2018年5月18日金曜日

身につまされる言葉


 人間は生まれた時から年輪を重ね、終焉へ向けての旅が始まります。それはすべての人に平等です。大成功をおさめた人も、大富豪になった人も、名誉、権力を手にした人も、鳴かず飛ばずの人も、人生に不完全燃焼の人も、すべての人に平等です。2025年問題がささやかれています。団塊世代が75歳以上の後期高齢者になる年です。私もその仲間です。その事実は変えられません。先日面白い言葉を知りました。面白くて笑ってしまいますが、当事者である高齢者には身につまされる言葉です。あまりにも真実を突いているからです。遠く過ぎ去った青春時代を思い出します。一読一考です。

 「18才と81才の違い」
   恋に溺れるのが18才     風呂で溺れるのが81才
   道路を暴走するのが18才   道路を逆走するのが81才
   心がもろいのが18才     骨がもろいのが81才
   偏差値が気になる18才    血圧血糖値が気になる81才
   まだ何も知らない18才    もう何も覚えていない81才
   自分探しをしている18才   皆が自分を探している81才
   お手入れで虫歯ゼロの18才  入れ歯だから虫歯ゼロの81才

 いかがでしたでしょうか。面白くておかしくて笑えます。しかしあまりにも真実を言っているので笑いを通り越してしんみりしてしまいます。寂しくなります。当事者には少し酷な言葉です。酸いも甘いも辛いも苦いも、すべてを知り尽くしたように思える高齢者です。高齢者を揶揄するようにも思える言葉でした。

2018年5月17日木曜日

お出かけ(奈良室生寺)


 ゴールデンウイーク最終日は、京都から三重へ奈良まわりで移動しました。桜井市で、埋蔵文化財センター、纏向遺跡、箸墓古墳を見てから室生寺へ寄りました。奈良県の東部、宇陀市にあります。深い山の中にある室生寺には、四時頃に着きました。拝観時間に間に合うかと心配しましたが、なんとか間に合い最後の参拝客となりました。





室生寺は奈良時代の末期、勅命により国家のために創建された古いお寺です。橋を渡ると室生寺に入ります。仁王門をくぐり鎧坂を上ると、弥勒堂があります。鎌倉時代に建てられました。弥勒菩薩立像と釈迦如来坐像は、平安時代初期のものです。釈迦如来坐像は、国宝です。次に金堂へと進みます。平安時代初期に建てられたもので、国宝です。御本尊釈迦如来立像は、平安時代初期のもので国宝です。その右には薬師如来像、地蔵菩薩像、左に文殊菩薩像、十一面観音菩薩像、前には運慶の作と伝えられる十二神将像が並んでいます。仏像の知識はありませんが、平安時代初期に作られたという歴史に圧倒されます。




山登りのようにたくさんの石段を上ります。次は本堂です。鎌倉時代に建てられたもので、国宝です。室生寺の本尊如意輪観音菩薩像は、平安時代に作られたものです。


 




さらに石段を上ると、五重塔があります。平安時代初期に建てられたもので、国宝です。総高16.1メートルで、屋外に建つ五重塔では最小のものだそうです。また室生山中最古の建築とのことです。以前台風の被害を受けて10年ほど前に修復されています。



私達は時間切れとなり、残念ですがこの石段の先にある奥の院へは行けませんでした。石段を見上げるほどの先にあります。とても面白かったのは、本堂の前で僧侶が「タヌキ!!!」と叫ばれた時、少し小さめのタヌキが臆することなく堂々と境内を横切っていったことでした。人間に慣れている様子でした。野生のタヌキをそばで見たのは初めてのことです。室生寺が深い山の中にあり、動物たちも共生していることを嬉しく思いました。静かな厳かな雰囲気の中、石段を踏みしめながら高い木々の下を下りました。室生寺はシャクナゲでも有名です。少し遅いですが少しはピンクの花が残っていました。


岩を積み上げたような石段の隙間からカエルの鳴き声が聞こえてきました。すると近くの藪の中からそれにこたえる鳴き声がします。何度かお互いを呼び合っているようです。夕闇迫る中を、幼児二人を連れた外国人家族が奥の院の参拝を終えておりてこられました。私達と外国人家族が今日の最後の参拝客です。


室生寺にはたくさんの国宝や重要文化財があり、古い時代のものが現代へと継承されてきていることに感動します。このあと一路三重へ車を走らせました。

2018年5月15日火曜日

京都葵祭2018

 5月15日今年も京都では京都三大祭の一つ葵祭が催されました。お天気は良すぎるほどで、気温は30度まで上がり真夏日となりました。十時半に京都御所を出発します。行列は建礼門前から出発するので、私達はメインストリートの出口となる御苑内の堺町御門に近いところで見ることにしました。毎年催される葵祭ですが、注目は斎王代に扮する女性です。地元ではニュースに取り上げられるほどの話題となっています。今年の63代斎王代は、23歳の女性で母娘で斎王代を務められるというおめでたい話題でした。



行列は30分ほどで通り過ぎます。子供たちの参加もあるのですが、この暑さで大変そうでした。平安貴族の衣装姿で総勢500名が、京都御所から下賀茂神社へ、そして昼の休憩の後、上賀茂神社へと約8キロを歩きます。








  外国の方々は、雅な行列に感嘆されている様子です。笛や太鼓などの古楽器の調べもなく、行列は静かに進んでいきます。そこがまた日本的だと捉えておられるかもしれません。毎年のことながら、日本国内はもちろん、外国からもたくさんの人が来て下さるのは、地元にとって嬉しくありがたいことだと思います。葵祭2018も終わりました

2018年5月14日月曜日

お出かけ(奈良桜井市)

 ゴールデンウイーク最終日は、京都から三重へ奈良回りで移動しました。奈良県桜井市には、古墳や遺跡がたくさんあります。小学校の時から社会の勉強で習いましたが、なさけないことにしっかりとは記憶できていません。家族は歴史・地理が大好きです。今回は、まず始めに桜井市立埋蔵文化財センターを訪れました。桜井市の原始から古代・中世までを各時代ごとに常設展示されています。旧石器時代から始まり、縄文時代、弥生時代、古墳時代前期、古墳時代中期、古墳時代後期、飛鳥・奈良時代へと続きます。石器や土器、生活用具、祭祀用の遺物、農機具、装飾用の玉や鏡、身分の高い人の副葬品、貨幣など、どれも目を見張るものです。数年前に発表された纏向遺跡(まきむく遺跡)や埴輪も、特集で展示されています。発掘調査は、今も続いています。出土品についての調査研究が行われ、特別な処理をしてから展示室に並べられるのだそうです。


 以前友人が発掘調査の手伝いをしていたことがありますが、小さな刷毛で丁寧に少しずつ進めていくという、気の長い話を聞かせてくれました。展示されているものは、出土されるまで土の中に眠っていたものです。パンフレットには「50センチ下の桜井」と書かれています。昔々の日本を教えてくれます。まだまだこれからも発掘調査が進むとともに、新しい事実を知ることができると思うとワクワクします。


 埋蔵文化財センターを見てから、纏向遺跡に向かいました。JR桜井線巻向駅のそばにあります。桜井市の北西部に位置しており、東西約2km、南北約1.5kmにおよぶ大きな遺跡です。発掘調査でわかったことを示す屋敷の柱が何本か建っていましたが、そばへ近づくことはできませんでした。
 (追記)今日5月14日の夕方のニュースでこの纏向遺跡から出土した桃の種を分析したところ卑弥呼がいたという3世紀の年代と一致したという速報が入りました!卑弥呼大和説が有力になったということだそうです。






そのあと近くにある箸墓古墳へ向かいました。初期の定型化した大型の前方後円墳です。周囲には池があり古墳へは近づけません。



2018年5月11日金曜日

お出かけ(京都養源院)


 ゴールデンウイークのプチトリップ五日目は、京都東山区にある養源院へ自転車で出かけました。鴨川の岸辺を南下して、七条通りで上へ上がりました。自宅から30分ほどで到着しました。養源院は、三十三間堂の隣、東側にあります。京都に住んでずいぶん経っていますが、養源院を訪ねるのは初めてです。ゴールデンウイークなので、たくさんの人が来られています。

大きな門は秀忠が造った方広寺の南大門、
右が三十三間堂、左が養源院です




豊臣秀吉の側室淀殿が、父浅井長政の供養のために秀吉に願って創建しました。文禄3年(1594年)の創建です。その後火災により焼失しましたが、淀殿の妹である二代将軍徳川秀忠正室江殿の願いにより再興されました。以後徳川氏の菩提所ともなりました。二十人ほどのグループごとに、お寺の方の説明を受けながら参観します。関ケ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦いで、鳥居元忠率いる千人ほどが城を死守し最後に切腹しました。鳥居元忠は、徳川家康の乳兄弟で、そこで別れの杯を交わしたのだそうです。自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたのが、血天井です。説明では「ここに鳥居元忠の姿が、ここに武将の手のあとがあります」とのことですが、四百年以上の時を経てかすかにそうかなと思えるほどのものでした。廊下の板の間を天井にして、武将たちの霊を弔うことには、江殿の意志が大きく働いたとのことです。


本堂の襖や杉戸の絵は、琳派の俵屋宗達の筆によるものです。杉戸の絵は、いつか社会科で目にしたものでした。白象や唐獅子です。大きなガラス戸で守られていました。




参観は40分ほどで終わりました。徳川秀忠と江の娘和子は、後水尾天皇の后となり、養源院は皇室との深いつながりをもちました。紋章、菊花紋章を頂きました。徳川家の葵の紋章、浅井家の紋章と並んでいます。養源院を訪れて、女性の大きな力に感動しました。権力者、天下人のそばにいる女性は、影の権力者のようです。時代を動かす力を持っているようにも思います。先人の女性たちに力をもらいました。養源院を出てから、近くの国立京都博物館にあるカフェでランチとなりました。



ずいぶん前のことですが、幼い二人の娘を連れて、当時住んでいた奈良から七条まで毎週音楽のレッスンに通ったことが思い出されます。当時京阪電車は地上を走っていました。今は地下を通っています。時の流れに思いを馳せてしまいました。

2018年5月10日木曜日

お出かけ(京都応仁の乱 跡地めぐり)


 京都には歴史に残る遺跡、戦跡がたくさんあります。ゴールデンウイーク四日目は、自転車で応仁の乱の跡地めぐりに出かけました。ガイドブックを手にしたポアロの案内です。まず始めに応仁の乱勃発の地である、御霊神社へ向かいました。自宅から30分ほどです。本殿の参拝を済ませてから、境内の中を歩き歴史の碑を探しました。わりと最近建てられたと思われる大きな石碑を見つけました。細川護熙元総理が書かれたものでした。ここが応仁の乱発端の地と書かれています。






学校の社会科の授業でさらっと習った記憶はありますが、詳しくは覚えていません。応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって続いた内乱です。家督争いから、勢力争い、そして後継争いも加わり、ほぼ全国的に争いが拡大しました。主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍がにらみ合いを続けました。東軍は堀川通りの東側に陣をおき、西軍は堀川通りの西側に陣をおきました。千利休から始まった茶道千家(表千家、裏千家)が並ぶ通りの近く、小川百々橋辺りが激戦地になった場所とのことです。




和睦により西軍が解体されて、応仁の乱は収束しました。以前訪れた兵庫県にある天空の城と呼ばれる竹田城は、山名宗全の城でした。また南禅寺塔頭に山名宗全のお墓がありました。あちこちで山名宗全の名前を目にしています。立派な武将というイメージをもってしまいます。堀川今出川通りの少し北側に山名宗全の邸宅跡の石碑が建っていました。ポアロはスマホを見ながら跡地を探します。小さな石碑を見つけるのに苦労しているようです。





全行程は二時間近くかかりました。今回の応仁の乱跡地めぐりは終わりました。京都老舗四文字和菓子店で柏餅を買って帰途につきました。歴史を知ること、跡地をめぐることは、知るを楽しむという楽しいものでした。

2018年5月9日水曜日

お出かけ(京都淀城)


 ゴールデンウイークには、遠出をせずにプチトリップを楽しみました。三日目は淀城跡を訪ねました。三月の末に自転車で京都八幡背割り桜を見に行ったのですが、その時に淀城の近くを通りいつか行ってみたいと思っていました。思いのほか早く実現することになりました。古地図ではとても広い淀城ですが、残っている淀城跡は、かつてここにお城があったということがわかる程度のものでした。面積的には実際の何分の一でしょうか。






今は公園になっています。石垣もあります。お濠もあります。市民のために東屋が建っています。囲碁でしょうか、将棋でしょうか、シニア男性が何人か集まってされていました。碑があり歴史が書かれていました。ゴールデンウイークということで、歴史の好きな男性や、カップルなど何人かは来られていました。淀城は、豊臣秀吉の側室になった淀君のために、秀吉が建てたものです。織田信長の妹、お市の方の長女が淀君です。側室とはいえ太閤殿下の寵愛を受けて秀頼の母になり、大坂城落城とともに散りました。多くのドラマに登場しているので、誰もが知っている淀の方です。
  




淀城跡のそばを京阪電車が通っています。私達が仕事で大阪へ通っていた頃は地上を走っていたのですが、今は高架線になっています。以前は車両から石垣を見上げたのですが、今はお城と同じくらいの高さを走っていきます。古城に立つと、懐かしい歌「古城」が思い出されます。「松風騒ぐ丘の上  古城よ独り何偲ぶ 栄華の夢を胸に追い ああ仰げば侘し天守閣」ずいぶん前に大ヒットした歌です。天守閣もなく、かわいい城跡となった淀城ですが、昔の栄華が頭の中に胸の中によみがえってくるような気がします。歴史の悲しみが心に染みました。