2017年12月29日金曜日

今年最後のブログ

 ゆく年もあと二日となりました。私のブログも今日で1290回となりました。短くて長い五年の年月が過ぎようとしています。ここまで続けてこられたことに感謝しています。私のブログを読んで下さっている皆さま、本当にありがとうございます。細く長く、継続は力なりをモットーにこれからも続けていきたいと思っています。
新しい年がみなさんにとって良い年でありますように。

良いお年をお迎えください。

2017年12月28日木曜日

好きな作家

 先日NHKの九時のニュースに五木寛之氏が出演されました。インタビューのコーナーでした。現在八十五歳になられていますが、執筆活動に燃えておられます。私は三十歳代後半頃から、五木寛之氏の著書を読み始めました。東京から三重へ引っ越して来た頃には、講演会にも出かけました。本も講演もひきつけられるところがあります。考え方に共通点があるように感じています。考え方に共通点があるということは、共感したり納得したり、そうそうと自分を認めたり、自分に自信をもたらせてくれます。
 ブームとなった終活も、私の場合は追い立てられるような思いですが、五木寛之氏は、「がらくたも宝の山」とおっしゃいます。振り返ると自分の後ろには、宝の宝庫があるということです。自分が歩いてきた道には、出会った人も物も宝として存在するのです。五木寛之氏は「私はゴミ屋敷に住んでいます」と言われます。終活、終活と、強迫観念にかられていた私は、私と同じ、同類項の方の強い言葉を聞いて少し気持ちが軽くなりました。

2017年12月27日水曜日

移る季節の中で

 厳しい寒さ到来の中で、木々たちは葉を落とし寒風にさらされています。先日ブログに書きましたが、見事な紅葉を見せてくれた三重の家のそばに立つエノキも幹だけの姿です。葉が茂っている時には見えなかったふるさとの城、松坂城が、エノキの向こうに少しですが見えるようになりました。今、私は家からふるさとの城が見える喜びにつつまれています。

葉っぱの落ちたエノキの向こうに石垣が見えます

望遠でアップすると
 十代の頃、私の部屋は二階にあり、いつもお城を眺めていました。実家は田園地帯にあったので、邪魔するものは何もありませんでした。それから半世紀が経ち、たくさんの建物が建ってお城は見えなくなっていました。愛唱歌「青春の城下町」を口ずさみながら、お城を眺めていた十代の私がよみがえります。甘酸っぱい思い出です。

「青春の城下町」
        流れる雲よ 城山に
        のぼれば見える 君の家
        灯りが窓に ともるまで
        見つめていたっけ 逢いたくて
        ああ 青春の 思い出は

        わがふるさとの 城下町


お城の下には母校の中学校が見えます

2017年12月26日火曜日

私の好きな言葉「繕う」

 たまに家族が寝静まった夜遅く、針箱を出してきて繕い仕事をすることがあります。静寂の中で針と糸、布を手に持って縫い物をするのは心が落ち着きます。子どもの頃の母の姿が思い出されます。農家に嫁いだ母は、昼間は肉体労働で疲労困憊しているにも関わらず、夜は遅くまで繕い物をしていました。家族八人のいろいろな繕い物です。「かあさんが夜なべをして、手袋あんでくれた」で始まる唱歌「かあさんの歌」を思い出します。「お母さんは仕事が多くて大変だ」と子ども心に感じていました。「夜なべ」という言葉も大好きです。自分のことよりも、家族を想う母親の深く広い愛情を感じました。
いつのころからか、使い捨て時代の到来によって、繕うことが少なくなったように感じています。わざわざ繕わなくても新しいのを買えば済むのです。物に対する執着も無くなってきているように思います。恋に恋する年頃の時には、繕ってある服を着ている人にひかれました。半世紀も前の時代です。豊かな日本になって「繕う」「繕い仕事」という言葉はどんどん遠ざかって行く気がしています。

2017年12月25日月曜日

心ほっこりクリスマス

 京都から三重へ車で移動している時のことです。時間は六時頃で暗闇の中に、ひときわ目立つとても高いクリスマスツリーがきれいな輝きを放って目に入ってきました。私達は引き寄せられるように近づきました。
 
20m以上の高さがありそうです


地域の文化ホール前広場が会場となって、クリスマスが行われていました。とても高いクリスマスツリーは、クレーンがぶら下げていたのです。そばでこそその仕組みがわかりますが、日没後の暗さの中ではクレーンの存在はわかりません。私は初めて見るものでした。広場にはいろんなイルミネーションが飾られています。とても面白かったのは、遊園地にあるのと同じような乗り物です。何両も連結させて、子どもたちを乗せて広場を回る乗り物が三つありました。運転手はサンタさんです。二つはシニアカーに乗ったサンタさんが引っ張っていきます。



もう一つはトラクターに乗ったサンタさんが引っ張っていきます。シニアカーもトラクターも、子どもたちが大好きなどらえもんやトナカイで飾られています。イルミネーションもたくさん付いています。子どもたちの喜ぶ声が広がっています。夜の広場を走り回る三つの乗り物が、賑やかさを演出している光景です。


トナカイではなくてトラクターでした
 ここは三重県津市郊外の農村地帯です。秋にコスモス畑をブログに書いた地域です。農村地帯さながらの演出に、心ほっこりしたクリスマスでした。会館の中にも幼稚園児のクリスマス飾りがありました。





2017年12月22日金曜日

恒例の高校駅伝

 先日から京都のまちなかで56人の高校生が御揃いのトレーニングウエア―を着て交差点で打ち合わせている様子が見受けられました。一昨日は指導教員らしい人から指示を受けている様子もありました。昨日は数人で街中を走っている集団と56度も遭遇しました。  そうです!  恒例の高校駅伝が24日日曜日に開催されるからです。







全国から選手たちや応援の人たちが京都に集まってきます。私達も毎年御所の近くで応援します。若い人たちの若鹿のような走りに興奮します。皆さんもテレビで応援してください。


2017年12月21日木曜日

南瓜炊き(京都寺町三条矢田寺)

 近所にある矢田寺では、毎年12月23日冬至の日にかぼちゃ供養が行われます。本堂前に大きなかぼちゃが置かれています。大きなかぼちゃを撫でて無病息災を祈願します。この大きなかぼちゃは、山科区にある勧修寺で採れたものだそうです。




23日には参拝者に、煮たかぼちゃが振る舞われます。冬至の日にかぼちゃを食べると、中風除けや諸病退散になると言われているそうです。十時から始まるかぼちゃ供養には、多くの人が集まります。


 私達家族は、京都に住み始めてから、毎年大晦日に矢田寺へお参りして絵馬を頂きました。大晦日には、甘酒と御神酒が参拝者に振る舞われます。浄土宗のお寺で、人々に開かれたお寺です。新年の干支の絵馬と違って普段は下のような恐ろしい地獄絵の絵馬です。



2017年12月20日水曜日

ROHMイルミネーション2017

 クリスマスも近づき日本中で光の祭典が繰り広げられていることと思います。京都では、地元の大企業ROHMが、毎年素晴らしいイルミネーションをプレゼントしてくれます。今年も見に出かけました。五時半頃に着いたのですが、たくさんの人で賑わっていました。外国からの観光客もたくさんおられました。五条通りから南方向への春日通りに、美しいイルミネーションが続いています。前半はメタセコイア並木で、後半はケヤキ並木です。






これはケヤキのようです

広場では音楽と光のコラボレーション
 数え切れないほどの豆電球とLEDが灯っています。その美しいイルミネーションを、今年も見ることができた嬉しさと感動が胸に広がります。一年に一度巡ってくるクリスマスの光の祭典です。最近では知名度も上がった京都の二階建て観光バスが、イルミネーションの並木道に入って行ったのには、驚きました。今だけの観光コースかもしれません。

丁度屋根がオープンの観光バスが来ました


高くそびえるほどに伸びたメタセコイアとケヤキの並木道は、どこか外国へ行ったような気持ちになります。大企業の社会貢献に感謝です。

2017年12月19日火曜日

年の瀬

 今年も残り少なくなってきました。何もはかどっていないのに、気持ちだけはそわそわしています。年賀状は書き終え、昨日投函しました。投函して帰宅したところに、喪中ハガキが一枚届いていました。十二月に入ってから亡くなられたそうで、行き違いが生じてしまいました。七年前の義兄が亡くなった時のことを思い出します。義兄は十二月四日に亡くなりました。通夜、告別式を終えたその夜から、姉、姪、私、娘は、徹夜で喪中ハガキを必死で書きました。それでも数人の方とは、行き違いが生じてしまいました。仕方のないことです。
年の瀬はいろいろ大変です。掃除、片付けは少しずつしていますが、一向にはかどりません。お正月を迎える準備の一番は、おせちをどうするかです。デパート、スーパー、ホテルでは、熱心に宣伝し予約を受け付けています。今年はご近所にある仕出し屋さんのおせちを初めて注文し、とても好評だったので今回も続けて注文しました。京都には、仕出し屋さんがたくさんあります。テレビでもよく取り上げています。商家が多かったからでしょうか。夏の祇園まつりをはじめ、何かの行事にはたくさんの人が集まり、仕出し屋さんの料理で盛り上がるようです。大切な親睦の集まりには、欠かせない料理です。
仕出し屋さんのおせちが気に入った理由の一つは、冷凍ものではないということです。すべてお店での手作りです。味も家庭料理に近いものです。つくりたてを31日の午後に届けてくれます。家の近所に仕出し屋さんがあって、助かります。
  
樹木希林さんの「京都の仕出し屋」で照会されたお店です
クリスマスはもうすぐです。デパート、ホテル、お店、商店街には、美しいクリスマスの飾りがいっぱいです。クリスマスの歌や「もういくつねるとお正月」を、動きながら口ずさんでいます。子供のようにうきうきしはしゃいでいます。

2017年12月18日月曜日

徒然に想うこと(女性の自立)

 いつの時代も女性の自立は大きなテーマです。時代の変化は女性の生き方にも影響を与えます。自立とは、自分だけの力でやっていくことです。孤立を意味しているのではありません。人が生きて行く限り、たくさんの人と関わり助け合ってというのは自然の成り行きです。女性の自立の根本は、経済力を持ち経済的には人の支援を受けずに生きていけることです。日本ではかつて専業主婦が女性の生き方の主流でした。夫は外、妻は内という役割分担でした。女性が仕事を持って、家庭との両立に苦労し、それでも自分の信念を曲げず生き抜くという姿にはいつも感動します。
今でも鮮明に記憶している叔母の言葉があります。夫が病気により九十三歳で亡くなった時のことです。「女の人は男の人が亡くなったら終わりやね」と言う叔母の言葉に、私は複雑な気持ちになりました。夫婦の愛情の深さから出た言葉だとその時は思いました。しかし今振り返ってみると、この時の叔母の言葉には、女性の人生のすべてが含まれているように思います。大正生まれの夫婦です。妻はすべてにおいて夫に頼らざるをえない人生だったと思います。夫の後を追うように、一年後に叔母も旅立ちました。
時代が変わり、女性の社会進出も進み、子供が小さい時だけ、一時的に専業主婦になる人もいます。しかし今は自分の働きにより経済力を持ちたいという女性のほうが増えているように感じています。それは素晴らしいことだと思います。私も母も、家庭と仕事を持って頑張りました。長い間にはいろんなこともありました。そのおかげで今の自分があると感謝しています。

 ある女性の話です。専業主婦として生きた彼女は、二人の息子さんを日本のトップの大学へ合格させました。誰もが羨む秀才の息子さんたちです。そのあと彼女は自分の夢を実現するために、フランスへ渡ります。そして十二年かけて、パリソルボンヌ大学で博士号を取得します。今も年に数回は、フランスへ行っておられます。ご主人は今も現役で仕事をされています。夫も妻も自立されている理想のご夫婦です。ちょっと残念なのは、自分の働きで自分の夢を実現されたのではないようなのです。恵まれた星の下に生まれた彼女は、親からの遺産があったようなのです。そのことは羨んでもしかたありません。自分に経済力があってもなかなかできることではありません。夫を一人残して、自分の夢実現のために行動を起こす彼女はあっぱれです。文句も言わず、妻を見送る夫もあっぱれです。私には、遠い遠い話のようです。

2017年12月15日金曜日

最後の紅葉(黄葉)

 今年もあちこちで美しい紅葉を見ることができました。そして最後は三重の家の借景となる、実家の藪に植えられているエノキの紅葉が見納めとなりました。高さ12メートルほどに育ったエノキの葉が、少しずつ黄色く色づき、すべての葉が見事な黄色に紅葉しました。家の中からエノキを眺めては、「きれい、本当にきれい」と見とれてしまうほどでした。 
12月1日 我が家の階段吹き抜けからの借景

11月21日 黄色くなり始めました

以下 12月2日の黄葉真っ盛り






その美しさに感動しながら日が過ぎて行き、冬の嵐の到来によって、葉が一枚ずつ散り始めました。強風に揺れるエノキを見ながら、「今年はもうこれで終わりね」と、散りゆく葉たちを名残り惜しく見送りました。葉っぱのフレディーのようです。

12月3日 左の柿の木はすべての葉も実も落ちています

12月11日 前夜の木枯らしでほとんど散ってしまいました

毎年葉が茂り、紅葉し、散ってゆく、自然の姿には心ひかれます。循環こそありのままの姿です。そこには希望があります。厳冬の中では、春は希望です。また会える日を楽しみにしています。

2017年12月14日木曜日

今日は何の日(京都山科義士まつり)

 毎年十二月十四日には「山科義士まつり」が開催されます。私達は初めて見に出かけました。赤穂藩筆頭家老大石内蔵助が1701年(元禄14年)6月から1702年(元禄15年)10月に江戸に向かうまでの期間、山科に移り住んだ史実に因んで行われているそうです。
毘沙門堂を十時に出発し、大石神社へ二時半に到着するまで約6キロを、義士隊の行列がまちを練り歩きます。討ち入り装束に身を固めた義士隊です。私達は街の中心地、商店街で義士隊行列を見ることにしました。信号が止められ、まず最初はゆかりの女性たちに扮した人たちの行列です。続いて、大石内蔵助を先頭にして義士隊行列が進んでいきます。









浪士たちは、討ち入り装束で、はっきり読める字で、播州赤穂浪士と、それぞれの名前が書かれています。記憶に残っている人の名前を見つけては、あの人だあの人だと、まるで浪士たちが再現したかのような錯覚を覚えました。1703年(元禄15年)12月14日、あの日から314年の歳月を経て、見ている者の胸によみがえってきます。現場にいたわけではないのにです。義士四十七士の後には、女性達が続きます。隊列は短く、わりと早く見終わりました。
私が子供だった頃は、テレビがまだ普及されておらず、映画全盛時代でした。師走に入ると映画「忠臣蔵」で街が賑わいました。ストーリーはわかっていても、子供から大人まで盛り上がりました。映画「忠臣蔵」を見るのが、師走の恒例行事となっていました。映画会社が競って「忠臣蔵」を製作し、観客はいろいろ比べて批評したようです。赤穂浪士四十七士はヒーローでした。終着地の大石神社へは数年前に行っています。ブログにも書きましたが、普段は静かなひっそりとした佇まいです。十二月十四日は晴れ舞台へと変わります。以前兵庫県赤穂市にある赤穂城の大石神社へも行きましたが、今日は赤穂城でも、また東京の泉岳寺でも、赤穂浪士たちを偲んで多くの人が集まっていることと思います

2017年12月13日水曜日

ある解散

 テレビを観ていてあるヴォーカルグループの解散を知り驚いています。そのヴォーカルグループは「デュークエイセス」です。結成六十二年で解散することとなりました。私が子供の時からよく知っている、そして大好きなデュークエイセスです。初めて知ったのですが「デュークエイセス」とは、「選りすぐられた公爵たち」という意味だそうです。以前よく見慣れていたトップテナーの人は五十一歳で亡くなられ、そのあとを引き継いだ人も五十六歳で亡くなられたそうです。三年前には結成メンバーの一人が脳梗塞で倒れ、メンバー四人のうち三人は後から加わった人とのことです。テレビがまだ普及していなかった時代、NHKの「夢で逢いましょう」にレギュラーとして出演されていました。黒柳徹子さんと同じ頃です。昨年亡くなられた永六輔さんや、いずみたくさん、中村八大さんたちが、歌謡史に残る名曲をたくさん世に送り出し、デュークエイセスの歌声にのって日本中に広まっていきました。にほんのうたシリーズは、子供から大人まで幅広く、たくさんの人に歌われたものです。
私が青春時代に何度か通った歌声喫茶では、デュークエイセスの曲をいくつも歌いました。当時大阪や京都にあった歌声喫茶は、いつのころからか姿を消しました。若い人達が集まる元気いっぱいの場所でした。番組の中で現在の東京にある歌声喫茶の映像が出たのですが、皆さんは昔若者の人達でした。同世代の方や少し上の世代の方が元気に歌っておられ、懐かしく思いました。今度東京へ行ったら訪ねてみようと思います。
六十二年の歴史を刻んできたデュークエイセスが解散するのは残念ですが、その歌声はみんなの心の中にずっと記憶されることと思います。名曲は歌い継がれていくことでしょう。
デュークエイセスの皆さん、楽しい歌声をありがとうございました!


2017年12月12日火曜日

歳月を経て

 十数年前私の誕生日にポアロがプレゼントしてくれたシャコバシャボテンが咲き出しました。岡山県倉敷市に住んでいた時に届けられ、その後京都へ引っ越し今は三重の家にあります。倉敷では十二階のマンションの日当たりの良い南側に置いていました。一鉢のシャコバシャボテンが、見事な数の花を咲かせ部屋を飾ってくれました。その一鉢のシャコバシャボテンが、今は十二個に増えています。園芸の好きなポアロがどんどん株分けをしていったのです。




 一輪が咲き出したと思ったら次から次へと開花して、大晦日までに満開になりそうです。一鉢は、ホームにいるまんたん(義母)の元へ届けました。お花の好きなまんたんは、とても喜んでくれています。一鉢から始まったシャコバシャボテンは、歳月を経て十二個に増え、これからもどんどん増えていくようです。お花からもらう癒やしを感じています。