2012年5月31日木曜日

わたしの大切な人


 私の大切な人が、突然私の前から姿を消して早180日が過ぎてしまいました。あなたは今どこで何をしているのでしょうか。あなたがいなくなってあなたの偉大さが、日増しに大きく私にのしかかってきます。大きな深い愛を受けて育った私は、今日まであなたの大きな翼の下で、ぬくぬくと生きてきたような気がしてなりません。あなたは、やさしさについて、愛について、たくさんのことを私に教え、最後の別れの言葉は何も残さず、遠くへ旅立ってしまいましたね。あまりの突然の別れで、四十五にもなった娘は、未だにまだあなたの姿を必死に探し、求めています。何の予告もなく大切な人を失った時、人間は、この試練をどう乗り越えていくのでしょう。「時が解決してくれる」とは、誰もが言ってくれる言葉です。悲しみのどん底に突き落とされその中で、涙が枯れるまで泣き続け、もがき、明るい未来が閉ざされてしまったかのように錯覚しますが、そんな日々の中でも、小さな光がいつか差し込んできます。悲しみから絶望へ、そしてあきらめへと、人の心は上手に変わっていってくれるものなのですね。人間が生き物である以上、誰にも平等に訪れる死、そして別れは避けて通ることはできません。あなたが私に教えてくれた多くの大切なことを、今度は私が子供達に教えていかねばなりません。
 両親を早くに亡くし、妹や弟の親代わりとして頑張ってきたあなたは、大百姓の家に嫁ぎ、六人の子供を抱え戦中戦後を生き抜き、大きな夢を持った夫に仕え、いくつもの失敗を重ねながらもその夫を支え、老親の世話をして見送り、二人の子を幼くして失い、四十三歳になった娘をも失い、六人の子供が半分になってしまった、大きな深い悲しみも乗り越え、人から波乱万丈の人生と見られる人生を送りながらも、娘の時から半世紀にわたり華道の道を邁進し、その道でも大きな功績を残し、突然の別れを告げるその日まで、生涯現役を貫き通した偉大な人。あなたとの別れを、どんなにたくさんの人が悲しみ惜しんでくれたことでしょう。空の上から、あなたは見ていたのでしょうか。大きな試練をいくつも乗り越えて生きてきたあなたは、人間を超越し、生きた観音さまになっていたのかもしれません。私はあなたの怒った顔を、この歳になるまで一度も見たことがありません。自分を頼ってくる人々の為に、自分のことは後回しにして、一生懸命周りの人々に愛を注いでいたあなた。とてもあなたのようにはなれない私ですが、たとえその何分の一かでも、やさしさを、そして愛を、私の周りの人々にわけてあげられる人になれるよう、努力したいと思います。物心ついたときから、苦労して生きてきたあなたを想い、無意識にあなたを喜ばせ幸せにしたいと願い生きてきた私は、あなたがいなくなったこれからも、やはりあなたを喜ばせ幸せにしたいと願い生きていきます。私の心に永遠に生き続けるあなた。はるか遠くの空から見ていて下さい。そしてあの優しい微笑みを見せて下さいね。

                             平成6年 記

2012年5月30日水曜日

国際結婚


 知人の女性は大学を出てから、高校の講師をしていました。三年が過ぎた時、突然仕事を辞めて、カナダへ語学留学に行ってしまいました。そして一年後に帰国して、英会話教室の講師をしばらくして、またカナダへ留学してしまいました。その行動力には皆が圧倒されていましたが、何とその次は、従姉妹がフランスに留学しているという理由で、フランスに向けて旅立ちました。

 カナダ留学時代に友達になったフランス人を頼って渡仏し、気楽な日々を過ごしていました。生活費は、働いて貯めたものでやりくりしていたと思われます。フランスでは、日本食のお店でアルバイトしたり、日本語を教えたりしていたのですが、そうこうしているうちに、フランス人男性と素晴らしい出会いがあり、おつきあいが始まり、二年後に結婚に至りました。国際結婚です。昔に比べて、今は国際結婚も珍しくありません。私が通っている英会話教室の先生方にも、日本人女性と結婚している人がたくさんいます。

 テレビで、国際結婚について特集を組んでいたのを見ましたが、国際結婚は年々増加しているそうです。しかし国際結婚したカップルの半数に当たる離婚が一年間にあるとのことです。子供がいるカップルが離婚するとなると、ハーグ条約の難しい問題も発生します。

 英語、フランス語を身につけ国際結婚した知人女性は、フランスに住み、次は香港に住み、現在はイギリスのロンドンに住んでいます。フランス人の夫の職業は、最先端のコンピューターエンジニアで世界の主要都市を飛び回る仕事だそうです。どうか幸せに、そして国際結婚のお手本になってほしいと願っています。



参考 ハーグ条約
(国際結婚が破綻した場合の子どもの扱いを定めたもので、1980年にオランダのハーグで締結されたために、ハーグ条約と呼ばれている。2011年5月日本政府は、ハーグ条約に加盟する方針を決めたと発表し、現在その準備をしている)

2012年5月29日火曜日

大家族


今日はめでたくブログ100回目となりました。

いつも読んで頂いてありがとうございます。

これからも「こつこつ」で続けたいと思っています。   



 大家族という言葉を耳にしなくなって久しい気がします。
私は五女ですが、五女と口にするのはなぜか恥ずかしく、大人になるまでは、答えるのにいつも一瞬戸惑っていました。実際は、二人の姉が生後一年以内に亡くなっているので、私は三女と言ってもいいのですが、戸籍上は五女です。祖父母、父母、兄、姉二人の八人家族でした。私が小さい時は、黒牛、乳牛、鶏、ヤギ、犬、ネコなど、動物もたくさん飼っていて、本当ににぎやかな大家族、大所帯でした。農家だったので、働き手となる作男さんも一人いました。そして田植えの時期には、十人ほどの女性応援隊に来てもらい、お祭りのようなにぎやかな一大イベントでした。台所へも三人ほど近所の人が入って下さいました。秋の刈り入れの時には、男衆が来てくれました。

 大家族というのは、人の出入りも多いものです。お客さんが、一人も来ない日はありませんでした。そして子供達が成長し、結婚して実家を離れ、祖父母も亡くなり、人が一人ずつ減っていき、田んぼは宅地化され、農業から借家・アパートなどの経営に変わっていきました。

 大家族の中で育った私は、とても淋しがりやです。いつも周りにたくさんの人がいて、いつもにぎやかで、時にはにぎやか過ぎることもありましたが、振り返ってみると、よい経験をしたと思います。日本は少子高齢化の一途を辿っていますが、大家族の良さを忘れないでと願います。

2012年5月28日月曜日

温故知新


 昨日5月27日(日曜日)車で岡山県高梁市にある備中松山城を訪ねました。倉敷市から北へ国道180号線で30キロのところにあります。一級河川の高梁川に沿って、国道とJR伯備線が走っています。

 備中松山城は、国指定重要文化財になっていて、現存天守の残る日本一高い山城(標高430メートル)です。四つの峰からなる標高480メートルの臥牛山(がぎゅうざん)にあります。この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2年(1240)に砦が築かれたことから始まります。歴代城主は、城の歴史とともに変わり、もらったパンフレットには、城主となった15の家と家紋がのっていました。有名なところでは、毛利輝元、小堀遠州(建築、作庭、茶道遠州流)、池田家(岡山後楽園)、浅野家(大石内蔵助)、そして最後は板倉家が何代も続き明治維新を迎えます。昭和の大修理、平成9年に修復、平成15年に保存修理が行われて現在に至っています。





 臥牛山8合目の駐車場からお城まで、徒歩で休憩しながら30分かかりました。行きは登山といえるような山登りで息がきれます。その疲れもお城に到着すると、一挙にふっとびます。気持ちよい新緑、深緑の中、心地よい風がほおをなで、こんな高い所へ人間の手で城を築いた先人達への敬意と感動で、胸がいっぱいになります。見渡す周囲の山々、高梁市街を、高梁川を見下ろし、はるか昔に自分を運んでくれるようです。至福のひとときでした。高梁市に残る武家屋敷、ゆかりの頼久寺、商家などが観光整備されていました。土・日は、一つ手前の城見橋公園駐車場から8合目駐車場までシャトルバスが出ていて、一般車両はここまでです。



 パンフレットに書かれていた言葉です。

「400年ノ刻ヲ越エテ 歴史ノ旅ヘ、イザ往カン」

天空の城塞「備中松山城」

 山の頂より今も見つめる悠久の刻

2012年5月27日日曜日

「水の流れ」


川が流れるように 私は生きていきたい

川に流されるように 私は生きていきたい

決して 流れにさからわないで



一すじのわき水が 村へ流れて小川になりました

長い道を旅して 小川は町にたどりつきました

小川は 町に出て川になりました

にぎやかな町の中を 川はゆったり流れます

ゆったり流れて 川は大きな大きな河になりました

大きな河は 海をめざして 堂々と流れます

やっと海が見えてきました 長い長い道のりでした

山から海へ 遠い遠い道のりでした

そして 水は 世界へ流れていくのです

2012年5月26日土曜日

「パパとママ」


「パパとママは、おみあい?それともれんあい?」

どっちと思う?

「れんあいがいいな。だってテレビのドラマみたいだもの」



パパとママは、幼ななじみよ。

幼稚園の頃から、ずっと手をつないで歩いてきたの。

ママがパパの手を、ずっと引っ張って歩いてきたの。



「パパ ぞうさんみたいだものね。

もも組の太郎くんも、ぞうさんみたいだよ。

わたしも、太郎くんの手を引っ張って歩こうっと」

2012年5月25日金曜日

続 素敵なお話


 昨日のブログに書いた姜尚中氏が話された言葉

「すべてのことには時がある」

「自らの逆境を広い視点で見よ」を聞いて、知人の娘さんのことが思い出されました。

 知人の娘さんは、教員採用試験を15回も挑戦し続けました。学力、スポーツや芸術などの技能、人柄など申し分ない人です。一次試験は合格しても、何故か採用通知は届きませんでした。大学を出てからずっと講師をされていて、現場の先生方からは「教育の現場では、あなたのような人を待っているのよ」と、言われていましたが、採用通知は届きませんでした。面接する人の目は、節穴ではないのかと思うほどでした。

 そんな時、大分県で教員採用試験における不祥事が発覚しました。県の教育関係者たちの子息の教員採用試験において、お金をともなう合格への口利きという不正が行われていたのです。そのニュースを聞いた時「ああ、やっぱり」という印象を受けました。日本の公的な職につくには、昔からその道のやり方があるというのが、巷ではある種の常識みたいになっていたからです。身近な人(市関係)から県関係へ、そして国関係へと蔓が伸びています。大分の事件は、まさに氷山の一角のように思われました。その事件が日本の教育界を震撼させ、その後は少しは清いものになったのかもしれません。
 そんな事件のあと、知人の娘さんに合格通知が届いたのです。あきらめないで自分の目標に向かって挑戦し続ける姿に、頭が下がりました。彼女も姜尚中氏と同じく37歳で、やっと定職を得たのです。「本当によかったですね。おめでとう!」  

2012年5月24日木曜日

素敵なお話


 先日、テレビで姜尚中氏のお話を聞いて、とても印象に残った言葉がありました。彼は、恩師の牧師さんから「すべてのことには時がある」ということを教えてもらったそうです。時が来るまでは、我慢強く耐えて、時が来る日のために、力を身につけ準備をしなければならないということだと思います。

そして姜尚中氏は

「人生はエンジョイしなければいけない」

「自らの逆境を広い視点で見よ」

「無駄なように見えて非常に大切なものがある」

「無駄なことをやってきた延長に今がある」と、言っておられました。

姜尚中氏は、37歳でやっと定職を得られたそうです。

2012年5月23日水曜日

スカイツリー


 昨日5月22日皆が待ちに待ったスカイツリーがグランドオープンしました。着工から三年八ヶ月です。世界一の高さ634メートルでギネスブックの認定を受けました。前宣伝で多くのスカイツリー関連番組が放送されて、私もいろいろ見ました。スカイツリーの東西南北の位置から、どれだけ離れたところからどのように見えるかなど、とても興味をひくものでした。高所恐怖症の人は多いと思いますが、私は興味津々です。富士山も見えます。東京湾も関東平野も一望できます。何と言っても世界一の高さです。登らずにはおれません。登山のような苦しみはありません。エレベーターで楽々と高い所へつれていってもらえます。当分の間は予約をとらないと登れません。長蛇の列ができて、チケットを買うのに何時間も待つようなら、年齢的体力的に無理だし、いつごろ行けそうになるか、検討しなければなりません。しかしながら、スカイツリーにぜひ一回は登りたいと思います。


2012年5月22日火曜日

金環日食


昨日5月21日は、金環日食でした。日本で見られるのは25年ぶりです。日食とは太陽が月によって覆われる現象です。皆既日食(太陽の全体が隠される場合)部分日食(太陽の一部が隠される場合)金環日食(月の外側に太陽がはみ出して細い光輪状に見える場合)があります。今回のように、多くの人が見れるというのは、平安時代以来932年ぶりとのことです。

 私達も朝早く起きて用意をして、今か今かと待ちました。宇宙の自然がいとなむ天体ショーです。胸がワクワクします。胸が熱くなります。うちのポアロ(夫)がピンホールカメラを作りました。0・5ミリの穴を開けて、金環日食を半透明の紙に写します。5ミリぐらいの大きさの金環日食が観察できました。もう少し大きく見える拡大鏡があったらよかったと思いましたが、あとのまつりです。月が太陽の前から姿を消し、いつもの太陽に戻るまで、関心をもって、ちらちらピンホールカメラをのぞいていたので、天体ショーが完全に終わるまで、時間も体力も使い果たしました。

ネットからダウンロードして少しの工作で出来ました

 
 
かろうじて金環になった気がします!

 今回のように多くの人が見れるのは、300年後ということです。

 少し雲がかかった時もありましたが、雨も降らず無事に見ることができて、本当によかったです。

2012年5月21日月曜日

私の好きなことば 「もったいない」と「MOTTAINAI」



日本人である私としては、しっかり身についている「もったいない」という言葉ですが、いつの頃からか、多分、日本が豊かな国になって、消費の文化が広まった頃だと思いますが、飽食の時代になってからは「もったいない」という意識が、日本人から遠ざかっていったのではないでしょうか。
 私の生まれ育った家は、農家でした。米、麦を始めとしていろんな野菜も作っていました。その労働の大変さを目にしていた私は、米一粒も、たくさんの人の汗と労働のたまものだということを、身にしみて感じていました。そのことは、米一粒だけにとどまらず、食べるものから着る物、人間が使ういろんな物にまで及んでいます。
 「MOTTAINAI」という言葉は、2004年、環境分野として初のノーベル平和賞を受賞した、ワンガリ・マータイさんが、世界に広めた言葉です。2005年2月に来日され、日本語の「もったいない」が、マータイさんが取り組む資源の有効活用3RReduce,ReuseRecycle)を、一言で表す言葉であり、さらに命の大切さや、かけがえのない地球資源に対するRespect(尊敬の念)という意味も込められていることを知り、子供たち、次世代へのメッセージを含んだ言葉として、深く感銘され、環境を守る国際語「MOTTAINAI」として、世界に広げることを決意されたそうです。その後「MOTTAINAI」精神を、世界に広めてこられました。
 2011年9月マータイさんは、病気により死去されましたが、マータイさんが、教べんを取っていたケニアのナイロビ大学に「ワンガリ・マータイ平和と環境研究所」が設立され、MOTTAINAI学科も創立されました。
 かつて日本人がしっかりと身につけていた「もったいない」が、マータイさんのおかげで「MOTTAINAI」という国際語となって世界に広がっていったことは、嬉しいことです。現代に生きる日本人が「MOTTAINAI」から「もったいない」へ、逆輸入された観もありますが、ぜひ身につけてほしいと想います。その根底には、感謝の気持ちが流れています。

参考 3R 
 Reduce(リデュース)使い終わったあとに出るゴミの量をなるべく少なくすること
 Reuse(リュース)一度使ったものをゴミにしないで何度も使うようにすること
 Recycle(リサイクル)使い終わったものをもう一度資源にもどして製品を作ること

2012年5月20日日曜日

「一等賞」



みんな 好きでしょ 一等賞
いつも とる子は 誰ですか

ぼくは いつも ビリばかり
一度は とりたい 一等賞

みんなの あとから ついてくぼくは
後を向いたら 一等賞

2012年5月19日土曜日

徒然に想ううた 短歌三首



歳忘れ タイムスリップ 四十年
    若き姿に 皆が変身


君逝きて 後のまつりか 凡夫ゆえ
     右往左往の 我を導け


高砂の 翁と媼 我に言う
    お前百まで わしゃ九十九まで

2012年5月18日金曜日

私の好きなこと


私の好きなこと、それは書くことです。

何を書くのか、本当に何でもいいのです。俳句、短歌、詩、童話、小説、随筆、なんでもいいのです。エンピツと紙があれば、いつでも、どこででも、取り出して書き始めます。お金がかかる趣味が多い中で、最もお金のかからない趣味だと思っています。仕事ではないのでとても気楽です。

何故書くことが好きになったのか、分析してみると、自分はおしゃべりが得意ではないということです。じっくり考えじっくり書くのが、自分の性に合っているのです。じっくり考えじっくりしゃべっていたら、みんなのテンポについていけません。科学技術文明の進歩とともに、人間のしゃべる速さが速くなっていると耳にしましたが、最近のテレビに出てしゃべっている人達の、しゃべる速さには驚きます。機関銃のようです。そんな中に、私のような人間がいようものなら、一言もしゃべらずに終わってしまうか、場違いの所にいる状態で、その場の雰囲気を台なしにしてしまうでしょう。

 おしゃべりな人達が集まってしゃべっているのを見ると、我先にと、しゃべる隙をいつもねらっているように思います。しゃべる「間」の取り合いです。それは戦いです。

おしゃべりの欠点は、口から発した言葉を、消しゴムで消せないということです。人の心を傷つけるような発言も、たまにはしてしまうでしょう。いくら誤っても、傷を受けた人の心の傷は、そう簡単には癒えないでしょう。ひょっとしたらたった一言で、人から一生恨まれることになりかねません。やっぱり人間は、考えながらしゃべらないといけないと思います。

 ドライブ中は、ラジオをよく聞いていますが、ニュース担当のアナウンサーが、私好みの速さで、ニュースを伝えてくれます。誰もが感じるような、一昔前のアナウンサーのテンポです。その話しぶりから、ほのぼのとした人柄と雰囲気が伝わってきます。聞いているこちらも、和みの空間にいるようです。

 昔の人は言っています。

「口は禍の門」と。

2012年5月17日木曜日

葵祭


昨日516日京都三大祭の一つ葵祭が行われました。雨のため一日遅れて行列巡行が行われました。

平安貴族の装束に身を包み、総勢約500名、馬36頭、牛4頭、牛車2台、輿1台の雅な王朝行列が、京都御所を出発し、途中下鴨神社へ寄り、上賀茂神社を目指して約8キロの巡行です。

葵祭の特徴は、平安時代以来、国家的な行事として行われてきたので、わが国の祭りの中でも、数少ない王朝風俗の伝統が残されているとのことです。

祭の起源は今から約1400年前で、賀茂の神々の祟りを鎮め、五穀豊穣を願ったこととされています。途中、中断や中止はありましたが、王朝の伝統は忠実に守られてきたそうです。

新緑の中を、色とりどりの雅な王朝装束が巡行するのは、素晴らしいものです。外国人もたくさん見に来ています。普段めったに見ることのない、日本の伝統的な王朝文化を見ることができます。

私は、今迄に二度見に行っています。一度目はスタート地点となる京都御所で、二度目はゴール地点となる上賀茂神社です。日本の一番よい季節に、上賀茂神社を散策するのも気持ちよいものでした。上賀茂の名物「やきもち」もおいしかったです。




2012年5月16日水曜日

高齢者住宅

 先日、高齢者住宅の見学に行ってきました。義母が一人で暮らしている町に、最近できたものです。三階建で全部で30室あります。現在三分の一ほど入所されていますが、いずれかの介護認定を受けている人しか、入れないとのことでした。老人ホームではなく、高齢者専用賃貸住宅で、個室は、六畳ほどの部屋で洗面とトイレがついています。お風呂、洗濯機設置の洗濯室、リビング、食事室は共用で、食事は毎日3食作ってもらえますが、自分で何かを作りたい場合のために、電磁調理器が用意されていました。介護認定を受けている人ばかりなので、自分で料理する人はいないとのことです。入居一時金は20万円で、月額利用料は、部屋代5万円、管理共益費3万円、食事代45,000円、計125,000円かかります。

 今迄に、いくつもの有料老人ホームを見学していますが、安価なものから高額なものまでいろいろあります。負担金も、入居時に高額を支払うものから、月々支払うものまで、パターンも豊富です。

 とても元気でハツラツとしている義母は、高齢者ですが、高齢者と呼べないほどの人です。一緒に見学に行ったのですが「まだまだああいう所へは入れない。今のままで大丈夫」と言っていました。

 そこの運営の基本方針が気に入りました。

「レッセ・フェール」フランス語で「なすに任せよ」の意味です。(経済学で頻繁に用いられており「政府が企業や個人の経済活動に干渉せず市場のはたらきに任せること」を指します。一般には経済における「自由放任主義」と訳されます)Wikipediaより 

人間が年老いていろんな不都合が出てきた時に、まず本人の意思を尊重し、温かく見守るということだと思います。

2012年5月15日火曜日

「私の赤いくつ」


母が大切にしまっておいてくれた 私の赤いくつ

生まれて初めてはいた 赤いくつ

大地に初めて立ったときの 赤いくつ

あれからもう何年がすぎたのでしょうか





父が逝き 母が逝き

一人ぼっちの私のそばで

見守っていてくれた 赤いくつ





このくつをもって

私は明日 嫁ぎます

2012年5月14日月曜日

不思議な出来事


 本当に驚くことが、知人の身に起こりました。五十代のご夫婦です。夫婦共働きで、三人の息子さんと家族仲良く暮らしておられました。朝、奥さんが目覚めた時、隣に寝ておられる御主人が、すでに冷たくなっていたのです。すぐ救急車を呼びましたが、死後数時間たっていたとのことです。体格の大きい御主人は、スポーツマンで、快活で、毎年の健康診断で特別悪いところもなく、平日は仕事に、休みの日には趣味のゴルフにと、順調に生活されていたのです。

 こんなことが突然起こるとは、誰も信じられません。隣に寝ている奥さんに、何の異変も伝えることなく、静かにコロッと逝かれたのです。大往生というには、五十歳代の若さでは早過ぎます。突然ふりかかった悲劇を乗り越え、奥さんは気丈に「仕事を持っていて助かっています」と、言っておられます。

 命あるものはすべて、最後のその時を迎えますが、最後のその時について、なおいっそう考えさせられる出来事でした。

2012年5月13日日曜日

母の日


 今日は、五月の第二日曜日、母の日です。お店には、母の日のプレゼントにお薦めの品々が、たくさん並べられています。鉢植えのカーネーションもたくさん並べられています。

一年間にたくさんあるイベント商戦の一つです。いつからこんなに盛大になったのでしょうか。

 私が小学生の頃、貯まったお小遣いをかき集めて、履物屋へとんで行き、下駄を買い、母の日のプレゼントに母に贈った記憶がありますが、それ以外は、母のお手伝いがプレゼントだったり、子供でも作れるお料理がプレゼントだったり、今から考えると倹しいものでした。大人になってからは、食事に誘ったり旅行に誘ったりというプレゼントをしましたが、母に贈る最大のプレゼントは、私が幸せになることだと考えていました。子供の幸せを願い祈り、母はいつも気の休まることのないほど、子供のことを思っています。品物にかえられないくらいの心情です。それを知った上で、感謝の気持ちを品物に包み込んで、母の日のプレゼントにするのでしょう。母の日にプレゼントを贈るお母さんが、生存していることは、子供にとって嬉しいことです。亡き母へは、白いカーネーションを贈るそうです。どんな時も、感謝の気持ちを忘れないで、と思います。

2012年5月12日土曜日

「好きな人」


爽やかな人が  好きです

明るい人が   好きです

愛を持った人が 好きです

心の広い人が  好きです



そんな人になりたいと 思います



重い荷物を背負った人が 好きです

自分の考えを持った人が 好きです

行動力のある人が    好きです

情熱を失わない人が   好きです



そんな人と一緒に歩きたいと 思います

2012年5月11日金曜日

「我が友 我がくつ」


あれから もう何年が過ぎたのでしょうか

学生時代 私はこのくつを友に 北の大地を歩きました

リュックを背負って 歩いた道

石ころだらけの道

ぬかるみだらけの道

きれいに舗装された道

いろんな道に出会ったけれど 文句も言わず 一緒に歩いてくれたくつ



広い広いじゃがいも畑の中を通りぬけ

美しく咲くラベンダー畑で立ちどまり

深い感動に 大きな喜びに 浸ったあの時

私の二十歳(はたち)の青春を 一緒に歩いてくれたくつ



ずっとずっと遠くまで まっすぐにのびた道

どこまでもどこまでも 続く一本道

その道のむこうで 私を待っている 何かに胸をふくらませ

ただひたすら歩きました



家を出る時 真っ白だった くつは

いつのまにか うす汚れて 茶色になってしまいました

私の二十歳(はたち)の青春を 一緒に歩いてくれたこのくつ

青春の思い出を 作ってくれたこのくつ

2012年5月10日木曜日

異文化コミュニケーション


 今日は、英会話のレッスンに行ってきました。アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどの、英語圏から来日している若い先生達と、私の拙い英会話力で、異文化コミュニケーションをしています。楽しく面白くレッスンを受けています。根本的には、語学を本格的にマスターしていなくても、人間対人間は、コミュニケーションがとれるということです。赤ちゃんが、片言をしゃべり始めた時に、父親や母親とコミュニケーションがとれるのと同じだと思います。もちろん専門的な話(政治、経済、芸術、文化、その他)をするには、相当の語学力を必要としますが、異文化にふれる程度の会話は、片言で通じるものです。

 私の場合は、小学校六年生の時に、生まれて初めて英会話を習いました。姉がミッションスクールへ進学したので、そこのシスターが、生徒の妹や弟を集めて、他国の人とふれあうために、英会話教室を開いて下さったのです。あいさつをして簡単な自己紹介をする程度のものでした。それ以前の外国人とのふれあいは、近くにルーテル教会があり、そこの神父さん一家と親しくしていたので、小学一年生くらいから、神父さんの娘さんや息子さんと遊んだりしました。しかし神父さん一家は日本語がお上手で、英語で話すのはあいさつぐらいでした。オランダから来られた一家で、親同士も同世代で、子供同士も同世代で、近所づきあいがはずんだのではと思っています。

 中学高校と英語の授業はたくさん受けましたが、英会話はゼロでした。機会があるたびに、異国の人とふれあい、英会話に親しんできた私ですが、実力は一向に身についていません。最近は日本に住んでいる外国人も増え、留学する人、海外旅行に出かける人も増加し、外国が身近に感じられるようになりましたが、私の世代では、外国人に接する時に身構える人が、まだまだ多いと思います。そういう意味でも、外国の人とフレンドリーに接する機会を持つことはよいことだと考え、遊びの感覚で英会話のレッスンに通っている私です。

2012年5月9日水曜日

「ラブレター」

 あなたにお手紙を書くのは、何年ぶりのことでしょう。あなたとお別れしてから、早183日が過ぎてしまいました。あなたは、どこで何をしているのでしょうか。あの日は、美しく咲いた桜の花が、淋しげに悲しげに、ハラハラと散っていましたね。あなたとの別れを悲しんでいるかのように。あなたは、春を楽しませてくれた花達をつれて逝ってしまいました。あの日から私は、涙の泉のように、あなたを想い涙を流し、風が吹けばあなたを感じ、小鳥を見ればあなたが会いにきてくれたのだと思い、自分の周りのものすべてに、あなたの姿を求めて過ごしています。それでも月日は無情にも春から夏へ、夏から秋へと、何もなかったように移りすぎていきます。子供達が大きくなったから、これからは毎年二人で旅行しようと言っていたあなた。結婚二十五年目の銀婚式を迎える時には、ヨーロッパへ行こうと言っていたあなた。夢で終わってしまいましたね。この「きみまち坂」に立っていると、あなたと出会ったあの日のことが、私の胸に昨日のことのようにうかんできます。いつも私は、あなたを待っていましたね。あなたがアメリカへ長期出張した時、私は私の最愛の人に、一年ぶりに会える大きな喜びで胸をふくらませ、成田空港で待ちました。あなたがヨーロッパへ出張した時も、飛行機の到着時間が遅れて、五時間も待ちました。あなたは、私の夫であり、恋人であり、父親であり、兄であり、親友であり、そして私のスーパーマンでした。力強く、たくましく、心広く、心優しかったあなた。私にたくさんの幸せをくれてありがとう。あなたからもらうばかりで、私は、あなたに何かお返しができたでしょうか。出会いから別れまで、二十四年というあっという間の年月でしたが、中身は凝縮された愛で満ちあふれていました。近い将来、また、あなたに会えるのだと思うと、私の心は、期待と喜びでおどっています。成田空港で帰国するあなたを待っていたように。こんどは、あなたが待っていて下さいね。

2012年5月8日火曜日

ゴールデン・ウィーク


 ゴールデン・ウィークが終わり、いつもの生活に戻りました。ゴールデン・ウィークはお正月やお盆と同じで、日本列島を台風が通過するような一大イベントです。高速道路の渋滞、新幹線の高い乗車率、観光名所の賑わいなど、一斉に人々が日本列島を動き回ります。今年のゴールデン・ウィークは、高速バスの事故や大きな竜巻による被害など、痛ましい事故や自然災害も起こりました。

 我が家の大型連休は、片道500キロのドライブで「サトガエリサトガエリ!」でした。二人の子供と愛犬二匹との家族六人の大移動です。今よりも高速道路が少なく、渋滞はひどいもので、必ずどこか途中で高速道路を降りて下の道を走る羽目になりました。それも楽しい思い出となり、途中通り抜けた市、町、村の景色とともに、立ち寄ったお店や出会った人達が、家族の話題に上がりました。

 父と母が待つ実家に、兄や姉達のそれぞれの家族が集結すると、総勢18人で、近くに住む叔父叔母とその娘家族も帰省するので計23人となり、車5台に分乗し、よく出かけました。子供たちの喜ぶ、潮干狩りは大きなレジャーですが、たくさんのアサリと少しのハマグリを採って、夕食は庭でバーベキューです。また、父が作った田楽を焼くための大きな長方形の土製の田楽七輪というようなもので、父の手製の竹串を使って、母がたくさんの豆腐田楽を焼いてくれました。すぐ焦げるのでみんなでワーワー、キャーキャー言いながら、母手作りの田楽みそをつけて食べました。庭にある山椒の新芽をすり鉢で擂って田楽みそを作るのでいい香りがします。おやつに母が特製のフルーツポンチを、大きなボールにたくさん作ってくれるので、おかわり自由の食べ放題でした。

 楽しい数日を過ごしいよいよ帰る日です。父と母のいっぱいの愛情と、たくさんのお土産を車につめこみ、次の「サトガエリサトガエリ!」の日までしばしのお別れです。そんな大型連休の思い出は、何十回と続きました。

 23人の大所帯のメンバーも、今ではそれぞれの子供たちが独立し、子供たちの集まる実家もそれぞれに分かれていきました。でもみんなの胸のうちには、いつまでも記憶される楽しい懐かしい思い出となっていることと思います。

2012年5月7日月曜日

徒然に想ううた  俳句三句


被災地の 皆を励ます 桜咲き

たんぽぽの 背筋伸ばすは 誰のため

新緑の 息吹もらって ふるい立つ

2012年5月6日日曜日

「私のふるさと」



ふるさと それは川
水ぬるむ日を 今か今かと待ち望み
魚とりした なつかしき日々 
夢中で蛍追いかけ 服をぬらして
ベソかいた 少年時代

ふるさと それは海
果てしなく広がる海を眺め
夢を希望を 大きくふくらませ
胸を熱くした 青春時代

ふるさと それは山
私をいつも見守ってくれている山
私のすべてを知っている山
山の向こうに広がる世界を
顔輝かせ 友と語り合った 青春時代

ふるさと それは風
春の優しい風に 私の恋のときめきを
夏の涼しい風に 私の恋の喜びを
秋の淋しい風に 私の恋の悲しみを
冬の冷たい風に 私の恋の苦しみを
風に託した 青春時代

ふるさと それは母の優しさ
ふるさと それは父のたくましさ
私の恋 私の夢 育ててくれる町
私の悲しみ 私の苦しみ
優しく包んでくれる町
ふるさと 私にいろんなことを
教えてくれる町

2012年5月5日土曜日

幸せのキューピッド


 あなたの命の芽生えを知った時
 パパもママも強い強い人になりました
どんなことからもあなたを守り
あなたの小さい小さい命が
健やかに育つようにと一生懸命でした

 あなたの顔を初めて見た時
 パパもママも心明るい人になりました
 かわいい手かわいいあんよ
 くるくる動くかわいいお目々
 あなたは幸せ運ぶかわいいキューピッド

 あなたがよちよち歩き出した時
 パパもママも心優しい人になりました
 ころんでケガをしないようにと
 かわいいお鼻がペチャンコにならぬよう
 いつもいつもあなたの小さい手を
 しっかり握っていたのです

 あなたが「パーパ」「マーマ」と呼んだ時
 パパとママは詩人になりました
 パパとママのお父さんお母さんから
 いえいえずっと昔のおじいさんおばあさんから
 命の泉はあなたのかわいい体の中にあふれているのです

 あなたがクローバーの首飾りを作ってくれた時
 パパもママも心美しい人になりました
 お花の大好きなあなたは
 いつもパパとママに聞かせてくれましたね
 きれいに咲くお花の話を

 あんなに小さかったあなたが
 パパとママの手から飛び立つ日が来たのです
 あなたは私達に幸せをくれたキューピッド
 ありがとう
 心優しく心明るく
 どうか幸せに
 美しい人強い人になって下さい
 パパとママは遠くから祈っています

2012年5月4日金曜日


 海 それは母
 海 それは父
 海 それは友達
 海 それは一緒に生きていく仲間

 優しい春の海
 春の陽にキラキラと輝いている海
 私の青春を見つめていてくれる海
 私の恋 私の夢 私の思いを
 みんな知っている海
 あなたの胸に抱かれて眠りたい

 明るい夏の海
 夏の陽にギラギラと輝いている海
 私の青春を見つめていてくれる海
 私の喜び 私の悲しみ 私の涙を
 みんな知っている海
 あなたのように強く強く生きていきたい

 静かな海 穏やかな海 淋しい秋の海
 私の心を 私のすべてを
 優しく包んでくれる海
 愛と勇気と希望を
 よみがえらせてくれる海
 ありがとう 海よ
 永遠(とわ)に 私の友でいておくれ

 果てしなく広がる海 素晴らしい海
 荒々しい冬の海
 こんなことに負けるなと
 くじける私を励ましてくれる海
 生きる力を わき起こしてくれる海
 ありがとう 海よ
 永遠(とわ)に 私の仲間でいておくれ

 海 それは母
 海 それは父
 海 それは友達
 海 それは一緒に生きていく仲間

2012年5月3日木曜日

心の支え


 私の住んでいる町に、大きな宗教法人があります。三十年前にこの町に新規参入してきた新しい宗教法人です。十年前には大きな立派な支部の建物が建設されました。広大な駐車場を確保し、たくさんの信徒を抱えています。土曜日曜になると、どこからこんなにたくさんの人が集まってくるのかと思うほど、お参りの人々が行列をなして通ります。宗教法人と町の自治会との約束で、大通りだけが参道になっています。私の家の前を、老若男女たくさんの人が通ります。みなさんとても真面目そうな人ばかりです。
 立派な導師の講話を聞いて、日々の生活の指針とされているのでしょう。苦しみ悩みの多い人生を、どう乗り越えて生きて行ったらよいのか、道しるべとなり、心の支えとなるのが、信ずる心だと思います。時代が変わり仏教が葬式仏教と揶揄され、現代人には無宗教が増えていると耳にしますが、人間はそんなに強くありません。自分の心の中に、自分の信ずる何かを持って生きている人は、どのくらいいるのでしょうか。それは宗教だけをさしているのではありません。宗教にとってかわることのできる、自分の心の支えとなる何かです。宗教であれ、それと同等の何かであれ、人間にとって心の支えはとても大切なものだと思います。

2012年5月2日水曜日

私の出会った海 「地中海」


 今、私の手元に小さなビンに入った地中海の砂があります。非常にきめ細かく、さわった感じは、小麦粉あるいは片栗粉のようです。色は日本の砂浜や砂丘の砂より少し明るい色です。砂時計に入っている砂のような感じです。フワフワ、サラサラです。
 今から八年前のちょうど今頃、フランス南部のモンペリエへ旅をしました。日本から直行便でパリドゴール空港まで12時間、そして乗り継いで南仏のモンペリエ空港まで1時間ほどです。日本からモンペリエまで待ち時間も入れると、15時間の長旅でした。
 南仏といえば、素晴らしい青い空を思い出します。ゴッホが住んで絵を描いていたアルルを訪ね、作品「跳ね橋」の現地に立ち、ゴッホを偲び、ゴッホの人間像に思いをめぐらしました。




 知人の案内で、地中海まで足をのばし、塩田で有名なカマログへ行きました。お土産に、小さなかわいいしゃれた入れ物に入っている卓上塩をたくさん買いました。地中海に沿って車を走らせ、空の青さと海の青さが体にしみ込み、日本からはるばるやってきて、今、自分は地中海を前にしていることに深く感動しました。そしてその地中海をへだてたその先には、アフリカ大陸があります。私にとって、アフリカ大陸は映像では見ていますが、未知の国々です。もう少し足をのばせば、アフリカ大陸が現実のものになる。と、大それた夢を抱いてしまいました。



 機会があれば、また地中海に会いに行こうと思います。

2012年5月1日火曜日

知り合いの女性高齢者

 知り合いの高齢の女性は、現在八十七歳です。独居老人です。自分の身の回りのこと、炊事、洗濯、家事から経済管理まで、すべて御自分でされます。立派な世帯主です。息子さんが二人おられますが、遠くに住んでいて年に数回しか会えません。五十歳の時に夫を見送り、息子たちは独立していて、その時から一人暮らしが始まりました。六十歳までは仕事をし、退職してからは趣味を楽しむ生活をしておられます。多趣味の方で、パッチワーク、水墨画、俳句といろいろされてきましたが、今は俳句だけされています。
 彼女は生まれた町で結婚し、子供を育て、夫を見送り、一人暮らしになっても、ずっとその町に住み続けています。家を一歩出ると、顔見知りの人ばかりです。買い物に行って帰宅するまでに、何人もの人と会い、道で立ち話をするので、結構時間がかかります。
 彼女が住んでいる町は、下町です。子供世代の多くは、就職して町を離れ、親世代だけが残り、今となってはほとんどの人が、後期高齢者です。日本の高齢者の統計どおり、圧倒的に女性の独居の人が多く、それが幸いして、同じ境遇の友達がたくさんいるおかげで、何か困った時でも、遠くにいる息子たちよりも、近くにいる友達が、早く対応してくれるそうです。
 彼女の話される内容から、下町のよさが伝わってきます。助け合いの精神、人情のよさ、よい具合の敷居の高さが、昔のまま残っていて、その地域で暮らす高齢の方々が、独居老人という名前のイメージからは、ほど遠く、みんなで仲良く手を取り合って、最後のその時まで、楽しく暮らしていこうという思いが感じられます。
超高齢社会を突き進む日本にとって、お手本になるような高齢者です。