2016年8月31日水曜日

プチ旅(福井へ)-2 丸岡城

 東尋坊から三国湊町を通り今回の旅の主目的の丸岡城へと向かいました。東尋坊も三国湊町も丸岡城も、福井県坂井市にあります。丸岡城は、日本海から内陸部の東方向へ少し入ったところにあります。車で約40分ほどで着きました。丸岡城は、今から400余年前、戦国時代の天正4年(1576年)一向一揆の備えとして、織田信長の命により柴田勝家が甥の柴田勝豊に築かせた城で、現存する12天守閣では最古の建築様式を持つ平山城です。実は現存12天守は北の弘前城から四国の高知城など創建当初の木造が保存されている天守閣が残っているお城ですが、今回の丸岡城を訪問したことで満願達成となりました。城周辺は、400本のソメイヨシノが植えられ、「日本さくら名所100選」に認定されています。



私達は、一番上の天守閣まで上りました。昔の侍たちが簡単に上り下りできたとはとても思えない、急な角度で一段一段がきつい段差の階段で、上りも下りも大変でした。


丸岡城には石の瓦が使われています


福井地震で被害を受けましたが修復されています

当時は堀があったようです

  この日は今年最高の気温が出ていたのですが、天守閣までたどり着いた時には、素晴らしい自然の風を全身に受け、あまりの気持ち良さに感動しました。 
天守閣に長居をしたら寒くなってきそうなほどの、涼風でした。天守閣からは、福井平野が一望できます。高い所から眺める、遠くまで広がる景色は素晴らしいものでした。東西南北の景観を見渡すことができ、西には日本海や三国の海岸まで見渡せます。


西の方向に東尋坊のある海岸の丘陵が見えます


城主は柴田勝豊の後、安井、青山、本多、有馬と変わりましたが、幕末まで17代続きました。丸岡城築城400年を記念して造られた日本庭園式公園があり、歴史民俗資料館には、歴代城主ゆかりの品が展示されています。私達は、そこも見学しました。
 丸岡城天守閣の石垣のそばに、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の書簡碑が建てられています。徳川家康譜代第一の功臣で、丸岡藩の藩祖と呼ばれる本多重次が、陣中から家族に書き送ったもので、日本一短い手紙として有名です。お仙とは重次の子で後に丸岡五万石の藩主となった本多成重です。坂井市は、この書簡を基に、日本で一番短い手紙の再現、手紙文化の復権を目指し、「一筆啓上賞」を実施しています。ずいぶん前のことですが、私も応募しました。記念の参加賞としてテレホンカードをもらったことを思い出しました。



一筆啓上茶屋には、坂井市の特産品が並んでいる売店と食堂があり、私達は、越前おろしそばを食べました。越前といえば、そばとカニです。その地の特産品を食べるのは、旅の醍醐味です。おいしかったです。
 そのあと日本海に沿って走り、京都へと帰りました。ちょうど夕日が沈む時間となったので、急いで越前海岸へと向かい日本海に沈む夕日を見ることができました。




水平線まで雲もなく素敵な夕日でした
夕日が沈む光景は、特に海に沈む光景は、最高のものです。機会があれば、私達はいつも夕日を追っかけています。出雲へ旅した時も、出雲から見る日本海に沈む夕日に感動しました。感動して瞼が熱くなります。昨年夏は丹後半島から見ることができました。今回も天候に恵まれ、雲のない美しい夕日を見ることができました。近い将来、夕日百選を目指して旅に出たいと思います。

2016年8月30日火曜日

プチ旅(福井へ)-1 東尋坊

 お盆休みに入る前に福井へプチ旅のドライブに出かけました。今回の旅の主目的は福井市の北にある丸岡城に行くことです。旅のコースとしてはまず東尋坊によることにしました。私は、45年前にも来ているので二度目の東尋坊です。京都を7時過ぎに出て、ちょうどお昼前に東尋坊へ着き、早速昼食となり、有名な海鮮丼を食べました。


豪快な海の幸がたくさんのっていておいしくて大満足でした。土産物屋が並ぶ海へと続く通りを歩き、東尋坊へ出ました。断崖に日本海の荒波が打ち寄せる景色で知られる東尋坊です。約1キロにわたり豪快な岩壁が広がっています。夏休みということでたくさんの観光客で賑わっています。



 今回の東尋坊は、遊覧船に乗って海から断崖を見ようというものです。遊覧船に乗るのは初めてですが、所要時間が30分ということで気軽に乗り込みました。ガイドのお兄さんは、面白おかしく説明案内されるので、何度も笑わせてもらいました。一瞬外海へ出たのですが、その時は船が大きく揺れて皆が大きな声をあげました。海から眺める東尋坊は、すごいのひとことです。自然が作り出した芸術です。



 ドラマのロケ地として有名ですが、自殺の名所としても知られており、こちらは現地の人達にとっては迷惑なことになっています。遊覧船から東尋坊を眺め、船に乗って良かったと思いました。「初夏のまばゆいばかりに広がる青い空と日本海、秋の頃の日本海に太陽が沈み行く夕景、雪が舞う頃の荒々しい波と吹きつける寒風。どれも東尋坊と日本海の大自然が見せてくれる、四季折々の素晴らしい風景です」とパンフレットに書かれていますが、淋しがりやの私は、たくさんの観光客で賑わう夏にしか来れそうにありません。冬の日本海の厳しさは、太平洋に馴染んできた私にとって近寄りがたい存在です。久しぶりの東尋坊は、兄や姉とともに若い仲間で来た青春時代を懐かしく思い出させてくれました。



 東尋坊をあとにして、初めての三国湊町へ寄りました。ここは九頭竜川の河口に当たり、江戸時代は福井藩の外港でにぎわったそうです。この日は三国花火大会があるということで、夜店の準備が始まっていて、通行規制もかかり見物客が場所取りをしていました。三国湊町レトロを観光ガイドブックで知った私達は、旧森田銀行本店を見学しました。海運業を営んでいた森田家が創業した森田銀行の本店です。大正9年に建てられた、県内最古の鉄筋コンクリート建造物です。












江戸時代から明治初期にかけて北前船交易で隆盛を極めた三国湊町です。今も、情緒ある格子戸が連なる町家、豪商の面影が残る商家など、古い町並みの中に歴史や往時のにぎわいを感じ取ることができると、ガイドブックに書かれています。結構いろんな所へ行っている私達ですが、どこの町にも長い歴史があり、時の流れに移り変わる町の姿に感動をおぼえます。時間があればゆっくり散策できるのにと残念でしたが、日帰りプチ旅なので急ぎ足で三国湊レトロを通りました。それでも甘党の私は、江戸時代から続く老舗へ寄り、和菓子を買いました。北前船寄港地三国の郷土銘菓の酒まんじゅうが欲しかったのですが、売り切れでした。そのあと本来の目的地、丸岡城へ向かいました。

2016年8月29日月曜日

機上の人

 一ヶ月のバカンスを日本で過ごした娘は、フランスへと戻っていきました。私達は、自宅を朝早く五時に出て、大阪伊丹空港まで車で送りました。そして今、展望デッキで飛び立つ飛行機を見送っています。私は、フライト予定時間を書いたA4の紙を手に持って、飛行機からよく見えるようにと一生懸命振っています。飛行機から乗降デッキが外され、飛行機は静かに動き出しました。紙飛行機のように軽やかに空を飛ぶ飛行機ですが、近くで見るととても大きいものです。


 何百人もの人の命とたくさんの荷物を乗せて、大空を飛ぶ飛行機は偉大です。それを発明したのは人間です。偉大な偉人の恩恵を受けて、人は世界を飛び回ります。飛行機は行進するようにゆっくり移動していき、エンジン全開で轟音を発し滑走路を走り、私の目の前で離陸しました。




 私が一生懸命振るA4の白い紙は、国旗のように見えたでしょうか。飛行機はフワッと浮き上がり地上と離れ、あっという間に空高く舞い上がりました。そしてすぐ雲の中へと姿を消しました。日本からフランス南部の町まで24時間の長旅です。どうか無事にと願い祈り、私は一生懸命白い紙を振り続けました。娘は機上の人となり、いろんな思い出を残して遠い異国へ飛んでいきました。たちまち私の目はかすみ、飛行機を包み込んだ雲もかすんで見えなくなってしまいました。長いようで短く、あっという間に過ぎ去った私達のバカンスも終わりました。


2016年8月25日木曜日

プチ旅(三重県熊野へ)-4 赤木城・丸山千枚田

 紀和鉱山資料館を見学した後、赤木城跡へ向かいました。数年前から天空の城としてクローズアップされています。天空の城といえば、以前行った兵庫県朝来市の竹田城が思い出されます。ずい分と整備された竹田城は、多くの観光客が訪れていますが、熊野の赤木城は誰もいなくてひっそりしていました。









 石垣だけが残っているだけで、建物は何もありません。少し登ったところにある赤木城に立ち、四方の山を見渡すと心地よい風が吹いてきました。私の好きな歌「古城」が、頭に浮かんできます。
   「古城」
松風騒ぐ 丘の上
古城よ独り 何偲ぶ
栄華の夢を 胸に追い
ああ仰げば侘し 天守閣

 赤木城は、天正17年(1589)頃に、築城の名手、藤堂高虎が築いた中世と近世の築城法を併用した平山城で、平成元年に国指定史跡となりました。赤木城に登り、過去の歴史に思いを馳せた後、丸山千枚田に向かいました。
 
 丸山千枚田のことはテレビで見て知っていましたが、訪れたのは初めてです。紀和町丸山地区の斜面に幾重にも描かれた棚田で、日本の棚田百選にも選ばれています。


  丸山千枚田の歴史は古く、1601年(慶長6年)にはすでに2240枚の田があったという記録が残っているそうです。時は流れ、過疎・高齢化による耕作放棄地の増加により、平成初期には530枚までに減少してしまいましたが、住民により千枚田保存会が結成されて徐々に復元され、1340枚という日本でも最大規模の棚田になりました。現在は千枚田オーナー制度も運営され、田植えや稲刈りに多くの人が参加しているとのことです。7月上旬には「丸山千枚田の虫おくり」が行われます。パンフレットにその写真が載っていたのですが、とても幻想的な光景です。稲が育ち緑一色になる千枚田や雪景色の千枚田など、四季折々の千枚田の姿は、美しく素晴らしいものです。
 その後、尾鷲にある熊野古道センターへ寄りました。昨年にも寄ったのですが、時間が遅くなり閉館時間を過ぎて中へ入れませんでした。今回はゆっくり見学できました。熊野古道についての説明や写真展示もあり、ビデオを見ることもできました。世界遺産となった熊野古道、長い歴史をもった巡礼の聖地です。すべてを歩くのは無理ですが、その一部分でも歩きたいという気持ちになりました。








 自分の生まれ育った三重県に、まだまだ知らないことがたくさんありそうです。今回の「プチ旅熊野へ」は、改めて故郷を見つめることを教えてくれました。知るを楽しむプチ旅でした。

2016年8月12日金曜日

プチ旅(三重県熊野へ)-3紀和鉱山資料館

 鉱山で実際に使われていたトロッコに乗り、元鉱山のトンネルを走り、写真もたくさん撮った私達は、次に紀和鉱山資料館へ行きました。二階建ての立派な建物で、学芸員さんが一人おられました。私達以外に来館者はなく、学芸員の方が、親切にいろいろ説明して下さいました。

鉱山で使われていた本物のトロッコ

私たちが乘ったトロッコの本物のようです

 紀和鉱山の歴史は非常に古く、1200年以上も昔から採掘が始まり1978年(昭和53年)の閉山まで、金・銀・銅を採掘した国内第6位または第7位の鉱山です。使われた機械や工具が展示されており、鉱山で働く人々の暮らしや町の様子もよくわかる古い写真がありました。

長い歴史が書かれています

当時の鉱山の様子が再現されています

  大判・小判もありました。いろんな鉱石も展示されていて、その中のホタル石は、暗い所で見るとホタルがたくさんいるような錯覚を感じる珍しいものでした。イルカボーイズと書かれた外国人の集合写真があったので、説明を読むと、第二次世界大戦の昭和19年に、捕虜となった英国人300人が、鉱山のある入鹿(イルカ)地区で、労働の担い手となり働いたというものでした。この地で亡くなり母国へ帰れなかった人もいて、資料館の近くには外人墓地がありました。山の斜面には、選鉱場跡もあり、遠くからでも目を引く大きな高い立派なものでした。



記念館から南側に斜面を利用した選鉱場が見えます


選鉱場跡、当時は屋根が懸かっていたそうです

  資料館を出てすぐのところに、鉱山乃(やまの)足湯が設けられていて、ポアロと娘は足をつけました。どんな温度の温泉が出ているのか興味をもった私は、温泉が出ているところで湯にさわってみました。ちょうど良い、気持ちの良い温度でした。



単純アルカリ泉でした