2016年3月31日木曜日

京都桜情報2016-3

 公式の開花予定を過ぎてもつぼみが固かった今年の桜ですが、ここ数日気温が上がり晴天が続いたので、お買い物のついでに上賀茂方面へ桜の様子を見に行ってきました。京大の北側、白川疎水通りを北へ入りました。そこには昔京都学派といわれた人たちの本拠地であった京大人文研の素敵な建てものがあります。東畑健三設計のスペイン風の名建築で、昨年改修されきれいな姿がよみがえりました。




  少し北に進むと疎水が現れ、北に流れていきます。この水は哲学の道の横にある疎水の延長に当たります。すぐ西側には京大のグランドがあり学生たちが球を追っています。この周辺は閑静な住宅地が広がっています。疎水はこの先高野川、賀茂川の下をくぐって紫明通りに入り堀川の源流になっていたそうです。その川沿いの並木道に桜が植えられています。5分咲きといったとこでしょうか。途中にヴォ―リス設計の駒井家住宅があります。




伝統的建造物に指定された駒井家住宅

この近辺は5分咲き


枝垂桜は満開です


 さらに北に向かって上賀茂神社へ回りました。平日にもかかわらず大勢の人出がありました。広い境内の中ほどに大きな枝垂桜の大木があり満開に近い状態です。鴨川沿いの桜も3分咲き程度で週末には満開近くになると思いますが、日曜日の雨が心配となっています。










2016年3月30日水曜日

テレビの思い出

 昭和30年(1955)頃、私の家にテレビはありませんでした。私が生まれ育った所は農村地帯でした。十五軒ほどの小さな集落でしたが、戦後という時代で、子供はたくさんいました。子供達はいつも一緒に、年上の子が小さい子の面倒を見ながら遊びました。大人達は、子供の名前はもちろん、年齢も、どの子がどこの子かということも熟知していました。
 子供達は、日曜日のある時間になると、村の一軒の家へ押し寄せました。村で唯一テレビのある家です。庭から縁側へ乗り出して、テレビの置かれている居間に、その家のおじいさん、おばあさんが座っておられるのを気にすることなく、ワーワー、キャーキャー言いながら、テレビを見せてもらったのです。どんな番組を見たくて、子供達はテレビに夢中になったのでしょう。おぼろげに覚えているのですが、番組名は思い出せません。テレビというものが珍しかったのです。大変な迷惑をかけていたのは事実です。その家には子供はいませんでした。おじいさんとおばあさん、元校長先生だったおじさん、その奥さんも含めて当時は専業農家でした。子供達からすれば、お年寄りの家族でした。十人もの子供達が、騒々しくテレビを見せてもらうのを、嫌な顔もせず、受け入れてくださいました。寛大、寛容なお年寄り達でした。時にはおやつも頂きながらです。



 その後、昭和34年(1959)四月の、現在の天皇陛下の御成婚を境に、各家庭にテレビが普及して、よその家へテレビを見せてもらいに行くことはなくなりました。現在では、一家庭にテレビが何台もあるというような状況です。物質的に豊かになった今の日本では想像できないような、懐かしく楽しく人情あふれる時代でした。

2016年3月29日火曜日

Well come to japan

東北大震災の後、訪日外国人の観光客が増え続けています。私たちが住んでいる京都では世界遺産の寺院など多くの観光地があるので、日ごろでも観光客が多いのですが、春のお花見のシーズンは格別です。皆さんよく調べてこられると見えて桜の咲きだした今週からその数が増えてきたように思います。先日三条近くの回転ずしの老舗の店に行ったのですが、8割近くが外国の方でどこの国かと見まがうほどです。店内ではいろんな言語が飛び交っているので世界中の人たちが凝縮されているような空間です。


席についた隣に若い外国の男性に声をかけたら南米チリから来たそうです。10皿くらい平らげて席を立ちました。そのあと席に着いたのは背の高い若いカップルでした。お茶の入れ方がわからないようなので声をかけたところ優しいひげ面のオランダ人でした。日本の回転寿司は初めてのようでしたが箸を器用に使って鉄火巻を食べていました。
 この店はガイドブックに載っているらしく外国のお客さんが多いのでメニューには英語、中国語、韓国語が書かれています。



帰り際後ろを見ると待ち合いの席も外国の方がいっぱいでした。週末には桜が8分咲きとなり外国の方の期待に応えられるようになるのを願っています。


2016年3月28日月曜日

京都桜情報2016-2

 10日前に京都三条の河津桜の状況を報告しましたが、今日やっと2回目の報告ができます。本命のソメイヨシノはやっと咲きかけといったところですが場所によっては3分咲きの木がありました。平安神宮西の冷泉通りの疎水沿いです。疎水は冬の間、白川砂がたまるので先週まで水を止めて川さらいをしていましたが、一気に水をためて川面の桜を映しています。

この木だけ開花が進んでいます。


ほとんどのソメイヨシノはこんな状況です


この冷泉通りには少し桃色の強い桜が咲いていました。


京都会館の西側にある大きな枝垂桜は満開を迎えています。


 お天気が続けばこの週末には絶好の花見になると思います。

2016年3月25日金曜日

私の好きな歌「おたまじゃくしはかえるの子」

 今日ほとんどの公立小学校、公立中学校では、修了式が行われました。四月一日から新年度が始まります。私の好きな歌「おたまじゃくしはかえるの子」を歌うと、年度が切り替わるこの時期が思い出されます。子供達が一年一年成長していく過程が、この歌の歌詞と重なり、嬉しい気持ちでいっぱいです。小さなおたまじゃくしが、少しずつ成長する姿を、上手に表現していると思います。親の手から離れ、保育園へ幼稚園へ、そして小学校へ中学校へと進んでいきます。一年一年、担任の先生から次の担任の先生へとリレーが続き、かわいいおたまじゃくしは、手がでて足がでて、少しずつたくましく成長していくのです。お世話になった先生には、「一年間本当にお世話になりました。ありがとうございました」と、大きな声でお礼を言いたいと思います。

「おたまじゃくしはかえるの子」

   おたまじゃくしは かえるの子
   なまずのまごでは ないわいな
   それがなにより しょうこには
   やがて手がでる 足がでる


2016年3月24日木曜日

春の息吹

春分を過ぎると世の中は一気に春となります。東京では桜の開花宣言がなされました。小さな庭でもよく見ると春の息吹が見られます。野良部の部長(娘)が植えたチューリップがいろんな色のかわいい花を咲かせました。



庭のあちこちには「ホトケノザ」が赤紫の特徴的な花を咲かせています。



家の裏の通路ではスギナの中に数本のツクシがすっと立っています。



陽あたりの悪いこの通路ではドクダミの芽やかわいいツワブキの芽が出てきています。ドクダミは6月には一面に白い花をつけ、その後ご近所の方にドクダミ茶として刈り取っていただきます。



 春蘭は例年に変わらずたくさんの芽を吹き出しました。ゴールデンウィークのころには白と紫の花を咲かせることでしょう。


昨年、野生のスミレが庭に咲いていたので植木鉢に植えておきました。それが1ケ月前に小さな芽が出て今一斉に花を咲かせています。小さいながらもしっかりと咲いています。



4月になると野良部はますます忙しくなりそうです。

2016年3月23日水曜日

テレビの力(3)

 先日テレビを観ていて素晴らしい情報を得ることができました。何気なく見ていたワイドショーの中で、健康のためになる豆知識ということで、簡単に作れて、一日三度の食事の時にスプーン一杯食べるだけで、効果は大きいというものです。面倒嫌いな私は、テレビにくぎ付けになりました。生姜をみじん切りにして、黒酢とハチミツ少量を入れて、混ぜるだけのものです。誰にでもできそうです。それを食べて二週間経っての効果は、生活習慣病(血圧、血糖、コレステロールなど)の数値が下がるということです。テレビでは二人のタレントが、体験して実証していました。一般の人では、中高年のママさんバレーチームの人が参加していました。驚くことに、体験した人の多くが良い結果を出していたのです。
 その情報を得て、私は早速近くのスーパーへ出かけました。生姜をいくつかと黒酢をカゴへ入れてレジへ向かう途中、七十歳代と思われる女性二人が、「生姜、生姜、どこにある?」

「あったあったここにある」と、大きな声で話しながら、元気よく勢いよく店の中を通られました。私と同じように、テレビを観てすぐに買いに来られたのだと思うと、おかしく面白く、またまたテレビの力に驚きました。「テレビの力、万歳!」です。
 そして作ったものがこの写真です、焼き魚やサラダにはぴったり合います。


2016年3月22日火曜日

「春」

 
京都市役所前広場



春が来た
私は歌う
「はるがきた はるがきた どこにきた
 やまにきた さとにきた のにもきた」

花が咲く
私は歌う
「はながさく はながさく どこにさく
 やまにさく さとにさく のにもさく」

鳥が鳴く
私は歌う
「とりがなく とりがなく どこでなく
 やまでなく さとでなく のでもなく」

春が来て
みんなのお顔が明るくなりました

花が咲いて
みんなの心が明るくなりました

鳥が鳴いて

山も村も町もにぎやかになりました

2016年3月18日金曜日

京都桜情報2016-1春の訪れ 河津桜・辛夷

 2月ごろより伊豆の河津桜の情報が早春の情報として伝えられていますが京都でも河津桜が咲いていました。三条大橋の西詰に2本、満開を迎えています。横には東海道中膝栗毛でおなじみの弥次さん喜多さんの銅像があります。






 さらに帰り道の木屋町には白い辛夷(こぶし)の花が満開近くとなっていました。桜のような色はなく白ですが、たくさんの花が一気に咲きだして圧倒されます。島津記念館の建物にぴったりの風情を見せています。



 あと1週間もすれば春本番となり。京都各所の桜情報をまたお伝えできると思います。
今回のブログで900回目となります。ほぼ4年前に始めました、今後も細く長く続けたいと思います。コメントよろしくお願いします。

2016年3月17日木曜日

大道芸

 先日京都一番の繁華街四条河原町通りの百貨店の前で、面白いものを見ました。全身を真っ白に塗った男性が、ポーズをとってじっとそのままで台の上に立っているのです。たくさんの人が取り囲んでいます。私も興味津々で近くへ寄っていきました。顔も真っ白に塗っているのですが、日本人またはアジアの人ということはわかりました。路上マネキンと呼ぶそうです。美術館で観る像のように、ピクリとも動きません。しかししばらく注目していると、目をパチパチ、口をパクパク、手にも動きが起こりました。見ている人達に歓声が上がります。盛大な拍手も起こりました。

動きません!

まだまだ動きません!

突然ETのポーズでみんなびっくり!

 何年か前にイタリアへ旅行した時のことです。ベローナという町で、初めて路上マネキンを見たのですが、その人は全く動きませんでした。そのうち少しでも動きを見せるかもしれないと思って見ていたのですが、残念なことに、私が見ている間には動きは起こりませんでした。

走っている形で静止しています。ネクタイも空中で
止まっています。京都で半年後に同じ人を見ました。

金色のチャップリン。ずっと動きません!

エジプトのツタンカーメンか?

 イタリア旅行から帰って半年ほど経ったある日、驚くほどそっくりの人が、京都の京極に現れたので、まさかと思い信じられませんでした。しかし絶対ベローナで見た人だと私は思ったのです。カメラを持っていたらすぐ写真を撮って、家族に見せて判断できたのにと残念に思いました。イタリア語が話せたら、ベローナで出会った人かどうか、確かめられたのにと、とても残念に思いました。

 人間が身動き一つしないというのは、どれほどの時間でも難しいと思います。大変な修行を積まれた成果だと感心しました。大道芸の一つ、路上マネキンを見て楽しませてもらいました。

2016年3月16日水曜日

読書の楽しみ(6)「ぼくが逝った日」

 先日京都ロームシアターへ行った時のことです。(1月のブログで報告)
    http://marukonohonbako1.blogspot.jp/2016/01/blog-post_13.html
 広いラウンジには、テーブルやソファが置かれています。自由に読める本もたくさん並んでいます。図書館や書店ではなく、気軽に飲食しながら、談笑しながら、本を読めるというスペースです。市民にとってこんな恵まれた場所は数少ないように思います。そこで、私はこの本に目がとまり、何気なく手に取りパラパラ見たのです。いつもの習慣で、まず始めに著者の略歴を読みました。驚いたのは、著者はフランス人で、高校の哲学教師やパリ大学の心理学講師を経て、1978年に歌劇団を設立し、カンペール(フランス北西のブルターニュ地方の都市)の国立劇場の舞台監督をつとめています(1995~2008)。フランス在住の娘が、南仏のオペラ座に所属し、仕事をしているので、著者に親近感を持ちました。私の好きな哲学と音楽の分野の人が書いた小説デビュー作ということで、すぐに本を買い求めて二日で読破しました。著者の名はミシェル・ロスタン(1942年生まれ)です。妻は舞台女優であり、芸術一家と紹介されています。現在はアルルに住み、舞台演出と執筆をされているようです。
 またこの本を読んで人との出会いをもらいました。本にも登場しますが、日本人の吉田進氏は、1972年に渡仏し、パリ国立音楽院で作曲を学び、フランスの現代音楽の作曲家オリヴィエ・メシアン(1908~1992)に師事し、日本の能「隅田川」(子供の死の物語)をもとにオペラを作曲し、この本の著者ミシェル・ロスタンが演出し、2008年公演のこのオペラはフランスで好評を博しました。彼は来日しオペラ公演をしています。
 2003年10月、二十一歳の一人息子を劇症型髄膜炎という病気で突然亡くした著者は、八年の歳月を経て、自分の体験をもとにこの本を出版しました。死者である息子が、絶望と底なしの悲しみに打ちひしがれる父と母に寄り添います。その魂は、時間や空間を自由自在に飛び越え、人間の心の中もすべて知ることができる主人公です。この物語は、息子の目で語られます。息子を想う父母の心の内、生きている者と死者は、お互いを想い合う深い愛情と強い絆で結ばれています。瀕死状態にいる息子が、父や母、救急隊、医療従事者など、その時の様子を詳しく語る場面では、胸に迫るものがあります。フランスの葬儀事情の場面は、コミカルに描かれています。喪に服する過程は、日本と一緒です。息子は自分の死が迫っているなど微塵も思っていません。しかしそんな彼が、ガールフレンドに、自分の葬儀を思い描いて話していたのです。
「白一色でまとめたお花」
「火葬」
「最終的には灰になってアイスランドに撒かれたい」と。
父と母は、息子が話していたことについて、後日知ることになるのですが、結果として息子の望んでいたように事を進めていたのでした。息子が亡くなってちょうど49日目、父と母はアイスランドへ行く決意をします。2004年8月、アイスランドで慰霊の旅を続ける父と母が、息子の遺灰を撒く場所はここだと確信を持った所、それはエイヤフィヤトラヨークトルの火山灰の上でした。父と母は、2004年から2009年まで、毎年アイスランドへ足を運びます。そして息子の二十八回目の誕生日がやってくるまさにその週、火山が大噴火を起こし、火山灰と混ざり合った息子の遺灰は、標高1万メートルの高さへ吹き上げられたのです。北極圏から南ヨーロッパまで広がった息子の微小な灰を、父と母は、毎日深呼吸をくりかえし、胸いっぱい吸い込んでいます。
ここで物語は終わります。




 ミシェル・ロスタンが書き終えたのは、2010年5月です。その9ヶ月後、2011年3月11日、東日本大震災が起こります。巨大地震、津波、原発により、未曾有の大惨事となったのです。ミシェル・ロスタンが体験したことが、たくさんの人を襲います。生者と死者という隔てはありません。魂は時間や空間を自由自在に飛び越え、愛する大切な人に寄り添い見守っているのです。

追記  
劇症型髄膜炎で五歳の息子さんを亡くされた知人がおられますが、この病気は高熱を発し、三日ほどで命を奪う恐ろしいものです。

 

2016年3月15日火曜日

「道」


あなたはどんな道が好きですか
アスファルトのきれいな道ですか
踏みしめて歩く砂利道ですか
歩きにくいゴロゴロした石道ですか
地面がどろどろのぬかるみですか

私の好きな道
それは田んぼの中の畦道です
田園地帯を通り抜け
まっすぐ山に向かって伸びている

自然の中に身を置いて
太陽を浴びて
光を浴びて
風を感じて
かおりを感じて

歩く道です

大自然が父であり
大自然が母であり
私は決して一人ではない

アスファルトのきれいな道よりも
ぬかるみは人を成長させてくれる

アスファルトのきれいな道よりも
歩きにくいゴロゴロした石道は人を強くしてくれる

アスファルトのきれいな道よりも
踏みしめて歩く砂利道は人に思索を与えてくれる

私の好きな畦道は
大自然に抱かれていることを教えてくれる

大自然が父であり
大自然が母であり

私は決して一人ではない

2016年3月14日月曜日

アラハン?

 先日テレビを観ていて、またまた新しい言葉に出会いました。アラハンです。アラハンとは、around hundred 、つまり百歳前後の高齢者のことです。アラフォー(四十歳前後)アラサー(三十歳前後)アラフィフ(五十歳前後)アラカン(六十歳前後)と次から次へと造語が生まれ、いよいよアラハンの誕生です。
 最近ブログに書きました日野原重明氏は104歳、篠田桃紅氏は103歳、お二人とも現役人生を邁進中です。日野原重明氏の著書は、本屋にズラリと並んでいます。篠田桃紅氏の著書は、ベストワンを続けています。その他にも家事評論家の吉沢久子さんは98歳、日本初の女性報道カメラマン笹本恒子さんは101歳です。アラハンが書かれた本は、アラハン本と呼ばれ、大型書店にはアラハン本のコーナーが特設され、注目を浴びているとのことです。出版社には、続々と感想文が届いており、一つの出版物に2000以上も寄せられているそうです。読者の多くは四十代以上の女性達で、アラハン本を読んだ感想は、
*肩の力を抜いて謙虚に生きて行こうと思った。
*忙しくても流されずに行こう。
*落ち込んだ時や悩んだ時に手に取る。
などがあり、出版社編集委員の方は「目先のわからない人生で、歳を重ねた先人の言葉が道しるべになっているんでしょうね」と言っておられます。
 百歳以上の人口は6万人を超え、45年連続で増加しています。その87%が女性です。アラハン本を書かれている人達は、仕事も現役、超スーパー人間です。考え方も生き方も、すべてが、後に続く者にとっては、生きるパワーをもらえる有り難い存在です。これからは人生百年、アラハンの方々を目標に、歩んでいきたいと思います。


2016年3月11日金曜日

五年目の慰霊の日

 今日は三月十一日、テレビでは震災関連の報道が続いています。列島各地では、五年目の慰霊の式典が行われています。日本人、いえ世界中の人にとっては、一年に一度めぐってくるこの日は、あの日の地獄絵のような光景が思い起こされることと思います。過ぎゆく一年は長く、あるいは短く、五年経った今も、ついこの間のように思います。愛する大切な人を失った深い悲しみは、薄らぐことはありません。深い悲しみも大きな苦しみも、残された人達は、胸に抱いて前を向いて進まねばなりません。そのつらさは想像を絶します。
 東北から遠く離れた地に住んでいる私に、何ができるのかといつも考えています。同胞として痛みを共有し、自分の気持ちを寄付に表して届けたり、そして私にできることは傾聴です。そばに寄り添い、深い悲しみ大きな苦しみをただ黙って聴くだけの傾聴ですが、その傾聴は、人の心を救ってくれるという実証があります。そう思いながら何も行動に移せず、五年が過ぎてしまいました。フランス在住の娘は、あの日のすぐ後に行動を起こして、活動を始めました。東北へも足を運び、たくさんの人との出会いを頂き、そのご縁はずっと続いています。日仏だけでなく、フランス在住のいろんな国の人々の支援もいただいて、東日本へ届けています。我が娘ながら、その行動力には脱帽です。その支援活動で出会ったフランス人男性は、パートナーになり、支援団体の代表として二人は、幅広く活動を続けています。シニアの私は、ボランティアに参加しても、みんなの足手まといになり、かえって迷惑をかけるのではないかと危惧し、私達の想いを彼らに託し、彼らを陰ながら応援しています。
 テレビで医師の鎌田實氏が話されていたのですが、彼の友人で気仙沼に住んでいる医師は「現在の心の復興はまだ20%、生きている限り100%の心の復興はありえないと思っている」と言われているそうです。未曾有の大震災で、生き残った人達(助けた人、助けられた人、医療従事者、行政担当者など)も、深い心の傷を負っています。心の傷を負った人たちは「これからは心の底から笑うことができないと思う」と言われます。その話を聞いて私は涙するだけです。「誰かに必要とされ、頼られ、誰かの力になることによって、心の傷は癒される。さしのべる手があり、助けがあり、人間は弱いけれど強くなれる」と鎌田氏は言います。鎌田氏は「がんばらない」「あきらめない」「がんばらないけどあきらめない」の著者です。心の復興こそ大きな大切な目標だと思います。それとともに東日本の復興が伴うことを願います。

 震災のあの日に生まれた女の子が、五歳になるという報道をテレビで観ました。未来に続く希望のように感じました。鎮魂の鐘を鳴らし、祈りとエールを届けます。

2016年3月10日木曜日

テレビの力-2

 先日テレビを観ていて思わぬ人に出会いました。四十数年ぶりの出会いです。ポアロ(夫)の大学の友人で、私の故郷伊勢の国の出身の方なので、若かりし日にお会いしています。
 学生時代最後の夏休みのある日、私達は彼の実家へ遊びに行きました。楽しいひと時を過ごして、帰る時のことです。彼は「これ持って帰って」と、大きなスイカを両手に抱えて、私達の車のそばまで持ってきてくれました。しかしその数秒後、大きなスイカは彼の手からすべり落ち、みごとに砕け散りました。彼の好意に対し、お礼を言って別れましたが、彼に申し訳なく、あまりにも気の毒な出来事だったので、今でも鮮明に覚えています。その後、彼は奈良にある老舗の牧場の娘さんと結婚し、会社勤めをしながら、牧場オーナー主の夫として頑張ってこられました。何十年か前の同窓会で、ポアロは会ったことがありますが、私はずっとご無沙汰しています。

 先日のテレビは、元フィギュアスケート選手の織田信成さんが、牧場を訪れて中継をしていたのです。奈良の牧場と聞いて、私達はひょっとしてと思い、テレビにくぎづけになりました。明治時代から続く牛舎は、その時代に建てられたものとのことで、歴史を感じる古いなかに、風格があります。その牧場の牛乳は、御料牛乳として、皇室の方が奈良へ来られた時には献上するそうです。御料牛乳と書かれた木札がテレビに映りました。そして最後の場面では、牧場オーナー主である奥さんと、その隣にご主人の姿がありました。私は、現在の彼を見ても、昔の彼とはつながりませんでした。ポアロは「彼、彼」と言っています。四十数年ぶりに彼に出会えたことは、驚きでありとても嬉しく、テレビの力に感激しています。

2016年3月9日水曜日

言葉の不思議さ

 私は伊勢の国に生まれ、伊勢の国で育ち、大阪で音楽を学び、伊勢の国へ戻り音楽教師として働き、結婚して奈良に住み、夫の仕事で東京、三重、大阪、京都、岡山を回り、現在は京都に落ち着き時々三重へ行く暮らしをしています。その土地々でそこに暮らす人達の方言を聞いて、言葉の面白さに気づき、興味を持っていました。人の話す言葉には敏感になっていた私ですが、先日娘から「お母さんの話す言葉はどこの言葉?」と言われ、自分の口にする言葉について少し注意するようになりました。するととても面白いことがわかったのです。私の親や兄弟が使わない言葉を、私はしょっちゅう口にしていたのです。娘は以前から不思議に思っていたと言います。娘に指摘されて、私は無意識でしゃべっていた言葉に、今笑いころげています。いくつか紹介します。

「・・・さんす?」   標準語で「・・・されますか?」
「飲まんす?」     標準語で「飲まれますか?」
「行かんす?」     標準語で「行かれますか?」
「行かんした?」    標準語で「行かれましたか?」

動詞のうしろに「んす?」がつく活用形です。
「歩く」→「歩かんす?」
「走る」→「走らんす?」
「働く」→「働かんす?」
「行く」→「行かんす?」
「飲む」→「飲まんす?」
「する」→「さんす?」などです。

これらの私が普段無意識に口にしている言葉は、いつどこで身につけたのか全く記憶がありません。親や兄弟が使わない言葉であれば、家庭で覚えたというわけではありません。ところが先日ビッグニュースが飛び込んできました。「お母さんが言っている言葉と同じのを今日聞いたよ!」と娘の報告です。娘が働いている地域では、私と同じ言葉がわりと使われているようなのです。私の故郷より、もう少し南の地域とのことです。娘の話によれば、私と全く同じ言葉の人と、うしろに「ん」がつく人の二種類があるそうです。
「さんすん?」「飲まんすん?」「行かんすん?」などです。自分が気づかず、無意識で言っていた言葉の誕生地かもしれません。これからの調査研究対象ができました。

 私が話す方言はどこで身につけたのでしょうか。よく考えてみると、故郷でしか使っていないように思います。友達、従姉妹、姉、家族など、親しい間柄の中で、無意識に使っている言葉です。あちこちへ移動して暮らしましたが、それぞれの土地で私はよそ者として、標準語で話していました。標準語といっても、イントネーションは関西人のものです。田舎から出てきた自分を、変身させ、少しすましていたのかもしれません。岡山では「じゃろ」が、京都では「しはる」が有名ですが、自分が無意識に使う方言に、今さらながら気づき笑いころげています。

2016年3月8日火曜日

川の宝石 翡翠(カワセミ)

 我が家の前は50mぐらいの川です。そして灌漑用の堰があり、そこに1年を通じていろんな鳥がやってきます。小魚をとるためにシラサギ、アオサギそして最近は鵜(ウ)がやってきてエサを狙っています。また冬にはいろんな色をしたカモがやってきます。そこに昨年夏、堰の堰堤の上に黒っぽい小さな鳥が二羽いるのを見つけました。ポアロ(夫)が大急ぎでカメラを出して望遠で見るとカワセミのようでした。まだ小さい二羽のカワセミの赤ちゃんのようです。以前にもカワセミを見かけたことがありましたが、動きが早くてとても写真には撮れませんでした。まだカワセミ本来のきれいな色ではなく全体に黒っぽく、痩せています。まだエサ取りもできず巣立ったばかりのようでした。




 その後二羽の姿を見なかったのですが、今年になって何度か青いカワセミが川筋を飛びさるのを見かけましたが写真には撮れていませんでした。先日昨年と同じ堰堤の上に一羽のカワセミが川面を睨み付けているのを見つけました。昨年夏と同じ鳥かどうかはわかりませんが元気にエサ取りをしています。写真には撮れませんが、水面から3mほど上でホバリングして真下に飛び込み5センチくらいの魚を取ってきます。

川面をにらんでいます

飛び立つ寸前

小魚を食べた後、頭がぬれています

誇らしげな態度です

また水面をにらんでいます
 カワセミはその美しさから渓流の宝石とも呼ばれているようです。宝石のヒスイはこのカワセミ(翡翠)からとったそうです。毎日美しい姿を見るのが楽しみです。