2012年4月30日月曜日

私の好きなことば 「子供叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ」


 どこかのお寺で目にし、覚えたことばです。
「子供叱るな来た道じゃ」は、小さなミス、些細な失敗を子供がした時に、目くじらを立ててガミガミ、ガチャガチャ叱るのはよくないと言っているように思います。叱るなと言っても、放任し甘やかすのではありません。大事なこと、大切なこと、要所要所では、きちっと子供に教え込まねばなりません。大人が責任と義務と愛情を持って、次世代を担う子供たちを育てなければなりません。大人が何が大切なことなのか、何が枝葉なことなのか、見極める目を持たねばなりません。寛大寛容な子育てが求められると思います。
「年寄り笑うな行く道じゃ」は、年長者を尊び、敬い、愛情を持って接するということだと思います。人間は生まれた時から成長し続け、頂点に達したところから下り坂になります。それは自然の摂理です。子供から青年へそして成年へと成長し、何十年か活動期間が続きます。子供が社会人になり、結婚し親になる頃、定年が近づき身体的にも下降線をたどります。そしてその先には、ピリオドを打つ日が待っています。その日まで誰の世話にもならず、ピンピンコロリと逝けたら幸運ですが、なかなかそううまくはいきません。肉体の老化とともに、いろんな機能の老化が起こってきます。記憶力は低下し、物忘れもひどくなるでしょう。そそうするかもしれません。認知症も起こります。お年寄りのその部分だけを切り取って、笑い者にしてはいけません。一人の人間の全人生を総括的にホリスティックに見なければなりません。そこには寛大寛容な介護が求められると思います。

2012年4月29日日曜日

徒然に想ううた   短歌三首


ゆらゆらと 燃ゆる灯りが 今はなく
       君を見送る 部屋の片隅


もう一度 ケンカができる 幸せを
      願うわがまま 君は去りゆき


スースーと 寝息たてたる 初孫に
       妻の面影 涙あふるる 

2012年4月28日土曜日

「しゃぼん玉に乗って」


しゃぼん玉に 乗って とびたいな
高く 高く 空高く とびたいな
広いお空で 鳥さん達と 遊ぶんだ
追いかけっこして 遊ぶんだ
かくれんぼして 遊ぶんだ

しゃぼん玉に 乗って とびたいな
みんなで一緒に 空高く とびたいな
野原の上を
広い 広い海の上を

とんだよ とんだよ しゃぼん玉
ぐんぐん 上がるよ しゃぼん玉
みんなの お家が 遠くなる
どんどん どんどん 遠くなる
もっともっと 空高く
天まで上がれ しゃぼん玉

2012年4月27日金曜日

音楽療法


 私が、音楽療法の勉強を始めたのは十八年前のことです。きっかけは、母が脳血管性障害による軽い認知症を起こし、暗く沈んだ表情を見せ始めたことからでした。ピアノ教師として、音楽の道を歩んできた私ですが、そのことで何か役立つことがあればと考え、勉強をスタートさせました。
 母の大好きだった歌「みかんの花咲く丘」を、私が弾き始めると、歌詞が自然に出てきて歌い出します。表情も明るくなります。それからは「荒城の月」のメロディーをさぐり弾きします。ちょっとした音楽とのふれあいが、母に喜びをもたらしてくれました。身近で音楽の持つ大きな力に気付かされ、音楽療法という分野をのぞこうと思ったのです。
 音楽療法というと大それた感じですが、日本人誰もが持っている故郷への郷愁は、うさぎ追いしかの山で始まる「ふるさと」を歌い出した時に、胸にジーンと来るものがありますが、これが基本の第一歩です。歌詞とメロディーが、その人の記憶と感性に働きかけ、脳を活性化させ、心の奥に眠っているいろんな感情を呼び起こします。
 音楽療法は、いろんな分野で活用されています。私の母の場合は、高齢者対象ですが、高齢者の病気や加齢による機能の低下を少しでも予防、防止し再活性化させるためのリハビリにも、効果を上げています。年齢に関わらず障害を持っている人や、自閉症、ダウン症などの成長過程にある子供たちにも、音楽療法は用いられています。また刑務所でも、精神的療法の一つとして、音楽が取り入れられています。
 私は、音楽療法のカリキュラムの中で、病院へ実践に行きましたが、入院されている多くの方々、ホスピスにおられる方にとって、音楽が力を発揮するものだと確信しています。まさに音楽の持つ偉大な力です。

2012年4月26日木曜日

ツバメの子育て


今年も、南の国からツバメたちがやってきました。この季節になると、我が家に巣を作り、子育てをしたツバメたちを思い出します。




 大きなニュータウンへ引っ越して、新しい家で生活を始めた頃です。玄関ポーチの軒下に、二羽のツバメが来るようになりました。二羽のツバメは新婚さんです。一生懸命、巣作りが始まりました。ドロや枯れ草などを小さな口ばしでくっつけて、あっという間に完成させました。すると母ツバメは巣にこもり始めました。父ツバメも交代で卵を温め、仲睦まじく、力を合わせての子育てです。卵からヒナがかえり、五羽誕生しました。親ツバメは子供たちにエサを与えるため、忙しそうに交代でエサを取りに出かけます。ヒナはどんどん成長し、親ツバメがエサを運んでくるとにぎやかに鳴くので、家の中にいる私にもそのにぎやかさが聞こえるほどです。ヒナでもフンをする時は、おしりを巣の外に向けてします。小さな巣はすぐに狭くなり、ヒナたちが巣から出始めました。その様子を観察していたところ、親ツバメが子供たちの巣立ちを、手取り足取りのように指導するのです。巣から外へ出て、数メートルずつ飛ぶ練習をします。そして近くの電線へ一羽ずつ飛び上がり、五羽の子供たちが並びます。その次は、もう少し遠いところの電線へ飛ぶ練習です。五羽の子供たちにも、それぞれ性格があります。親の指導にすばやく行動を起こす子と、みんなが飛んだあとに、ゆっくりみんなのまねをして飛ぶ子とあって、見ている私は、思わずニヤニヤしてしまいました。そして飛ぶ練習を重ねて、どんどん遠くへ飛んでいきました。ヒナたちの巣立ちは嬉しいことですが、ツバメ一家の姿が見えなくなって、我が家のポーチは静かになり、そして淋しくなりました。私は、短い間にツバメたちから、夫婦のあり方、子育て、子供をひとり立ちさせる親の姿、など、いろいろ学んだ気がしたのです。

2012年4月25日水曜日

こじんまりに生きる

先日うちのポアロ(夫)が、四十年前の同好の士の集まりに出席しました。四十年という長い歳月を経て、一堂に会するというのはどんなものなのでしょうか。帰ってきての第一声は「みんな昔のままだった」です。四十年前にタイムスリップするのでしょうか。
 海外で長期間にわたり仕事をされてきた方 数名
 大企業の最高ポストにつかれている方   数名
 大学教授をされている方         数名
 高校教員をされてきた方、一流企業で若手社員の指導・育成担当教官をされてきた方、などですが、不思議と自営の方はおられません。昭和46年~47年に工学部を出た人達ですが、日本の高度経済成長の時期で、日本が活気に包まれ、ベビーブーマーが社会へ飛び立った頃です。就職し結婚し子供を育て働き続け、気がついたら四十年が過ぎたのです。そして定年を迎え、それでもまだ働き続けます。現在では七十歳くらいまで仕事を続けたいと、思う人が多いようです。もちろん現役の時とまったく同じ形態の労働ではありません。週に三日~四日ぐらい仕事をするというパターンです。
 同好の士の一人の方から、今回の集まりに欠席するというメールが届きました。その中にとても気になることばがありました。
「何十年大手企業で働いてきて、定年を迎えるまでまだ八年ほどあるという頃に、自分の担当部署がなくなり、そのあと市の福祉関係の場で仕事をしています。私はこじんまりと生きてきました」という内容です。「こじんまりと生きてきた」とは、どんな生き方だったのでしょうか。私は考え込んでしまいました。「こじんまりに生きる」とは。

人間はいろんな欲望、願望を持っていると思います。欲望は限りなく広がっていきます。大志を抱き「出世したい、功績を残したい、お金持ちになりたい」など、欲望、願望はいろいろありますが、その欲望、願望を成就させるために頑張るのだと思います。欲望、願望が頑張るパワーになります。

 私達夫婦は、結婚した時から自分たちの住まいを手に入れたいという夢がありました。そしてその夢の実現のために頑張りました。三十歳でマンションを購入し、将来は一戸建てに住みたいという思いで、立て続けに土地も購入しました。もちろんローンです。転勤になった時、いずれはその地に戻るであろうと思い、人に貸してローン返済にあてました。ところがその地に戻ることはなくなり、次の転勤先で私達の描く一戸建て住宅に出会ったため、マンションと土地は売却しました。仕事を頑張り、子育てにも奮闘し、愛犬二匹との生活も楽しみ、子供たちは巣立ち、愛犬たちは旅立ち、夫婦二人きりになりました。大きな広い家は、淋しいものになったのです。同時にまた転勤となり、都市に小さなマンションを購入しました。思い出いっぱいの住宅は手放すことになりましたが、実家から土地の提供もあり、田舎に自分たちで図面を引き夢の住宅を完成させました。今は、都会暮らしと田舎暮らしをしています。私がこんな話をすると、誰もが「よくそんなことするね、よくそんなことしたね」と、あきれ顔で言います。自分たち二人の手でこんなことをしてきた、できたということは、いろんな面で恵まれていたのだと感謝していますが、「こじんまりに生きる」とは、対象的な生き方のように思います。

 「こじんまりに生きてきた」人の、静かな泰然自若な生き方に、精神的な深みがあるようで魅かれます。ひょっとして、禅の道を歩んでこられたのかもしれません。

 

2012年4月24日火曜日

都をどり ヨーイヤサー

四月二十一日(土曜日)に、生まれて初めての体験をしました。
京都の都をどりに、招待されて行ってきました。つい先日、悲惨な事故が起きた現場からほど近くにある、祇園甲部歌舞練場で、4月1日~4月30日まで行われています。
都をどりは、京都の花街、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東、祇園甲部の合同で開催されます。明治2年の東京遷都で京都が衰退し、その繁栄策として明治5年の京都博覧会の余興に企画されたのが始まりで、その後年中行事となり、今では京都の代表的な催しとなっているとのことです。(途中戦争により休演されたこともありました)

 終始幕を閉めることなく背景を変えることで、場面を変転させながら進めるという編成です。都をどりは全八景の構成で、春から夏、秋、冬そしてまた春へと、1時間の公演時間で四季の移り変わりを、舞台上で表現しています。今年の演目は「平清盛由縁名所」です。

 通されたのは2階桟敷席でした。合計928席ありますが今回の都をどり時は868席とのことで、3階までありますが満席でした。私の席からは、舞台も客席も全体がよく見渡せました。
 長唄、地唄、浄瑠璃に合わせて広げられるきらびやかな踊りには、圧倒させられました。三味線のハギレのよい音色はとてもよかったのですが、長唄、地唄、浄瑠璃のことばの意味がわからず残念でした。(固有名詞はわかりますが)
大勢の芸舞妓が出演しますが、主たる役はベテランの人が演じています。有名な人もおられたようですが、私はよく知りません。最後の第8景フィナーレは、総勢約60名の芸舞妓による豪華で華やかな舞いで圧巻でした。
 小さい時に町に一つあった○○座という劇場へは、何回か祖母につれて行ってもらった記憶がありますが、それ以降舞台でのライブを見たことはありません。久しぶりに昔の○○座を思い出しました。田舎の○○座とは規模も格も違いますが、大正2年竣工のこの歌舞練場は現在有形文化財登録されており、古い建物です。

2012年4月23日月曜日

私の好きなことば「楽は苦の種、苦は楽の種」


 小さい時に覚えたこのことばが、私の生活の基礎となっています。しんどいから後で、面倒だから後でと思う瞬間、このことばが頭にうかんできます。このことばは、母の口癖でした。いつの頃からか、しっかりと私の身にもついたのです。毎日の生活の中で、これを実行することが、気持ちのよいものになりました。
 先に楽をしてしまうと、そのあとの苦が、何倍にも膨らんでしまいます。逆に、先に苦をしてしまうと、そのあとの楽は、何倍もの大きさになるのです。
 なんでもない些細なことから、大きなことまで、日々の暮らしの中で、ぜひ実行してみて下さい。

ことわざ辞典から
 苦楽は交互に訪れるものだから、楽なときでも気をゆるめず、苦しいときでも希望を捨てないで耐えていれば、将来の楽につながるという教え。


類句「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」
 人生には楽しいことばかりがあるわけではないが、苦しいことばかりがあるわけでもない。楽したあとには苦しいことがある。楽ばかりと苦ばかりも続かないが、怠けていると苦労するといういましめ。

2012年4月22日日曜日

「ふるさとのうた」


目をとじれば そこはふるさと
なつかしい山 なつかしい川
なつかしい人々
ちょうちょう追いかけ
走り回った菜の花畑
寝ころんで青空眺めた れんげ畑
私のふるさと 幼き日々


目をとじれば そこはふるさと
美しい山 美しい川
美しい人々
蛍追いかけ 川の中
ズボンぬらしてべそかいた少年時代
湖眺め 友と語った 熱き思いを
私のふるさと 青春時代


夢にまで見る 私のふるさと
素晴らしい山 素晴らしい川
素晴らしい人々
私の初恋 私の恋を 
私の愛を
見つめていてくれる
ふるさと
いつでも私を迎えてくれる
昔も今も
変わらぬふるさと

2012年4月21日土曜日

「虹のトンネル」


見てごらん 虹だよ
ほら あんなに大きな虹だよ
見えるかな 見えるだろ
七つの色が 見えるだろ


七つの色は どんな色
赤 だいだい 黄 緑 青 あい 紫
美しい色だね
さあ 虹のトンネルを くぐろう


くぐろう くぐろう 虹のトンネル
どこまでも どこまでも 続く虹のトンネル
大きな 大きな 虹のトンネル
さあ みんなで くぐろう 虹のトンネル

2012年4月20日金曜日

徒然に想ううた3首


「生きるって どういうこと」と あどけなき

        テレビの声に 我はドッキリ





人の世に 表裏のごとく 苦楽あり

      うたを友とし 我を慰め





摩訶不思議 笑顔の中に 菩薩なく

      薄きこころに 我は苦しむ

2012年4月19日木曜日

私の海 太平洋


私の馴染みの海は、太平洋です。

 若かりし頃、鉄道、船、バスを乗り継いで、家から二時間もかけて、遠くの小学校へ、音楽教室の講師として、毎週通っていました。バスは、海岸線に沿って走り、私は、飽きもせず、毎週太平洋を眺めながら通勤していました。

 太平洋に面する小さな漁村の、小さな小学校の三階にある音楽室を借りて、音楽教室を三クラス開講していました。三階にある音楽教室からは、太平洋が見えます。どこまでも続く美しい海。白い波が寄せては返す、美しくのどかな光景。いつもうっとり眺めていました。

 通い始めて一年が過ぎた頃、私は、太平洋に、四季の表情があることを知りました。

春のきらきら輝く澄みきった青い海、

夏のギラギラ輝く太陽に負けるものかと、同化する元気いっぱいの海、

秋の風情を受けとめるかの穏やかな海、

冬の厳しい寒さの中、小雪が舞い散る紺碧の海、

私は、どの表情も大好きになりました。

 帰りのバスを待つひととき、私は、砂浜を歩きました。

 夏の終わりの、静かな砂浜を「誰もいない海」を、口ずさみながら歩きました。

 春、秋は、レッスンの始まる前に、砂浜でお弁当を食べました。

太平洋の波の音を聞きながら、アメリカ大陸へと広がる海に、自分の未来を重ね、この先には、幸せだけが私を待っていてくれるような、幸福感に浸っていました。

 私の太平洋は、父であり母であり恋人でした。

 今でも、太平洋を無性に見たくなる時があります。

 一年に一度か二度しか行けませんが、太平洋の前に立つと、癒やされ、ホッとする自分がいます。 



    今はもう秋 誰もいない海

    知らん顔して 人がゆきすぎても

    わたしは忘れない

    海に約束したから

・・・・・ ・・・・・

・・・・・・・     

2012年4月18日水曜日

私の好きなことば「信念を持って生きる」


信念を持って生きることは、ブレないものの見方、考え方に通じます。

 人が生きていく途中で、経験したこと、学んだことから拾い上げ、自分の胸の中で、熟成させたことがらが、信念となって、生きる上での指針になります。

 社会の中で、次世代を担う子供たちを導く教育者が、どうして?なぜ?こんなバカげたことをしたのか、できたのかという事件、事故が起こりますが、その人たちは、確たる信念を持って、生きていなかったのではないかと思います。ひょっとして、自分に都合のよい独りよがりの信念を、持っていたのかもしれません。教育者だけにとどまりません。政治家、経済界、スポーツ、芸能界、どの世界にも、そんな人はいると思います。

 信念を持って生きる人を、時には、頑固な人だと言う人が、いるかもしれません。しかし、人にどう思われるかを気にして流されるよりも、しっかりした信念を持って、生きる方がよいのではないでしょうか。

 年齢を重ねて、人間は成長するのだと思いますが、年齢が増えるのみで、中身が伴っていない大人にはなりたくないものです。

 子供から大人へ、青年から成年へ、そして壮年へ、熟年へと、精神が成長して行ってほしいと願います。

2012年4月17日火曜日

「わたしの家族」


 私の家族は、お父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、弟、妹です。

 いつもにぎやかで、毎日けんかも起こります。

 けんかの相手は変わっても、けんかのない日はありません。

 おじいちゃんとおばあちゃんには、時々しか会えません。

 遠くに住んでいるので、お墓参りも年に三回しか行けません。

 お友達は、おじいちゃん、おばあちゃんが、二人ずついます。

 私のお母さんの方のおじいちゃん、おばあちゃんは、ずっと昔になくなっています。

 私はお父さんの方のおじいちゃん、おばあちゃんだけです。

 私は時々考えます。

 私はお父さんとお母さんから生まれた。

 お父さんはおじいちゃんとおばあちゃんから生まれた。

 お母さんもおじいちゃんとおばあちゃんから生まれた。

 私はひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんに、会ったことはありません。

 名前もハッキリ知りません。

 ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんは、四人ずついます。

 またその上のひいひいおじいちゃん、ひいひいおばあちゃんは、八人ずついます。

 私は図を書きました。

 何人の人を通して私のところへたどりつくのか。

 わからなくなりました。

 でも本当に存在しているのです。

 たくさんの人の命から私の命へと続いているのです。


2012年4月16日月曜日

キューピッド

嬉しいニュースがとびこんできました。

 親しくおつき合いをしている女性が、このたび結婚することになりました。恋愛でもなく、お見合いでもなく、コンピューターが、キューピッドになりました。私の年代では、本当に驚くことばかりです。コンピューターに自分の希望を打ち込めば、その条件にぴったりの相手がたくさん出現します。こちらとあちらの条件が合致したところで、次のステップへ進みます。電話でのおしゃべりです。その印象もよくて、会ってみようという気になれば、一回目のデートが行われます。いつでも、どの段階でも、ストップしたいと思ったら断れます。そして、会ってみて、お互いにゴーサインが出れば、デートが重ねられます。始めから、両方が、結婚したいという気持ちでスタートしているので、進行は早いものです。トントンと話が進み、両家の親と会うことになります。いよいよ大詰めです。婚約ということになり、婚約指輪が贈られます。そして結婚式の段取りです。日時、場所が、決まれば、招待客の名簿作りです。同時進行で新居探しが行われます。

 時代は変わったものだと感心します。多くの男性、女性が、お見合いで結婚相手を探す時代は、終わったようです。おせっかいをする町のおばさん、おじさんが、いなくなったようです。お見合い全盛期には、男女の仲を取り持つ世話好きなおばさん、時にはおじさんは、年頃の男女の写真を、風呂敷にいっぱい包んで、持ち歩いていました。結婚適齢期の息子さん娘さんのいる家には、足繁く通い、何とかお見合いにこぎつけるよう、お膳立てしていました。

 私の兄も、二人の姉も、そんなお世話で結婚しています。 
 人と人との縁は、不思議なものです。どんなきっかけであろうと、縁があれば、トントン、話は進んで行きます。とんとん拍子です。
 昔の仲人さんは、コンピューター結婚には、存在しません。
 人間が作ったコンピューターが、人間の生きる道を誘導しています。
 幸せが、生涯にわたり続くことを、祈っています。

2012年4月15日日曜日

わがふるさとの城下町


私の生まれ育った町は、小さな城下町です。天守閣、本丸はありませんが、美しい石垣が残っています。お城は、町の中心地にあり、私の中学校は、お城のふもとにあります。城内には、市の図書館があり、小学校の頃からよく利用していました。古い木造の建物で、長い歴史を感じさせる風格のある図書館でした。現在は、別の場所に近代的な図書館ができて、この古い建物は、なくなってしまいました。町並みも、城下町そのもので、財閥となった旧家の建物もそのまま残っています。

お城へは、よく登りました。はるか遠くに高さ約八百メートルの山を望み、一級河川も近くを流れ、私の家のシンボルである大くすが見えて、田園地帯が広がっていました。

私の部屋から、美しい石垣が見えていました。中学、高校と勉強の合間には、その石垣を眺め、歴史に思いを馳せながら、また、当時流行していた「青春の城下町」を、口ずさみながら、恋に胸をときめかせていました。歌詞の通りの情景を思い描きながら、恋に恋する乙女でした。ふるさとの城下町と、大好きだった歌と、恋とが一緒になって、よみがえってきます。甘酸っぱい想いが、何年たっても胸に広がります。





流れる雲よ 城山に

のぼれば見える 君の家

灯(あか)りが窓に ともるまで

見つめていたっけ 逢いたくて

・・・・・・・ ・・・・・

・・・・・・・ ・・・・・

2012年4月14日土曜日

「今日の私はこんな女の子」


やさしい雨が 静かに静かに降ってます

何だか 今日の私は 静かな女の子

私の心も やさしい雨になりました



やさしい風が そよそよ そよそよ吹いてます

何だか 今日の私は かわいい女の子

私の心も やさしい風になりました



かみなりピカピカ ゴロゴロ鳴ってます

何だか 今日の私は おしゃべりな女の子

私の心も にぎやか雷になりました



お日さまギンギン ギラギラ照ってます

何だか 今日の私は 元気な女の子

私の心も 明るいお日さまになりました



北風ビュービュー 吹いてます

何だか 今日の私は たくましい女の子

私の心も 強い北風になりました

2012年4月13日金曜日

京都 悲惨な事故


412日木曜日午後1時過ぎ京都で悲惨な事故が起きました。

交差点の信号が青で、横断している歩行者の列に、交差する道路から赤信号を無視して猛スピードで車が突っ込んできたのです。歩行者7人が亡くなられ、けが人もたくさん出ました。

 京都四条通りは、観光客が必ず訪れる有名な繁華街です。事故が起きた場所は、南座の近くで、八坂神社、知恩院、高台寺、清水寺、八坂の塔へと、観光ルートが続いているところです。私は、京都が大好きで、今迄に何度も訪ねています。特に春秋はたくさんの観光客が集まります。今、まさに桜の見ごろで、どれほど多くの人が、京都それも四条界隈へ集まっていたかと思うとゾッとします。

 車を運転していた人は、30歳の男性で、てんかんの患者で病院へ通院していたと、病院側の記者会見で知りました。病院側は「車を運転しないようにと、本人、家族に伝えていた」と会見で言っていますが、後のまつりです。てんかん患者さん達の協会は「偏見を持ってもらったら困る」と言っていますが、それは今回のような事故が起きないために、万全の防衛策を講じた後の問題だと思います。たしか以前にもてんかんの発作による事故があったと記憶していますが、病気を持っている人には、同情しますが、今回のような事故は、個人の問題レベルをはるかに超えて、大きな社会問題です。実情を把握している病院、家族は、いつ発作が起きるかわからないのであれば、本人が車の運転をやめない場合は、警察と連絡を取り、運転免許証の返上を強制的にできるなどの、法的措置をとらないと防衛策にならないのではないでしょうか。

 観光で京都を訪れ、桜見物をして昼食も済ませ、これから有名な観光スポットへ行こうと、楽しんでおられた方々、犠牲になられた方々の思いは「なぜこんなところで、こんなことに」だと思います。「ひどい災難に遭った」というだけではすまされません。

 後のまつりにならないために、病院、家族、警察、国、行政に、防衛策を早急に講じてほしいと願います。

2012年4月12日木曜日

医療ミス


「医療ミス」とても恐ろしい言葉です。でもどこかで静かに起こっています。

手術を受ける前には、必ず承諾書を書いて押印して、病院へ提出します。

医師は説明します。「ほとんど何も心配いりません。95パーセントの確率で成功します」残りの5パーセントには、何が起こるか誰にもわからないことであり、想定できないことが起こった場合の為の数値です。患者は、まないたの上の鯉です。どうしようもありません。運を神・仏に任せるのみです。

 知人の女性は、この5パーセントに当たってしまいました。運が悪いとしか言いようがありません。胃がんの疑いありとのことで、内視鏡手術を受けたのですが、患部を少し取り除くのが、少し余分にえぐられてしまったのです。胃壁に穴が開いてしまい、すぐ腹膜炎を起こし、患者本人は、息もたえだえになりました。

 手術前の医師の説明は、前述の通りです。
ほとんどの人が、まさか自分が5パーセントの中に入るとは思いません。でも誰かは、この5パーセントの中に入っているのです。

 医学は進歩し、医療技術も日本は先進国です。しかし医師も人間です。完璧ではありません。失敗しながら上達していきます。人は皆、その5パーセントの中へ自分が入らないように、祈るだけです。

  知人の一日も早い快復を心から願っています。

2012年4月11日水曜日

私の好きなことば「思うがままに生きる」


    思うがままとは、自分勝手にということではありません。
 自分の言動に責任を持って、後悔しないように、信念を持って、覚悟を持って、一回きりの人生を歩くということです。
 自分の信じる道を、胸を張って堂々と生き抜くということです。
人を不幸にして、自分の幸せは得られません。
人を傷つけて、自分の幸せは得られません。
天を仰いで唾を吐けば、自分の顔に落ちてきます。すなわち因果応報です。自分の犯した罪の報いは、結局自分の身に返ってきます。
たくさんの誘惑が、溢れている世の中です。よく考え、見極める目を持って、歩いていかねばなりません。
人間は、欲望の塊です。それを知った上で、わきまえて、欲望に振り回されないように、克己心を持たねばなりません。
人間の心の中には、二つの心があります。頑張る心と怠ける心です。全力疾走ばかりでは、体がもちません。ゴムが伸びたり縮んだりするように、二つの心を、うまくコントロールすることが大切です。
最期のその時に、自分の人生を、清々しく、振り返ることができるようにしたいものです。
現在、百五歳の昇地三郎氏は、言っておられます。
「人生とは、自分との戦いである」と。

2012年4月10日火曜日

ひっかかりました、騙されました


オレオレ詐欺や振り込め詐欺の被害が、まだまだ増加している今日この頃ですが、ニュースでその実情を知るたびに、何故?どうして?と、騙される人の多いことに驚いていました。ところが、何と自分の身近にいる人が、その被害者となってしまったのです。被害者の多くは、独居老人です。

 知人の一人暮らしの高齢男性が、被害を受けました。親切を装い、独居老人に近づき、言葉巧みに投資話をもちかけ、信用させました。その男性は、元警察官です。と言ってもその職を離れて早三十年、長男、妻に先立たれ、一人暮らしをしていました。とても静かな、知性溢れる人です。とても善良な人です。どういう経過をたどって、こんなことになったのかは、詳しくは知りませんが、結果として多額な損害を被りました。手口は巧妙で、裁判を起こしても、取られたお金は、手元へ戻ることはないようです。法すれすれのやり方で、取られてしまいました。何と言っても、本人を銀行のATMへ、連れて行っての犯行です。

一人暮らしの高齢者の心の内を見透かし、うまくあやつる知能犯です。

独居老人が狙われていますが、孤独な暮らしの中へ忍び寄る悪魔としかいいようがありません。

老いて迎える孤独、淋しさ、ここに、被害にあわない為のキーワードが、あるのではないかと考えてしまいます。

2012年4月9日月曜日

五十五年前の私の暮らし


今から五十五年前の私の暮らしについて、思い出しながら書いてみようと思います。

 「昔、昔、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」昔話「ももたろう」の始まりの部分です。
小さい時の記憶としてハッキリ覚えているのは、家族で山へ柴刈りに行ったことです。リヤカーで家族六人と犬の「はり」とで、年に数回、山へ柴刈りに行きました。幼い私は、行きも帰りもリヤカーに乗せてもらい、楽しい楽しいピクニック気分でした。山では、家族全員で柴を集め、リヤカーいっぱいになるまで頑張りました。お昼は、おいしいおにぎりです。山には、たくさんのうさぎがいるので、コロコロの小さなフンが、あちこちにありました。
 山で刈った柴は、毎日、米や野菜などを煮炊きするかまどや、お風呂をわかす燃料になりました。煙突を使うので、父はよく煙突掃除をしていました。(チムチムニーチムチムニーチムチムチェルーおいらは煙突そうじやさん です)
 お風呂は、ごえもん風呂なので、お湯につかっている時に、追い焚きをしてもらうと、風呂釜がチクチクと熱くなるので「やりがさす」と、言っていました。
 水はもちろん井戸水です。炊事、洗濯、風呂、すべて井戸水でまかないました。畑でとれたトマトを水かめに入れておくと、今の冷蔵庫と同じくらい冷たくなって、いつもよく冷えたトマトを食べていました。
 食料もほとんど自家製です。米、麦、野菜、果物、みそ、しょうゆ、つけもの、卵、牛乳、などです。
 鶏舎では、たくさんのニワトリを飼い、卵は店で売ってもらいます。
乳牛は二頭いて、搾乳して販売店へ届けます。
野菜類も自宅で食べきれないので、八百屋の店頭へ並べてもらいます。
年末には、おもちをつき、旧正月には、かきもち、あられを作ります。
お茶も作っているので、春は、摘み取りから製茶工場までの運搬も大変です。
夏が来る前には、麦を製麺所へ持ち込み、ひやむぎやそうめんを作ってもらいます。
畑でとれた小豆を煮て、あんを作りおはぎもできます。おぜんざいもできます。
大豆からきなこも作ります。
梅から梅酒も作ります。
菜の花からなたね油も作ります。
パンも母がパンがまで焼いてくれました。
買うものは、肉・魚だけです。
子供たちの着る服も手作りでした。
暖房は、炭を使った炬燵と湯たんぽです。
田舎の古い大きな家は、すき間風が、スースー入ります。
冬は寒いかわりに、夏は、気持ちよい風が、通りぬけます。

今、思えば、その頃の私の家の暮らしは、自然の恵みをたくさん頂き、自給自足に近いものでした。現在の日本で、こういうことができたなら、原発も必要でなくなります。
しかし、社会の変化(第一次産業から、第二次、第三次産業へ重心が動いたこと)と共に、私が、子供の頃に経験した暮らしを、実現することは、難しくなりました。
実現できる生活の知恵を、五十五年前の暮らしから、拾い上げねばならない時に、来ていると思います。

2012年4月8日日曜日

父の口癖


  父の口癖は「生活はリズムだリズムだ」でした。
母が心筋梗塞で突然亡くなり、そのあと十年、父は一人暮らしをしました。
朝起きてまず始めに、仏壇の扉を開けて母への挨拶です。そして玄関まわりの掃除をします。ほうきで掃いて、そのあと水撒きです。
掃除を済ませば朝食です。パンを食べたり、ごはんを食べたりですが、毎日欠かさずに食べるものがあります。それは、バナナとプリンです。
朝食が済めば、日向ぼっこしながらの新聞読みです。
それから前日の寝る前に、書いたメモを見ながら、活動がスタートします。
買い物するものは何か、しなければならない用事は何か、しっかりメモが書かれています。
掃除、朝食、新聞読みが終われば、おもむろに衣装替えが始まります。
靴下、シャツ、ブレザー、ズボンが、お出かけようにかわります。
おしゃれな父は、毎日身だしなみをビシッときめて、車でお出かけです。
大きな書店が二軒あるので、交互に寄っては、本を買います。本が大好きな父は、どれだけたくさんの本を買ったことでしょう。本が我が友となっていました。晩年は、その多くの本を、ダンボール箱へ詰めては、市の図書館へ運び、寄贈していました。
本屋のあとは、スーパーへ寄り、昼食、夕食の食料と、おやつを買います。
昼食のあとは、テレビをつけて、テレビの前で、買ってきた本を読みながら、少しうとうとします。甘党の父の、三時のおやつは和菓子です。
それから趣味の小箱作りをします。木箱、紙箱の外側へ和紙や千代紙を張って、おしゃれな小物入れができあがります。もともと手が器用で物作りが好きだった父は、子供達が独立したあと、能面作り、七宝焼きに熱中しました。能面は神社や菩提寺に奉納し、子供達や親しい人にプレゼントしていました。我が家にも、小面と中将が、飾られています。
七宝焼きは、大きい作品は額に入れて壁に飾り、小さい作品は、ブローチ、イヤリング、ペンダント、ネクタイピンなどになりました。
かわいい小物入れの小箱は、孫達が取り合ってもらっていました。
父の一日のしめくくりは、母にお休みの挨拶をして、仏壇の扉を閉めることでした。
母亡きあと十年「生活はリズムだリズムだ」と言いながら、一人暮らしを続けた父は、八十六歳迄、車に乗り活動的に過ごしましたが、八十八歳の誕生日を迎えたあと、あっけなく母の元へ旅立ちました。
父は「生活はリズムだリズムだ」と言いながら、自分を奮い立たせ、孤独な日々を、乗り越えていたのかもしれません。

2012年4月7日土曜日

「悲しいお話」



私の大好きな おばあちゃんが
いなくなりました
眠ったままで 呼んでも 呼んでも
目をあけません
体が冷たく冷たくなっていきます
おばあちゃん どうしたの
私にお話しして下さい

おばあちゃんが 煙になって
お空へ昇って行くなんて
魔法使いのしわざかな
「おばあちゃんは お空のお星さまになるんだよ」
パパとママは 言いました

いつもいつも おばあちゃんの
お星さまを 探しています
一番大きい星が おばあちゃん
一番きれいな星が おばあちゃん
も一度 会いたいな おばあちゃん
も一度 お話ししたいな おばあちゃん
私の大好きな おばあちゃん

2012年4月6日金曜日

ホットタイム・湯の友


 ホットタイム・湯の友


 かわいいプレゼントが届きました。ケロンタです。

 お湯につかるとおしゃべりします。かえるの子、ケロンタです。

うたも上手に歌います。かわいいケロンタです。

おしゃべりは17種類、はなうたは3種類あります。

驚くことに、タイミングよくその場に合ったセリフをしゃべります。

お湯につかると「わーい、お風呂!」「お風呂だーいすき」「いいきもちー」「一緒にあったまろー」

お湯から出すと「まだ出たくないよー」これには、びっくりです。

日本人は、お風呂が大好きです。

お風呂は一日の疲れをとり、心身を癒してくれる、まさにホットタイムです。

心身が寛ぐお風呂で、ケロンタのおしゃべりや、はなうたを聞くと、なおいっそう心身が癒されます。

顔もニコッと、心もホワッとします。

子供が小さかった時に、お風呂で浮かして遊ぶおもちゃは、いろいろありました。

金魚、イルカ、あひるの親子など、でもおしゃべりしたり、はなうたを歌うようなものは、ありませんでした。

いつ頃からこのようなものが、登場したのかは、わかりませんが、小さな子供たちは、

さぞかし喜んでお風呂へ入っていることでしょう。

立派な大人も、このケロンタは、ホットタイム・湯の友です。

プレゼントしてくれたあの人に感謝です。

本当にありがとう。

毎日楽しく、ケロンタと一緒に、ホットタイムを過ごしています。

2012年4月5日木曜日

「高齢者介護の社会化について」(3)

(3) 

 連合軍は、日本の封建的なあり方を改廃するために、憲法の改正を要請し、「家制度」によらない新しい家族のあり方を示しました。これにより「家」に関する規定が廃止され、家督相続者にもとめられていた親扶養義務規定も修正されました。しかしこうした法律の変化が、すぐに人々の家族のあり方を変えたかというとそうではありません。民法の改正後も実態としては、多くの高齢者は、子ども、とくに長男家族と同居する形は続いていました。実態としての家族のあり方に、大きな影響を与えたのは、1960年代に起こった高度経済成長です。

 今の日本は、長命社会になり、高齢者介護の問題は、特定の一部の人の問題ではなく、国民共通の普遍的な問題となってきています。1970年代後半から80年代末までの10年以上にわたり、「日本型福祉社会」政策がとられてきましたが、個人の自助努力を基礎とし、家族による相互扶助を基軸に据えた福祉政策は、経済が高度に発展し、長命社会に突入した日本では破綻せざるをえません。

 高齢者の介護は、負担する家族に、肉体的、精神的、経済的重圧となり、心で想う介護が、全うできず、家族の崩壊や離職をはじめ様々な家庭的悲劇の原因となっており、社会

全体で担う「介護の社会化」が必要となってきたのです。家庭内介護が八方ふさがりとなり、心中や殺人といった事件が後をたちませんが、介護の社会化により家庭、家族という狭い枠に押し込めないで、社会の中の一員というつながりで高齢社会を乗り切っていかねばならないと考えます。

 私は5年前にホームヘルパー2級を取り、高齢者に関する勉強、実践をしました。それと同時にお話を聴くボランティアを始め、施設、有料老人ホームで高齢の方々に接しています。自分が要介護になった時、誰に介護をしてもらいたいかという高齢者の意識もずいぶん変化してきました。以前は子どもに世話になりたいと思う高齢者が多かったのですが、核家族化が進み夫婦二人暮らしの場合は、配偶者を頼りにしている人が多いです。このことが老老介護となり、共倒れを引き起こしたりしています。

子どもに世話になりたいと思っても、核家族化が進み、同居率は低下し、女性の社会進出も進み、家庭内介護は難しくなってきました。そういう時代背景があり、高齢者介護が、私的介護から公的介護へと、社会化せざるをえなかったのです。高齢者自身も、新たな家族のあり方を、模索し始めています。介護保険制度ができて、在宅介護もできるようになってきました。

 私の両親も、子どもが独立したあと、二十年夫婦二人暮らしをしてきましたが,母が心筋梗塞で突然亡くなり、父は一人になりました。介護が必要になってきた段階で、三人の子どもの支えと、デイサービス、在宅介護支援の利用で施設への入所はせず、最後は病院で亡くなりました。母が亡くなったあと、父は、一人で十年を生きました。父は、いろんな状況、環境に恵まれていた方だと思っています。

おわり

2012年4月4日水曜日

「高齢者介護の社会化について」(2)


(2) 

 高度経済成長を背景にして、日本が経済発展し、豊かな社会になることを目標としてつき進んできた、日本の現代社会は、豊かな社会のみが直面する問題として、高齢者の介護問題があります。経済が高度に発展し始めると、都市への人口の集中、女性の労働市場への進出、核家族化などが進みます。家族による要介護高齢者の家庭内介護が、困難・不可能になった直接的な理由として、

 ●要介護高齢者の増加、介護期間の長期化、老老介護などに見られる長命社会が実現したことによる影響

 ●都市への人口の集中(過疎化の進行)、核家族化の進行、一人暮らしや夫婦のみで暮らす高齢者の増加(子どもとの同居率の低下)、働く女性の増加、などにより生じた家族の介護機能の低下

が、あげられます。

 人口の高齢化にともなって、高齢者の単身世帯や夫婦のみの世帯の増加が目立っています。かつては家制度のもと、子(特に長男)が、高齢となった親と同居し扶養することを期待されていました。現在では、こうした家族規範が揺らぎ、高齢者と家族との関係は多様となってきています。このような変化は、社会の変化や制度の変化の中で生まれてきています。つまり歴史的変化といえます。第二次大戦前の日本の家族のあり方を特徴づけるのは、「家制度」です。「家制度」は、家の統率者である戸主に、大きな権限を与える制度です。その戸主は、家督相続によって、長男に継承されることを原則としています。老親の扶養は、そのような家督を相続した戸主の義務でもありました。このような家族のあり方は、1898年に公布施行された明治民法によって規定されていました。家制度の原型は、武家社会に広がっていた風習であり、日本社会に共通してみられた風習というわけではありませんが、明治政府は、武家の風習を採用し、社会全体に広めたのです。明治期に民法の中で規定された家制度はその後、日本社会に広く行き渡り、現在にいたるまで、親との関係を含めて、家族のあり方に色濃く影響を与えています。しかし戦後における民法の改正の中で、この明治民法の「家制度」は、法律上から姿を消します。


つづく

2012年4月3日火曜日

「高齢者介護の社会化について」(1)

                                (1)
 

 長寿大国となった日本の高齢者介護の社会化について、私の思うところを書いてみようと思います。

 家族の形や、高齢者と家族の関係も、時代や社会が変化する中で、変わっていくものですが、家族介護が困難・不可能になり、高齢者介護が、私的介護から公的介護へと移行せざるをえない理由として

1.大家族から核家族への変化

2.地域コミュニティの希薄化

3.女性の社会進出が進んだことによる家族の介護機能の低下

4.子どもとの同居率の低下

5.短命社会から長命社会への急激な変化(要介護高齢者の増加、介護期間の長期化)

があげられます。

 その背景として、農業、林業、漁業などの第1次産業を中心とした産業のあり方から、第2次産業、第3次産業などを中心とした産業へと、大きく変化した高度経済成長があります。このことは、家族のあり方に大きな影響をあたえました。産業構造の変化の中で、人々はふるさとを離れ、都市へと仕事を求めて移り住み、工場や会社などで、賃金労働者となっていきました。そこで結婚し家族を形成しましたが、それは夫婦と子供だけの小規模な家族、つまり核家族です。男性が外で働き、女性が家庭内の家事育児を行うという、性別役割がより強固になり、専業主婦率が高くなりました。

 平均寿命が延び、高齢者を取り囲む家族のあり方が変化し、地域の相互扶助のネットワークからも孤立しがちな状況で、高齢者の介護を、家族だけで行うのがいかに難しいか、高齢者介護の問題が社会問題となりました。女性も性別役割のあり方に疑問を持ち始め、老親の介護を、女性だけが引き受けることを期待することは、難しくなりました。かつては家庭の中で行われていた、出産、育児、高齢者介護、死の看取りなどは、家庭の外に出て行き、専門家や専門施設に委ねられるようになり、家事機能の外部化、家事機能の社会化という現象が起きてくるようになりました。

 私は、8人家族の大家族で、地域の人々との絆も強く、祖父も祖母も自宅で見送りました。家庭の中での親の介護は、父が一人っ子だったため、母の背中に重くのしかかり、子どもだった私の目にその大変さがしっかりとやきついています。

 日本の社会の変化を知っている者にとって、高齢者介護の社会化は、いろんな面で良いことだと考えます。これからの課題は、高齢者の心をどのようにケアしていけるかということです。現在、お話を聴くボランティアとして、多くの高齢の方々に接していますが、そのことを強く感じています。

つづく

2012年4月2日月曜日

ボランティア


  今日は、ボランティアに行ってきました。お話を聴かせて頂くボランティアです。このボランティアに出会ったのは、十年前のことです。ホスピスや高齢の方々を訪ね、そばに寄り添い、ただひたすらお話を聴くのです。聞くのではなく、心をこめて、全身で耳を傾けて、聴くのです。人間にとって、最も大切なものは、地位や名誉、お金ではなく、愛だと、とらえている私にとって、このボランティアとの出会いは、まさにぴったりのものでした。

 人の悩みや痛み苦しみを、お話を聴くというスキルを使って、救うことができるのです。大きな援助となることができるのです。人と人が支え合い、援助し合う。お話を聴くということの偉大な力、大きな魅力に、引きつけられました。

 高齢の方々を訪ね、いろんなお話を聴かせて頂くボランティアとして、私は、毎週一回出かけています。回を重ねていくうちに、少しずつ癒されている自分に気付きました。これこそがボランティアの真髄だということも知りました。援助する者、援助される者、という関係でなく、お互いに何かをもらうのです。それは生きる力です。私の親世代の方々に、接しているうち、今まで自分が苦しみとして、苦しんできたことが、何とちっぽけなことに、振り回されてきたのかという考えを、持つことができるようになったのです。人間の強さ、素晴らしさを、教えてもらったのです。

人の数だけの人生があり、皆それぞれ悩み苦しみ悲しみを持って生きているのです。それでも、人間は、それに負けない強さを持っているのです。ボランティア活動を始めたことによって、人との出会いがあり、人生勉強もさせて頂いています。スケールの大きい、懐の大きい人間になれるという未知数の人間。ゴールを目指し、生涯を通して、成長することのできる人間。たくさんの感動をもらっています。

2012年4月1日日曜日

「蜃気楼のように」


「僕達は 蜃気楼のようだ」
ポツリと言った 悲しいひとこと
真実の愛を求めて
ただそれなのに

蜃気楼は夢
それでも幸せ
私のそばに
あなたがいるという
ただそれだけで
すごく幸せ

蜃気楼は幻
それでも幸せ
ずっとずっと
消えないように

あなたと過ごした
短い日々
懐かしい思い出
蜃気楼のように