2017年6月30日金曜日

風呂敷

先日、用事があり三条通を久しぶりに通ると、風呂敷の専門店ができていました。和柄の手ぬぐいの店は前からありましたが、風呂敷専門店は初めてです。きれいなお店にひかれて中に入ると色とりどりで楽しくなります。内容に合わせての包み方が色々とあり、パンフレットをもらってきました。パンフレットは日本語、英語、中国語がありました。包み方、結び方の教室もやっているそうです。店にいるとアメリカからの家族連れがきて興味深くみておられました。

昔ながらの家紋、名入れの見本

リバーシブルの風呂敷で酒瓶を包んだもの

手提げバッグのタイプ

かわいい模様です


左はお稲荷さん、右は七福神

鳥獣戯画で酒瓶

和風の花柄

酒瓶の変わり包み

2017年6月29日木曜日

私の子守り歌

 子守り歌にはいろんな思い出があります。私が幼かった頃には、母が歌ってくれる子守り歌を聞きながら眠りにつきました。子供が生まれてからは、私が子守り歌を歌い寝かせつけました。二人の子供が少し大きくなってからは、三人で歌を歌いながら眠りました。疲れきっている私が、一番に眠り込んだようです。
 そして今、私は自分のために子守り歌を歌います。童謡、唱歌、青春歌謡、歌謡曲、ニューミュージックなど、たくさんの曲を歌えますが、目を閉じて歌うとなると、少なくとも一番の歌詞ぐらいは覚えていないといけません。メロディーは出てきても、歌詞はうろ覚えです。きちっと正しく歌いたいと思い、覚える努力をしています。そして毎晩小さな声で歌います。数曲歌うと、ほどよく眠りが訪れます。今まで、自己診断ですが、不眠症という睡眠障害が起こった時は、起き出して読書や書き物をしていました。しかし年齢とともに目も疲れやすくなって、読書も書き物も、適度にと心がけています。その点、横になって目を閉じて歌うことは、心身に良いようです。歌とともに、過ぎ去った時が懐かしく思い出されます。ずい分前のヒット曲に加藤登紀子の「ひとり寝の子守唄」がありました。記憶に残っています。今私が自分のために歌う子守り歌は、まさにこの歌のようです。人の人生を表しているようです。

2017年6月28日水曜日

ベランダの楽しみ

 本格的な梅雨の季節になってきました。我が家のベランダは東向きなので朝からの日差しをよけるためによしずを立てています。その日蔭に10日ほど前にサツマイモのヘタを少し大きめに残して水につけておきました。最初に根が出てきてそして芽が出てきました。ヘタの両端を水に付けておいたのですが何故か片方にだけ芽が出て葉が増えてきました。葉のあるのは茎側のヘタのようですが理由は不明です。何かいい器をさがして鑑賞したいと思います。




2017年6月27日火曜日

体感温度

 体感温度は人によって大きな違いがあるようです。部屋の温度にしても、夏は冷房、冬は暖房、その温度設定は自由自在です。しかし一人暮らしならともかく、二人暮らしとなるとその温度がケンカのたねにもなります。結婚して早何十年、私はずっと相方に合わせてきました。自分ながら自分の心の広さ、寛容さに呆れています。大人し過ぎる性格が原因でしょうか。優し過ぎる性格が原因でしょうか。あるいは自己主張できないほどの意気地なしなのでしょうか。それとも相方がワンマンで亭主関白なのでしょうか。相方が社会的には第一線を退き、自由気ままなシニア暮らしになって、私の気持ちが変わりました。長年自分を束縛してきた糸を、切ることにしました。こんな意識を持つと、プツンプツンと糸を切る音が、快感に聞こえます。ケンカになろうとも、自己主張するのです。そうすると相方も譲歩してきます。今はほどよく折衷となりました。
 体感温度といえば、それは食べ物の温度の好みにもあらわれています。私は猫舌といわれるほどの、熱いのが苦手です。相方は、やけどしそうなほどの熱さが好みです。少しぐらい冷めていても私は平気ですが、相方は気に入りません。熱いものは熱く、冷たいものは冷たく、中間はありません。私は、中間がいいかげん、ええかげん、よいかげんです。ここまで書いてきて、二人の反対さが面白くて笑い出しました。食べ物の温度については折衷はありません。温度は、おいしいと感じる味覚の重要なポイントの一つだからです。これに関しては、相方に合わすことが、これからもずっと続きます。

 体感温度のもう一つ、心の体感温度も個人差があると思います。繊細な神経の持ち主、デリケートな人、感受性豊かな人など、物事の取り方は千差万別です。私の心の体感温度は高く、相方は低いようです。生まれてから育つ過程で、培われるものだとは思いますが、生まれもった天性の部分もあるかもしれません。共に暮らす二人は、お互いを補い合い、人間的成長を目指して、一生をかけて過ごすのですから、どっちがどっちといった、白黒をつけるようなものではないと思います。似た者同士より、生きる世界が、視野が、倍になる気がしています。

2017年6月26日月曜日

六月の訪問者

 我が家の小さな庭には、いろんな生き物が住んでいます。又訪れてくれます。季節によって違いますが、カエル、ホタル、チョウチョウ、カメ、ミミズ、トカゲ、虫たち、鳥たち、たまにモグラもきます。先日はクワガタの訪問がありました。お腹を上にして足をバタバタ動かしています。なかなか元の体勢に戻れそうもありません。ポアロがつかんで草の上へおいてやりました。しばらくじっとしていましたが、少しずつ動き出しました。私達は観察をしながらちょっかいを出しました。そばにある草を角のようなハサミの間におくと、おもむろに挟みました。そしてこれは自分の興味あるものではないとわかると、挟むのをやめて落としました。



このクワガタはまだ若いようで、甲羅が美しく光っています。しっとり感があります。しばらく様子をうかがっていましたが、そのあと歩き出し、飛び始めました。都会の住宅では、なかなか目にすることのないような光景です。以前住んでいた家には、ツバメが巣を作り、私達家族は、その子育てやヒナ達の巣立ちまでを見ることができました。親ツバメが巣作りから始め、卵を抱き、ヒナがかえるとエサを運び、巣立つ時には少しずつ巣から飛び出すことを教え、飛び方も距離を少しずつ伸ばし、上手に独り立ちできるように指導します。その全ては二羽の親ツバメの共同作業です。まるで物語を紡ぐような感動する姿です。今はめったに見ることがなくなった玉虫も、十五年ほど前には姿を見せてくれました。ポアロは、子供の頃に夢中になった、カブトムシ獲りのことを話してくれました。クワガタは珍しくて獲ったことがないといっています。遠い日の思い出です。

2017年6月23日金曜日

夢中になること(系図)

 年齢を重ねて、今私が夢中になっていることがあります。それは系図作りです。NHKの「ファミリーヒストリー」では、よくここまで調べることができたものだと感心するほど、ゲストの家の歴史をひもといています。系図作りを専門とする業者もいるそうですが、私は人任せではなく自分で情報収集して作りたいと思います。八十八歳で旅立った父も、晩年そんな話をしていました。年齢を重ねると、自分のルーツについて知りたくなり興味を持つのかもしれません。私もそんな年齢になったのだと、苦笑しながら事を進めています。自分が生まれてから、たとえ短い期間であっても同じ時を生きた人達については、知っていますし記憶にも残っています。しかし出会っていない人達については、戸籍謄本をとって遡るしかありません。早速役所へ行ってきました。

 戸籍謄本にはいろんな種類があります。現在は結婚によって親の戸籍から離れ、新しい戸籍を作ります。そして子供ができたら届出をしてその戸籍に入ります。いろんな手続きの際に提出するのはこの戸籍謄本です。私は父の父、つまり父方の祖父の戸籍から始めました。これは原戸籍謄本です。私が孫であるという証明と、運転免許証などの提示での身分証明が必要です。他人の戸籍謄本を勝手に手に入れることはできません。祖父の原戸籍謄本は、明治32年4月の記載から始まっています。これより前のものはないとのことでした。祖父の父(私の曾祖父)が若くして二十代で亡くなったため、祖父は五歳で家督を相続します。この時点では、祖父の祖父(私の高祖父)が健在でした。祖父の原戸籍には、父親、母親、祖父、叔父、妹、妻、息子、息子の嫁、孫五人、全部で十四人が載っていました。戸主として大家族の筆頭になっていたのです。戸籍制度も時代とともに変わり、私の父が結婚した時には新しい戸籍となっています。私の名前は載っていなかったので、あれっと思いましたが、私が生まれる前に改製されたのかもしれません。祖父の祖父(私の高祖父)が隠居し、未婚の息子と共に分家して新しい戸籍を作りました。それは除籍謄本といいます。そこにもたくさんの人が載っています。結婚により他家から女性が嫁いできて入籍し、子供が生まれ入籍となり、人数は増えていきます。江戸時代の弘化四年(1847)生まれの高祖父まで、遡ることができました。この人から言えば、私は孫の孫、つまり玄孫(やしゃご)です。出生届や死亡届、その年月日、結婚による除籍など、戸籍謄本に記載されている事柄から、見えてくる家の歴史と先祖たちの人生です。家の歴史や先祖たちの人生を知ることは、とても興味深いことです。今度は母方のルーツを調べようと思います。

2017年6月22日木曜日

フランス展

 日が過ぎるのが本当に早くて、ゴールデンウイークから早くも一ヶ月以上が経ってしまいました。ゴールデンウイークに合わせて、京都駅にあるデパートでフランス展が催され、出かけました。フランス在住の娘の知り合いが出店するので、「時間がとれたら行ってあげて」との連絡があり、二人で出かけたのでした。



フランス展は、デパートの十階にある催物会場で開かれました。フランス料理にワイン、紅茶、パン、デザート、雑貨など、会場にはたくさんの店が並んでいます。娘の知り合いはフランス人男性です。日本人女性と結婚して、東京に住んで十年です。日本語はペラペラと聞いていたのでフランス語ができない私達は、安心して出かけました。彼はハーブティー専門の輸入会社を立ち上げ、プロヴァンス地方のハーブティーを販売しています。ハーブティーといってもいろんな種類があります。フランス、プロヴァンスと聞いただけで、日本では知名度が高く、人気を呼ぶそうです。知人の女性を思い出します。彼女は紅茶教室に通い、紅茶ツアーに参加し、紅茶のプロになりました。年に数回フランスへ行って、自分の気に入った雑貨を買って帰り、小さなお店を持つまでになりました。フランス大好きな女性です。娘の知り合いが出店しているという、プロヴァンスのハーブティーの店を探して会場を回りました。すぐに見つかりました。フランス人男性は、ハーブティーについての説明をお客さんにしているところでした。熱心なお客さんは、説明を聞いていろいろ試飲もされています。しばらく待ってから声をかけました。たいそう喜んで下さり、娘の話題も出て、お話しをしながら、ハーブティーの説明を聞き試飲もして、贈答用と自宅用とを買いました。記念にと一緒に写真も撮りました。


 彼は、リヨン大学の日本語学科で勉強したそうです。その時に留学で来ていた日本人女性と出会い、結婚し、日本へ来て、タレント業もしたり、いろんな仕事をして十年経ったと言っていました。デパートでのフランス展は、全国の主要都市を回るとのことで、後日「今は長野でフランス展をやっています」と、メールが届きました。初対面でも日本語ですぐ打ち解けられる気さくなフランス人で、優しそうな青い目が印象的でした。小さな国際交流をしたようで、爽やかな気持ちになり会場をあとにしました。

2017年6月21日水曜日

一時間で大都会(大阪へ-4浜寺)

 一心寺へお参りしたあと、阪堺電車に乗って浜寺へ向かいました。私達は始発駅の天王寺から、終点の浜寺公園まで乗りました。五十分ほど乗るのですが、料金は210円でその安さに驚きました。路面電車、トラムですが、ところどころは専用の線路を走ります。私は初めて乗る阪堺電車です。ポアロは、浜寺に叔母さんが住んでおられたので、子供の時に何度か乗ったそうです。二両または二両編成の小さなチンチン電車は、民家の軒先にあたりそうなほどギリギリに狭い線路を走ります。住んでいる人達の足になっています。



大阪南部の中心地天王寺は大都会を思わせましたが、住吉大社の前を通りすぎ大和川を超えるとひろびろとした景色に変わっていきます。堺は戦禍を受けて、ほとんどが焼け野原になったそうです。戦後の復興で徐々に戻りましたが、その姿にはまだ昔の名残とは違うだだぴろっさを感じます。途中には、住吉大社近くの与謝野晶子生家跡、千利休屋敷跡、南宗寺、将棋名人阪田三吉記念室などがあります。近くには日本最大の前方後円墳・仁徳天皇陵古墳もあり、見どころいっぱいで「堺まち旅」が人気を呼んでいるそうです。私達は終点の浜寺公園で下車し、少し歩きました。




ポアロは遠い日の記憶を辿りましたが、叔母さんの家はすでになく、駅前のここら辺りだと思うけどと言っていましたが大きなマンションが建っていました。海側の浜寺公園の歴史は古く、明治6年開園の大阪で一番古いものだそうです。広大な面積で、松林が広がり水練学校もあり、ここから巣立った著名人も多いとのことです。



駅の山側は立派なお屋敷群が続いています。明治、大正、昭和と大阪で成功を収めた商人たちが、別荘を浜寺に建てたそうです。地名も浜寺昭和町と言います。何メートルも続く生け垣や塀には、時代の富を手にした人達の財力を思わせます。時代が変わってもその大きな屋敷を維持してこられたことに感心します。






静まりかえったお屋敷群の中をしばらく歩いてから、駅に戻りました。南海電鉄の南海本線浜寺駅駅舎は、建築遺産に指定され、駅が高架になるのに合わせて移築工事の途中でした。



私達は、阪堺電車のチンチン電車に揺られて来た道を戻りました。帰りは最新式の低床トラムの2両連結でした。



天王寺から淀屋橋へ、そして京阪電車で京都三条へと帰りました。ワンデートリップですが、懐かしい思い出に浸ることができて、とても充実した一日でした。

2017年6月20日火曜日

一時間で大都会(大阪へ‐一心寺)

 天王寺公園にある美術館、茶臼山、そしてその近くにある安居神社へ寄ってから、茶臼山のふもとにある一心寺へまわりました。一心寺の歴史は、1185年浄土宗宗祖・法然上人がこの地を訪れたことに始まります。お寺に近づくにつれたくさんの人出です。私達は知らなかったのですが、この日はお骨佛開眼供養が行われていたのです。たくさんの人のお骨で仏様がつくられるのです。十年に一つ仏様が造立されます。宗派を超えて、開かれたお寺として、お骨佛は大阪では有名で、分骨される家が多いそうです。義父も分骨して、お骨佛になっています。今から四十年以上も前のことです。




大きなこのお寺の住職は、建築家でもあるので、古いお寺でありながら、時代を牽引するような近代的建造物を次から次へと建てられました。三千佛堂は、ホールを兼ね備えたものでその代表的なものです。建築の本にも取り上げられたそうです。




境内に、人目をひく大きな立派な木があり、紫色の美しい花がちょうど満開でした。見たことのない花です。その美しさに誘われてそばへ行くと、ジャカランダと書かれていました。中南米原産で六月に咲く花とのことです。青紫色の花は、神秘的で本当に美しく見とれてしまいました。




ノウゼンカズラもジャカランダの仲間のようです
今までにこの花を見たことはありませんが、名前は聞いた気がします。すぐに思い出しました。さだまさしの歌に「ジャカランダの丘」というのがあり、昔よく聴いたものです。今回偶然にもお骨佛開眼供養に遭遇し、満開のジャカランダの花を見ることができて感動しました。

2017年6月19日月曜日

一時間で大都会(大阪へ-2天王寺)

 用事が午前中に終わったので、地下鉄で天王寺へまわりました。大阪市の南エリアの中心地です。通天閣や四天王寺、日本一の高さを誇るあべのハルカスで有名なところです。明治42年(1909)に開設された天王寺公園には、美術館、動物園、植物園、旧住友家の名園慶沢園、エントランスエリア「てんしば」、などがあります。総面積約28万㎡の広い公園です。去年NHKの大河ドラマ「真田丸」で有名になった茶臼山も公園の一部です。四十五年ほど前ですが、私達はデートで三歳の姪を連れて、天王寺動物園へ行きました。三重から車で出かけました。遠い日の思い出です。


駅地下で昼食のあと美術館へ行きました。ポアロの友人が美術館での国展に出品しているとの情報を得て見にきたのでした。天王寺公園は最近整備され、動物園、植物園とこの美術館以外は広大な芝生広場「てんしば」と名付けられ小さな子供たちがたくさんお弁当を食べていました。

これが「てんしば」です

ベビーカーに扇風機

動物園も改装されてきれいになっています

「てんしば」と美術間の間には武家屋敷の門があります。町の中にあった黒田家の門を移築したそうです。



 明治時代にはこの周辺一帯が住友家の屋敷だったそうで、その後市に寄贈され、庭園が慶沢園として残っています。



 この美術館も住友家の本宅があった場所で昭和11年にできたものだそうです。


  歴史のある立派な美術館で展覧会を見たあと広い公園を散策しながら、北側の茶臼山へ登りました。山という名がついていますが標高26mで、大坂冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村が本陣を置き、戦った歴史の舞台です。その頃は周囲に高いものは無く、大坂城がよく見えていたことでしょう。大坂城方向という案内板がありましたが、たくさんの高いビルに邪魔をされ見ることはできませんでした。背の高い木々がたくさんあり、山を感じさせましたが、なぜか大半がクスノキでした。

池の向こうが茶臼山です

この橋の上でポアロが5歳のころ撮った写真が残っています
  ハルカスと通天閣は茶臼山からもよく見えます。

 

次に茶臼山を下りて、真田幸村最期の地である安居神社へお参りしました。昨年ブログにも取り上げましたが、去年は我が家も真田丸フィーバーで、真田丸のおっかけであちこちへ行きました。燃えた一年を思い出します。



この安居神社で最期を遂げたそうです