2017年3月31日金曜日

ミモザ

 以前はあまり見かけなかったように思いますが、今ミモザの美しい黄色の花が満開となっています。車を走らせていると、遠くからでもミモザだとわかります。





テレビで見たイタリアの話を思い出します。三月八日は国連が1975年に定めた国際女性デーということですが、イタリアではそれより前から日頃の感謝の気持ちを込めて、男性から女性にミモザの花束を贈る習慣があるそうです。ミモザの日と呼ばれています。ミモザの名前も花も知らなかった私は、この時以来ミモザがとても印象深い花となっています。テレビで見た映像では、男性達が大きなミモザの花束を女性にプレゼントするため、早くから花屋さんに予約しています。花屋さんは、ミモザの花が手に入るように、あちこち走り回りその準備のため大忙しでした。ステキなお話だと思いました。ミモザの花束には豪華さがあります。元気さがあります。燃え立つ黄色です。ミモザの花言葉は「豊かな感性」だそうです。フランスでは、春を告げる花として、また南フランスではミモザ祭りが開かれるとのことです。ちなみに私の好きな色は黄色です。黄色はラッキーカラーです。

2017年3月30日木曜日

突然の季節がわり

 春の彼岸が過ぎても気温が上がらず京都の桜のつぼみも固くて待ち遠しい日々が続いていました。今日突然暖かくなり20℃を突破しました。午前中にお買い物に出ましたが、服装がわからず昨日までと同じように軽いコートを着て出ましたが、少し歩くと上着を脱ぎたくなるほどの陽気です。外国の方たちはすでに半袖のTシャツです。私達も急きょ衣替えをしなくてはと心がはやります。午後桜を求めて車で郊外を走ると少し開き始めの桜を見つけました。 


よく見るとソメイヨシノではないようですが!
  河原では菜の花が満開です。京都の桜の開花は昨年より5日ほど遅くなっているようです。昨年の日記には満開は4月2日だったと記録してありますが今年は7日か8日ごろになりそうです。選抜高校野球も明日は決勝戦。子供たちは春休みでボール遊びの元気な声が聞こえてきます。


麦の緑が美しくなってきました


2017年3月29日水曜日

ロームシアター

 先日初めて改装されたロームシアターメインホールへ入りました。京都会館が、老朽化に伴い耐震補強され、新しく生まれ変わったのが、ロームシアターです。1960年にできた京都会館は建築家前川国男設計の名建築として50年経過し、既存の外観を残したまま改築されたものです。
 
岡崎の疎水沿いにあります

正面左にはコンビニが入りました

右には蔦屋書店とスタバが入っています

そのメインホールで、京都府立北嵯峨高校吹奏学部の定期演奏会が行われたので、出かけました。ホールはサウスホールとノースホールとメインホールの三つがあります。メインホールは二千人収容でフロアは4つの大きいホールです。





中庭の夜景
 今回の高校吹奏学部定期演奏会は、一階だけの使用ですが、1300席はあります。ほぼ満席で大盛況でした。高校生たちの若さが弾け、演奏する姿に好感を持ち感動しました。毎日の猛練習の成果です。たくさんいる部員の中で、男子は少なかったように感じました。このことはどこの学校でも仕方ない現象だと思います。久しぶりに高校生たちの演奏を聞いて、娘がブラスバンド部で忙しく活動していた、かつての日々を思い出しました。親ばかでしょうか、演奏会にはいつも二人であっちこっちへと出かけました。今回メインホールへ初めて入ることができて幸いでした。これからも機会があれば出かけたいと思います。

2017年3月28日火曜日

師匠

 先日車で走行中のことです。ラジオから難しい会話が聞こえてきました。「あなたが師匠と呼ぶ人は誰ですか?」との質問です。ラジオからはよくわからない会話が続いています。この質問に、「私は即答できるは、母よ」と運転しているポアロに言い「なんて答える?」と尋ねました。ポアロは「わからん」と言いながら考えているようです。この質問はとても難しいと思いました。私のように即答できる人は少ないかもしれません。じっくり考えてから答える人が多数だと思います。常日頃からこの分野について考える機会は、あまり無いように思います。幼稚園から社会へ出るまで、どれだけたくさんの先生にお世話になったことでしょう。私が音楽の道を歩んできた過程でも、どれだけたくさんの先生にお世話になったことでしょう。先生だけでなく、たくさんの人にお世話になりました。しかしそれはその時々の点であり、その点が連なり身について今の自分の元を作っているのだと思います。私が「師匠は母」と即答したのは、人間として女性としてお手本となっているのが母だからです。母は物静かで控えめで芯を内に秘め、戦中戦後を生き抜きました。おしゃべり上手でない母が、たくさんの人から慕われ人望あつかったのは、母の人間性だと思います。母の生きる姿から、私は大切なことを学んでいます。その基本は愛情と信頼です。愛情も狭い範囲のものではありません。家族から隣人、そして社会へと広がります。自分が傷ついても許せる心を持つのも愛情です。人から信頼してもらうことは、まず自分を厳しく律する自分でなければなりません。人生には苦しみがたくさんありますが、忍耐強く辛抱することも学びました。その先には必ず明るい道が開けるということも知りました。母が旅立って二十年以上経っていますが、多くの人が母を偲んで下さいます。嬉しいことです。
 あとで知ったのですが、ラジオから聞こえてきた質問は、横綱稀勢の里の話題から始まっていたのです。稀勢の里が今は亡き師匠元横綱「隆の里鳴門親方」から教えてもらったことが話題となっていたのです。おしん横綱と言われた隆の里から教えてもらったことは、「最後まであきらめるな。耐えろ。耐えて耐えて耐え抜け」だったそうです。ケガをした稀勢の里は、誰もが休場すると思いましたが、優勝するに至ったのです。日本中が感動しました。稀勢の里と師匠「隆の里」の絆には、誰もが感動します。皆がふと立ち止まって、自分は誰を師匠と呼ぶのか、考えるきっかけを示してもらったように思います。後日ポアロから答えが返ってきました。社会人になって初めて指導を受けた会社の三人の先輩方ということです。

   

2017年3月27日月曜日

お出かけ(度会町へ)

 先日三重県度会郡度会町へ行ってきました。度会郡(わたらいぐん)は三重県南東部に位置し、伊勢市、鳥羽市に隣接しています。玉城町、度会町、大紀町、南伊勢町、の4町が含まれています。今回その中の度会町へ車で出かけました。一級河川の宮川(延長90km)を上流へ少し行った所にある、「宮リバー度会パーク」を目指しました。春の訪れを感じるこの日、お弁当を持って出かけました。子供連れのたくさんの人で賑わっていました。 
宮川に沿った長い公園でした

公園前の道路もきれいに整備されています

南側の山には風車発電機がたくさん見えます



三重県出身といっても、私には初めての場所です。宮川のほとりにある広大な公園です。園内には、芝生広場やチビッコ広場、夏には賑わう流水プール、喫茶・食事ができるバザールわたらいがありました。川堤には、ソメイヨシノが約400mにわたり植えられています。もうすぐお花見で賑わうスポットです。私達が訪れたこの日は、河津桜がちょうど満開になっていて、桜の下でお弁当を食べながらお花見ができました。河津桜もけっこうたくさんありました。思いもかけず一足早いお花見でした。食事中頭の上の桜の枝に7、8羽の小鳥が飛んできて盛んに花の蜜をすっていました。鶯かと思ったのですが写真をよく見ると目白のようです。
 
河津桜が満開でした

メジロの一団が飛来



公園を散策し、「バザールわたらい」のショップに寄りました。度会町の特産に、お茶があります。三重県産のお茶は総称伊勢茶ですが、ここ度会町産のお茶は、わたらい茶と呼ばれ深く瑞々しいおいしさが特徴とのことです。お店の方が、「ぜひ飲んで下さい」とおっしゃって、わたらい茶を頂きました。まろやかな味ときれいなお茶の色に心落ち着くひとときでした。そのあと度会町をあとにして、しばらく県道22号線を走り、途中からサニーロードへ入りました。その先は南伊勢町へと続いています。現在の南伊勢町は、かつて私が音楽教室講師・ピアノ教師として通った宿浦、礫浦、穂原、五ヶ所浦があります。ずいぶん前のことです。宿浦、穂原へは、伊勢から長距離バスに乗りました。小学校の音楽室が教室でした。礫浦へは、五か所浦から小さな定期船に乗って行きました。漁業協同組合の二階が教室でした。毎週通った思い出の地です。海が大好きな私は、二階からの眺めにうっとりし、時間がある時は海を見てもの思いにふけりました。懐かしい青春時代です。しばらく五ヶ所浦の船着き場辺りを回りましたが、以前とは賑わいがなくひっそりとしているように感じました。人の姿もまばらでした。次に鳥羽へ寄りました。鳥羽には、ポアロが名古屋支店にいる時に設計したリゾートマンションがあります。大手の大規模リゾートマンションです。海が見える一等地にあります。四半世紀もの時が過ぎていますが、見た目にはしゃれた建物です。時代の流れでしょうか、格安物件が市場に出ているそうです。

部屋から伊勢湾、太平洋が望めます

ヤシの木が並木となりリゾートの雰囲気です

 今日のお出かけは、三重県内の初めての場所と、二人の懐かしい場所でした。光陰矢の如しです。時の流れを感じました。

2017年3月24日金曜日

小さな庭に春

 我が家の小さな庭に春が訪れました。土筆(つくし)が顔を出しました。四本かたまって伸びてきました。




土筆を見つけると、心がはしゃぎます。子供の頃は、川の堤防堤や田んぼの畦道の日当たりの良いところへ、友達と土筆を摘みに行きました。土筆を見つけては、ワーワーキャーキャー言いながら、誰が一番たくさん採れるか競ったものです。家へ帰って、母に土筆を料理してもらいました。料理という大げさなものではありません。醤油と砂糖での、甘辛炒めです。春を先取りしたようで、子供心に嬉しくて春の味として記憶に残っています。遠い遠い日の記憶です。大きくなってからは、土筆を食べた記憶はありません。土筆を見ると、その記憶が鮮やかによみがえります。たった四本の土筆ですが、我が庭に顔を見せてくれたのが嬉しくて、感動しています。「春が来た春が来た来た我が庭に」と、歌っています。

2017年3月23日木曜日

お出かけ(伊勢へー2)

 食事をすませてから、懐かしい伊勢の町を散策しました。かつてピアノ教師、音楽教室講師として、通った伊勢の街です。結婚してふるさとを離れ四十年以上経っています。車で通過するということは何回かありましたが、伊勢の街を歩くというのは本当に久しぶりです。 



伊勢市駅近くの銀座新道商店街にある、楽器店の二階が教室でした。商店街に昔の面影はありません。たくさんの店がシャッターを降ろしています。開けているお店の方が少ないような感じです。人通りもまばらです。私が通った楽器店も名前が変わっています。当時は結構広いお店だと思っていたのですが、「えっこんなに小さかったかしら」と言ってしまいました。
商店街の中ほどに、知り合いの寝具、呉服、衣料を売る老舗の大きな店があったのですが、それもわかりませんでした。奥さんが、母に生け花を習われたご縁で母の妹のような存在となり、親戚みたいに長い間おつきあいがありました。私がピアノ教師になってからは、社長の息子さんや専務の息子さんが幼稚園の頃、出張レッスンにお宅へ行っていました。母が亡くなり父が亡くなり、そのあと老舗のご夫婦も相次いで亡くなられました。伊勢の銀座新道商店街が時代の流れでさびれていき、老舗だった店もスーパ形式へと、郊外へ拡張されましたが、時代の波には勝てませんでした。シャッター商店街を歩くと侘しさをひしひしと感じます。アガサクリスティーの「そして誰もいなくなった」が、心の底に響きます。日本のあちこちで起こっているシャッター商店街です。日本の高度経済成長の繁栄を知っている私にとって、そのあとの姿は侘しく、悲しく、淋しいものです。「かつて大変お世話になりました」と、心の中でつぶやきました。

2017年3月22日水曜日

お出かけ(伊勢へー1)

 先日久しぶりに三重県伊勢市へ車で行ってきました。伊勢神宮で有名です。去年五月に行われたG7伊勢志摩サミットの時には、連日話題に上がっていました。各国首脳を安倍総理が案内し、参拝した伊勢神宮には外宮と内宮があります。私は子供の頃から、祖母や父や母のお供をして何度も行っています。結婚し子供を連れては、数回行っています。内宮では「おはらい町」という参宮道が賑わっていますがここ外宮前も今回の遷宮で駅から外宮まで参宮道が整備されずい分きれいになっています。

外宮参道として整備されています

昔ながらの旅館も健在です

新しくできた駅前の名品街

外宮正面
 今回は外宮だけお参りしました。前回はいつ頃行ったのか、記憶は定かではありません。キャッチフレーズは、日本人の心のふるさと伊勢神宮です。長い歴史を感じながら、玉砂利を踏んで参拝するのは、気が引き締まります。森林浴をしているような、大自然の中です。気持ちも新たになり、時々はお参りしようと思いました。



お参りの後、最近できた「せんぐう館」を見学しました。神宮の歴史や、遷宮行事について展示がされています。一番大きなホールには外宮正殿の原寸模型があり、定時には係の方が説明をしてくれます。実物の正殿には近づけないのでこの近くで見るとずいぶん大きなものです。「せんぐう館」は鳥居のすぐ南側にあるまが玉池という大きな池に面して建てられているので休憩所としてもいいロケーションです。



 今回の伊勢行には、もう一つ理由があります。知人から聞いた情報です。今は亡き小津安二郎監督が若かりし頃に通った洋食屋が、今も経営されているとの情報です。知人一族は医者をされており、お父さんも医師でした。お父さんは、伊勢の高校で小津安二郎監督と同窓で交流があったとのことです。小津安二郎監督は、学生の頃に友人らと皆でその洋食屋へ通い、近くにあった映画館へ行ったそうです。知人は子供の頃から父に連れられて、その後も家族と共に、現在もよく行かれているそうです。「老舗の洋食屋、小津安二郎監督が愛した洋食屋、絶品の味、ぜひ行って下さい」と、知人に言われ早速出かけたのでした。電車利用なら、伊勢市駅で下車し、銀座新道商店街を通り西方向へ歩きます。創業は大正三年で、現在の店主は四代目です。知人のお勧めは、タンシチューとハヤシライスです。私達は、タンシチューとビーフカツをいただきました。初代からの味を守り続けてきた店主の想いがこもっています。少し濃厚な本物の洋食という感じです。昨年テレビ番組「ニッポン百年食堂」に出たとのことで、その写真や記事を見せてもらいました。番組の副タイトルは、「人情美味遺産!」と書かれていました。






いろんなお話をして下さった店主の、気さくなお人柄が伝わってきます。お店の名前も素敵です。福を開く「開福亭」です。お店は小さく、全部で20席ほどです。百年を超えてのお店の存続は、本当に立派だと思いました。知人、友人にも紹介したいと思います。これからは家族でちょくちょく寄せてもらいたいと思います。

2017年3月17日金曜日

セッコクの花

 4年ほど前に義母が老人ホームに入所する時にいくつかの鉢に植えられた植木を預かりました。一つは以前報告した「金のなる木」、もう一つは先日掲載した多肉植物のアロエの一種「不夜城」そして今回報告するランのような植物。
植物好きのポアロが名前もわからないまま、水やり、日当たりを気にしながら大事に育ててきました。高さが20cmにも満たない一見雑草に近いものです。3年経過しても葉が生え変わるだけで一向に花が咲きませんでした。 
昨年夏、茎に節があるのでランの種類だという想定で、よく似ているデンドロビウムの育て方を参考に、11月に10℃以下で20日過ごしてから部屋に取り込みました。しばらく変化はなかったのですが2月初めにまた新しい芽かと思ったのですが少し変わった形に変わってきました。つぼみだったのです。3月に入るとそのつぼみはピンク色を帯びてきて。14日に一つ花が咲きました。
 
3月14日に一つ目が開花
ポアロの友人でランを育てている友人に写真を送ったところ、国内自生の野生種の東洋蘭である「セッコク」であるということ。薄紫色は上等種だとお褒めをいただきました。
  
3月17日花が4つになりました

3cmくらいの清楚な花です
  今日現在つぼみが16ケ、花が4つ咲いています。5月ごろには株分けをして増やしていこうとポアロは意気込んでいます。

2017年3月16日木曜日

時の流れ

 私の好きな歌の一つに「時の流れに」(五輪真弓)があります。一生懸命生きてきてふと立ち止まると、いつのまにか私もシニアの仲間入りです。今は人生百年です。かつて人生五十年といわれたのが、その倍になりました。仕事を終えてからでも、残り三十年以上あります。「光陰矢の如し」と言いますが、時の流れを味わいつつ、その一瞬一瞬をかみしめるような心境になるのは、最期のステージでしょうか。その時までは何歳になっても、バタバタと一日が過ぎて行くような気がします。
  老人になると「昔はこうだった」が口癖になるとよく耳にしますが、最近私も半世紀ほど前、私にとっての昔が目につくようになりました。町を、郊外を走っていると、日本中どこでもと思いますが、今と昔の違いがよくわかります。昔たくさんあったものが今は無い、昔無かったものが今はある、その視点で見回すと結構あることに気付きます。昔たくさんあった銭湯が、今は激減しています。昔隆盛をきわめたそろばん教室も減っています。学習塾の中でのそろばん教室はありますが、昔は一つのビルを構えるほど立派な、そろばん学校と呼ぶようなものでした。交通の要となる駅はたくさんの人であふれ、駅前、駅周辺にはたくさんの店があり、いつも多くの人が集まる場所でした。映画館はいくつもあり、それぞれが特徴を持った劇場でした。今は郊外にできた大型ショッピングモールに映画館があります。車社会となりバスの利用客は減り、小さなコミュニティバスで充分となりました。郊外に大型スーパーができ、かつて賑わった商店街もさびれ、シャッター商店街になりつつあります。昔どこでもたくさんの子供が元気に遊び回る活気ある町だったのが、少子化となり子供の姿が減りました。今増えているのは高齢者の姿です。高齢者のための施設はどんどん増えています。有料老人ホーム、老健、特養、デイサービス・ショートステイの通所介護施設など、一つの町にいくつもできました。これからも増えると思います。町を24時間賑やかにしてくれるコンビニエンスストアは、どんどん増えています。何でも手に入ります。小さなものから大きなものまであるスポーツジムも増えました。シニアが目指す元気シニアです。健康志向です。市場の大切なお客さまです。接骨院も急に増えました。一つの町にいくつもあります。お客の取り合いが始まっています。生き残るための熾烈な戦いです。サービス競争で、客としては嬉しい限りです。町に隣接する田園地帯は、次々と住宅地に変わりました。これからは住宅が余ってきます。今も空き家が増えつつあり、行政を困らせています。昔に比べるとクリニック・診療所も増えました。少子高齢化、過疎化も進みます。都市に人が集まり、地方では世代のバランスが崩れます。これからも時の流れ(今・昔)のウオッチャーを続けたいと思います。

2017年3月15日水曜日

ある人の話(親の介護)

 親の介護のために、大きな決断をされた知人のお話です。
  その方は五十歳を前にして、大手の会社を早期退職されました。その方は一人っ子同士の結婚で、夫、妻のそれぞれの実家は同じ市内にあり、行き来はできる距離でした。両親は八十歳を越え、少しずつ介護が必要な状況になっていったのです。双方の親四人に加えて、独身のままずっと実家におられた叔母さんも高齢となり、介護が必要な人は五人となっていました。始めの頃は、実家に通っての介護でしたが、だんだんと二十四時間介護となり、五人を一ヶ所に集めてのグループホームのようなものに変わっていったのです。想像するだけで、どんなに大変なものであったかは察しがつきます。そして父親二人が旅立たれ、現在は高齢女性三人の介護をされています。
 すでに十五年以上の時が流れているのですが、その途中ではご本人が癌を発症し、入院・手術となりました。経過は良好です。その闘病生活もあり、高齢者の介護どころではなくなりました。柱となる自身の健康が危ぶまれたのです。それでもその危機を乗り越え、今は彼に笑顔が戻っています。老々介護のあげくのはての無理心中が、最近立て続けに起こっていますが、先の見えない介護問題は、世界一の長寿国になった日本だからこそ抱える社会問題です。親としては、子供達に迷惑をかけないように逝きたいと願っていますが、こればかりはどうなるか予測はつきません。立派な知人の行動に驚き、考えさせられています。

2017年3月14日火曜日

不思議(男性・女性)

 先日日本の平均寿命が過去最高を更新したと報道されました。男性は、80.75歳、女性は86.99歳とのことです。G7(フランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、カナダ、イタリア、日本)の中で、男女ともトップだそうです。
 日本全国どこでもだと思いますが、高齢お一人さま女性が、どんどん増えています。私の周りでも、友人、知人、親戚には、夫を見送った女性お一人さまがたくさんいます。妻を見送った男性お一人さまもおられますが、数少ない存在です。以前ボランティアで寄せてもらっていた高齢者施設でも、圧倒的に女性が多かったです。そしてその女性達のお元気なこと。趣味におしゃべりに、元気はつらつ、毎日生き生きと過ごしておられます。女性と男性の違いは、精神的、肉体的、医学的にもいろいろ研究され、解明しつつあると思いますが、まだ断定はされていません。命、生命のバトンタッチを考えた時、次世代の命を生み守り育てるという大きな使命を持つ女性の体は、屈強なのかもしれません。そう与えられているのかもしれません。生き方にも違いが表れています。趣味は人それぞれですが、たくさんある生涯学習の講座の参加者は、圧倒的に女性です。男性は一割ほどです。私が通っている英会話教室も、シニア女性が多いです。たまにシニア男性が登場しますが、長続きはしません。長い年月を仕事第一に考えて、生きてきた男性だと思われます。いろんな辛苦を乗り越え、筆舌できないような心の内も隠し、鎧を身につけ、肩肘張って、強がって生きてきた男性かもしれません。素の自分は、ずっと仮面の下にあったのかもしれません。キャリアを積み、人の上に立ち続けてきた男性は、仕事を終えたからといって、今までの自分を取り払うことは難しいのだと思います。仕事を終えれば、立ての人間関係はありません。みんな平等の横の関係です。過去のことを鼻にかけたり風を吹かせば、みんなから総すかんを喰らいます。あくまでも私の想像ですが、男性はそういうことがよくわかっているからこそ、リタイア後の生き方が下手なのではないでしょうか。生き方が下手ということは、身体に影響を与えます。ストレスがたまります。過去を取り払い、過去から脱皮し、新しい自分の発見に喜びを見つけようとする生き方こそ、寿命を延ばす方法だと思います。阿呆になりきり、遊びができる人になれたら、新しい道が開かれ、充実したセカンドライフが送れると思っています。

2017年3月13日月曜日

思い出の中の歌「おもいでのアルバム」

 三月はたびだちの季節です。三月に入るとあちこちで卒業式が行われ、保育園、幼稚園、小学校、中学、高校、大学と、その年齢に合った歌が別れの曲として取り上げられています。毎年三月になると、二人の娘が幼稚園の卒園式で歌った「おもいでのアルバム」が懐かしく思い出されます。幼い子供たちが、この歌を一生懸命歌う姿に胸が熱くなり、視界はぼやけてしまいました。当時NHKのみんなのうたで流れていました。今手元にある楽譜を見ると、1981年の版です。ダークダックスが歌っていました。その中のバリトンを歌っておられた愛称ゲタさんこと喜草哲氏のコメントがありました。彼の幼稚園時代の思い出です。今は亡き親友が、彼の大ファンだったことを思い出しました。




「おもいでのアルバム」   増子とし作詞
              本田鉄麿作曲

一、いつのこだか 思いだしてごらん
あんなことこんなこと あったでしょう
うれしかったこと おもしろかったこと
いつになっても わすれない

二、春のことです

三、夏のことです

四、秋のことです

五、冬のことです

六、冬のことです

七、一年じゅうを 思い出してごらん

 とても優しく歌いやすいメロディーです。歌詞は七番まであり、春夏秋冬の一年を歌でふりかえります。歌は不思議なもので、歌いながらその時々の思い出が頭の中に映像としてよみがえります。その人その人の思い出です。今でもピアノを弾きながら歌うと胸がじんとしてきます。



2017年3月11日土曜日

「あれから六年 あなたへ」

あれから六年
時間は進む
私の時間は止まったまま

あの日
あなたは消えた
突然消えた

どこを彷徨っているの
私を一人にして

あと少しで退職だ
自由になったら
世界中を旅しよう

あれは夢
あれは嘘
あなたは消えた
退職を待たずに消えた

あなたの温もりで目が覚める
やっと帰ったのね
六年の月日は走馬燈
温もりがあるのに
あなたの姿がない

誰かが意地悪してる

日本中から
世界から
優しい愛が届く

私は笑顔を見せる
ありがとう
ありがとう
本当にありがとう

あれから六年
時間は進む
私の時間は止まったまま

あの日
あなたは消えた
突然消えた

どこを彷徨っているの
私を一人にして

あと少しで金婚式だ
幸せを祝おう
世界一周しよう

あれは夢
あれは嘘
あなたは消えた
金婚式を待たずに消えた

私の心は凍ったまま
私は頑固
私は信じない
あなたをこの手で抱くまで
あなたをこの胸で抱きしめるまで

神も仏も信じない
あなたが戻るまで

あなたがいれば
それだけで
他には何も望まない

あなたは消えた
なのに私は生きている
私は待つ
待たねばならない

あなたが戻るまで

2017年3月9日木曜日

熾烈な戦い(カラス・ハト・トンビ)

 私達は、京都市役所の近くに住んでいます。前は河原町通りに面しています。裏側は東山が見える方向です。そこにはお寺が二つ並んでいます。四方をマンションやホテル、ビルが取り囲んでいますが、お寺の本堂の瓦の先端で、朝からカラスやハトやトンビが陣取り合戦を始めるのです。最近気づいたことですが、春が近いからでしょうか、声を上げて少しうるさいほどの勢力争いです。
 おとなしいハトは、遠慮がちに誰かが来たらそそくさとその場を離れます。カラス同士は力を張り合う様子がよくわかります。降参した方は、いやでもその場所を譲らねばなりません。
トップ争いは熾烈です

 カラスのボスがその場所を占領したものの、トンビが来ればその場所を離れます。同じ鳥と言っても、力関係は、しっかりつけられています。

ピーヒュルルルーとトンビが来ました

お寺より高いビルへ飛来

カラスに比べるとさすがに大きいです

 家からその様子がよく見えるので、興味津々で観察しています。お寺の本堂の瓦の上からは、見晴らしがよく、エサも早く見つけられるのだと思います。


 
縄張りになっているのだと思います。自由にどこへでも飛んでいける鳥たちですが、やっぱり馴染みの場所があるのですね。人間と同じだと思います。住めば都。アプリボワゼです。

仲良しはカップルでしょうか兄弟でしょうか?

地面近くはスズメのエリアです