2012年4月9日月曜日

五十五年前の私の暮らし


今から五十五年前の私の暮らしについて、思い出しながら書いてみようと思います。

 「昔、昔、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」昔話「ももたろう」の始まりの部分です。
小さい時の記憶としてハッキリ覚えているのは、家族で山へ柴刈りに行ったことです。リヤカーで家族六人と犬の「はり」とで、年に数回、山へ柴刈りに行きました。幼い私は、行きも帰りもリヤカーに乗せてもらい、楽しい楽しいピクニック気分でした。山では、家族全員で柴を集め、リヤカーいっぱいになるまで頑張りました。お昼は、おいしいおにぎりです。山には、たくさんのうさぎがいるので、コロコロの小さなフンが、あちこちにありました。
 山で刈った柴は、毎日、米や野菜などを煮炊きするかまどや、お風呂をわかす燃料になりました。煙突を使うので、父はよく煙突掃除をしていました。(チムチムニーチムチムニーチムチムチェルーおいらは煙突そうじやさん です)
 お風呂は、ごえもん風呂なので、お湯につかっている時に、追い焚きをしてもらうと、風呂釜がチクチクと熱くなるので「やりがさす」と、言っていました。
 水はもちろん井戸水です。炊事、洗濯、風呂、すべて井戸水でまかないました。畑でとれたトマトを水かめに入れておくと、今の冷蔵庫と同じくらい冷たくなって、いつもよく冷えたトマトを食べていました。
 食料もほとんど自家製です。米、麦、野菜、果物、みそ、しょうゆ、つけもの、卵、牛乳、などです。
 鶏舎では、たくさんのニワトリを飼い、卵は店で売ってもらいます。
乳牛は二頭いて、搾乳して販売店へ届けます。
野菜類も自宅で食べきれないので、八百屋の店頭へ並べてもらいます。
年末には、おもちをつき、旧正月には、かきもち、あられを作ります。
お茶も作っているので、春は、摘み取りから製茶工場までの運搬も大変です。
夏が来る前には、麦を製麺所へ持ち込み、ひやむぎやそうめんを作ってもらいます。
畑でとれた小豆を煮て、あんを作りおはぎもできます。おぜんざいもできます。
大豆からきなこも作ります。
梅から梅酒も作ります。
菜の花からなたね油も作ります。
パンも母がパンがまで焼いてくれました。
買うものは、肉・魚だけです。
子供たちの着る服も手作りでした。
暖房は、炭を使った炬燵と湯たんぽです。
田舎の古い大きな家は、すき間風が、スースー入ります。
冬は寒いかわりに、夏は、気持ちよい風が、通りぬけます。

今、思えば、その頃の私の家の暮らしは、自然の恵みをたくさん頂き、自給自足に近いものでした。現在の日本で、こういうことができたなら、原発も必要でなくなります。
しかし、社会の変化(第一次産業から、第二次、第三次産業へ重心が動いたこと)と共に、私が、子供の頃に経験した暮らしを、実現することは、難しくなりました。
実現できる生活の知恵を、五十五年前の暮らしから、拾い上げねばならない時に、来ていると思います。

2012年4月8日日曜日

父の口癖


  父の口癖は「生活はリズムだリズムだ」でした。
母が心筋梗塞で突然亡くなり、そのあと十年、父は一人暮らしをしました。
朝起きてまず始めに、仏壇の扉を開けて母への挨拶です。そして玄関まわりの掃除をします。ほうきで掃いて、そのあと水撒きです。
掃除を済ませば朝食です。パンを食べたり、ごはんを食べたりですが、毎日欠かさずに食べるものがあります。それは、バナナとプリンです。
朝食が済めば、日向ぼっこしながらの新聞読みです。
それから前日の寝る前に、書いたメモを見ながら、活動がスタートします。
買い物するものは何か、しなければならない用事は何か、しっかりメモが書かれています。
掃除、朝食、新聞読みが終われば、おもむろに衣装替えが始まります。
靴下、シャツ、ブレザー、ズボンが、お出かけようにかわります。
おしゃれな父は、毎日身だしなみをビシッときめて、車でお出かけです。
大きな書店が二軒あるので、交互に寄っては、本を買います。本が大好きな父は、どれだけたくさんの本を買ったことでしょう。本が我が友となっていました。晩年は、その多くの本を、ダンボール箱へ詰めては、市の図書館へ運び、寄贈していました。
本屋のあとは、スーパーへ寄り、昼食、夕食の食料と、おやつを買います。
昼食のあとは、テレビをつけて、テレビの前で、買ってきた本を読みながら、少しうとうとします。甘党の父の、三時のおやつは和菓子です。
それから趣味の小箱作りをします。木箱、紙箱の外側へ和紙や千代紙を張って、おしゃれな小物入れができあがります。もともと手が器用で物作りが好きだった父は、子供達が独立したあと、能面作り、七宝焼きに熱中しました。能面は神社や菩提寺に奉納し、子供達や親しい人にプレゼントしていました。我が家にも、小面と中将が、飾られています。
七宝焼きは、大きい作品は額に入れて壁に飾り、小さい作品は、ブローチ、イヤリング、ペンダント、ネクタイピンなどになりました。
かわいい小物入れの小箱は、孫達が取り合ってもらっていました。
父の一日のしめくくりは、母にお休みの挨拶をして、仏壇の扉を閉めることでした。
母亡きあと十年「生活はリズムだリズムだ」と言いながら、一人暮らしを続けた父は、八十六歳迄、車に乗り活動的に過ごしましたが、八十八歳の誕生日を迎えたあと、あっけなく母の元へ旅立ちました。
父は「生活はリズムだリズムだ」と言いながら、自分を奮い立たせ、孤独な日々を、乗り越えていたのかもしれません。

2012年4月7日土曜日

「悲しいお話」



私の大好きな おばあちゃんが
いなくなりました
眠ったままで 呼んでも 呼んでも
目をあけません
体が冷たく冷たくなっていきます
おばあちゃん どうしたの
私にお話しして下さい

おばあちゃんが 煙になって
お空へ昇って行くなんて
魔法使いのしわざかな
「おばあちゃんは お空のお星さまになるんだよ」
パパとママは 言いました

いつもいつも おばあちゃんの
お星さまを 探しています
一番大きい星が おばあちゃん
一番きれいな星が おばあちゃん
も一度 会いたいな おばあちゃん
も一度 お話ししたいな おばあちゃん
私の大好きな おばあちゃん

2012年4月6日金曜日

ホットタイム・湯の友


 ホットタイム・湯の友


 かわいいプレゼントが届きました。ケロンタです。

 お湯につかるとおしゃべりします。かえるの子、ケロンタです。

うたも上手に歌います。かわいいケロンタです。

おしゃべりは17種類、はなうたは3種類あります。

驚くことに、タイミングよくその場に合ったセリフをしゃべります。

お湯につかると「わーい、お風呂!」「お風呂だーいすき」「いいきもちー」「一緒にあったまろー」

お湯から出すと「まだ出たくないよー」これには、びっくりです。

日本人は、お風呂が大好きです。

お風呂は一日の疲れをとり、心身を癒してくれる、まさにホットタイムです。

心身が寛ぐお風呂で、ケロンタのおしゃべりや、はなうたを聞くと、なおいっそう心身が癒されます。

顔もニコッと、心もホワッとします。

子供が小さかった時に、お風呂で浮かして遊ぶおもちゃは、いろいろありました。

金魚、イルカ、あひるの親子など、でもおしゃべりしたり、はなうたを歌うようなものは、ありませんでした。

いつ頃からこのようなものが、登場したのかは、わかりませんが、小さな子供たちは、

さぞかし喜んでお風呂へ入っていることでしょう。

立派な大人も、このケロンタは、ホットタイム・湯の友です。

プレゼントしてくれたあの人に感謝です。

本当にありがとう。

毎日楽しく、ケロンタと一緒に、ホットタイムを過ごしています。

2012年4月5日木曜日

「高齢者介護の社会化について」(3)

(3) 

 連合軍は、日本の封建的なあり方を改廃するために、憲法の改正を要請し、「家制度」によらない新しい家族のあり方を示しました。これにより「家」に関する規定が廃止され、家督相続者にもとめられていた親扶養義務規定も修正されました。しかしこうした法律の変化が、すぐに人々の家族のあり方を変えたかというとそうではありません。民法の改正後も実態としては、多くの高齢者は、子ども、とくに長男家族と同居する形は続いていました。実態としての家族のあり方に、大きな影響を与えたのは、1960年代に起こった高度経済成長です。

 今の日本は、長命社会になり、高齢者介護の問題は、特定の一部の人の問題ではなく、国民共通の普遍的な問題となってきています。1970年代後半から80年代末までの10年以上にわたり、「日本型福祉社会」政策がとられてきましたが、個人の自助努力を基礎とし、家族による相互扶助を基軸に据えた福祉政策は、経済が高度に発展し、長命社会に突入した日本では破綻せざるをえません。

 高齢者の介護は、負担する家族に、肉体的、精神的、経済的重圧となり、心で想う介護が、全うできず、家族の崩壊や離職をはじめ様々な家庭的悲劇の原因となっており、社会

全体で担う「介護の社会化」が必要となってきたのです。家庭内介護が八方ふさがりとなり、心中や殺人といった事件が後をたちませんが、介護の社会化により家庭、家族という狭い枠に押し込めないで、社会の中の一員というつながりで高齢社会を乗り切っていかねばならないと考えます。

 私は5年前にホームヘルパー2級を取り、高齢者に関する勉強、実践をしました。それと同時にお話を聴くボランティアを始め、施設、有料老人ホームで高齢の方々に接しています。自分が要介護になった時、誰に介護をしてもらいたいかという高齢者の意識もずいぶん変化してきました。以前は子どもに世話になりたいと思う高齢者が多かったのですが、核家族化が進み夫婦二人暮らしの場合は、配偶者を頼りにしている人が多いです。このことが老老介護となり、共倒れを引き起こしたりしています。

子どもに世話になりたいと思っても、核家族化が進み、同居率は低下し、女性の社会進出も進み、家庭内介護は難しくなってきました。そういう時代背景があり、高齢者介護が、私的介護から公的介護へと、社会化せざるをえなかったのです。高齢者自身も、新たな家族のあり方を、模索し始めています。介護保険制度ができて、在宅介護もできるようになってきました。

 私の両親も、子どもが独立したあと、二十年夫婦二人暮らしをしてきましたが,母が心筋梗塞で突然亡くなり、父は一人になりました。介護が必要になってきた段階で、三人の子どもの支えと、デイサービス、在宅介護支援の利用で施設への入所はせず、最後は病院で亡くなりました。母が亡くなったあと、父は、一人で十年を生きました。父は、いろんな状況、環境に恵まれていた方だと思っています。

おわり

2012年4月4日水曜日

「高齢者介護の社会化について」(2)


(2) 

 高度経済成長を背景にして、日本が経済発展し、豊かな社会になることを目標としてつき進んできた、日本の現代社会は、豊かな社会のみが直面する問題として、高齢者の介護問題があります。経済が高度に発展し始めると、都市への人口の集中、女性の労働市場への進出、核家族化などが進みます。家族による要介護高齢者の家庭内介護が、困難・不可能になった直接的な理由として、

 ●要介護高齢者の増加、介護期間の長期化、老老介護などに見られる長命社会が実現したことによる影響

 ●都市への人口の集中(過疎化の進行)、核家族化の進行、一人暮らしや夫婦のみで暮らす高齢者の増加(子どもとの同居率の低下)、働く女性の増加、などにより生じた家族の介護機能の低下

が、あげられます。

 人口の高齢化にともなって、高齢者の単身世帯や夫婦のみの世帯の増加が目立っています。かつては家制度のもと、子(特に長男)が、高齢となった親と同居し扶養することを期待されていました。現在では、こうした家族規範が揺らぎ、高齢者と家族との関係は多様となってきています。このような変化は、社会の変化や制度の変化の中で生まれてきています。つまり歴史的変化といえます。第二次大戦前の日本の家族のあり方を特徴づけるのは、「家制度」です。「家制度」は、家の統率者である戸主に、大きな権限を与える制度です。その戸主は、家督相続によって、長男に継承されることを原則としています。老親の扶養は、そのような家督を相続した戸主の義務でもありました。このような家族のあり方は、1898年に公布施行された明治民法によって規定されていました。家制度の原型は、武家社会に広がっていた風習であり、日本社会に共通してみられた風習というわけではありませんが、明治政府は、武家の風習を採用し、社会全体に広めたのです。明治期に民法の中で規定された家制度はその後、日本社会に広く行き渡り、現在にいたるまで、親との関係を含めて、家族のあり方に色濃く影響を与えています。しかし戦後における民法の改正の中で、この明治民法の「家制度」は、法律上から姿を消します。


つづく

2012年4月3日火曜日

「高齢者介護の社会化について」(1)

                                (1)
 

 長寿大国となった日本の高齢者介護の社会化について、私の思うところを書いてみようと思います。

 家族の形や、高齢者と家族の関係も、時代や社会が変化する中で、変わっていくものですが、家族介護が困難・不可能になり、高齢者介護が、私的介護から公的介護へと移行せざるをえない理由として

1.大家族から核家族への変化

2.地域コミュニティの希薄化

3.女性の社会進出が進んだことによる家族の介護機能の低下

4.子どもとの同居率の低下

5.短命社会から長命社会への急激な変化(要介護高齢者の増加、介護期間の長期化)

があげられます。

 その背景として、農業、林業、漁業などの第1次産業を中心とした産業のあり方から、第2次産業、第3次産業などを中心とした産業へと、大きく変化した高度経済成長があります。このことは、家族のあり方に大きな影響をあたえました。産業構造の変化の中で、人々はふるさとを離れ、都市へと仕事を求めて移り住み、工場や会社などで、賃金労働者となっていきました。そこで結婚し家族を形成しましたが、それは夫婦と子供だけの小規模な家族、つまり核家族です。男性が外で働き、女性が家庭内の家事育児を行うという、性別役割がより強固になり、専業主婦率が高くなりました。

 平均寿命が延び、高齢者を取り囲む家族のあり方が変化し、地域の相互扶助のネットワークからも孤立しがちな状況で、高齢者の介護を、家族だけで行うのがいかに難しいか、高齢者介護の問題が社会問題となりました。女性も性別役割のあり方に疑問を持ち始め、老親の介護を、女性だけが引き受けることを期待することは、難しくなりました。かつては家庭の中で行われていた、出産、育児、高齢者介護、死の看取りなどは、家庭の外に出て行き、専門家や専門施設に委ねられるようになり、家事機能の外部化、家事機能の社会化という現象が起きてくるようになりました。

 私は、8人家族の大家族で、地域の人々との絆も強く、祖父も祖母も自宅で見送りました。家庭の中での親の介護は、父が一人っ子だったため、母の背中に重くのしかかり、子どもだった私の目にその大変さがしっかりとやきついています。

 日本の社会の変化を知っている者にとって、高齢者介護の社会化は、いろんな面で良いことだと考えます。これからの課題は、高齢者の心をどのようにケアしていけるかということです。現在、お話を聴くボランティアとして、多くの高齢の方々に接していますが、そのことを強く感じています。

つづく

2012年4月2日月曜日

ボランティア


  今日は、ボランティアに行ってきました。お話を聴かせて頂くボランティアです。このボランティアに出会ったのは、十年前のことです。ホスピスや高齢の方々を訪ね、そばに寄り添い、ただひたすらお話を聴くのです。聞くのではなく、心をこめて、全身で耳を傾けて、聴くのです。人間にとって、最も大切なものは、地位や名誉、お金ではなく、愛だと、とらえている私にとって、このボランティアとの出会いは、まさにぴったりのものでした。

 人の悩みや痛み苦しみを、お話を聴くというスキルを使って、救うことができるのです。大きな援助となることができるのです。人と人が支え合い、援助し合う。お話を聴くということの偉大な力、大きな魅力に、引きつけられました。

 高齢の方々を訪ね、いろんなお話を聴かせて頂くボランティアとして、私は、毎週一回出かけています。回を重ねていくうちに、少しずつ癒されている自分に気付きました。これこそがボランティアの真髄だということも知りました。援助する者、援助される者、という関係でなく、お互いに何かをもらうのです。それは生きる力です。私の親世代の方々に、接しているうち、今まで自分が苦しみとして、苦しんできたことが、何とちっぽけなことに、振り回されてきたのかという考えを、持つことができるようになったのです。人間の強さ、素晴らしさを、教えてもらったのです。

人の数だけの人生があり、皆それぞれ悩み苦しみ悲しみを持って生きているのです。それでも、人間は、それに負けない強さを持っているのです。ボランティア活動を始めたことによって、人との出会いがあり、人生勉強もさせて頂いています。スケールの大きい、懐の大きい人間になれるという未知数の人間。ゴールを目指し、生涯を通して、成長することのできる人間。たくさんの感動をもらっています。

2012年4月1日日曜日

「蜃気楼のように」


「僕達は 蜃気楼のようだ」
ポツリと言った 悲しいひとこと
真実の愛を求めて
ただそれなのに

蜃気楼は夢
それでも幸せ
私のそばに
あなたがいるという
ただそれだけで
すごく幸せ

蜃気楼は幻
それでも幸せ
ずっとずっと
消えないように

あなたと過ごした
短い日々
懐かしい思い出
蜃気楼のように

2012年3月31日土曜日

「地球のうた」


トホホ トホホ
アース大王 今日も嘆いてる
一体全体 どうしたの
すっとずっと昔の御先祖様が
大事に 大事に育てた緑が
どんどんなくなっていくんだよ
私はどうしたものかと
困っているんだよ
トホホ トホホ


プンプンプン
アース大王 今日も怒ってる
一体全体 どうしたの
ずっとずっと昔の御先祖様が
大事に 大事に守ってきた水が
どんどん汚れていくんだよ
私はどうしたものかと
怒っているんだよ
プンプンプン


僕らの地球だ みんなの地球だ
僕らが守ろう みんなで守ろう
輝く未来へ 伝えよう
美しい緑を
美しい水を


僕らの地球だ みんなの地球だ
僕らが守ろう みんなで守ろう
輝く未来へ 伝えよう
美しい世界を
美しい地球を
みんなの力を 合わせて
育てよう 守っていこう