2015年11月30日月曜日

奈良へ再び(3)平城宮跡―3

 朱雀門から大極殿へと歩く途中は、広大な中央区朝堂院があったところです。ここでは儀式や宴会が行われました。朱雀門から見えていた大極殿が近づくにつれ、その姿があまりにも立派で気も引き締まります。いよいよ大極殿の中へ入ります。

後ろには東大寺と若草山が見えています

復原された大極殿

 中央には天皇の玉座である高御座(たかみくら)があります。実物大に復原されています。大極殿は宮殿の中で最も重要な建物で、元日の朝賀や天皇の即位など、国家儀式の際に天皇がお出ましになる建物です。


内壁には四神・十二支の絵が描かれています


高御座


 平城宮には、造営当初から恭仁京へ遷都するまでの大極殿(第一次大極殿)と、平城京に遷都してから長岡京に遷都するまでの大極殿(第二次大極殿)の二つの大極殿が確認されています。間口44m、奥行20m、屋根の高さ27mで平城宮の中でも最大の建物で、復原されているのは第一次大極殿です。9年の歳月をかけて平城遷都1300年の平成22年(2010)に完成しました。スケールの大きい壮大な眺めは、映画「ラストエンペラー」で観たシーンを思い出します。

朱雀門が遠くに見えます


 大極殿をあとにし次に遺構展示館へ寄りました。ここでは発掘調査によって見つかった奈良時代の建物跡である遺構を発見当時の状態で保存・展示されています。建物の柱跡は面白いものでした。天皇の住まいである内裏からは、井戸として使われた直径1.7mもの杉の木をくりぬいたものが発掘され、展示されていました。

内裏内の井戸があった場所


 平城宮には約7000人もの役人達が働き、中央集権の社会を支えていました。役所の建物跡からは、書類として使われた木簡や硯、土器などいろんな物が出土しています。1,300年の時を経て、私達にその姿を見せてくれています。本当に大感激です。

2015年11月28日土曜日

奈良へ再び(2)平城宮跡―2

 平城京歴史館を観て、少し興奮気味の私達は、歴史館の東にある朱雀門へ行きました。


芝生の部分が中国大陸で「せんとくん」の立っているところが日本列島です




 平城京の入り口からは、75m幅のメインストリートの朱雀大路が広がります。その朱雀大路を北へ3.7km歩くと、突き当りが平城宮の正門である朱雀門です。間口25m、奥行き10m、高さ22m、二重の屋根で、他の門より特に立派に造られているとのことです。かつて平城宮の周囲は大きな築地塀で囲まれ、合計12の門があり、朱雀門は平成10年(1998)に復原されました。門の南にある広場は朱雀大路の一部を復原したもので、門のすぐ前を幅37mの二条大路が東西に横切っています。朱雀大路の広いこと広いこと。見上げる立派な大きな美しい朱雀門に圧倒されます。うっとりしてしまいます。つくづく昔の人は偉かったと思います。

朱雀門の向こうに大極殿の屋根が見えています

朱雀門の南に広がるのが朱雀大路です
 朱雀門の前に銅像が立っていたので近づいてみました。棚田嘉十郎像でした。その人が何をした人なのか、私は知りませんでした。説明によると棚田嘉十郎は明治時代から大正時代にかけて、平城宮の保存活動を先頭に立って行いました。江戸時代に調査が始まり、明治30年(1897)に平城宮は発見されました。しかし放牧地となり堆肥が山積みになっている状況を嘆き、明治39年(1906)に平城宮跡保存会を作り発起人となり、私財を投じて平城宮跡の保存と顕彰に一生を捧げたとのことです。立派な人がいたことを知り感動しました。そういう人がいて今につながっています。
 朱雀門から北にまっすぐ伸びる視界の先に、またまた立派な大極殿が見えています。広大な平城宮跡の中を、ススキの群生を見ながら大極殿へと向かいました。

朱雀門から大極殿を望む

ススキの群生が広がっています




2015年11月27日金曜日

 奈良へ再び(1)平城宮跡―1

 娘が企画運営しているObin旅行社の招待を受けて、再び奈良へ出かけました。前回はシルバーウィークに国立博物館、奈良町、元興寺を訪れましたが、今回は平城宮跡にしぼりました。私は夏にも平城宮跡へ来ているのですが、その時は何も見学しなかったので、ゆっくり時間をかけて見たいと思っていたのです。秋も深まる三連休の中日に出かけたのですが、駐車場はガラガラで見学する人も少なく、意外に思いました。多くの人は、紅葉狩りに出かけているのかもしれません。


  始めに平城京歴史館へ入りました。入口に大きな遣唐使船が復元されています。全長30m、全幅9.6mもあります。遣唐使は、大使・副使のほかに、留学生・留学僧、通訳・医師・技術者・船員などで構成され、当時世界で最も進んでいた唐の政治制度や仏教、技術、学問を学ぶため海を渡りました。帰国した遣唐使たちは、その知識を政治や文化に役立てて、平城京の国づくりに大きな影響を与えたのです。






 遣唐使が結んだ東アジア交流の歴史を映像で観ます。古代から平城京遷都に至る時代絵巻を、司馬達等・粟田真人がわかりやすく紹介してくれます。
 国内外との交流で賑わう平城京の暮らしと文化を、太安万侶、山上憶良、行基の三人が、それぞれの立場から伝えてくれます。
 遣唐使として大きな偉業を成し遂げた吉備真備や阿倍仲麻呂も登場します。吉備真備は、現在の岡山県倉敷市の出身で、私達は以前その地を訪れています。彼は遣唐使として二度も唐へ行っています。そして親友である阿倍仲麻呂は、20歳で遣唐使として唐へ渡り、73歳で亡くなるまで唐で過ごしました。吉備真備が、阿倍仲麻呂を何としてでも日本へ連れて帰りたいと思い、その日が実現したものの、嵐にあい阿倍仲麻呂は流され今のベトナムに漂着しました。そしてそのあと日本へ帰ることなく生涯を唐で過ごしたのです。彼の日本を想う歌が百人一首にあります。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」

 歴史の授業で勉強した人々の名前ですが、名前は覚えていても詳しいことはぼやけている私です。映像を観ていると、遠い時代に活躍した人々の苦労や努力が伝わってきて、偉人達が身近に思えます。
 聖武天皇と光明皇后の皇女として生まれ、初めての女性皇太子である阿倍内親王は、やがて女帝(孝謙天皇・称徳天皇)となります。混乱と混迷の中から大仏造立を通して、安寧で平和な都を築いていくストーリーの映像は、観ていて心を打つものがあります。
 平城宮跡の広大な広さに圧倒されます。和銅3年(710)、飛鳥に近い藤原京(奈良県橿原市)から奈良盆地の北端に新しくつくられた平城京に都が移されました。唐の長安をモデルにして設計され、南北約5km、東西約6km、都の中央北端には政治の中心となる平城宮が造られました。平城宮は約1km四方の広さで、大極殿や朝堂院などの宮殿のほか、天皇の住まいである内裏があり、周囲には国の役所が立ち並んでいました。平城京に都が移された710年から長岡京(京都府)に都が移る784年までの75年間が奈良時代です。聖武天皇が740年から745年まで恭仁京や紫香楽京、難波京などに都を移しますが、その前後で平城宮の宮殿や役所は大きく造りかえられました。

 平城京歴史館で映像による勉強をして、次に朱雀門へと向かいました。





2015年11月26日木曜日

「歌を忘れたカナリア」


いつの頃からか
私は歌を忘れたカナリアになった
あんなに歌が大好きで
大好きで

何をしている時でも
鼻歌を歌っていた私なのに

お料理する時も
掃除する時も
子育てする時も

たくさんの愛唱歌
童謡
子守歌
唱歌
フォークソング
ニューミュージック
流行歌の数々

あの天真爛漫の私はどこへ
無邪気な私はどこへ

大好きだった母との別れ
突然の別れ

あの日から
ずっとずっと

私は歌を忘れたカナリアになった
あんなに歌が大好きで
大好きで
歌のおばさんと
呼ばれた私なのに

あれから
二十年も経つというのに

戻っておいで
帰っておいで

歌を忘れたカナリアは
この大空へ放ちましょう

この大空へ
高く高く

空の彼方へ




2015年11月25日水曜日

心に残る人

 今から三十年も前のことです。私は思いがけない人に出会いました。子供の同級生のお母さんです。私は何も知らず、お会いすれば気さくに気軽におしゃべりをしていました。
子供が小学校5年生と6年生の二年間だけ同じクラスになり、授業参観の日は、いつもお会いしていました。家も近くだったので、学校外でもお会いすることがありました。その方の穏やかな表情と爽やかな笑顔が、忘れられません。あとになって知ったのですが、その方は童話作家だったのです。児童文学の世界では有名な方で、賞もたくさんとられています。作品は、小学校の国語の教科書にも載っています。ペンネームは、安房直子さんです。夫の転勤で東京を離れた私は、そのすぐあとに彼女の訃報を知りました。五十歳でした。私より五歳年上の彼女は、御両親と夫と一人息子さんを遺して旅立たれたのです。数多くの作品を書かれましたが、どの作品にも優しさと愛情が滲み出ています。彼女が遠い存在になってから、私は彼女の作品を読むことになりました。


童話といえば子供のために書かれたお話と思ってしまいますが、安房直子さんの作品には、大人でも心に感じ入るものがあります。彼女とのおつきあいは本当に短いものでしたが、純粋な心の持ち主という、奥深い人間性が漂っていました。「心の機を織り続ける人」と評されています。もっともっとたくさんの作品を、後世の子供達に遺して頂きたかったと残念に思われて仕方ありません。




2015年11月24日火曜日

「命」


誰の命も世界に一つのもの
あなたの命も私の命も

誰にも命を奪う権利はない
人の命も自分の命も

命の誕生は神秘的
それは偶然?
それは必然?

命の奥には
父の愛がある
母の愛がある

あなたは一人ではない
あなたが誕生するまでに
どれほどの命のリレーがあるのでしょう

命を大切に想ってほしい
人の命も自分の命も

神も仏も決して望んでいない
誰かの命を捧げてほしいとは

命を慈しんでほしい
人の命も自分の命も

命には終りがある
必ず終りがある

焦ることはない
あなたの歩幅で歩んでほしい

誰の命も世界に一つのもの
あなたの命も私の命も

誰にも命を奪う権利はない

人の命も自分の命も

2015年11月20日金曜日

懐かしい思い出(洋裁学校)

 新聞で戦後七十年の特集が続いています。先日は「装いの情景」と題して、洋裁に関する記事でした。
 戦後、女性達はこぞって洋裁学校へ通いました。1947年に全国で400校、生徒は45000人、1955年には全国で2700校、生徒は50万人になり洋裁ブームが到来しました。1970~1980年代には、洋裁学校で服作りを学んだ日本人デザイナーが、本場パリで活躍します。そのあと既製服の時代になり、自分で作るより買った方が安い大量生産の服が増え、家庭での洋裁は衰退しました。ところが2008年のリーマン・ショックで消費を見直す動きが広がり、2011年の東日本大震災を経て、手作りへの関心が高まっているとのことです。
 私が子供の頃、母は子供達の服すべてを手作りしていました。それが当たり前のようになっていました。私が十代になると洋装店で仕立てをしてもらいました。今考えるととてもぜいたくに思いますが、まだ既製服が普及していなかったのだと思います。新婚旅行に着るスーツも、おそろいで仕立ててもらいました。結婚してからは、自分の好みに合う既製服が求めやすくなり、価格も手頃なものとなり仕立てを注文することもなくなりました。
 花嫁修業という言葉が受け入れられていた時代には、年頃の女性達は洋裁はもちろんのこと、編み物や茶道・華道まで、どこの教室も大盛況でした。私もすべて習いました。私が通った洋裁学校は、地元で一番の学校でしたが、時代のピークも過ぎ、先生が体を壊されたこともあり、学校は閉じられていました。個人的なお願いをして、個人授業をして頂きました。ホールのような広い教室はダンススタジオほどもあり、たくさんのミシンが並んでいました。私が通ったのは短い期間でしたが、結婚によりふるさとを離れたので、その時点で終了となりました。そのあと先生はお亡くなりになり、御子息も遠く離れた所で医者になられて、大きな学校は無人状態が続いています。しかしその大きな古い建物は、今も壊されずに姿をとどめています。ふるさとの洋裁学校の前を通るたびに、過ぎ去った時代を懐かしく思い出します。

 洋裁学校からスタートし、その後専門学校になり、短大になり、大学へと進化したものもたくさんあります。新聞を読み、洋裁学校についていろいろ考えてしまいました。

2015年11月19日木曜日

「夢の世界」


誰もが毎日夢を見る
夢の世界で泣く
笑う
怒る

夢の世界は不思議
誰もが天才的な作家になる
天才的な作曲家になる
映画監督になる
指揮者になる

夢の世界に広がる
ラブストリー
サクセスストーリー
悲恋物語

夢の世界で
誰もが英雄になる
ヒロインになる
王様になる
大統領になる

夢の世界で
人は皆
永遠の命
不滅の命

夢の世界は不思議
誰にでも会える
あの人 この人
たくさんの人、人、人

夢の世界で
人は皆
賢者になる
指導者になる
教祖になる

夢の世界は不思議
目覚めれば皆ただの人
路傍の石
いいえ
キラキラ光るダイヤモンド

キラキラ輝くダイヤモンド

2015年11月18日水曜日

京都紅葉だより2015(2)街路樹2

 前回、街路樹の紅葉だよりを報告してから10日以上経過しました。桜、ケヤキ、プラタナスから紅葉が始まり今週はそれらの木は落下盛んとなってきました。少し風が吹くと御池通りのケヤキから落ち葉がサラサラと舞い落ちてきて親子連れは大喜びをしている光景が見られます。 

御池通のパノラマ写真

御池通は落葉盛ん

二条通りの鴨川から東、岡崎の疎水までの通りは一昨年歩道の改修工事があり、並木がハナミズキとなりました。まだ小さな木ですが春には白、ピンク、赤の花をつけてくれました。紅葉時にも花の色に応じて赤い花の葉っぱはより赤くなっているようです。早く葉を落とした木にはかわいい真っ赤な実がたくさんついています。 
 
二条通り2年目のハナミズキ

かわいい赤い実がいっぱい

鴨川土手の雑木ですが黄葉がアート!


二条の鴨川から西側の寺町まで、寺町通りの二条から北、そして河原町通は銀杏並木です。早く黄葉しているもの、半分黄葉しているもの、まだ緑の葉のもの日当たりの加減でしょうか、場所によって色々あります。イチョウは中国原産でその語源は葉の形がアヒルの足に似ているので鴨脚(イアチャオ)だというのを最近知りました。たしかにアヒルの足型そっくりです。

二条通りの銀杏は大きくなって電線と絡み合いそうです

寺町通の銀杏並木、夏は涼しい木陰をつくってくれましたが
今となっては茂りすぎか!

部分的に黄葉してきました

アヒルの足跡のように並べてみました


銀杏は全く当て字のようです。ぎんなんはその匂いや道路が汚れるので嫌がられるので実ができない雄花が植えられているようです。イチョウは強く大きく育つので東大、阪大など大学の校章にもなっています。またイチョウは長寿で縁起がいいので多くのお寺の境内に植えられ巨木となっていることが多いようです。

2015年11月17日火曜日

生前葬

 つい先日ポアロ(夫)の知り合いの方が生前葬をされました。八十歳をこえられた男性と女性のお二人です。ずいぶん前のことですが芸能界の大物女優が、生前葬をされた時にトップニュースとなり話題に上がりました。最近では大物シンガーソングライターの男性が、昨年生前葬コンサートをされました。「古希(七十歳)という節目を前にアーティスト活動にけりをつける」として行われる生前葬コンサートです。「音楽活動は定年制がない。肉体的にも精神的にも老いた。そのけりをどこでつけるか迷っていたけど、古希を迎えてやろうと思った」と話されていました。そして一年が過ぎ、先日テレビに出演されていた彼は「一周忌コンサートをするつもりです」と言っていました。彼の作った曲が世に出た時からずっとファンである私は、陰ながら応援しています。いつまでも音楽活動を続けてほしいと願っています。
 生前葬とは、存命している人物が自分自身の葬儀を行うことですが、いつのころからか一般人の中にもされる方が増えてきました。前述の八十歳をこえられた男性は「お世話になった人を招いてお別れとお礼を言いたいので生前葬をした」と言われていたそうです。その彼は戒名も自分でつけられていました。しかし参列した誰かが僧侶をつれてきたので、自分でつけた戒名に対してえらく怒られ、その戒名はどうなったのかは定かではありません。自分の葬儀に喪主として参加し、自分の思い通りのやり方でするということは、本人にとっては最高だと思います。パーティー形式が多いようです。
 前述の八十歳をこえられた女性は、独身だったので職場の後輩達が(すべて男性)「女性の寿命は長いから貴女の葬儀に僕達は出席できない。僕達が元気なうちにお世話になった貴女にお礼とお別れを言いたいから、ぜひ生前葬をして下さい。僕達がします」ということで実現したとのことです。

 葬儀社は、本来の葬儀に加え生前葬のニーズも増えていくと、未来図を描いているようです。私は生前葬は考えていません。私個人の考えは、葬儀も戒名もなしで、家族に見守られて静かに旅立ちたいと思っていますが、檀家である以上それは無理かもしれません。お世話になった人達へは、私自身の言葉で私の気持ちを伝えようと考えています。

2015年11月16日月曜日

大江能楽堂(能鑑賞)

 先日買い物に出かけた帰り道、押小路通りの大江能楽堂の前を通りました。以前ブログで紹介しましたが、機会があればぜひ一度能の鑑賞をしたいと思っていた私達に、偶然そのチャンスが訪れました。大学の能研究会の発表会です。「ご自由にお入り下さい。入場無料」と書かれたポスターが貼られています。プログラムを見ると13:00~18:00まであり、いくつかの大学の能楽研究会の「仕舞」がいくつかあり最後にプロが主体の「能 胡蝶」とあったので、夕方にかけて観に行きました。能の一つ前には、当主である七世大江又三郎氏の番外仕舞があり、プロ中のプロの舞を観ることができました。



 大江能楽堂の前はいつも通っている私ですが、中へ入るのは初めてです。通りからは想像できない立派なものです。履物を脱いで上がり、長い廊下を進みます。大江能楽堂は、明治41年に建てられたもので、創建100余年です。個人所有の能楽堂では、京都で一番古いものだそうです。幾度かの改修をされていますが、同じ場所で創建当時の趣ある風情を伝えています。大江能楽堂では、年四回大江定期能が行われています。一階二階の桟敷席は、一部椅子席含み400席あります。舞台正面に老松が描かれており、円山応挙の六代目の子孫の手によるものだそうです。舞台の四隅に大きな柱があります。能面をつけると視野が極端に狭くなり危ないので、柱で自分の位置を確認するそうです。能舞台に緞帳はありません。能は舞台と客席が同じ空間にあります。
  


 能は室町時代に将軍足利義満の庇護のもとで、観阿弥、世阿弥親子が完成させました。600年以上も途絶えることなく伝えられており、2001年ユネスコの世界無形文化遺産となっています。江戸時代には幕府の公式行事などで演じられる芸能となり、観世・金春・宝生・金剛・喜多の五流が定められました。大江家は観世宗家の流れをくんでいます。能は面(おもて)をつけて演じられます。能の物語は約200話あり、大きく五つのジャンルに分かれます。
  神さまを主人公とした「神」
  おもに源氏や平家の武将の亡霊を主人公とする「男」
  古典物語のヒロインや草木の精霊など美しい女性が登場する「女」
  狂乱状態にある女性が主人公だったり、敵討ちなどドラマチックなテーマのものを「狂」
  鬼・天狗・妖怪など人間以外を主人公としたものを「鬼」と呼びます。
私達が観たのは「胡蝶」でした。シテ(主人公)は蝶の精霊です。ワキ(相手役)は旅僧でした。間(説明役)は侍でした。八人の地謡と四つの楽器(笛・小鼓・大鼓・太鼓)と三人の登場人物とで、一つの舞台を作り上げる素晴らしさを観せてもらいました。中でも朗々とした声量のセリフ、囃子方のテンポよさと気合が観ている私達を舞台へ引き込む素晴らしいものでした。まさに幽玄の世界の境地でした。演技中は撮影禁止なので退場の場面を少し撮らせていただきました。

蝶の精霊が退場する場面、2階席も映っています

旅僧が退場、中央にあるのが梅の花

小さなくぐり戸から、地謡の退場、1時間の正座は辛そうです


父が能面作りに夢中になっていた頃、いくつもの能面を完成させ、氏神様へ奉納し、子供達にも届けてくれました。私の手元には小面と翁があります。私は子供の頃に、何度か父のお伴で能を観に行きましたが、わけもわからず観ていた能が、味わい深い奥深いものだということを今頃になって知りました。

2015年11月14日土曜日

京都市役所前広場のイベント

 京都の市役所前広場ではいろんなイベントが開かれます。月1度くらい開催されるのがフリーマーケットです。その他各種パレードの出発式、京都マラソンの中継地、京都の産物の即売会などです。昨日、京都市役所の前を通りかかったら、何やらテントを張ってイベントの準備の気配がありました。今日午前中に様子を見に行きました。市役所の横まで行くと何やらいい匂いが漂ってきました。炭火のバーベキューの匂いです。昨年も11月にはこのブログで報告しました「京都でフィレンチェ」というイタリア料理の催しがありました。その2回目ではないかと広場に入っていきました。





 そのイベントは「第1回京都肉フェスティバル」という催しでした。10時半ということでまだ人出は少ないですが、ステーキ売り場ではすでに行列ができており限定50食とありましたので売り切れてしまいそうです。私たちは朝からステーキとワインとはいかないので今回はパスしました。





 今日は雨上がりの曇り空で、秋が深まり御池通りのケヤキ並木の紅葉も散り初めとなってきました。落ち葉掃除が大変そうです。