昼食をすませてから、またレンタサイクルに乗って本島を散策しました。塩飽全島の政治が行われた塩飽勤番所を訪れました。1798年の建築で、国の重要史跡に指定されています。将軍から朱印状(領地をもらったり特別の権利を許可する時に、朱印を押して出した手紙)をもらって、塩飽全島は自治領になったのです。朱印蔵には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠からの朱印状が大切に保管されていました。
鎌倉から室町の時代にかけて、玄界灘を押し渡り中国大陸から安南、カンボジアへと交易を求めた塩飽の海の男たちは、和寇と呼ばれ、のちには水軍、船方、水夫として、世界の海でめざましい活躍を見せるのです。塩飽水軍の名が世に出るのは、織田・豊臣時代を経て徳川三百年へと受け継がれますが、島民650人に1250万石の島地が与えられ、船方に任命され海上輸送の勤務が与えられました。日本人の手で太平洋を初めて横断した咸臨丸の模型がありました。咸臨丸は幕府の軍艦で、乗組員50人のうち35人が塩飽島民でした。咸臨丸のアメリカ渡船が、日米親善に、西洋文化の輸入に、我が国の航海史上に大きな貢献をしたのです。
咸臨丸子孫の会パンフより
次に国選定重要伝統的建物群保存地区になっている笠島集落を訪れました。江戸時代から戦前にかけて建てられた家屋が100棟あまり残されています。鬼瓦・こて絵・漆喰塗りの白壁・なまこ壁など「塩飽大工」と呼ばれる名工たちの手作業に、往時が、栄華がしのばれます。残念なことに、立派な家が戸閉めになっているのが何軒もあり、伝統を守り続けていくことの難しさを感じました。
次に浄土宗開祖の法然上人とゆかりのあるお寺を訪ねました。1207年法然上人が土佐(高知県)に流される途中に身を寄せたといわれている阿弥陀寺と専称寺です。遺品が残されています。私の実家の菩提寺は浄土宗で、父が檀家総代をしていた関係で、私は子供の時から「法然さん」と親しく呼んでいました。今回、小さな旅で訪れた塩飽諸島本島が、ぐっと身近に感じられました。
阿弥陀寺
専称寺
つづく
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