2012年11月30日金曜日

「母の背中」


あんなに大きかった母の背中が

今はこんなに小さくなりました

五人の子供を背負ったあの背中

母の歩いてきた長い道のり

石ころだらけの長い道のり

今日から私が母を背負います

 

私が小さかった頃

いつも子守唄を歌ってくれた母

きれいな声で 優しい声で

これからは 私が子守唄を歌います

お母さん 聞いてくださいね

 

私が小さかった頃

いつもお話を聞かせてくれた母

面白おかしく そして楽しく

これからは 私がお話を聞かせます

お母さん 聞いてくださいね

 

子供の時 いつも見上げた母の顔

私はどんどん大きくなった

私は母を追い越した

大きく育った私は

いつからか母を見下ろしている

 

子供の時 いつも私の手をつないでくれた母

今日から私が母の手をつないで歩きます

 

あんなに大きかった母の背中が

今はこんなに小さくなりました

五人の子供を背負ったあの背中

母の歩いてきた長い道のり

石ころだらけの長い道のり

今日から私が母を背負います

2012年11月29日木曜日

自分史


 今から10年前のことです。私が所属しているボランティア団体の代表をされている男性が、自分史についてよくお話しされていました。

 その方は、大手企業で300人近い部下を率いて先頭に立って働き、海外でも長年仕事一筋で活躍されてきました。60歳で無事に退職の日を迎え、夢に見ていた待望のサンデー毎日がスタートしました。大好きだったゴルフ三昧の贅沢な暮らしです。何の不自由も文句も無い日々が続きました。ところが1年もたたないうちに、心の中に隙間風が入ってくるようになり、人に勧められ自分史を書くことになったそうです。巻き物になっている障子紙を購入し、小筆で丁寧に自分史を書き始め、何とか現在地点迄筆をすすめました。そこまで自分史を書いて、60年の人生を振り返り、いかに自分が企業戦士として仕事人間で生きてきたかを、改めて思い知ったと言われます。その上でこれから先の人生を思った時、何をしてどのように日々を過ごしていくか、真剣に考えいろいろ迷ったそうです。自分史を書いてみて、なおいっそう将来、限られた自分の人生の先を見つめ、考えるきっかけになったとおっしゃいます。そこで辿り着いたのがボランティアの世界です。「他者のために何か自分にできることがある」その思いにつき動かされ、当時住まわれていた近畿地方から東京へ日帰りで、勉強に週一度1年間通われました。夜行バスで東京に早朝に着き、1日大学で講義を受けて、又夜行バスで帰られました。年金暮らしの身には、新幹線利用の交通費は高過ぎて、まして目的はボランティアということでなおさらです。そして資格を取り、ご夫婦でボランティアをこつこつ始められました。高齢者施設や病院のホスピスを訪問し、人の悩みや苦しみを聴く傾聴ボランティアです。施設や病院を自分の足で訪ね、傾聴させてもらえる場をどんどん開拓されていきました。私がその会に入った10年前で、すでに会員は30人ほどおられました。企業戦士、仕事一筋に生きてこられたこの方は、自分史を書いたことによって新しい生き方を見つけられたのです。

 今では自分史を書くノートや本が、たくさん書店に並べられています。自分史を書くことは、今迄の自分を見つめなおし、これから先の自分を考えるよい機会になるようです。「自分史を書く」という自分史の勧めをこの代表から教えてもらいました。

2012年11月28日水曜日

免許更新


 先日運転免許証の更新に行ってきました。今回の免許更新は多分9回目だと思います。何年前からか更新が5年毎になりましたが、それまでは3年毎でした。最近は更新の時に写真を用意していかなくても、あちらで撮ってくれるので楽になり、スムーズに手順よく流れ作業で進み、待ち時間も短くなったように思います。

 二人の子供は、18歳になってすぐ運転免許を取得しましたが、私は20代が終わろうとする頃に、一念発起して自動車学校へ通い始めました。子供が4歳と1歳の頃で、当時私の姉が車で20分ほどの所に住んでいたので、子供を預けて自動車学校へ通いました。仕事もしながらのことだったので大変でしたが、数ヶ月のことだから頑張ろうという思いで、何とか免許証を手にするまでやり抜きました。自分で車を運転することの素晴らしさ楽しさは最高です。機械のことは何もわからず、いじれませんが、それはプロにまかせて、ハンドルを握って車を走らせるだけのドライバーです。

 人間が歩く、走ることによって、自分の体を移動させるのには、限界があります。しかし車に乗って移動するのは、どこまででも行くことができます。まるで魔法のじゅうたんのようです。車は、私が大人になって手に入れた初めてのおもちゃです。暑い日も寒い日も何のその、雨が降ってもぬれません。雪が降る日は危険なので車に乗りません。車の運転は、気持ちを快適にしてくれます。車の運転に有頂天になって、横着になったりすると大変です。自分の命も人の命もかかっています。私は大げさですが、自分の命をかけてハンドルを握ります。

高齢者講習はこちらという案内がありました。何年か先には私も受けなければなりませんが、何歳ぐらいまで車を運転できるのでしょうか。父は88歳で亡くなりましたが、その2年前迄は、車を運転して買い物や病院通いは自分でしていました。ところがある日突然、スーパーへ車で買い物に行ったまま行方不明になり大騒動になったのです。数時間後に見知らぬ若者に車を運転してもらって、家の近く迄無事に帰ってきたので安堵しましたが、86歳は立派な高齢者です。スーパーの駐車場に車を停めて、お弁当を食べながら意識が薄らいだのか眠ってしまい、目覚めてからフラフラ運転していたのを、若者が発見して何か変だと思い声をかけてくれたので助かったのです。大事に至らなかったことは、本当に不幸中の幸いでした。父は老化による膝の痛みがあり、歩くのは少ししんどかったのですが、車を運転するおかげで行動範囲が広がっていました。車は父の足になっていたのです。前述の一件が起こってから、家族が車の運転をやめた方がよいと父を説得したのです。車の運転をやめてから、行動範囲は限られたものとなり、介護を受けての病院通いへと父の生活は一変しました。はつらつさや生き生きさが徐々に無くなり、淋しい表情の老人になりました。父にとっての車の運転は、自立の術の一つであり、生きがい、はりあいだったのだと、後になって気付きました。

 安全運転に心がけ無事故で、あと15年ぐらいは車の運転をしたいものだと、今の私は思っていますがどうなりますことやら。

2012年11月27日火曜日

徒然に想ううた 自由句三句


 

力あり 無党派層の 目と意識

 

 

マドンナの 姿無き党 しぼみゆく

 

 

選挙戦 何れの党に さくらさく

2012年11月26日月曜日

「セーター」


私の編んだセーター 届きましたか
いっしょうけんめい 編んだセーター 届きましたか

編んでは ほどいて
ほどいて 編んで
やっとやっと 編めたのですよ

生まれて初めて 編んだセーター
あなたのために
いっしょうけんめい 編んだセーター

私の編んだセーター 届きましたか
いっしょうけんめい 編んだセーター 届きましたか

いっしょうけんめい 編みすぎて
あなたには 小さいかもしれません

きゅうくつなセーターを着て
私の想いを感じてください

2012年11月25日日曜日

方丈記

 今から800年前に鴨長明が書いた「方丈記」が話題をよんでいます。今のこの時代を生きている人々の心の不安に何らかのヒントを与えてくれているのかもしれません。昨年の東日本大震災、原発問題、経済の不安定さなど、人々の心は迷える子羊のようです。こんな時、人々の心を救うのは信仰なのかもしれません。しかし現代の日本では無宗教の人が増えて、仏教さえ葬式仏教と揶揄されています。葬儀に始まり法事、お彼岸、お盆、お正月などのお墓参りは、日本人の生活の中に定着していますが、自分の心を救う信仰とは少し違っているように思います。
 鴨長明が言う「人間が生きることにおける無常さ」は、どんなに文明・科学が進歩発展しても無くなるものではありません。ずっとずっと昔の古代の人々も、今もそのことは普遍のものです。人間の命には限りがあるからです。しかし人間の寿命が、人生50年といわれていた時代に比べ、現代は医学医療技術の進歩により人生100年になっている分、無常を抱えて生きる年月が長くなっています。
 無常とは、すべてのものは、ほろびたり、うつり変わったりして、同じ状態ではないこと。はかないこと。と辞書に書かれています。この苦しみ、哀しみからほんの少しでも逃れる方法は、能動的に人生の無常を受け取ることだと思います。人の生きる道は無常で当たり前、苦しいこと悲しいことがあって当たり前、命には限りがあるということをいつも頭のどこかにおいて生きていれば、小さな喜びにも気づき、小さな幸せにも感謝する自分がいるということを発見するのではないでしょうか。

2012年11月24日土曜日

徒然に想ううた 短歌三首


空青く 都に集う 紅葉狩り

    神社仏閣 人の波満ち



逝く人の 背中を照らす 色映えて

     山野賑わせ 散るもみじ



侘び寂びの 境地になりし 紅葉は

      一人静かに 詩を詠みつつ

2012年11月23日金曜日

たそがれ族

 先日ラジオから懐かしい言葉が聞こえてきました。「たそがれ族」です。今から20数年前に流行った言葉と記憶していますが、仕事や子育てに追われる身には、あまり心に響かず聞き流していました。ところが今回この言葉を聞いて身につまされたように感じ、悲哀をともなって心の中にしみこんできました。
 「たそがれ」とは、日の盛りを過ぎた頃、夕暮れや夕方の薄暗くなってきた頃をさします。そこから人生の盛りを過ぎた年代をたとえて言うようにもなりました。団塊の世代に属する私は、まさに「たそがれ族」の仲間入りです。子供達が立派に社会人となり、老親も見送り、夫婦二人だけの静かな生活の中で、自分のしたいことに没頭できる喜びを謳歌している私に、この言葉は一瞬立ち止まらせ、少し考える時間を運んできました。人間の一生の盛りが過ぎた年代というのは事実です。やり遂げたという達成感とその反面少しの淋しさを感じているのも事実です。しかし人間誰もが歩む過程です。「たそがれ族」にどっぷり埋没し、過ぎ去った日々のことばかりに気をとられていたのでは、これから先の暮らしが思いやられます。最後のその時まで人生を楽しみたいものです。
 今、話題の人になっている某政治家は、80歳になられても「暴走老人大いに結構、私は暴走老人です」と豪語されています。「たそがれ族」の人達も、たそがれないで、暴走老人のパワーを持ち続けてほしいと思います。

2012年11月22日木曜日

私の出会った城下町 岡山城


 岡山城を訪れたのは、今回が2回目です。35年前、上の子の手をひき、身重の私は、予定日を2ヵ月後に控えた頃に、家族3人プラス1で車で岡山へドライブしました。その頃は近畿地方に住んでいたのですが、片道4時間の1泊2日の旅に出たのでした。35年という長い年月を経て今度は夫婦だけの日帰り旅行です。岡山駅から桃太郎電車に乗って岡山城へ向かいました。岡山城は別名烏城と呼ばれているように、お城を見上げると真っ黒で納得できます。小春日和の中、お城を巡り、日本三大名園の一つになっている後楽園も散策しました。ついつい子供が小さかった時の思い出に話が進み、顔を見合わせて笑ってしまいました。私の場合、子供は二人ともジャンボベイビーで4キログラムほどあったのですが、そんな大きなお腹を抱えて、何の心配もせず、大胆にも旅に出た若さの怖さを今更ながら感じています。
 
 

 岡山城は、1597年(慶長2年)宇喜田秀家により築城されました。主な城主は、宇喜田氏、小早川氏、池田氏です。一級河川旭川に守られるように建っています。何代にもわたり岡山藩主として岡山城を守り続けてきた池田家の現在の当主は、今年の7月に死去されたそうです。その夫人は、今の天皇陛下の姉君です。
 
 

 岡山は、長野と並び文化水準の高い歴史ある町です。お城の周辺には、県庁、県立図書館、美術館などの文化施設が集まっていました。

 帰りも桃太郎電車に乗り、お土産にきび団子を買って岡山をあとにしました。

2012年11月21日水曜日

徒然に想ううた 俳句三句


 

一列に 並ぶ銀杏の 色多彩

 

 

漆の葉 真っ赤に映える 一等賞

 

 

唐楓 色かわいくて 頬ゆるむ

2012年11月20日火曜日

徒然に想ううた 自由句三句


 

関が原 人にかつがれ 火の中へ

 

 

傘寿越え まだまだやる気 御輿乗る

 

 

党の名が 覚えられずに 投票へ

2012年11月19日月曜日

「ツバメの学校」 (3)

そんな練習をしばらく続けていたと思ったら、お父さんとお母さんは、電線まで飛んでいきました。そして子供たちに「さあ、今度はここまで飛んでおいで」と言っています。あいちゃんは、子供たちがどうするのかと興味しんしんです。すると、五羽の中の一羽が、お父さんとお母さんのいる電線まで飛んだのです。それを見ていた他の子供たちが、順番にあとを追って電線まで飛びました。五羽の子供たちの性格は、それぞれ違うということを知って、あいちゃんは、思わずニヤニヤしてしまいました。「一番に飛ぶ子は、元気で勇気があるんだな。お兄ちゃんかな、お姉ちゃんかな。最後に飛ぶ子は、末っ子で甘えん坊なんだ。まるで私みたい」と、思ったのです。

 五羽の子供たちが電線に並びました。お父さんとお母さんは、次のステップへと子供たちを誘います。もう少し遠い電線まで飛ぶ練習です。お父さんとお母さんは「ツバメの学校」の先生です。少しずつ飛ぶ距離を伸ばして、子供たちに勇気と自信を教えています。   
今日は日曜日なので、あいちゃんのお父さんもいます。あいちゃんのお父さんお母さん、お兄ちゃんお姉ちゃん、そしてコロも、家族みんなで「ツバメの学校」を見ています。素晴らしい「ツバメの学校」を見て、感動しています。

 五羽の子供たちは「ツバメの学校」の先生の上手な指導で、うまく飛べるようになりました。あいちゃんの家の周りで、あっちへ、こっちへ、飛ぶ練習をして、どんどん遠くへ飛んでいきました。そして、それからは、もう巣へ帰ってこなくなったのです。
 ヒナたちの巣立ちは嬉しいことです。でもツバメ一家の姿が見えなくなって、あいちゃんは、とても淋しくなりました。

「ツバメさん 来年もここへ飛んできてね」
                              あいちゃんは願っています。

       おわり

2012年11月18日日曜日

「ツバメの学校」 (2)

 卵からヒナがかえりました。ツバメの赤ちゃんが五羽誕生しました。あいちゃんのお家の玄関ポーチがにぎやかになりました。フンもするので巣の下に新聞紙を敷きました。お父さんツバメとお母さんツバメは、代わり番こに出かけます。お父さんとお母さんは、エサを取りに行っては巣に戻り、子供たちにエサを食べさせます。お父さんとお母さんが、エサを運んでくると、子供たちは黄色い口を開けて「エサちょうだい、今度は私の番よ」とにぎやかに鳴き立てます。時々、あいちゃんは、ツバメの巣を下から静かに見て観察しました。するとヒナでもフンをする時は、おしりを巣の外に向けてするのです。「何てかしこいのかしら」あいちゃんは、感心しました。
 コロが人間のお客さんに、うるさく鳴いても、ツバメの一家は平気の平左です。ヒナたちの合唱とコロの鳴き声で、あいちゃんの家の玄関ポーチは、いちだんとにぎやかです。

 あいちゃんが、ツバメの巣を下から見上げると、今まで見えなかったヒナたちの顔が見えるようになりました。ヒナたちは、ずいぶん大きく育ったようです。梅雨に入り、毎日雨がしとしと降っています。雨の合間にヒナたちが巣から出始めました。初めの一歩は巣から庭へ降りることです。五羽のヒナたちが、順番に巣から庭へ降り、短い距離を飛んだのです。お父さんツバメとお母さんツバメは、近くで見守っています。
                              つづく

2012年11月17日土曜日

「ツバメの学校」 (1)

 あいちゃんのお家はニュータウンにあります。新しいお家へ引っ越してすぐのことです。玄関ポーチの軒の下に、お客さんが来るようになりました。二羽のツバメです。二羽のツバメは新婚さんです。一生けんめい巣作りが始まりました。まずは家作りです。どろを運んできます。小さな口ばしで器用に軒の下へくっつけていきます。あっという間にお家ができました。今度はベッド作りです。枯草をたくさん運んで、フワフワベッドのできあがりです。

 お母さんツバメが巣にこもり始めました。卵の誕生です。この日からお母さんとお父さんが、交代で卵を温めます。お父さんが卵を温めている時に、お母さんはエサを食べに飛んでいきます。本当に仲睦まじく、力を合わせての子育てです。あいちゃんのお家には、柴犬のコロがいます。コロの家は玄関の横にあります。門番が仕事です。お母さんツバメが卵を産んでしばらくたった頃、コロの異様な鳴き声に驚いて、家にいたあいちゃんとお父さんとお母さんが玄関へ駆けつけると、ヘビがツバメの巣へ近づこうとしていました。ツバメの卵をねらっていたのです。お父さんが、ヘビを遠くへ追いやり、危機一髪を脱するという事件が起こり、コロのお手柄となったのでした。
                            つづく

2012年11月16日金曜日

紅葉


 今、日本列島は最高の美しさで、人々を楽しませています。自然の力が織り成す素晴らしい紅葉は、同じものは二つとない美しさです。桜並木、いちょう並木、けやき通り、とうかえで通り、そしてもみじにうるし、その美しさにうっとりします。

 高速道路を走っていると、地味な色合いの中に、ひときわ目立つ赤のうるしが目をひきます。こんなにうるしの木々があったのかと驚くほどです。子供の頃、うるしの木には近寄らないようにといつも親から注意されていましたが、ふとした拍子にふれたのか、兄や姉がうるしにかぶれたことを覚えています。そんなうるしの木が紅葉のこの季節には、まるで自己主張しているかのように、真っ赤な色になります。とても愛らしい赤です。とうかえでの紅葉も色とりどりですが、真っ赤に色づくのもかわいい風情です。

 

 家の近くに楷の木があります。紅葉は今が見頃です。最高の美しさです。楷の木を見ると、何年か前に訪れた岡山県備前市の旧閑谷学校を思い出します。閑谷学校は、岡山藩主池田光政が庶民の教育のために1670年に建てた学校で、特別史跡になっています。そこに中国山東省の孔子廟から種を持ち帰り植えたという楷の木が二本あり、今は大木になっています。この楷の木の紅葉は素晴らしく秋の観光スポットになっています。紅葉を見て感動し、歴史に思いを馳せた場所です。
 
楷の木

2012年11月15日木曜日

徒然に想ううた 短歌三首


日の名残り 重ねて想う 一生を

 

      過ぎ行く日々は 悔い多き道

 

 

岐路に立つ 進むはどっち 正解は

 

      後のまつりと 思えばのこと

 

 

セミダブル 広き二人は 遠く去り

 

      今は狭くて 陣取りし合う

2012年11月14日水曜日

「祈り」


私は毎夜お祈りをする

感謝と祈りをくり返す

誰にと問われると答えに困る

私は熱心なキリスト教信者でもない

私は熱心な仏教徒でもない

ただ大いなる宇宙に祈る

大いなる宇宙に感謝する

 

私は毎夜お祈りをする

感謝と祈りをくり返す

すべての親がそうであるように

「子供をお守りください」と祈る

そして「愛する者たちと共に」とつけ加える

 

愛する者たち

それは遠くへ旅立った愛犬たち

多くの愛する人たち

 

父も母も姉も

祖父も祖母も義父も

叔父も叔母も従兄弟たちも

大切な友も

 

そして必ず

いつの日か自分も旅立つ

 

私は毎夜お祈りをする

感謝と祈りをくり返す

2012年11月13日火曜日

十一月の花 秋明菊


 先日街歩きをしている時に、たまたま通りかかった町中の小さなお寺の境内に、可憐に咲く白い秋明菊を見つけました。静かな雰囲気を醸し出す清楚な花です。いろんな色の秋明菊があるのでしょうが、私は以前から白い花の秋明菊しか見ていません。
 
 
 ずいぶん前のことですが、仕事の都合で東京に住んでいた時のことです。父と母が東京へ久しぶりに遊びに来たので、家の近くを案内しました。東京都調布市にある深大寺へお参りしました。それからその近くにある神代植物公園を訪れました。季節は秋でした。いろんな種類の色とりどりの菊の花が、見頃の時期を迎えていたのですが、その中にひっそり咲く白い秋明菊を見つけました。当時、母は華道の教授として忙しい日々を送っていたのですが、秋明菊を見つけるなり、茶室に活けるのにぜひこの花を買って帰りたいとのことで、販売所で買い、大きな荷物になったのですが、大事に持って帰っていきました。そのあと父と母は、その秋明菊を庭に植えて、毎年花が咲くのを楽しみにしていました。あとで知ったのですが、秋明菊は茶室に活ける茶花として人気が高く、茶道をする人たちには好まれているそうです。侘び寂びの世界にふさわしい花といえるのだと思います。

 白い秋明菊を見ると、その頃のことが懐かしく思い出されます。

2012年11月12日月曜日

徒然に想ううた 自由句三句


 

めんうちは どのめんうつか 思案どき

 

 

二人して 空気流れる 冬の暖

 

 

そばで聞く 主の寝息 乱気流

2012年11月11日日曜日

「あいちゃんの大くす」 (3)


 
 誰かの話し声で、目がさめました。声のする方を見ると、カラスのお家があります。カラスの家族がお話をしています。

「お母さん、この女の子はだあれ?」子供たちが聞いています。

「いつも元気に、大きな声であいさつしてくれる、あいちゃんだよ」カラスのお母さんが言っています。

「初めまして!よろしく!」あいちゃんは、カラスの家族とお話ができるようになったのです。カラスのお父さんは、子供たちにエサを運んできます。交代で今度はお母さんが、エサをとりに飛んで行きました。三人の子供たちは、取り合いしながらエサを食べています。とてもにぎやかです。 

 あいちゃんは、思い出しました。おじいちゃんが、このくすの木にいるはずだ。「おじいちゃん」と、呼んでみました。葉っぱが「ザワッザワッ」と、ゆれています。「ここだよ、ここにいるよ」おじいちゃんの声がしました。あいちゃんは、くすの木のずっとずっと上を見上げました。おじいちゃんがいます。この大きなくすの木の一番上の、てっぺんに座っています。いつものおじいちゃんです。元気だったおじいちゃんです。あいちゃんは、手を伸ばしました。おじいちゃんの手に届きました。大きなごつごつした、おじいちゃんの手です。おじいちゃんの大きな手の中に、あいちゃんの手は、すっぽり入りました。とてもあたたかな手です。おじいちゃんに会えた喜びで、あいちゃんは、ドキドキしています。おじいちゃんは、ポツリポツリ話し始めました。

 「あいちゃんは、毎日、大くすさんに、大きな声であいさつしてくれるね。おじいちゃんには、よく聞こえるよ。大くすさんは、葉っぱをザワッザワッてゆらして返事しているんだよ。あいちゃんやみんなが、元気で過ごせるように、いつも見守っているんだよ」

あいちゃんは、おじいちゃんの優しい声を聞きながら、又うとうと眠ってしまいました。

                       おわり

2012年11月10日土曜日

「あいちゃんの大くす」 (2)


 夏休みのことでした。大きな台風が、あいちゃんの住んでいる町に近づいてきます。台風が上陸しました。大きなくすの木は、台風の暴風や激しく降る雨にも負けず、踏ん張っています。台風に負けまいと、どこまでも頑張っています。あいちゃんの家を、みんなを守ろうと必死です。大きな台風が、やっと通り過ぎました。あいちゃんの家も、みんなも無事でした。あいちゃんは「この大きなくすの木は、おじいちゃんがいるくすの木は、一生けんめい私たちを守ってくれている」と、心の底から思いました。

 あいちゃんは、この大きなくすの木に、登ってみたいと思うようになりました。はしごを使って、大きなくすの木に登りました。あいちゃんの町がよく見えます。あいちゃんの学校も見えています。あいちゃんは嬉しくなって、どんどん上へと登っていきました。
 あいちゃんは、驚きました。こんな高い所に、不思議なことに、あいちゃんの大好きだったゆりかごがあるのです。あいちゃんは、ゆりかごに寝ころびました。ゆりかごは、風にふかれてゆーらゆら。とても気持ちよい風が、あいちゃんのほおをなでていきます。くすの木の葉っぱが「ザワッザワッ」と、子守歌のようです。あいちゃんは、気持ちよくなってうとうと眠ってしまいました。
                        つづく

2012年11月9日金曜日

「あいちゃんの大くす」(1)

 あいちゃんのお家には、二百年前から、家の守り神だと言い伝えられている、大きなくすの木があります。あいちゃんは、朝起きると「おはよう!大くすさん!」と、大きな声で、大きなくすの木を見上げてあいさつします。大きなくすの木は「ザワッザワッ」と、葉っぱをゆらして、まるで返事をしているようです。あいちゃんは、学校へ行く時も「行ってきます!大くすさん!」と、大きなくすの木に、声をかけて出かけて行きます。大きなくすの木は、いつでもあいちゃんの呼びかけに「ザワッザワッ」と、葉っぱをゆらします。

 秋の終わりに、大好きだったおじいちゃんが、病気でなくなりました。「おじいちゃんは、どこへ行ったの?」あいちゃんは、お母さんに聞きました。「お空に昇り、このくすの木へ帰ってきて、いつもみんなを見守っていてくれるのよ」と、お母さんは言いました。その日からあいちゃんは「おじいちゃんは、この大きなくすの木にいるんだ。顔はみえないけれど、いつもみんなを見守っていてくれるんだ」そう思うと、おじいちゃんがいなくなった淋しさも「おじいちゃんが、いつも見守っていてくれる」という喜びに変わりました。
                                                                                  つづく

2012年11月8日木曜日

塩飽諸島本島へ(4)


 「塩飽しわく」とは、東と西から流れこんだ潮が、このあたりでぶつかりあい「潮湧くしおわく」と呼んだのが始まりだとされている。遠く昔、瀬戸内の交通の要にうかぶ、これらの島々を根拠地として塩飽水軍が生まれた。いま無限にひろがる未来の夢「瀬戸大橋」と古き心が眠る歴史・ロマンがぶつかりあい、新しい「塩飽」のドラマが始まる。

            SHIWAKU ISLANDS
 
 乗船する時にもらったパンフレットに書かれていました。

 「しわく」の名は、古くから島の浜辺で生産された製塩の「塩焼く」、また狭い瀬戸の潮が大小の島かげにぶつかりあって、複雑に渦巻いて流れる「潮湧く」の転化とも言われますが、どちらを採ろうとも、それは真実の姿を今に伝える島と海なのです。   
                                                                                        とも書かれていました。

 

 塩飽諸島は、本島を中心に大小28の島々の総称です。塩飽諸島の中心である本島は、人口492人、周囲約16キロメートルの島です。1713年の記録によれば、当時本島には五千人が住み、24の寺と11の神社が建っていました。これは住民の信仰心の深さと、経済力の豊かさを物語っています。海に生きる男たちは、常に生と死が背中あわせで、その危険を仏菩薩に念じ、信仰心が厚かったのでしょう。国・県・市指定の重要文化財が35点もある本島は文化財の宝庫です。立派な仏像も多く残されています。

 塩飽諸島本島散策の最後に、本島小学校、本島中学校の前を通りました。小学校は生徒20人ほど、中学校は生徒15人ほどで、どちらも僻地1級に指定されています。私達が本島を訪れた前日には、中国・四国地区僻地教育研究大会が開かれていました。本島小学校が取り組んでいる一つに「ふわふわ言葉とチクチク言葉」があるのを知りました。「ふわふわ言葉」は言われると嬉しくなったり、元気・やる気が出たり、安心したり、心があったかくなる言葉です。「チクチク言葉」は言われると悲しくなったり、イライラしたり、心が傷つく言葉です。「ふわふわ言葉」を言われると、自分のことを大切にしてもらえたと感じます。人に大切にされた経験の多い子どもは、自分だけでなく、他者も大切にできるようになるそうです。      (子育て通信に書かれていました)

僻地1級に指定された小さな学校の数少ない子どもたちが、学校の素晴らしい取り組みの力をもらい、今、日本が目指している人間教育の先頭に立ってくれると思います。

 本島をレンタサイクルで散策している途中、銀波といえるような美しいススキの原に出会いました。風にそよぐ姿がとても美しかったです。帰りの船からは、瀬戸大橋の向こうに沈む夕陽が見えて、感動的でした。本島に来てたくさんの歴史と史跡・文化財と出会い、小さな島に凝縮されているかのような、はるか遠くの人達からのメッセージを受け取った気がしました。
 
 
 
                             おわり
 

2012年11月7日水曜日

塩飽諸島本島へ(3)


 昼食をすませてから、またレンタサイクルに乗って本島を散策しました。塩飽全島の政治が行われた塩飽勤番所を訪れました。1798年の建築で、国の重要史跡に指定されています。将軍から朱印状(領地をもらったり特別の権利を許可する時に、朱印を押して出した手紙)をもらって、塩飽全島は自治領になったのです。朱印蔵には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠からの朱印状が大切に保管されていました。


 
 
  鎌倉から室町の時代にかけて、玄界灘を押し渡り中国大陸から安南、カンボジアへと交易を求めた塩飽の海の男たちは、和寇と呼ばれ、のちには水軍、船方、水夫として、世界の海でめざましい活躍を見せるのです。塩飽水軍の名が世に出るのは、織田・豊臣時代を経て徳川三百年へと受け継がれますが、島民650人に1250万石の島地が与えられ、船方に任命され海上輸送の勤務が与えられました。日本人の手で太平洋を初めて横断した咸臨丸の模型がありました。咸臨丸は幕府の軍艦で、乗組員50人のうち35人が塩飽島民でした。咸臨丸のアメリカ渡船が、日米親善に、西洋文化の輸入に、我が国の航海史上に大きな貢献をしたのです。


咸臨丸子孫の会パンフより
 
  次に国選定重要伝統的建物群保存地区になっている笠島集落を訪れました。江戸時代から戦前にかけて建てられた家屋が100棟あまり残されています。鬼瓦・こて絵・漆喰塗りの白壁・なまこ壁など「塩飽大工」と呼ばれる名工たちの手作業に、往時が、栄華がしのばれます。残念なことに、立派な家が戸閉めになっているのが何軒もあり、伝統を守り続けていくことの難しさを感じました。


  次に浄土宗開祖の法然上人とゆかりのあるお寺を訪ねました。1207年法然上人が土佐(高知県)に流される途中に身を寄せたといわれている阿弥陀寺と専称寺です。遺品が残されています。私の実家の菩提寺は浄土宗で、父が檀家総代をしていた関係で、私は子供の時から「法然さん」と親しく呼んでいました。今回、小さな旅で訪れた塩飽諸島本島が、ぐっと身近に感じられました。

 阿弥陀寺
 
専称寺        
                            つづく

2012年11月6日火曜日

塩飽諸島本島へ(2)


 レンタサイクルで昼食までの1時間半で、島の半分を回りました。海岸線に沿って走ります。釣り人達の姿や、畑仕事をしている女性の姿をちらほら見かけましたが、他に人や車に出会いませんでした。集落をいくつか通り抜けたあと、海辺にある小学校に到着しました。今は廃校になっている小学校です。2004年に全国放映された映画「機関車先生」のロケが、この小学校で行われました。教室は鍵もかかっておらず、自由に見学できるようになっていたので中へ入りました。管理する人も誰もいません。ポスターや写真が飾られていて、黒板には主人公の先生が本島を去る日に子供達に言い残した言葉が書かれていました。学校の前は海です。校庭には大きなくすの木が一本ありました。本島の多くの子供達の成長を見続けたこのくすの木は、廃校となった今も、校舎を、校庭を見守り続けています。胸が熱くなりました。静かな瀬戸内海の波が寄せては返し、しばらくその波の音を聞きながら、写真を何枚か撮り、小学校をあとにしました。
 


 
 海岸線に沿って上ったり下ったりで、途中自転車を押して歩きました。美しい海を見ながら、行き交うタンカーやいろんな船を見ながら、自転車に乗ったり歩いたりしました。大きな豪華客船が航海していくのを見たのもこの時です。間近でこんな大きな豪華客船を見たのは初めてです。瀬戸内海をこんなに大きな豪華客船が航海しているということに本当に驚きました。長さ150メートルで8階建ての2・2万トンとのことです。驚きました。
 

 
  次に、木烏(こがらす)神社へ行きました。その昔、瀬戸内海に人々を苦しめる悪魚(海賊)がいて、これを退治した時に、一羽の烏が水先案内をつとめたという伝承の烏を祀っています。社前には海に向かって立つ大鳥居がありました。社殿の横には千歳座という芝居小屋があり、1862年に建てられたもので、全国の舞台30件の中に入っています。回り舞台があり、江戸時代には歌舞伎、明治以降は新派劇・喜劇なども行っていたそうです。地芝居(村の若い人たちが、お盆のあと芝居の練習を始め、10月の祭りの日に芝居をした)や、受け芝居(春の麦の刈り入れ前に、島外から船で役者が渡ってきて、本格的な芝居を見せていた)があり、他に娯楽施設がなかったので、島民の大きな楽しみになっていたそうです。ちょうどその日は翌日に開かれる文化祭の準備がなされていました。
 


 

大鳥居の間から見る瀬戸内海の美しい海は格別なものでした。 

                             つづく

2012年11月5日月曜日

塩飽諸島本島へ(1)


 先日あまりの好いお天気に誘われて出かけました。以前テレビで見て、一度行ってみたいと思っていた古い町です。香川県丸亀市塩飽(しわく)諸島の一つ本島(ほんじま)です。船が丸亀市からと岡山県倉敷市児島から出ており、どちらも高速艇で30分かかりません。フェリーは丸亀からしか出ていないので、車で島へ行きたい人は丸亀へ回らねばなりません。私達は児島から船に乗りました。定員76人の小さな船で、観光客は少なく釣り人達が多く、それでも定員の三分の二くらいのほどよい人数でした。若い頃、仕事で毎週船に乗り音楽教室へ通ったことを思い出しました。私は海が大好きです。船に乗るのが大好きです。瀬戸大橋の下をくぐります。興奮していると、あっという間に30分は過ぎました。
 


塩飽諸島本島へ初上陸です。一日乗り放題のレンタサイクルを借り、午前中に島の半分を回りました。レンタサイクル屋のおじさんは、島を一周しても2時間ほどと言っていましたが、私達は半分回るのに1時間半かかりました。島とはいえ結構上り下りがあって、上り坂ではあまり無理をしないように、自転車を押して歩きました。そして途中では、いろいろ写真を撮っていたので、時間がかかったのだと思います。 

   

「塩飽水軍のロマンに出会える古民家」と案内に書かれている民宿に昼食を予約しておいたのですが、30分遅れての昼食となりました。「穏やかな海に浮かぶ無数の島影、水軍の勇姿を彷彿とさせる船の航跡、居ながらにして素晴らしい眺望と凝縮された歴史に触れることができます」とパンフレットに載っている通り、座敷で海を眺めながら、開け放した窓から心地よい風と磯の香を全身に浴びて食事をしました。海の幸づくしの昼食です。タイの煮付け、カンパチのおさしみ、鯛めし、小魚の酢の物、具入りお味噌汁、天ぷら、おいしかったです。お腹がいっぱいになりました。

 船は朝と夕方の往復便しかなくて、本島に6時間ほどの滞在で、観光客相手のお店も何もなく、退屈になるかと思っていましたが、島を一周して歴史ある寺社を見て史跡を見学して、ちょうどよいくらいでした。素晴らしいお天気で、美しい海の眺めに大満足しました。瀬戸内海の穏やかな海、静かな海、池のようにも見える海ですが、たくさんのタンカーやいろんな船が行き交っています。驚いたことに目の前を大きな豪華客船が航海していきます。この瀬戸内海をこんな大きな豪華客船が通るというのを見て本当に驚きました。
 
                     
 
 
 
後で調べたら「にっぽん丸」 2.2t のようです
 
                                                        つづく

2012年11月4日日曜日

徒然に想ううた 自由句三句


 

相性は 硬派軟派の つり具合

 

 

憧れの 今日から歩む フリーマン

 

 

ためいきは 我を励ます 応援歌

2012年11月3日土曜日

「あいちゃんのお庭」 (3)


 にぎやかだった夏が終わり、秋の夜長になる頃には、あいちゃんの小さなお庭が、だんだん静かになっていきます。あいちゃんもコロもピョンタも、淋しい気持ちになります。ピョンタとお別れする日が近づいてくるのです。「春までの少しのことだよ、あいちゃん、コロ、またね」ピョンタは眠りに入りました。

 
 あいちゃんとコロは、ピョンタがいない間、レナおばさんから、いろんなお話を聞きます。レナおばさんは、白セキレイです。あちこち旅をしているので、いろんなことを教えてくれます。あいちゃんとコロは、興味しんしんです。

 時々、のらねこが、メダカを襲いに来るので油断できません。コロの出番です。コロは、お庭のおまわりさんです。

 冬が来ました。雪が静かに降っています。あいちゃんの小さなお庭が、真っ白になりました。あいちゃんとコロは、雪の下で眠っているピョンタに話しかけます。

 
  「もうすぐ 春だよ」

                              おわり

2012年11月2日金曜日

「あいちゃんのお庭」 (2)


その時、ピョンタが「去年のあの日のことは、いつまでも忘れないよ」ポツリと言いました。去年のあの日、ピョンタのお母さんが、土の中から出てきたところを、突然空から舞い降りてきたカラスに、連れ去られたのです。あっという間のできごとでした。カラスは、ピョンタのお母さんを口にくわえて、空高く飛んで行ったのです。三人にとって、つらく悲しいできごとでした。あの日以来、あいちゃんは、ピョンタをカラスから守るために、石やレンガを並べて、カラスに見つからないように、気をつけているのでした。

 小さなお庭には、メダカもいます。たくさんのアリくん達もいます。ミミズくんもいます。タンポポもチューリップもパンジーも、色とりどりにお庭を飾ります。春の始めの悲しみを、お庭のお友達は、ピョンタをなぐさめ、励ましてくれました。 

 あいちゃんのお家の横に、小さな川が流れています。六月になると、美しいお友達が登場します。ホタルくんとホタルちゃんです。小さな川からお庭へ飛んできて、夜のパーティーが始まります。あいちゃんとコロ、ピョンタは、うっとりして、ホタルくんとホタルちゃんのダンスに、見入っています。本当に短い日々の、つかのまの楽しみです。 

 夏がやってきました。セミくん達の大合唱が始まります。あいちゃんもコロもピョンタも、セミくん達と一緒に、大きな声で歌います。あいちゃんのお家の小さなお庭が、いちだんとにぎやかになります。コオロギ家族のお出ましです。今年生まれた赤ちゃん達が、ぴょんぴょん元気よく跳びはねています。子供たちが、楽しく歌い出す頃には、バッタさん家族も仲間入りです。トンボも飛んできます。赤トンボもいます。
 
                         つづく
                                

2012年11月1日木曜日

「あいちゃんのお庭」 (1)


 あいちゃんのお家の小さなお庭には、いつもたくさんのお客さんが来ます。

 もうすぐ春です。あいちゃんは、今か今かと首を長くして、春が来るのを待っています。

 梅の花が咲きました。ひなまつりです。桃の花が咲きました。そして桜の花も咲き始めました。きれいなチョウチョウさん達が、優雅に舞い始めました。

 あいちゃんが、楽しみにしていた日です。土の中から、ピョンタが顔を出しました。秋の終わりに「春までお別れだね」と言って、土の中へもぐって行ったピョンタです。小さなカエルくんです。あいちゃんは「ゆっくり眠ってね。春になったらまた一緒に遊ぼうね」と言ってバイバイしたピョンタが、眠りから目覚めるのを待っていたのです。ピョンタは「ヤッホー、あいちゃん、春だ春だ、春が来た」と、いつもの明るい元気な声で登場です。あいちゃんのそばでは、犬のコロもニコニコと、うれしそうにしっぽをふって、ピョンタを迎えています。

 

あいちゃんとコロとピョンタは、大の仲良しです。ピョンタが眠っている冬の間、あいちゃんとコロは、ピョンタがいない淋しさを、がまんしていたのです。三人は、早速お庭で運動会です。ピョンタが、先頭を走ります。その後ろをあいちゃん、その後ろをコロが走ります。小さなお庭でも、一回りすると息がきれます。三人は、芝生に寝ころんで、ひと休みします。とてもきれいな青空です。とても気持ちよい眺めです。

                               つづく