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2022年8月8日月曜日

 懐かしい思い出(酪農家)

 在仏二十年を超えた娘は、今バカンスで南仏をめぐるプチ旅を楽しんでいます。途中友人宅を訪ねたりもしています。泊めてもらってもいます。そのうちの一人の友人は、職場の元同僚です。彼女は酪農家に嫁ぎました。娘から友人宅の写真が届き、私たちは驚いています。 




   映画やドラマで目にする大邸宅です。酪農家といってもいろいろあると思いますが、経営するにはたくさんの人手が必要です。住居も広ければその世話も大変です。大所帯であれば、一般に言われる家事もたやすいものではありません。酪農家は命ある生き物の世話です。限りあるものではありません。朝は早くからスタートします。暗いうちから起き出して生き物の世話が始まります。娘カップルは、酪農家を間近で見たことはありません。旧交を温め酪農家のルポルタージュをします。私たちはその報告が楽しみです。  
 そこで私は思い出しました。私は酪農家(?)の娘でした。黒牛が一頭、乳牛(ホルスタイン)が三頭、やぎが一頭、鶏は1000羽も飼っていました。どんな暮らしぶりだったのか、おぼろげに思い出します。遠い遠い昔の記憶です。通っていた小学校は、ほとんどが町の子どもたちです。私の家は、農家、酪農家(?)です。自分が田舎の子どもということで、ずっとコンプレックスの塊でした。ふるさとを離れて幾星霜、幼き日の思い出もはるか遠くへ去りました。十人の大家族と生き物たち、ネコも犬も加えて大所帯でした。今回の娘からの便りで、過ぎ去った幼き日の思い出が懐かしくよみがえりました。今に至るすべての人たちに感謝です。 
(まるこ記)

2020年9月14日月曜日

懐かしいもの

  家の中には懐かしいものがたくさんあります。その存在さえ忘れていたものを引っ張り出しました。最近デザート作りに燃えているポアロが「アイスクリームを作る器械って無かった?」と言いだしたので、急きょ引っ張り出してきました。買ったこと、アイスクリームを作ったこと、捨ててはいないのでどこかにあることは覚えていました。我が家の江戸時代、東京暮らしをしていた時をそう呼んでいるのですが、買ったのは江戸時代です。子どもたちが小学生の頃です。当時は保谷市(現西東京市)に住んでいました。買い物や子どものレッスンによく通った吉祥寺、馴染みの吉祥寺、懐かしい吉祥寺、大好きな吉祥寺で買ったものです。吉祥寺へは、家族で自転車を飛ばし何度も出かけました。若かりし日々が思い出されます。いくつものデパートがあり、いろんなお店が集まっています。狭い道幅の、昔からある古い商店街は有名です。その一角にあるキャッチフレーズ安売王の店で買いました。アイスクリームメーカー「どんびえ」です。

  二重構造になっている中のポットを冷凍庫で7時間以上冷やします。よく冷えたポットをケースにセットして羽根をつけます。用意した材料を入れてフタをして、ハンドルをさし込んでクルクルとまわします。約10分~15分でできあがります。子どもたちにも簡単に作れます。出来上がるのが楽しみで、子どもたちは一生懸命ハンドルを回します。我が家がよく作ったアイスクリームの材料は、牛乳、砂糖、卵黄と、バニラエッセンス少々です。いろんな果汁を入れれば、いろんなバリエーションができます。アイスクリームだけでなく、時間を短くすればシャーベットができます。ひと夏に10回ほどは作ったと思います。子どもたちの成長とともに、アイスクリームを作る回数も減りました。そして引っ越しを重ねるうちに、その存在も忘れていきました。買ってから30年以上が経っています。コロナ禍で巣籠りが続く中、懐かしいものを引っ張り出し久しぶりにアイスクリーム作りとなりました。ポアロは、まるで初めて作るかのようにアイスクリームを作ってくれました。懐かしい味とともに我が家の江戸時代を思い出しました。






2020年8月5日水曜日

カラスの一家


 隣接している実家の藪には、大木となったクスノキ、エノキ、ムクがあります。そのクスノキにカラスの一家が住んでいます。巣はずいぶん上の方にあるようで、下からは見えません。数日前から、カラスの鳴き声が賑やかになりました。
 

  朝6時半頃から、鳴き声が聞こえてきます。カラスの子どもたちの、甘えた鳴き声です。「お腹が空いたよ~早く食べたいよ~」と聞こえます。朝ご飯を催促しています。子どもたちが何羽いるのかはわかりませんが、2~3羽いるように思えます。子どもたちの甘えた鳴き声は、大きな声です。しばらく賑やかな声が続いた後、親ガラスの声が聞こえてきます。お父さんなのか、お母さんなのかはわかりません。太く力強い鳴き声です。「子どもたち!朝ご飯ですよ。たくさんお食べ」と言っているようです。そんな風なカラス一家の朝の騒動が終わると、静かな時間が訪れます。朝ご飯をしっかり食べた子どもたちは、満腹になってお昼寝タイムになったのでしょうか。あと少しすれば巣から飛び出し、飛ぶ練習を始めます。親ガラスの子ども教育です。飛ぶ距離を少しずつ伸ばしていきます。エサのとり方や水の飲み方など、懇切丁寧に指導します。子どもたちが親の庇護から離れ、独り立ちできるようにとの親心です。
 以前我が家の玄関ポーチにツバメが巣を作ったことがありました。卵からヒナがかえり、独り立ちするまでを間近で見ることができました。健気な親の姿に感動しました。その時のヒナは、7羽ほどいました。スズメの学校、メダカの学校は、よく目にする光景ですが、まさにツバメの学校でした。自然界に生きる命あるもののいとなみです。親から子へ、子から孫へと、連綿と続く命のバトンです。ツバメの子育て、カラスの子育てを見ることは、自分の子育てを思い出させてくれます。あんなこと、こんなこと、本当にいろんなことがありました。そのすべてが思い出となり、今につながっています。

2020年7月9日木曜日

思い出の中の歌(筑後川)


 梅雨真っ只中の豪雨は、九州に大きな被害を起こし、中部地方にも被害が出ています。熊本県の球磨川が氾濫し、大分、福岡、佐賀を流れる筑後川も氾濫しました。テレビの映像で大変な状況を見て、何もできない私です。自然災害の怖さを見せつけられています。新型コロナウイルスが猛威をふるい、社会全体を震撼させてまだまだ収束の見通しが立ちません。いろんな分野に携わる人々は、厳しい状況に追い込まれています。そこへ自然災害の追い打ちです。国を挙げて、この国難を乗り越えねばなりません。

 荒れ狂う筑後川を映像で見て、思い出の中の筑後川が豹変しました。転勤で東京暮らしが始まった頃のことです。日本の首都東京へは、修学旅行でしか行っていません。東京への憧れと、首都東京という大きく立ちはだかるような壁を感じていました。そんな東京で暮らすということに、嬉しくもあり、地方出身の気後れも抱えていました。武蔵野の面影の残る郊外での、暮らしが始まりました。素晴らしい環境でした。買い物に、散歩に、チャリダーにと、充実した毎日でした。遠くに富士山を眺め、大木となったケヤキ並木の下を通る時、いつも口ずさむ歌がありました。「思えば遠くへ来たもんだ」です。1978年発表の海援隊の歌です。歌詞に筑後川が出てきます。行ったこともない見たこともない大河、筑後川に自分勝手なイメージを膨らませていました。今でも憧れの存在です。



「思えば遠くへ来たもんだ」

              作詞 武田鉄矢

              作曲 山木康世



   踏切の側に咲く

   コスモスの花ゆらして

   貨物列車が走り過ぎる

   そして夕陽に消えてゆく



   十四の頃の僕はいつも

   冷たいレールに耳をあて

   レールの響き聞きながら

   遥かな旅路を夢見てた



   思えば遠くへ来たもんだ

   故郷離れて二十年

   思えば遠くへ来たもんだ

   この先どこまでゆくのやら



   筑後の流れに

   小鮒釣りする人の影

   川面にひとつ浮かんでた

   風が吹くたび揺れていた






2020年3月25日水曜日

おじいさんの桜


 私たち家族が「おじいさんの桜」と呼んでいる桜が開花しました。東京では満開が過ぎましたが、三重ではやっと開花となりました。我が家と隣接している境界で咲いています。借景で桜が見えます。
  




三重の家を建てる少し前に、父が植えたソメイヨシノです。早いもので25年ほど経っています。毎年桜が咲き出すのを楽しみにしています。父を偲びながら、桜の花を愛でています。一人の人間が旅立った後には、いろんなものが遺されます。目に見えるもの、目に見えないものなど、本当にいろいろです。父が植えたソメイヨシノを見ながら、永きにわたり愛する者たちに喜んでもらえる木もいいものだと思っています。

2019年11月8日金曜日

ワンデイトリップ三重県志摩へ(2)


 美しい青い空、青い海を満喫し、海の幸のおもてなしをいただき、大王埼灯台をあとにしました。次の目的地は、前島(さきしま)半島です。英虞湾(あごわん)を囲むエリアです。半島の最南端は志摩町御座です。夏には海水浴の人たちがたくさん集まります。美しい御座白浜海水浴場が広がっています。季節はずれの今は、観光客の姿はありません。広い駐車場にシャワー設備が設けられています。御座を一周してから、前島半島の中心的な集落、和具へ戻りました。海女の多い地域だそうです。子供の頃、父のおともをして来たことがあります。父が戦友を訪ねたのでした。車の免許を取ったばかりの父が、娘三人を乗せて長距離ドライブに出たという遠い昔の思い出です。ポアロは、学生時代に和具座賀島へ来ています。大学の研修施設があり、一週間の合宿で大阪から来たとのことです。思い出の地を見て回りました。
 
和具のすぐ前の英虞湾に浮かぶ小さな座賀島
 

町の中心地には、メインストリートがあり商店街が続いています。田舎の漁村の賑やかだった時代を、思い起こさせてくれます。遠くに英虞湾遊覧船の姿が見えます。要所を結ぶ英虞湾定期船が和具浦港から出ていきました。途中間崎島へも寄っていきます。「今度志摩へ来た時には、定期船に乗り英虞湾を一周したい」と、娘は言いました。 
 大王埼灯台、御座、和具を回り、最後の目的地、賢島へと向かいました。2016年5月に、伊勢志摩サミットが開催された賢島です。会場となったホテルで、ランチを食べることにしました。



1951年開業の老舗ホテル、志摩観光ホテルです。ランチといっても、レストランではなく軽食の方へいきました。レストランはたくさんの人で賑わっています。ちょうどお昼どきなので、満席でした。遠くからの観光客がほとんどです。価格は驚きの立派なものです。伊勢海老や鮑の豪華なメニューです。ランチのあと、ホテル内を見学しました。伊勢志摩サミットギャラリーもあります。伊勢志摩サミットの開催を記念したギャラリーで、当日のスケジュールや食事メニューなどを写真や記念品とともに紹介されています。サミットテーブルも展示されています。各国の国旗が並び、テレビで観たあの日の光景を思い出します。
 
サミット会場をそのまま残してあります






2000坪の庭園を散策しました。サミットの時には、世界に報道された記念撮影の場所です。英虞湾の美しい景色が、眼下に広がっています。うっとりするほどの素晴らしい眺めです。伊勢志摩国立公園の存在は、三重県の誇りです。三重県人として、生まれ育ったふるさと三重を自慢したいと思います。



 帰りは、私が音楽教師として通った懐かしい道を通り五ヶ所へ向かいました。半世紀ほども前の、いろんな思い出が頭をよぎります。今回のワンデイトリップは、所要時間10時間、走行距離200キロでした。良い思い出となりました。

2019年11月7日木曜日

ワンデイトリップ三重県志摩へ 1


 三連休の一日目に、娘の招待で三重県志摩市へ車で出かけました。始めに目指すのは大王埼です。太平洋に面して大王埼灯台があります。自宅を7時に出て、9時前には目的地に到着しました。まだ誰もいません。灯台へと続く道には、土産物店が並んでいますが、どの店も開店の準備中です。



灯台には、万国旗が掲げられ風にはためいています。灯台への入館は9時からです。チケットを買いに売り場へ行くと、「今日は灯台記念日で無料です」とのことです。何も知らずに灯台を訪れた私たちです。ラッキーに感謝です。


早速灯台を上りました。思ったよりしんどくはありませんでしたが、歳を考えてゆっくり上りました。高さは22.5mあります。大王埼は、志摩半島の東南端にあり、遠州灘と熊野灘の荒波を二分するように突出した海の難所として知られていたところです。早くから灯台の建設が望まれ、1927年(昭和2年)5月に灯台局直営で着工し、同年10月に点灯が開始されました。関東大震災復旧後の新設第一号灯台です。太平洋戦争、伊勢湾台風など幾多の困難に遭遇しましたが、1978年(昭和53年)12月に大改修を行い、現在の姿になったそうです。2004年(平成16年)4月に、高性能の最新レーダーが設置されたことにより、「灯台守」の姿が消えることになりました。東海地方で、最後の「灯台守」とのことです。灯台の横に、「灯台守」家族が暮らす建物がありました。子供の時に観た映画「喜びも悲しみも幾年月」を、思い出しました。大ヒットした歌は、今でも時々口ずさんでしまいます。




灯塔の横に、灯台資料館があったので入りました。大王埼灯台の歴史や、灯質(光りかた)の説明や、実物大のレンズやガラスを見ることができました。


この日は灯台記念日で、海上保安庁の職員が数人出ておられ「海保のグッズ」を販売されていました。記念にスポーツタオルを買いました。ずいぶん前のテレビ番組「海猿」を思い出します。いつの間にか「海保」のファンになっています。



 「日本の灯台50選」の小冊子を、娘がプレゼントしてくれました。今までの旅でいくつかの灯台へは行っています。最近では「灯台女子」という言葉も生まれているそうです。若い頃から灯台が好きで、海を見るのが好きな私は「灯台女子おばあさん」です。
 車を停めたところへ戻る途中で、たくさんの人が集まっています。志摩観光協会と書かれたテントが出ています。伊勢エビの入ったお味噌汁やてこね寿司、サザエのつぼ焼きなどが並べられ「無料です。どうぞ召し上がってください」とのおもてなしです。予想もしていなかった私たちは、嬉しく有り難くいただきました。伊勢エビのお味噌汁とは、何とも贅沢な感じです。体が温まり、ほっこりしました。朝食を食べずに出てきた私たちは、素晴らしいおもてなしでお腹も胸もいっぱいになりました。広がる青い空と青い海に大感激でした。

2019年10月29日火曜日

初めて食するもの


 先日大型ショッピングモールへ出かけた時のことです。京都丹波の物産展が開かれていました。京都丹波といえば黒豆が有名です。甘党の私は、黒豆大福があれば買いたいと思い見に行きました。残念ながらそれはありませんでした。野菜やお米、クッキーやパン類、ジュースやお酒、手作り品などいろいろ売られていました。
たくさんの品の中に、いままで見たことのないものを見つけました。ジャンボ落花生と書かれています。従来見てきた落花生の三倍ほどの大きさです。落花生が大好きで毎日食べているポアロを呼びました。生産者の方が、いろいろ教えてくれます。試食もしました。落花生の食べ方は、炒って食べる方法しか知りませんでした。ジャンボ落花生は、塩茹でするのです。おいしい食べ方を書いた紙までもらいました。一袋に300グラム入っています。水2リットルを沸騰させ、塩100グラムを入れて、中火で30分茹でます。火を止め、15分蒸らします。私たちは、二回に分けて食べることにしました。塩の量や茹で加減は、お好みで調節して下さいとのことなので、塩は少し控えました。それでもしっかりと塩味がつきました。千葉産の落花生は高級品です。毎日気軽に食べられません。丹波のジャンボ落花生も、普段食べているものに比べれば高いものです。一緒にいた娘が「お父さんにプレゼント」と言って買ってくれました。初めて食するジャンボ落花生は、見た目もジャンボ、味は食べ応えのあるものでした。 



 子どもの頃には、家で落花生も作っていました。収穫も手伝いました。落花生を根からもぎ取り天日干しします。そして子どもたちのおやつに、母が炒ってくれました。香ばしい香りと懐かしい味が、母の笑顔とともに思い出されます。

2019年9月18日水曜日

タイムスリップ半世紀


 先日久しぶりに学生時代の仲間が集まりました。一緒に音楽を学んだ寮の仲良し八人組です。八人全員が集まったのは五十年ぶりです。みんなが長い時の流れを忘れ、一気に乙女に戻りました。本当に不思議なことです。人生の酸いも甘いも知り尽くしているシニアの私たちです。青春時代を共に過ごした絆は、何年経っても色あせることはありません。気持ちは昔のままです。気心のわかり合った仲間は、毒舌があったとしても明るく笑い飛ばします。
あんなことこんなこといろんなことがありました。不器用な私は、とことんピアノに没頭していました。みんなはそれを覚えていて、褒めてくれました。人生いろいろ、歩む道は違ってもそれぞれに頑張って歩いてきました。今は人生百年時代です。誰かが言いました。「百年は無理でも九十までは頑張ろうね」「名札を付けての参加となる日が来るかもね」「脳活しないとね」そうです、寄る年波に負けてはおれません。
八人中、五人はスマホの達人です。私は持っていません。五人の友は時代の最先端を行っているようです。私は、つくづく「時代遅れ」を感じました。不器用な私は、スマホを使いこなせないと思っています。帰りの電車の中では、周りの人たちが全員スマホをいじっています。老いも若きもです。停車駅では、ベンチに座っている人も、立っている人も、ほとんどの人がスマホをいじっています。歳とともに視力も悪くなり、指先の器用さも劣ってきている私は、感心するのみです。みんなは言います。「今度会うまでにスマホデビューしてね」そんな日が来るのか来ないのか、全く自信はありません。
私の娘の発案で、この会に名前がつきました。みんなが賛同してくれました。「ねうの会」です。子年が五人、丑年が三人です。これからは毎年集まろうということになりました。歳を重ねるごとに、一年が短く感じられます。次回の集まりが楽しみです。

2019年4月11日木曜日

私の好きなテレビ番組(こころ旅)


 私の好きなテレビ番組の一つにBSで放送されている「日本縦断こころ旅」があります。よく見ている番組です。俳優の火野正平さんが自転車で回ります。視聴者から寄せられたこころの風景を訪ねる番組です。四月から2019年春の旅がスタートしました。先週は奈良県でした。そして今週は三重県です。


 思い出の場所&エピソード募集を知って、私は早速応募しました。残念なことに採用されませんでした。私の思い出の場所は、南伊勢市のさざら浦漁協と宿田曽小学校です。半世紀ほど前、音楽教室の講師として通った懐かしい場所です。自宅から近鉄電車で伊勢へ行き、そこからバスで一時間ほどかかるところに宿田曽小学校があります。三階の音楽室を借りてのレッスンです。眼下には太平洋が広がっています。海の大好きな私はいつも海に魅せられ、レッスンを終えたあと砂浜を歩きました。広がる海に自分の未来を重ね、まだ見ぬ人に想いを寄せる二十代の私でした。
 土曜日に宿田曽小学校で、日曜日にはさざら浦漁協でレッスンをしました。さざら浦へは五ヶ所浦でバスから連絡船に乗り換えます。30分ほどで到着します。季節によっては釣り人で賑わうルートです。漁業協同組合の建物の二階を借りてのレッスンです。港のそばに建つ建物から眺める海は、湾内の穏やかな海です。
 海の子どもたちのお父さんは、遠洋漁業に出ている漁師さんです。船が出港する時は、お祭りほどの賑わいです。たくさんの大漁旗をなびかせ、元気な音楽に送られての出港です。元気いっぱいの子どもたちとのレッスンは三年続きました。遠隔地教室ということで功労賞をもらいました。レッスンを終えて帰る私を、バスが見えなくなるまで、船が見えなくなるまで手を振って見送ってくれたかわいい子どもたちでした。小豆島を舞台にした「二十四の瞳」の大石先生になったような私でした。はるか遠くに過ぎ去った思い出です。

2019年3月25日月曜日

恩師の回顧展


 先日ふるさとで開かれた恩師の回顧展に出かけました。長きにわたり中学の美術の先生をされてこられました。ふるさとを代表する日本画家でもあります。ポアロが図書館へ行った時に、ギャラリーの企画展のお知らせをもらったので情報を得ることができました。中学時代の美術の先生を思い出しました。お人柄は温厚で、ジェントルマンの雰囲気が感じられました。現在の京都市立芸術大学で日本画を学ばれ、戦後三重の美術界を牽引されてこられたメンバーのお一人です。 





 回顧展のギャラリー入り口には、母校の先生方全員の集合写真が飾られていました。私が中学へ入学したちょうどその年のものでした。懐かしいお顔が並んでいます。当時は親世代の先生方と思っていましたが、今振り返ればもっとお若い先生方だったようです。今の私の年齢から考えると、子ども世代の年齢です。半世紀以上の年月を遡り、しばしの間中学時代にタイムスリップしてしまいました。
 私は絵を描くのは苦手です。高校時代の芸術選択は音楽でした。ポアロは美術を選択していたので、社会人になってからも時々は絵を描いていました。美術展にも足を運んでいます。私は詳しい知識はありませんが、日本画にはほのぼのとした郷愁を感じます。今回の恩師の回顧展では、私の知っているふるさとの景色がいくつもありました。下書きのデッサンも展示されていて、細かな筆の動きが感じられます。日本画の大きな作品になるのは、デッサンの一部だということを知りました。たくさん展示されている大きな作品も小品も、風景画でした。





琵琶湖、近江八幡、大王崎、波切りの灯台など、かつて行った馴染みある風景です。ヨーロッパを思わせる作品もありました。十三年前に92歳で千の風になられた恩師は、晩年まで描き続けられたそうです。グッドタイミングで恩師の回顧展を観ることができて、遠く過ぎ去った中学時代を思い出しました。