してきました。



 近くにある古代出雲歴史博物館は、出雲の森をのぞむ素晴らしい立地に立てられた近代的な博物館です。遺跡から発見された多数の銅鐸や太刀が展示されており、巨大神殿出雲大社の謎に思いを巡らしました。平成12年(2000年)に、発掘された巨大な3本ひと組の柱根は、直径約1・35メートルの杉の柱を3本束ねた形状で、鎌倉初期の造営と推定されています。平安時代、出雲大社の本殿は48メートルの高さがあったといわれており、10分の1スケールで復元された模型がありました。神話シアターでは、日本最古の歴史書「古事記」の世界に浸りました。

 そのあと、日本海に沈む夕陽を見るために、稲佐浜へ向かいました。生まれて初めて見る日本海の夕陽です。19時16分に太陽が沈むまで、30分ほど夕陽を見つめていました。日の出から日没までの太陽との一日が、こんなにも感慨深いものだということを改めて感じました。夕陽のスポットということで観光客も集まっていて、子どもたちは、無邪気に夕陽に手を振って「また明日」と叫んでいました。





私も「さよなら、また明日」と心の中でつぶやきました。