2012年10月31日水曜日

徒然に想ううた 短歌三首


 

栄光を 手にした人の 哀しみは

 

    凡人の恣意 越え遠きもの

 

 

夜は更けて 眠れぬ夜に 詠むうたは

 

      怒涛のごとく 心あふれて

 

 

美わしき 金魚のフンと 亭主言い

 

     妻もそう言う 二人の仲を

2012年10月30日火曜日

「夢」


十代の頃の私の夢

それはスーパーマンと結婚することだった

何もできない私が

何でもできるスーパーマンと結婚すれば

すべてのことをしてもらえるという夢のようなあこがれからだった

 

二十代の頃の私の夢

それは医者と結婚することだった

病院が大嫌いな私が

病院へ行かずにすむであろうと

単純で幼い夢のような考えからだった

 

三十代になった私の夢

スーパーマンでもなく

医者でもなく

縁あって夫婦となった二人の宝もの

その宝ものが飛び立つのを見届けたい

それが二人の夢となった

 

そして宝ものは見事に飛び立っていった

二人の手の届かない遠いところへ

飛び立っていった

 

私達は原点に戻った

静かな日々に戻った

 

これからの二人の夢はたくさんある

したいことをしたい

気ままな旅をしたい

世界一周旅行もしたい

 

手をとりあって

足の向くまま気の向くまま

歩いていこう

2012年10月29日月曜日

私の出会った城下町 丹波篠山


 先日丹波篠山へ行ってきました。篠山市は篠山藩の城下町で、兵庫県中東部に位置し、四方を山々に囲まれた自然環境豊かな地域です。特産物の丹波栗と丹波黒大豆は全国的にも有名で、おせち料理にかかせないものです。京都への交通の要として栄えてきた歴史があり、町並みや祭りなどに京文化の影響を色濃く残しているとガイドブックにありました。

 篠山城は1609年(慶長14年)徳川家康の命により築城された近世城郭で平山城です。城主は松平三家八代と青山家六代で、その居城として明治を迎えました。明治維新の改革でほとんどその姿をなくしましたが、大書院だけが残っていたものの1944年(昭和19年)に失火により焼失し、2000年(平成12年)に復元されました。遺構としては立派な石垣や堀があります。篠山城址へは、少し登っただけなのに、篠山の町を見下ろし、町を囲む山々がとてもきれいに見えました。
 
 
 
 

 毎年お盆の頃にデカンショ祭りがあります。デカンショ節は、子供の頃に周りの大人達が歌っているのをよく耳にしましたが、明治中期から広く全国的に愛唱されるようになり、その発祥地がここ丹波篠山です。デカンショの語源は、哲学者デカルト、カント、ショーベンハーウェルの名前の頭文字からだそうです。このことは初めて知ったので驚きました。明治維新後は学問を奨励し、篠山に鳳鳴塾という学校を作り、その中の優秀な者は東京(今の青山あたり)に寄宿舎を作り遊学させました。東京の青山という地名は、青山氏からとられています。そこに集まった若者たちが、故郷の篠山を懐かしんで歌ったのがデカンショ節の始まりのようです。学生歌とされています。国道372号線は、京都府亀岡市から兵庫県姫路市に至る一般国道ですが、その一部篠山あたりはデカンショ街道という愛称で呼ばれています。大きな立て看板もいくつかありました。
 
 

 お城へ登ったあと、商店街を歩きました。いくつもの店が並び、秋まっただの中、栗、黒豆、松茸、新米が山積みされ売られていました。収穫されたばかりのような黒枝豆を買いました。観光バスからたくさんの人が、ガイドさんと共に現れ、あちこちに観光客があふれていました。
 
 
 
 
 
 気持ちよい秋晴れの中、城下町篠山を散策し、遠く離れた江戸との結びつきや、全国に広まっていったデカンショ節のことを知り、少し物知りになりました。

2012年10月28日日曜日

徒然に想ううた 自由句三句


長生きの 心はいつも リラックス


長短の バランスとって 夫婦行く


鼻歌は 心表す バロメータ

2012年10月27日土曜日

「ぼくは指揮者」 (3)

そのあとも、我が家の楽しい合奏団の演奏会は、一週間に一度は開催された。

 ぼくは、時々体操をする。手をうんと伸ばしたり、足を大きく動かしたりする。するとお母さんは、大きな声で「みんなみんな、来てちょうだい」と、みんなを呼ぶ。みんなは喜んで「あっ動いた」「元気に動いているよ」と一騒動が起こる。

 ぼくは、みんなの声がよく聞こえる。お母さんの声、お父さんの声、お兄ちゃんの声、お姉ちゃん達の声、そしておじいちゃんおばあちゃんの声、もちろんタロやミーの声もよく聞こえる。

 ぼくは、どんどん大きくなって、お部屋がずいぶんきゅうくつになってきた。そろそろぼくのお部屋は、風船がはじけるように、パーンとわれそうだ。お母さんの方のおじいちゃんが、天国へ行ってしばらくして、ぼくのお部屋は、はじけた。本当におじいちゃんと、入れ替わりのようにだ。

 家族みんなの大歓声の中、ぼくは、大家族の仲間入りをした。みんなの声は、ずいぶん前からよく知っているなじみの声だけど、顔をあわすのは初めてだ。

 ぼくは、
  「初めまして! どうぞよろしく!」と、ニコッと笑った。

おわり

2012年10月26日金曜日

「ぼくは指揮者」 (2)


 お父さんは、会社へ行き、おじいちゃんとおばあちゃんは、田んぼと畑へ行く。お兄ちゃんと上のお姉ちゃんは、学校へ行き、下のお姉ちゃんは、幼稚園へ行く。お母さんとぼくと、タロとミーは留守番だ。タロとミーは、お庭で日なたぼっこしながら、お昼寝をしている。そんな時、お母さんは、ピアノを弾く。お母さんは、ベートーヴェンとショパンが好きだ。ベートーヴェンは、少し重々しくそしてはげしく、ショパンは、優しく軽やかだ。ぼくも、ベートーヴェンとショパンが好きになった。ベートーヴェンの曲を聞くと、すごく考える人になるみたいだ。ショパンの曲が流れると、踊りだしたくなってくる。

 ある日のこと、家族のみんなが、旅行に出かけ、家には、お母さんとぼくと、二人きりだった。その夜、お母さんは、電気をつけないでピアノを弾き始めた。窓から明るい月の光がさしこんでいる。ベートーヴェンの「月光」だ。静かに淋しく一楽章のメロディーが流れている。ふと見上げると、お母さんの目には涙があり、お母さんは、泣きながらピアノを弾いているのだ。ぼくも悲しくなって、涙があふれた。

  次の日、お母さんとぼくは、お母さんのお父さん、つまりおじいちゃんのお見舞いに、病院へ行った。お母さんのお母さん、つまりおばあちゃんは、ぼくのお母さんが子供の時に、お星さまになっていて、おじいちゃんしかいない。そのおじいちゃんが、今、重い病気になって大変なのだ。おじいちゃんは、ぼくを優しく撫でて「会えないのは残念だなあ、おじいちゃんの分もしっかり生きておくれ」と静かに言っている。そのおじいちゃんは、一ヶ月後に天国へ行ってしまった。そしてぼくは、お母さんが、泣きながら「月光」を弾いていた訳を知ったのだった。

つづく

2012年10月25日木曜日

「ぼくは指揮者」 (1)


  ぼくは、音楽が大好きだ。

 家族みんなで、合奏する音楽が大好きだ。

 お母さんと下のお姉ちゃんは、ピアノ。

 お父さんは、ギター。

 おじいちゃんとお兄ちゃんは、ハーモニカ。

 上のお姉ちゃんは、木琴。

 おばあちゃんは、トライアングル。

 犬のタロは、タンバリン。

 ねこのミーは、カスタネット。

 そしてぼくは、合奏団の指揮者だ。
 

 時々ぼくは、家族みんなで合奏する音楽を、子守歌にして眠ってしまう。とても気持ちいいんだ。家族みんなで合奏する曲のレパートリーは、たくさんあるけれど、ぼくの一番のお気に入りは「大きな古時計」だ。家族みんなが、歌いながら合奏している。いつのまにか、ぼくも歌えるようになった。でも歌いながら、指揮をしながら、気持ちよくなって、ついつい眠ってしまう。

  お母さんのきれいな声、お父さんのかっこいい声、おじいちゃんのしゃがれ声、お兄ちゃんの元気な声、上のお姉ちゃんのすました声、下のお姉ちゃんの舌足らずな声、おばあちゃんの落ち着いた声。タロの「ワンワン」ミーの「ニャーニャー」本当ににぎやかな合奏なんだ。みんなに聞かせてあげたい面白い合奏なんだ。そしてぼくは、いつもニコニコニヤニヤ、ふき出しそうになるのをこらえて、指揮をしている。


つづく

2012年10月24日水曜日

徒然に想ううた 短歌三首


 

流行の ヘルメットつけ タイツはき

 

    還暦マダム 颯爽と行く

 

 

息乱れ 汗だくになり ペダル踏み

 

    還暦男子 見栄はり走る

 

 

一日を 昨日今日明日 積み重ね

 

    人の一生 紡ぎ連ねる

2012年10月23日火曜日

「口ぐせ」


私の子供には口ぐせがある

会話の中で何度も出てくる言葉がある

「うれしい?」

この言葉が出ると私は真面目に答える

「うれしいよ」

すると次に

「どのくらいうれしい?」とくる

「すっごくうれしいよ」と答える

毎度のパターンである

 

私の子供には口ぐせがある

会話の中で何度も出てくる言葉がある

「なんで?」

この言葉が出ると私は真面目に答える

「お母さんはこう思うからよ」

するとまた

「なんで?」とくる

「お母さんはこう考えるからこう思うのよ」と答える

毎度のパターンである

 

子供の質問に真面目過ぎるほど真面目に答える私

いつのまにか私は気が長くなった

とことん根気よく子供の相手をするようになった

子供のこの口ぐせも成長の一過程と思いつつ

 

私の感情表現が低いからなのか

言葉数が足らないからなのか

それとも子供のこだわりなのか

 

時が熟したのか

私の答え方がワンランクアップした

 

子供の口ぐせを私も口ぐせにした

私は子供に尋ねる

「うれしい?」

私は子供に尋ねる

「なんで?」

 

子供は真面目に答える

かつて私がそうだったように

真面目過ぎるほど真面目に答える

 

私は心の中でニヤニヤして聞いている

私は心の中で「ヤッター」と叫ぶ

2012年10月22日月曜日

徒然に想ううた 俳句三句


 

もの想う 静かな夜に 虫の声

 

 

空高く 見渡すかぎり いわし雲

 

 

明かりなく ススキがゆれる 風の音

2012年10月21日日曜日

「坂道」


私は坂道が好きだ
坂を上るのはしんどい
ハアハア息が切れる
頭の中は空っぽになる
私は黙々と坂を上る
もう少しもう少しとふんばる
だんだん明るくなってきた
やっと峠だ
私は峠に立った

目の前に広がる明るい風景
下り坂がずーっと続いている
私の気持ちはすーっと軽くなった
下り坂は足取り軽くスタスタ歩く
私は鼻歌を歌う

私は坂道が好きだ
坂を上るのはとてもつらい
上りきれるかどうか自信はない
私は自分に言い聞かせる
上るしかない
上るしかないのだ
頭の中は空っぽになる
私は黙々と坂を上る
あと少しあと少しとふんばる
だんだん明るくなってきた
やっと峠だ
私は峠に立った

いくつもの坂道を上りそして下りた
今までにいくつの坂道を上っただろう
とてつもなく厳しい坂道
いろんな坂道を上った
一つ一つの坂道を上るたび
それは私の自信になっていった
何物にもかえられない宝物になった
上りだけが続く坂道はない
下りだけが続く坂道はない
苦の先には楽があり
楽の先には苦がある
それは坂道というもの
人生はまさに坂道だ

2012年10月20日土曜日

徒然に想ううた 短歌三首



一人住む 母への電話 月に二度

     会話の中で 健診チェック



坂道に 上り下りは あるものと

     いくつの坂を 我は越え行く



実り来て 翁と媼 稲刈りの

     コンバイン乗り まだまだ負けぬ

2012年10月19日金曜日

「あくび」

あくびってどこからくるの
ぼくはしょっちゅうあくびをするよ
パパもママもあくびをするよ
犬のコロもねこのミイもあくびをするよ
みんなとっても気持ちよさそうだ

あくびっておもしろい
おじいちゃんもおばあちゃんもあくびをするよ
赤ちゃんはしょっちゅうあくびをするよ
あくびをするとなんだかのんびりした気分になるようだ

でもあくびをしない人もいるよ
こわい顔して怒っている人
悲しそうに泣いている人
あくびをしたらきっと笑顔になるのにね

動物園へ行くとみんながあくびをしてる
ライオンもトラも
キリンもカバも
おさるさんもあくびをしてる

あくびをするからケンカが起こらないんだね
あくびをするからみんな仲良しなんだ

ぼくはあくびが大好きだ
あくびはみんなを幸せにしてくれる
あくびって手品師だ

2012年10月18日木曜日

サイクリング


 素晴らしい秋晴れのお天気で、家にいるのはもったいなくてサイクリングに出かけました。空は青空、いわし雲がたくさん浮かんでいます。車でスーッと通るのとは大違いで、木々や草花、虫たち、家並みも新しい発見がたくさんあります。サイクリングといっても、本格的なサイクリング用自転車ではなく、買い物に行くような自転車です。
 

 行きの道で早速きつい坂に出会いました。限界ぎりぎりまで自転車をこぎ、そのあと自転車を押して歩きました。息も荒くなり汗ばんできます。ドラマ「水戸黄門」のテーマ曲が頭に浮かんできます。「人生楽ありゃ苦もあるさ」を何度も口ずさみました。いよいよ上り坂が終わりました。そこからは一気に下り坂です。さっきまでのしんどさは吹っ飛びます。ジェットコースターのように、颯爽と風を切って坂を下ります。この気持ちのよいこと。最高です。坂の上りがあるから下りがあります。坂はサイクリングの醍醐味です。
 


 のどかな田園地帯を走りました。里山が広がっています。今、稲刈りの真っ只中で、あっちでもこっちでも家族総出で農家の人たちが作業をしています。面白い光景を見ました。忙しく動き回るコンバインの後をトコトコついて歩く青サギがいるのです。珍しいと思い写真を撮りました。稲刈りが終わったあとの田んぼには、稲わらが形よく並んで干されています。地面には小さな小さなカエルが、たくさんピョンピョン飛び跳ねています。この季節にこんなカエル達を見るのは初めてで驚きました。田んぼのあぜ道では、バッタも飛び跳ねています。里山のふもとの細い道を走ると、どんぐりがたくさん落ちています。子供達が小さい時に、どんぐり拾いをしてこまを作ったことを思い出しました。私は思わずかわいいどんぐりを数個拾いました。枯れかけた彼岸花の群生もありました。コスモスはまだ元気に咲いています。柿の木は、今年は豊作でしょうか。どの木も鈴生りでした。ススキや萩もあります。秋の風情がいっぱいです。

 
 
 

 途中に田舎の乗馬クラブがあったのでのぞきました。観光用に手綱をもってもらって馬に乗って馬場を二周するというのもありました。馬は大好きですが今回はパスしました。

 帰り道、産地直売所へ寄って、生産者の名前が書いてある、とれたてのいろんな野菜をたくさん買いました。家へ帰って早速栗をゆでて食べました。

 サイクリングに出かけ、24キロほど走り、秋の風景を満喫し、秋の味覚を味わいました。

2012年10月17日水曜日

山科へ


 京都にある有名なお寺や神社はほとんど行ったのですが、山科区にある勧修寺と大石神社はまだだったことに気づき、日本の一番よい気候のこの時期にと思い出かけました。



 始めに大石内蔵助良雄公を祀っている大石神社へ行きました。京都から醍醐道を東に進んだ稲荷山のすそにあり、山科の町を見下ろす高台に建っていました。1701年(元禄14年)三月、江戸城内松の廊下で起きた刃傷事件(赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対しておこした刃傷)から赤穂義士討ち入りに至りましたが、大石は山科の地に隠棲し事件の善後策を講じたそうです。この大石神社は昭和10年に創建されました。2300坪の広さで、神池があり、さくら、もみじも多く、四季それぞれ美しく山上の緑と調和し、風情のある社頭であるとパンフレットにのっていました。神社の入口には、花子というミニホースがいます。愛嬌ある馬で、そばへ行くとすぐ寄ってきて、服をひっぱります。私もブラウスに花子のよだれがたくさんつきました。花子は12~13才だったと思います。
 
 

 次に勧修寺へ行きました。今までずっと「かんしゅうじ」と読んでいたのですが、それは地域の名で、お寺は「かじゅうじ」と読むのだそうです。本当に驚きました。勧修寺は、皇室とゆかりのある門跡寺院で、真言宗山階派大本山です。醍醐天皇が900年に創建したもので古い歴史を持っています。山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続いています。ここは新しく修繕されたのかきれいでしたが、山門からは歴史を感じさせる格式風格があります。庭は勧修寺氷池園という池泉庭園で、池は氷室の池といい蓮で有名だそうです。建物はどれも古い歴史を持っていて、このまま後世にまで建ち続けられるのかと、少し不安を感じるものでした。全体の印象としては、ひなびた古い格式あるお寺という感じで、訪ねる人も少なそうです。春の桜と秋のもみじの頃には、もっと多くの人が来るのでしょう。水戸光圀公に寄進された灯篭を覆うように生えているひのき科のハイビャクシンは、樹齢750年とのことです。恐れ入りました。
 
 
 
 
 
 
 
 

2012年10月16日火曜日

十月の花 金木犀


 十月に入って秋晴れのよいお天気が続いています。散歩していると、どこからか金木犀のよい薫りがしてきました。どこに金木犀の木があるのかと思い探しましたが見つかりません。どうも土塀で囲まれた住宅の庭に金木犀の木があるようです。金木犀は小さな木でも薫りは遠くまでするものです。

 私達が初めて自分達の家を持った時のことです。小さな庭にところせましといろんな木々や草花を植えました。楡、もみじ、やまぼうし、さんしゅう、はなみずき、あじさい、さざんか、むらさきしきぶ、なるこゆり、しばざくら、しらん、れんぎょう、ゆきやなぎ、さつき、つつじ、しゅうめいぎく、そして金木犀です。十月になると金木犀は満開になります。来宅された方は、皆「金木犀の薫りは本当にいいものですね」と言って下さいました。植えて一年一年、年毎に金木犀はどんどん成長していきました。そして二十年たつと二倍の高さに成長しました。二十年という歳月はやはり大きなものです。子供達が子供から大人に成長するのを見守ってくれていたような気がします。仕事の関係でその地を離れることになり、早三年が過ぎました。十月になると私達の金木犀を思い出します。あの金木犀はもっと成長し,
たくさんの花を咲かせ、人々を楽しませていることでしょう。
 


 

2012年10月15日月曜日

稲穂の香り


 私が今、住んでいる中国地方では、やっと稲刈りが始まりました。ふるさとの中部地方では八月中に稲刈りが行われていましたが、地域によって自然気象の影響でずいぶん差があります。自転車で田んぼのそばを通ると、稲穂のいい香りがします。世に知られている「実るほど頭を垂れる稲穂かな」まさにこの通りの光景です。お米を作っておられる農家の方々の労働のたまものです。まだこの先精米するまで重労働が待っています。消費者はお金を払えば簡単にお米を手に入れることができますが、消費者の元へ届くまでの過程で、多くの人の汗と労働と苦労があることを、いつも忘れてはいけないと思います。食事の前と後の「いただきます」「ごちそうさま」は、多くの人々と自然界への感謝の言葉ではないでしょうか。
 

 

 知り合いの小学校の教諭をしている女性は、去年研修という名目で、農家へお手伝いに行き、農業の実地実習をしました。八十代後半の高齢男性が一人で、田や畑でたくさんのお米や野菜を作っておられます。二人の息子さんは勤め人で、お父さんだけが専業で農業をされています。二人の息子さんは、休みの日だけしか手伝うことができません。広い田畑を持っておられますが、何年か先には休耕田になりそうです。日本の農業の将来に不安を抱きますが、就職難といわれる今の時代、若者が農業の道に進むというのも一つの立派な選択だと思います。

2012年10月14日日曜日

大津祭


 先日滋賀県の大津へ大津祭を見に行ってきました。大津祭は江戸時代から四百年続いているもので、滋賀県無形民俗文化財に指定されています。ゴブラン織や装飾金具にかざられた13基の曳山が市内を巡行します。これは江戸時代の大津の経済力を象徴するもので、またこの祭をささえてきた大津町衆の心意気を示すものです。大津祭の特色のひとつに曳山それぞれにとり入れられている絡繰り(からくり)があります。絡繰りの題材は中国の故事や能・狂言からとったもので、文化水準の高さが理解できます。


 

 祭ばやしは京都の祇園祭と同じ「コンコンチキチン」です。13基の曳山の内、よく知られている名前の曳山がありました。一つは「源氏山」で、紫式部が石山寺において「源氏物語」を書いた故事にちなんだものです。いくつもの絡繰りがあり廻り舞台の原型であるといわれているそうです。二つ目は諸葛孔明の水神への祈りにより大勝をした故事による「孔明祈水山」です。三つ目は「神功皇后山」です。神宮皇后が戦さに先立ち戦勝を占ったとされる伝説にちなんでいます。この絡繰りは、次々と文字が現れてくるもので、江戸時代の文字書き絡繰りとしては斬新な仕組みだったようです。四つ目は「西行桜狸山」です。西行法師が桜の精(仙人)と問答を交わす様を現わしています。この曳山の曳き手は、たくさんの外国の若者が参加しており国際色豊かなものでした。それぞれの曳山は、各町から出ていますが、その曳き手は、町に関わる企業や大学からも参加しています。

大津祭を見て伝統を守り続ける人々の情熱を感じました。

 そのあと琵琶湖湖畔へ行って、お弁当を食べました。たくさんのヨットも浮かんでいました。大きな琵琶湖遊覧船がたくさんの観光客を乗せて入港し出港していきました。秋晴れの青空の下、気持ちよい風もあり、気分はリフレッシュしました。
 
 
 
 

2012年10月13日土曜日

おもちゃ


 おもちゃといっても子供のおもちゃではありません。うちのポアロ(夫)が、アイパッドのようなものを買いました。詳しくはわかりませんが、最近発売されたもので、シンガポールから国際郵便で届きました。その商品が届いた日から夢中でいじっています。そばで見ていると、子供がおもちゃに夢中になって遊んでいるのと同じような光景です。私が何か話しかけても上の空です。寝るのもおしんでいじっています。

 手のひらにのるくらいの大きさのものです。年齢とともに視力が落ちてきているので、パソコンもあまり熱中しすぎると目が疲れ視界がぼやけてきますが、そんなことはおかまいなしで没頭しています。

 パソコンもどんどん進化し、機能が無限大に広がっています。こんな小さなものに、できないことはないくらいの、非常に賢いコンピューターが入っているとは驚きです。ピアノの鍵盤が出てきたと騒いでいます。「何か弾いてみて」と私に見せにきました。私は一本指で「カエルのうた」を弾きました。面白いものです。そして自分の生まれた年を打ち込むと「思い出の歌」が出てきます。自分が何歳の時には、こんな歌が流行っていたとたくさんの曲が出てくるので、聞きたい曲を選べば、当時の映像で歌手が歌っているのを見ることができます。ちなみに15歳の時には「高校三年生」が流行っていました。

 そのうち相方の隙をついて、私もいじってみようと思います。

2012年10月12日金曜日

「父の子守歌」


私は父さんっ子だった

夜遅くまで仕事をしている母に代わって

私を寝かしつけるのは父だった

タバコの匂いがプンとする父

布団に入ると父の歌が始まる

「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の

赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下」

 

けっして上手といえない父の歌

父の歌う軍歌が子守歌だった

二番が終わる頃には私は眠っていた

 

毎晩私は父の歌を子守歌にして眠った

いつも同じ歌が子守歌だった

いつのまにか私は歌を覚えた

父と一緒に歌い出す

「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の

赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下」

そして二番が終わる頃には私は眠っていた

 

父は若き日々を満州で過ごした

青年将校だった

多くの兵隊を率いて厳しい寒さの満州で数年過ごした

戦争の渦に巻き込まれ翻弄された年月

戦争が終わり世の中は一変した

家族を抱え生きることに必死だった

食べることに必死だった

 

そして末っ子の私を寝かしつけるのに

毎晩歌った軍歌

父は歌いながら満州の日々を思い出していたのかもしれない

 

私の記憶に残る歳まで父の子守歌は続いた

何だか甘酸っぱい父との思い出

多くの兄弟の中で私だけが知っている父の子守歌

 

遥か遠くへ行ってしまった父との思い出

時々ふっと蘇る父の子守歌

2012年10月11日木曜日

私の好きなことば「よかったさがし」


 いつの頃からか好きになったことばです。少し視点を変えるだけで、いくつもの「よかったさがし」ができるものです。百点満点だけを目標にしていれば、百点以外はすべて悪いものとしてとらえてしまいますが、六十点でもとれたら、自分の努力がこんなものだったとのだと納得できて、今度はもっと頑張ってみようと思います。

 人間関係においても、自分のことを忘れて、人の短所ばかりを見ていたら、文句ばかり言う人間になってしまいます。大切なことは、人の悪いところばかりを取り上げないで「よかったさがし」ができる人間になることだと思います。

 自分の人生に対しても同じです。悪いことばかりを列挙せず「よかったさがし」をすれば、自分でも気付いていなかったような「よかったこと」がたくさん見つかるはずです。

 世の中のもろもろのことは、表からと裏からと、両面からの見方、感じ方、取り方をすれば、長所・短所が逆になるのではないでしょうか。

2012年10月10日水曜日

模様替え


 私の好きなことの一つに、部屋の模様替えがあります。この趣味は、十代の頃から始まりました。気持ちよい季節には、第二勉強部屋と称し、納屋へ勉強机を置いて、藪の景色を眺めながら、勉強しました。緑の木々と草花と、広く開け放した戸口から入ってくる気持ちよい風に、気分は上々でした。家族からは、面白い子、変わった子と思われつつ、本人は御満悦でした。気分が変わって、勉強の意欲も能率も上がりました。

 そして結婚してからのその趣味は、どんどんエスカレートしていきました。整理ダンスやセミダブルベッドまで、一人で動かし、仕事から帰った夫はびっくりぎょうてんです。一人でそんなことができるはずはないと、思ったことでしょう。ピアノで鍛えた腕力は、相当なものです。体は小柄ですが、全身全力を使って、自分のしたいようにするのが大好きで、本当にその通りにしてしまうのです。移り気なのか、何ヶ月か過ぎて落ち着いたと思ったら、また動き出してしまいます。模様替えは楽しいものです。気分が一新します。

 子供達が小学生になると、頼もしい助っ人が二人もできて、私は有頂天になり、しょっちゅう模様替えをしていました。子供達も気分が変わって嬉しかったのか、イヤとも言わず、模様替えの相手をしてくれました。

 今ふり返れば、よくあんなことができたものだと、我ながら感心します。若さとは、すごいものだと思います。これからは、若い時とは違い、じっくり考え、ゆっくり動いて、一人ではなく、相方と力を合わせて、模様替えをしようと思います。

2012年10月9日火曜日

徒然に想ううた 短歌三首


 

ふるさとの ススキの原の 波想い

 

     父母への便り ペン持ちあぐむ

 

 

異国人(びと) 交わす言葉は 違っても

 

     想いは同じ 愛し愛され

 

 

やわらかく 優しい笑顔 京の女性(ひと)

 

     はんなり生きる はんなり美人

2012年10月8日月曜日

「欲」

私は欲の塊だ
お金が欲しい
家が欲しい
別荘が欲しい
豪邸が欲しい

欲はきりがない
欲はどんどんふくらむ

私は欲の塊だ
地位が欲しい
名誉が欲しい
権力が欲しい
成功が欲しい

欲はきりがない
欲はどんどんふくらむ

この柔和な顔のどこに
欲の塊はいるのか
この微笑みのどこに
欲の塊は隠れているのか

押し込めても押し込めても
ムクムク頭をもたげる欲の塊

欲はきりがない
欲はどんどんふくらむ

私は欲の塊だ
消えない命が欲しい
永遠の命が欲しい