2016年1月21日木曜日

京都の明治産業遺産-京都疎水2

 京都疎水(=琵琶湖疎水)は明治18年に京都知事北垣国道が東京遷都で落ち込んだ京都に活力を呼び戻すために計画されました。計画責任者は大学を出たばかりの田辺朔朗という若者が抜擢されました。銅像が建てられています。



本来は琵琶湖の水を利用し、英国の産業革命に倣って水運と水力(水車)により工業をおこそうとしたのですが、途中でアメリカでの水力発電の成功を取り入れようとの計画変更となったらしいです。そこでこの疎水は水運、水道、発電という用途になりました。




トンネルの入り口上部に扁額があります

扁額の説明
 この蹴上の丘の上で疎水は3つに分かれます。一つはすぐ下にある蹴上浄水場への水道利用、前回の南禅寺の裏を通って北に行く水路、そしてすぐ下にある蹴上発電所です。この発電所は日本初、なんと世界で2番目の水力発電所だそうです。この電気を利用して日本で初めての電車が伏見から京都まで走ったそうです。しかもこの発電所はまだ現役で発電しています。



まだ現役の蹴上発電所
 そして琵琶湖への水運のため船を丘の上まで引き上げるのがインクライン(傾斜鉄道)という仕掛けです。スロープにレールを敷き大きな台車に船を載せロープウエーのように引き上げるものです。下の写真のように、当時の姿を再現しています。春に両側の桜が咲くと観光名所となりたくさんの人でにぎわいます。

下の水路から引き上げて上の水路に再度浮かべるようです


インクラインの最上部(後ろに滑車があります)


斜路の途中にある台車



 昨年この疎水を昔のように琵琶湖から京都まで船で下るという試みがありました。かなりの部分がトンネルですが山科では天智天皇陵の裏を通っていきます。うまくいけば観光ルートにしようという計画だそうです。この疎水については伏見で淀川に合流するまでいろいろな仕掛けや名所がありますのでまた機会があれば報告します。

インクラインの上部は安養寺の参道です(下を見たところ)

安養寺参道(上を見たところ)

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