2015年11月27日金曜日

 奈良へ再び(1)平城宮跡―1

 娘が企画運営しているObin旅行社の招待を受けて、再び奈良へ出かけました。前回はシルバーウィークに国立博物館、奈良町、元興寺を訪れましたが、今回は平城宮跡にしぼりました。私は夏にも平城宮跡へ来ているのですが、その時は何も見学しなかったので、ゆっくり時間をかけて見たいと思っていたのです。秋も深まる三連休の中日に出かけたのですが、駐車場はガラガラで見学する人も少なく、意外に思いました。多くの人は、紅葉狩りに出かけているのかもしれません。


  始めに平城京歴史館へ入りました。入口に大きな遣唐使船が復元されています。全長30m、全幅9.6mもあります。遣唐使は、大使・副使のほかに、留学生・留学僧、通訳・医師・技術者・船員などで構成され、当時世界で最も進んでいた唐の政治制度や仏教、技術、学問を学ぶため海を渡りました。帰国した遣唐使たちは、その知識を政治や文化に役立てて、平城京の国づくりに大きな影響を与えたのです。






 遣唐使が結んだ東アジア交流の歴史を映像で観ます。古代から平城京遷都に至る時代絵巻を、司馬達等・粟田真人がわかりやすく紹介してくれます。
 国内外との交流で賑わう平城京の暮らしと文化を、太安万侶、山上憶良、行基の三人が、それぞれの立場から伝えてくれます。
 遣唐使として大きな偉業を成し遂げた吉備真備や阿倍仲麻呂も登場します。吉備真備は、現在の岡山県倉敷市の出身で、私達は以前その地を訪れています。彼は遣唐使として二度も唐へ行っています。そして親友である阿倍仲麻呂は、20歳で遣唐使として唐へ渡り、73歳で亡くなるまで唐で過ごしました。吉備真備が、阿倍仲麻呂を何としてでも日本へ連れて帰りたいと思い、その日が実現したものの、嵐にあい阿倍仲麻呂は流され今のベトナムに漂着しました。そしてそのあと日本へ帰ることなく生涯を唐で過ごしたのです。彼の日本を想う歌が百人一首にあります。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」

 歴史の授業で勉強した人々の名前ですが、名前は覚えていても詳しいことはぼやけている私です。映像を観ていると、遠い時代に活躍した人々の苦労や努力が伝わってきて、偉人達が身近に思えます。
 聖武天皇と光明皇后の皇女として生まれ、初めての女性皇太子である阿倍内親王は、やがて女帝(孝謙天皇・称徳天皇)となります。混乱と混迷の中から大仏造立を通して、安寧で平和な都を築いていくストーリーの映像は、観ていて心を打つものがあります。
 平城宮跡の広大な広さに圧倒されます。和銅3年(710)、飛鳥に近い藤原京(奈良県橿原市)から奈良盆地の北端に新しくつくられた平城京に都が移されました。唐の長安をモデルにして設計され、南北約5km、東西約6km、都の中央北端には政治の中心となる平城宮が造られました。平城宮は約1km四方の広さで、大極殿や朝堂院などの宮殿のほか、天皇の住まいである内裏があり、周囲には国の役所が立ち並んでいました。平城京に都が移された710年から長岡京(京都府)に都が移る784年までの75年間が奈良時代です。聖武天皇が740年から745年まで恭仁京や紫香楽京、難波京などに都を移しますが、その前後で平城宮の宮殿や役所は大きく造りかえられました。

 平城京歴史館で映像による勉強をして、次に朱雀門へと向かいました。





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