2016年11月30日水曜日

紅葉便り-番外編(高島1)

 以前から一度行きたいと思っていた紅葉で有名なマキノ高原メタセコイア並木を見に行ってきました。滋賀県高島市にあり琵琶湖の北部にあたります。この日は土曜日で、近づくにつれ、たくさんの車で混みあってきました。十時には駐車場がいっぱいになるとの情報を得ていたので、京都を八時に出たのですが、紅葉シーズン真っただ中で、途中渋滞もあり現地にはちょうど十時に着きました。滑り込みセーフで、少し遠い場所でしたがかろうじて駐車場へ停めることができました。

朝10時に遠方からの車で一杯になっていました

 メタセコイアの並木が、両側に約500本2.4キロ続いています。素晴らしい紅葉に感動します。まるで外国へ来たかのような錯覚を覚えます。背の高いメタセコイアは高さ約35メートルもあります。約45年前にマキノ町果樹生産組合が植えたとのことです。




   
並木道の周囲に広がる果樹園では、ぶどう、りんご、ブルーベリー、さくらんぼ、くりなどいろんなものが栽培され、そのシーズンには観光農園として収穫体験もできるそうです。栗畑にはところどころに実が入ったいがが残っていました。

並木の両サイドは果樹園です



私達は、写真を撮りながら並木道を半分ほど歩いて戻りました。青空に白い雲、そしてメタセコイアのやわらかい緑と黄いろとオレンジが混ざったような微妙な色合いが、人々を惹きつけます。メタセコイアの紅葉を見ようと、たくさんの観光客が集まってきています。皆それぞれに写真を撮り、あちこちで感嘆の声を上げています。見飽きることなく、いつまでもメタセコイアにうっとり状態です。紅葉は12月中旬まで楽しめるそうです。

スキー場に近づくにつれて赤みが増すような気がします



センターハウスでは、特産品やお土産が売られており、レストハウスにもなっています。野菜直売所やレストランもあり、メタセコイアを見たあとにゆっくりできる場所でした。

果樹園とこの並木道一帯は「マキノピックランド」という名称になっていました

農産物直売所、お土産売り場、レストランがありました


 マキノ高原は、マキノスキ-場に続いており、冬も多くの人が集まるそうです。雪のメタセコイア並木道も幻想的で素晴らしいと思います。また夏にはキャンプ場やペンションがあり、緑の茂ったこの並木もきれいだと思います。

2016年11月29日火曜日

情報の力

 最近家の近くの中華料理店に行列ができるほどお客さんが来るようになりました。10年ほど前に他所から引っ越してきた店ですが、行列ができるほどの店ではありませんでした。今年の春ぐらいから土日、祝日にはたくさんのお客さんが来ています。三十人ほどの行列ができた時には、何事が起こったのかと驚きました。情報通の床屋のマスターから聞いたところによれば、テレビで紹介され、さらに旅行関連の雑誌、京都グルメの案内で紹介されたあとからお客さんが集まり始めたとのことです。私達はこの店で何度か食事をしていますが、とりたてて特別おいしいとは思いませんでした。他の店との違いはよくわかりませんでした。テレビの力も大きいと思いますが、雑誌の力も同等だと感心しています。もっといえば今はネットの力は、最大級かもしれません。
 今年の夏にできた河原町四条上がるにある抹茶カフェには、若い人達がいつも行列を作っています。こちらの店は、土日、祝日に関係なくいつも行列ができています。京都にはたくさんの学生がいます。またデートにも人気ある街です。若い人達が京都へ集まるのも理解できます。あまりにも行列が長いのでこの店にはまだ行ったことはありませんが、おそらく雑誌やネットで紹介されたと思っています。また口コミで店の人気が広まったのかもしれません。いつか朝一番にでも行ってみようかと思います。

 以前ブログに取り上げましたが、河原町三条にある回転寿司店には、いつも外国の観光客があふれるほど来ています。こちらのお店は外国人のための京都案内の本に紹介されてから、外国人観光客が集まるようになったとのことです。三条通りに面してある、和食屋チェーン店にも外国人観光客が集まります。エストニアから来た男性との出会いも、この店でした。京都案内の本でこの店のことを知ったと、彼は話していました。情報発信は、プロの人達だけでなく、一般の普通の人達からも行われている現代です。それは国内だけにとどまらず世界へ向けての情報発信です。文明科学技術の発展は素晴らしいものです。今を生きる私達は、その恩恵を受けて一瞬にして世界と結ばれています。

2016年11月28日月曜日

お出かけ(名古屋へ)

 先日久しぶりに名古屋へ行ってきました。ポアロ(夫)も私も、それぞれの友人に会うことになりいそいそ出かけました。私は半世紀を上回るお付き合いの友人です。時々電話やメールではおしゃべりしていますが、会うのは久しぶりです。長い年月を経ても変わることなく、何でも話し合える間柄です。私達は会うなり次から次へとおしゃべりが始まりました。まずは近況報告です。お互いに結婚し子供を育て社会へ送り出し、今は夫も一線を退き悠々自適の暮らしです。しかし彼女は現在豆台風の中にいます。娘さん家族がアメリカへ三年行っていて、この夏に二人の子供を連れて娘さんが帰国しました。夫はあと一年ほどアメリカで仕事をします。子供の教育のための選択とのことです。一年後にどこへ赴任するかは未定です。そのため娘さんと子供たちは、それまでの間実家に居候ということになったのです。友人には息子さんと娘さんがいるのですが、独立させた後は夫婦二人だけの静かな生活でした。そこへ育ち盛りの元気な男の子が二人やってきたのです。賑やか過ぎるほどの生活に一変しました。しばらくの間ということで、友人夫婦は大家族を楽しんでいるようです。私は京都と三重を行ったり来たりの落ち着かない暮らしについていろいろ話しました。近況報告に始まり、健康問題、家族について、これからのことについて、年齢を重ねて起こる周りの人達のいろんな不都合についての情報交換など、話は尽きることがありません。それでも時間は刻々と過ぎていきます。名古屋駅周辺は、次から次へと新しいビルが建ち、私の知っている名古屋駅周辺とはずいぶん様変わりしています。友人の案内であちこち歩き回りましたが、私一人では今どこにいるのかさっぱりわかりませんでした。友人が予約しておいてくれた中華料理店で昼食をとり、新しいビルをいくつも回りました。高層のビルではハイスピードのエレベーターで51階まであっという間に上がります。スカイガーデンもあります。夕闇迫る名古屋の街を見ながらのティータイムは、落ち着いた雰囲気のお店で寛げました。ポアロとの約束の時間も忘れ、一時間近くも待たせてしまいました。それでもまだまだ話は終わりません。名残り惜しい気持ちでまた会う約束をして友人と別れました。

 ずいぶん前のことになりますが、私達家族は東京に住んだ後、転勤で三重県に引っ越しました。愛知県と三重県の県境にある大きなニュータウンです。特急バスで名古屋駅まで40分ほどです。娘の音楽のレッスンに付き添い、毎週名古屋へ通いました。名古屋駅周辺にあるいくつかのデパートで、時々は買い物をしましたが、人生の真っ赤に燃える夏の時代である当時は遊び回ることもなく、さっさと用事を済ませてとんぼ返りをしていました。そんな中での名古屋駅周辺の記憶は朧ろげです。久しぶりの名古屋駅周辺は、近代ビルや高層ビルが建ち、大都市名古屋を思わせます。姪が今年の春竣工した大名古屋ビルヂングの16階で働いています。今回ことづけものがあったので、短い時間でしたが姪に会うこともできました。16階からの眺めは素晴らしいとのことでした。近いようで遠い、遠いようで近い名古屋へまた行きたいとポアロと話しています。

2016年11月25日金曜日

恒例の夢

 十一月も残すこと一週間をきり、昨日年末ジャンボ宝くじの発売が始まりました。ニュースでは、有名な宝くじ売り場にたくさんの人の行列ができているのを報じています。600人もの人の列ができたところもありました。東京有楽町の売り場には、北海道から来たという人もいました。東京では十一月の初雪が54年ぶりとのことでメディアは大騒動です。寒さにも負けることなく、たくさんの人が初夢を期待して年末ジャンボ宝くじを買い求めています。昨年に続き一等前後賞合わせて史上最高額の十億円です。その数字は想像もできないほどの高額なものです。私達夫婦も例にもれず、一年のクライマックスであるジャンボ宝くじを買うのが恒例となっています。歴史は古く何十年を刻んでいます。毎年、毎年、諦めることもせず、健気に買い続けています。それでも当たったことはありません。年末ジャンボを買ったたくさんの人の中の誰かがその夢を手にするのです。わかっていても、そう言われてもとても信じられません。でも買わなければ初夢を思い描くことは皆無となります。人によっては「そんなばからしいことに便乗しない」という人もいます。私の父は、師走の恒例行事として、宝くじを十枚買っていました。かわいい庶民の夢だと思います。私達夫婦は、途方もない大きな夢を思い描き、師走の一ヶ月を楽しく過ごします。にやにやして夢を語る私達は、庶民の代表です。

2016年11月24日木曜日

嬉しい歌声

 先日の朝十時頃のことです。ベランダで洗濯物を干していた私は、駐輪場から幼い子供の歌声が聞こえてくるのに気づきました。幼稚園、保育園へまだ行っていない子供のようです。始めはハミングでした。その後とぎれとぎれに歌詞が聞こえてきました。私の大好きな童謡「里の秋」です。小さな子供には少し難しいと思われる歌詞ですが、日本人の心に響く童謡です。胸にジンとくるものがあります。母の愛唱歌でもあり、母がよく歌ってくれました。物心ついてからは、姉達と一緒によく歌ったものです。ピアノが弾けるようになってからは、弾き歌いをしてこの歌に酔い自己陶酔していました。少し物悲しいメロディーかもしれません。娘達が小さい時には、いろんな童謡を歌い聞かせましたが、今の子育ての中では童謡はあまりないように感じています。「里の秋」を口ずさんだ幼い子供は、お母さんから、あるいはおばあさんから、あるいはひいおばあさんから教えてもらったのでしょうか。今どきには珍しいことです。幼い子供が口ずさむ「里の秋」を聞いて、私はなぜかほっとして気持ちがあたたかくなり嬉しくなりました。

「里の秋」   作詞 斎藤信夫
        作曲 海沼實

しずかなしずかな 里の秋
おせどに木の実の 落ちる夜は
ああかあさんと ただ二人
栗の実にてます いろりばた

あかるいあかるい 星の夜
なきなきよがもの 渡る夜は
ああとうさんの あのえがお
栗の実たべては おもいだす

さよならさよなら 椰子の島
お舟にゆられて かえられる
ああとうさんよ ご無事でと
今夜もかあさんと 祈ります



「里の秋」は1948年(昭和23年)にレコードが発売され、小学校の音楽教科書に長年採用され、2007年(平成19年)日本の歌百選に選ばれたそうです。   

2016年11月21日月曜日

親子か兄弟か孫か?-ドラセナ

16年前にいただいた幸福の木(ドラセナ)、本体は大きく育って今も元気です。数年前にはめづらしい花も咲かしてくれました。

16年前にいただいた親の木です



 その後、枝の脇芽が大きくなったので2つ枝分けをして2つの子供たち(子株)が育っています。しかしそのうちの1株が背だけ伸びすぎて形が不均衡になったので春に先端部、中間部、根っこに切り分け、根っこはそのまま植えなおし、先端部も新たな鉢に挿し木として、中間部は「茎伏せ」ということで鉢に寝かせました。先端部は水やりをしていると新たな根が出たようで無事、新たな緑の葉が出てきています。中間部は残念ながら枯れてしまいました。残る根っこの部分は切り株の状態で2週間に一回くらいの水やりを続けていましたが一向に変化がなかったのですが半年たった9月に小さな緑の芽を発見しました。その後2か月たち順調に緑の葉っぱが5枚ほどに成長しています。この木の名前の通り幸福な気分にさせてくれました。今あるのは元の木を親とするとその子供2鉢、その内の1鉢はその分家というところでしょうか!

左の木と右の2本(もとは1本)は兄弟でした

この2本は元は左が上部、右が根っこの部分でした

この新しい芽は孫にあたるのでしょうか?


2016年11月19日土曜日

今は死語(良妻賢母)

 良妻賢母とは、辞書には「夫に対してはよい妻であり、子供に対してはよい母親であるような女性」とあります。これに対して良夫賢父という言葉はありません。男性が外、女性が中、といった役割分担があった時代、女性の生き方を示し、女性の理想像を作り上げていたのかもしれません。よい妻、よい母親、よい夫、よい父親、とは何をさしているのでしょう。その定義は難しいと思います。生活の糧となるものを稼いでくればよい夫、よい父親なのでしょうか。確かにそれも大切なその一つですが、全てではありません。現代社会においては、男性女性の間の壁もなくなり、基本的には対等の関係です。しかし性差は永遠に不滅です。腕力に関しては男性が勝り、自分の体を通して新しい命を育て送り出すことは女性にしかできません。しかし新しい命の誕生は、女性だけ、男性だけでは実現できません。それ以外のすべてのことは、男性、女性にこだわることはありません。夫唱婦随でも婦唱夫随でも個人の自由です。半世紀をはるかに超えて女性として生きてきた私は、振り返れば良妻賢母という呪縛にがんじがらめになっていたような気がします。人には得手不得手があるのに、良妻賢母=完璧な女性ととらえ、良妻賢母であり続けねばならないという強迫観念にかられ、理想像をずっと追い求め、自分はダメ人間というコンプレックスを、自分が自分に押し付けていました。これは時代の流れだったのでしょうか。それとも生まれ育った家の古さからだったのでしょうか。今はありのままの自分を認め、開き直り「これでいいのだ」と肩の力がとれました。自分の経験から、男子教育・女子教育と分けることなく、人間教育こそ最も大切なことだと思っています。一人一人の個性を認め尊重し、支え合い助け合う社会は、家庭からです。良妻賢母・良夫賢父は、技術ではなく、中身の人間性のことと理解し、あくまでも理想論と捉えましょう。人生山あり谷あり、欠点だらけの人間同士、愛情を中心にして支え合い助け合い、責任と義務を忘れず楽しく過ごしたいと思います。


2016年11月18日金曜日

今は死語(冷や飯食い)

 現代社会において冷や飯食いは存在しますか。電子レンジでチンするだけで即温まります。しかし炊き立てではありません。一人暮らしの一人者は別として、家族の中で誰が冷や飯食いを担っているのでしょうか。家父長制度があった時代には、長男以外が冷や飯食いと呼ばれました。我が家では、私が冷や飯食いです。いつもの習慣で足らないということにならないようにほんの少し余裕をもって炊くのですが、少しは残ります。冷凍庫には残ったご飯がたまっていきます。時々炒飯やジャンバラヤ、ドライカレー、雑炊などに使いますが、冷凍庫には保存食のようにご飯が入っています。そういうことから炊く量を減らして、私が冷や飯食いになりました。私の実家は農家だったので、お米になるまでの労働の大変さをよく知っています。米粒一つも捨てることはできません。お米をとぐ時も、お釜を洗う時も、そのことはいつも頭をよぎります。そして感謝の気持ちが湧いてきます。台所に立ってお米に接する時、今は死語になっている冷や飯食いについていろいろ考えてしまいます。

2016年11月17日木曜日

今は死語(家父長)

 1945年昭和20年の終戦とともに消え去った言葉に「家父長制度」があります。今は死語になっていますが、家制度が続いてきた中で家父長は絶対的な権力を持ち、それとともに家族に対する全責任を負っていました。戦後生まれの私ですが、身近な人から聞く話は信じられないような本当の話です。家の中では、父親が一番で長男が二番です。食事の時には如実に表れます。父親と長男は、一段高い席に座ります。次男以下その他大勢は一段下に座り、末席には妻が座ります。使用人は一緒ではありません。父親が食事を始めると、長男が食べ始め、それを確認してから次男以下その他大勢が食べ始めるのです。食べるものにも差があります。父親、長男は尾頭付きの魚です。ここまで書いただけで、あまりの差別に腹が立ってきます。身分というものが、社会の中に、家庭の中にもあったのです。生まれながらにして次男以下の者が受けた差別は、それが当たり前となり人の一生について回ります。身近な人は、私より八歳上で戦中生まれの次男です。父親が絶対的な存在であり、それに次ぐ兄には頭が上がりません。その姿勢は一生続いています。「三つ子の魂百まで」の通りです。
 ちなみに、英語では兄も弟もbrotherといい年齢が上か下かは重視しないそうです。

2016年11月16日水曜日

アガサの毒薬

 私達家族全員アガサ・クリスティ―のファンです。「ミス・マープル」、「名探偵ポワロ」などのテレビドラマや映画は欠かさず見ています。トリックやその推理はもちろん面白いのですが何よりも惹かれるのはその登場人物と時代背景を再現したお城や車、汽車などです。少し貴族趣味的な所はありますがミス・マープルやポアロの人間性がドラマの魅力を倍増しています。さらには日本語吹き替えの声優さんたちの個性も見事なものです。私の夫もこのブログではペンネームとして使っているほどです、・・・ポアロ(夫)・・・。
 推理はいつも難解で、いかにも犯人と思われる人は犯人ではなく、そうではないような人が犯人という定石はわかっていても騙されます。
 今回、ポアロ(夫)が図書館で「アガサ・クリスティーと14の毒薬」という本を見つけてきました。現在再放送されている「名探偵ポアロ」においても毒薬による殺人がよく仕組まれています。ポアロ(ドラマの)は薬瓶を見るといつも毒薬を疑い、匂いをかいだり少し舌にのせたりします。毒薬を推理小説に持ち込むのはアガサが過去に薬局の手伝いをしていたからだそうです。



 この本はアガサの作品とそれに使われた毒薬を解説しています。観たことのあるドラマが多数なので面白いのですが著者であるキャサリン・ハーカップさんは科学者なので結構難しい内容となっています。毒薬としては最近日本でも実際に犯罪に使われたタリウムやトリカブトヒ素、シアンなど怖い名前が出てきます。先日テレビで見た名探偵ポアロの「もの言えぬ証人」ではリンを飲まされた被害者が体から青白い光を発して死に至りました。これについても詳しい説明が書かれています。アガサファンには興味ある本だと思います。

 なお、Poirotはベルギー人でこの本では「ポアロ」、テレビでは「ポワロ」とされています。また下のポートレートでは「ポアロ」、と混在しています。


2016年11月15日火曜日

京都紅葉情報3

  この10年ほど京都の紅葉の人気No.1は東福寺ではないでしょうか、JRの宣伝などで「東福寺には桜の木はありません!すべて紅葉(モミジ)のために!」というキャッチで人気が出ました。このブログでも過去に何度か報告しましたが人気あるがゆえに人がいっぱいで風雅な気分はそがれます。そして人気No.2は永観堂ではないかと思います。
 13日の日曜日にポアロ(夫)が友人を案内したのは南禅寺です。ここは境内も広く三門や法堂周辺も自由に歩けます。さらに水路閣があり明治の息吹も感じられるところです。その疎水を利用し、明治期に造営された発電所や別荘群でも有名です。そのルートを取ると京都らしい趣のある散策となります。紅葉率は90%というポアロ(夫)の報告とともに写真を見てください。友人の方も京都の紅葉を堪能されたと聞いています。

三門から法堂への道
青紅葉、橙色、紅と「錦織りなす」とはこのことでしょうか!

やわらかい色も素敵です

萌え上がる寸前

法堂から水路閣方向

塔頭の天授庵の紅葉はまさに萌えあがっています














2016年11月14日月曜日

京都紅葉情報2

 113日に紅葉情報1で報告しましたがその後さらに秋が深まり朝夕は暖房がほしいくらいに冷え込んできました。12日は小春日和という予報があったので自転車で修学院方面に出かけました。鴨川を北上し、高野川沿いに分かれてさらに北へ。春には素晴らしい桜並木だった川堤は紅葉率100%です。


高野団地のプラタナスの黄葉

高野団地の集会所前(鐘紡の工場跡)

北大路を東へ曲がり、ぶつかるまで行くと一乗寺という地区です。ここからは比叡山の麓となり修学院離宮、曼殊院、詩仙堂などこの時期は紅葉で有名な観光地となっています。その近くでまだ訪問していない金福寺を目指しました。曼殊院道の途中を山側に少し上がると案内板がありました。



庭へのくぐり門

本堂前の庭
 紅葉の隠れ名所ということで訪問したのですが、与謝蕪村の墓所があり蕪村が生前に句会を開いた場所とあります。さらに芭蕉が元禄時代に当寺の鉄舟和尚をたびたび訪れたという庵を「芭蕉庵」と名付けており、のちに蕪村が再興したものが現存しています。

本堂の一段上に芭蕉庵

草庵という感じの詫びた庵です

与謝蕪村の墓、他にも俳句関係の方々の墓がたくさんありました

 さらには大河ドラマ「花の生涯」で知られる幕末の隠密とされている 村山たかが晩年暮らした寺ということでいろんな資料が展示されている。

村山たかのお位牌

 京都の紅葉はこの一週間が盛りになると思います。



2016年11月13日日曜日

テレビで富士山

 先日富士山を一周した時に、御殿場のゴルフクラブで行われるゴルフ大会「太平洋マスターズ」の案内を見ました。国道の両側にはそれを知らせる旗がたくさん掲げられていました。試合は11月10、11、12、13の四日間おこなわれ、今日が最終日でした。松山英樹選手が大会初の素晴らしい成績で優勝しました。テレビ中継を見ていて、彼の素晴らしい技に感動しました。世界ランキング7位とのことです。富士山がテレビに映るかと期待していたところ、何度も素晴らしい富士山を見せてくれました。









私達が富士山から帰った後、寒波襲来であちこちで雪が降りました。今日テレビで観た富士山は、雪をかぶりちょうど宝永噴火の跡のところまで雪化粧でした。これから冬の富士山に突入です。ポアロ(夫)は、「雪の富士山を見たいからぜひまた行こう!」と意欲満々です。


2016年11月12日土曜日

お出かけ(富士山へ―4)

 今回の旅の最後は、北口本宮富士浅間神社です。山梨県富士吉田市にあります。参道の両側には杉の大木が並び、古い歴史を感じさせます。


深い森の中にいくつもの社殿が建っています。大鳥居は日本最大木造鳥居とのことです。拝殿の前には、県指定天然記念物になっている太郎杉と、市指定天然記念物になっている夫婦桧がそびえるように立っています。うっそうとした森は、何か特別の地であることを感じさせます。







拝殿、本殿を通り抜けた一番奥のところに、富士登山道吉田口があり、昔江戸時代頃には東京方面からの登山客で賑わったそうです。私達は参拝し、御朱印をもらい、三時過ぎに浅間神社を後にしました。国道を走り、富士急の富士山駅へ寄り、特産の土産物を見てから、駅ビルの屋上へ上がりました。美しい富士山がよく見えます。ここでも写真をたくさん撮りました。2011年7月に富士吉田駅が富士山駅に改称されたそうです。駅の入口には大きな鳥居があり、人々を迎えています。



富士山駅屋上からの富士山

西側には富士急ハイランドの絶叫マシンが見えます

 富士山は、2013年6月に世界文化遺産に登録されています。世界中の人にとって、日本一の山「富士山」は一度は見たい日本の山となっています。富士山を満喫して、四時半頃に一宮御坂から中央道へ入りました。特徴ある山容の八ヶ岳や諏訪湖を見ながら八ヶ岳、諏訪、駒ケ岳、恵那などの、大きなS・AやP・Aへ寄りました。それぞれで旅の思い出にスタンプを押しました。京都へは十時半頃到着しました。一日かけて富士山を各所から眺め、興奮冷めやらず旅を終えました。


 子供の頃からよく歌った唱歌「富士山」の歌詞が浮かびます。私のふるさと三重からも富士山が見える場所がいくつかあります。京都からも富士山が見える山があると聞きました。日本一の山「富士山」あこがれる「富士山」は、山というだけではありません。日本人にとっての信仰の「富士山」だと思います。