2022年8月31日水曜日

久しぶりの京の都

  先日久しぶりに京都へ行ってきました。コロナによる巣籠りが続き早二年半が過ぎました。郵便物を取りに行ったり、用事ができた時などは時々行っていますが、先日は久しぶりに街中を歩きました。寺町通りを二条から四条まで、おなじみの街歩きです。少しの間に街は変わっています。老舗の紙屋さんが、八百屋に変わっています。二階に書道教室まであった有名な紙屋さんです。どんなに時代が変わっても、伝統的な書の世界は不滅だと思っていました。寂しい限りです。

  寺町通りを二条から四条まで、約1キロメートルほどです。途中の店も姿を変えたり消滅したりと、刻々と変わっているようです。古いお店がマンションに建て替えられるという工事現場も、いくつかあります。京都に住んで二十年が経っていますが、長年付き合いのあった郵便局も移転し、その跡地には立派な賃貸住宅が完成間近となっています。寺町通り約1キロメートルのメインストリートさえも、大きな変化を遂げているのです。時間がとれたら、もっともっと京の都の移り変わりを自分の目で確かめようと思います。時代の変化は、しょうがないことだと理解しつつも、寂しく悲しいものです。

(まるこ記)

 

 

 

2022年8月26日金曜日

知るを楽しむ(ふるさとの旧跡水屋神社)

  先日報告しました巨樹大楠がある水屋神社についてのいわれや歴史について調べてみました。国道166号線の松阪市飯高町赤桶にあります。住所の名にある通り国道沿いに大きな赤い水桶があります。以前からあの桶はなんだろうかと思っていました。その道路の反対側に鳥居があり水屋神社の境内となっています。

高さ3mくらいあります



伝説では、昔お伊勢さま(天照大神)が、白馬に乗って珍布峠(めずらしとうげ)にさしかかられ水屋の森から鹿にまたがった春日さま(春日大明神)が出迎えました。
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人の神は、伊勢と大和の国境を決めるため笹舟を浮かばせ、巨石を投げ笹舟の留まる処を国境としました。波で笹舟は川上へと流れて、舟戸で止まりました。波は高見山を越え杉谷村で消えました。これ以降、高見山が両国の境となったといわれています。

 創建は648年(大化四年)に、奈良の三笠山から素盞鳴尊と龍神姫尊及び櫛稲田姫尊を勧請しました。710年(和銅三年)興福寺東門院領「閼伽桶(あかおけ)の庄」となり1600年(慶長五年)関ヶ原合戦以降は伊勢領となりました。ちなみに、閼伽(あか)とは神仏に捧げる水をいいます

水屋神社に残る、1373年(南北朝時代文中二年)の棟札(むなふだ)には大和州閼伽桶庄宮と記されており、三殿並立の朱塗の春日造も明治二十五年現在の神名造に改められました。

また清和天皇859年(貞観元年)119日より、春日大社にお水送り(水を奉納)をはじめましたが、1577年(大正5年)の兵乱で途絶えてしまいました。戸

そして平成14年い、425年ぶりに復活し、お水祭りでは閼伽桶(あかおけ)の井戸でくんだ水を、奈良県の春日大社へ神水として奉納されているようです。

 この周辺では戦国時代の初期に、織田信長の伊勢攻めで北畠軍との戦闘の跡がたくさん残っています。

境内にはこの神社の歴史をあらわすように多くの巨樹が所狭しと伸びています。また裏側は櫛田川の清流が流れています。


(ポアロ記)



 

 

 

 

 

 

 

2022年8月23日火曜日

知るを楽しむ(ふるさとの巨樹学会-水屋の大楠)

  先日ふるさとの巨樹学会部長(娘)の案内で三重県松阪市飯高町へ出かけました。和歌山街道166号線を車で40分ほどで到着しました。大楠は水屋神社の神木になっています。樹齢1000年です。大楠の全国で12位、全樹種の中でも16位だそうです。高さは38メートル、幹周は16メートルを超えています。 

バス停がすぐ前(松阪駅から飯高波瀬行き)


国道に面した水屋神社鳥居、奥に大楠が見えています

飯高道の駅から珍布峠ハイキングコース

大楠の根本




神話の世界からの歴史があるようです

神社のすぐ裏は櫛田川の渓谷

始めに水屋神社に参拝しました。神社の境内にはたくさんの巨木があります。大楠のほかにも、ケヤキ、ムク、スギがあります。どの木も高さはとても高くて、見上げるのも一苦労です。人間の命をはるかに超えて、生き続けている巨樹の姿は、長い長い歴史を感じさせてくれます。胸がいっぱいになります。今まで知らなかったふるさとの誇りをかみしめました。

夫婦杉


欅の大木

 ふるさとには、まだまだ巨樹があるとのことです。時間をさいて他の巨樹にも会いに行こうと思います。

(まるこ記)

 

 

 

 

2022年8月9日火曜日

巣ごもりの楽しみ-メダカ生活

  コロナ禍の巣ごもりが始まってからメダカを飼っています。もとは3年前に小川ですくってきたものです。冬越しもして今年の春まで数匹いたのですが少し寂しくなったので今年はお店で6匹購入し仲間を増やしました。

 6月から卵を産みだしたので卵の付いたホテイソウを別の容器に移すとすぐに2mmくらいの針子が泳ぎ出しました。その後何度も孵化を繰り返し、子供たちもどんどん大きくなりました。先日は大きくなった一期生を十数匹隣家の蓮鉢に養子として送り出しました。

隣家のハス鉢へ

 8月に入っても出産が続き、稚魚の容器は針子、保育園、小中校、高校生、親世代と別れています。 

5mmくらいの保育園


小学生になると黒と白がはっきりしてきます

中高生は食欲旺盛

 すべて日本在来種のクロメダカのはずだったのですが大きくなるにつけ白い色の個体が20匹くらい出てきました。突然変異か白メダカの伴性遺伝か? ということで容器を分けてみました。 

メダカの飼育は江戸時代に始まり現在では500種類以上になっているそうです。光るものや、錦鯉のような五色模様のものなど数千円もするものがあるようです。値段にかかわらず日々大きくなるので楽しいものです。エサは子供世代は一日5回ベビー用の細かいもの、親世代は2回与えます。間もなく孫世代が生まれそうです。

(ポアロ記)

2022年8月8日月曜日

 懐かしい思い出(酪農家)

 在仏二十年を超えた娘は、今バカンスで南仏をめぐるプチ旅を楽しんでいます。途中友人宅を訪ねたりもしています。泊めてもらってもいます。そのうちの一人の友人は、職場の元同僚です。彼女は酪農家に嫁ぎました。娘から友人宅の写真が届き、私たちは驚いています。 




   映画やドラマで目にする大邸宅です。酪農家といってもいろいろあると思いますが、経営するにはたくさんの人手が必要です。住居も広ければその世話も大変です。大所帯であれば、一般に言われる家事もたやすいものではありません。酪農家は命ある生き物の世話です。限りあるものではありません。朝は早くからスタートします。暗いうちから起き出して生き物の世話が始まります。娘カップルは、酪農家を間近で見たことはありません。旧交を温め酪農家のルポルタージュをします。私たちはその報告が楽しみです。  
 そこで私は思い出しました。私は酪農家(?)の娘でした。黒牛が一頭、乳牛(ホルスタイン)が三頭、やぎが一頭、鶏は1000羽も飼っていました。どんな暮らしぶりだったのか、おぼろげに思い出します。遠い遠い昔の記憶です。通っていた小学校は、ほとんどが町の子どもたちです。私の家は、農家、酪農家(?)です。自分が田舎の子どもということで、ずっとコンプレックスの塊でした。ふるさとを離れて幾星霜、幼き日の思い出もはるか遠くへ去りました。十人の大家族と生き物たち、ネコも犬も加えて大所帯でした。今回の娘からの便りで、過ぎ去った幼き日の思い出が懐かしくよみがえりました。今に至るすべての人たちに感謝です。 
(まるこ記)

2022年8月7日日曜日

光る木

  先日NHKのテレビ番組「ダーウィンが来た」を見ていて驚きました。東京・奥多摩の大自然を動物写真家が夏限定のお宝探しをする内容です。その中で、真夏だけ光る謎の木が登場しました。よく見ているとたくさんのタマムシが飛んでいます。集まってきています。エノキの大木です。タマムシはエノキの葉が大好きです。天敵の鳥たちは、朝夕に活動します。タマムシたちは、身を守るために、昼間だけ活動します。真夏の太陽のもと、婚活パーティーです。メスを求めてオスは必死に追いかけます。健気な姿です。

 テレビの映像を見ていて懐かしく思い出したことがあります。父はいつもタマムシの羽を大切に持っていました。自宅の藪にあるエノキにタマムシがいることを知り、ある日、落ちていた亡骸を手に入れたそうです。 

私たちが実家の近くに家を建てて二十年が過ぎていますが、時々タマムシのきれいな羽が落ちていました。


そのたびにタマムシの存在を感じて喜んでいました。二年前のことです。お昼ごろエノキのまわりで飛び回るタマムシに気づきました。ポアロがあわてて写真を撮りました。

左の建物が我が家、右が10mくらいの高さのエノキです。
先端のところで数匹が飛び回っています。
(残念ながら小さくて写っていません)


2階の窓から望遠で撮りました

タマムシたちは健在でした。昔も今も、我が家のそばでタマムシが生息しています。感動します。遠い奥多摩まで出かけなくても、タマムシは身近にいるのです。この自然環境がずっと続くことを願っている私たちです。