2012年7月31日火曜日

旅の記録 山陰(1)


 今回の旅は、二泊三日で山陰地方を回るというものでした。大山を眺めながら米子を通り過ぎ、昼食は、漫画家水木しげる氏の故郷であり、ゲゲゲの鬼太郎で有名になった境港でという計画です。過酷な暑さの中、水木しげるロードを歩きました。夏休みなので、子供連れの人達がたくさん来ており、にぎわっていました。漫画を読んだことはありませんが、2年前のNHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」を、見ていたので、水木しげる氏や女房、境港に親近感を覚えます。「なまけ者になりなさい」水木しげる。の碑がありました。水木しげる氏らしいユーモアが、伝わってきます。水木しげる記念館へも入りました。水木しげる氏の誕生から現在までの人生の歩みを知り、時代背景とともに90年の人生に頭が下がりました。



 そのあと、中海を一周し、安来市にある足立美術館へ回りました。地元出身の実業家が、1970年に開館したとのことです。生の額絵と呼ばれる庭園の鑑賞の手法は、面白いものでした。横山大観の作品は、総数130点もあり、日本一のコレクションです。そして面積5万坪の広大な日本庭園があります。裸一貫から事業を起こし、一代でコレクションをつくりあげた主の、スケールの大きさ、壮大な夢の実現に感動しました。



1日目は、これで観光は終わりとし、皆生温泉へ一路走りました。

 明日からまたしばらく留守をしますので、続きは後日ブログで紹介します。

2012年7月27日金曜日

四年ごとの行事


 いよいよロンドンオリンピックが、始まります。明日は、開会式です。ロンドンに住んでいる知人女性(日本人)から、近況レポートが届きました。ロンドンは、オリンピックで熱く熱く盛り上がっています。彼女は、英語・フランス語・日本語ができるので、市民ボランティアとして、登録したそうです。大いに活躍してくれることでしょう。

 意図的ではありませんが、我が家の夏の旅行は、オリンピックの開会式と重なっています。4年前の北京オリンピックの開会式は、熊本県南部の通潤橋で見ました。1984年のロサンゼルスオリンピックの時は、東京で見ました。そして明日のロンドンオリンピックの開会式は、山陰地方の旅先で見ます。

 ということで、ブログを3日間お休みします。帰ってきたら旅の報告をする予定です。

オリンピックでの日本選手の健闘を祈ります。

2012年7月26日木曜日

私の出会った海 瀬戸内海


 本州、四国、九州に挟まれた内海、瀬戸内海に出会ったのは、今から40年前のことです。高校からの仲良し三人組で、淡路島へ1泊2日の旅行をしました。神戸三宮からフェリーで、淡路島へ渡りました。生まれて初めて見る瀬戸の海、穏やかな優しい波に揺られ、短い船旅を楽しみました。慣れ親しんでいる太平洋とは、大きく違う瀬戸の海です。出会った時から大好きな海になりました。

 瀬戸内海には、大小あわせて3000もの島があり、無人島や周囲数メートルしかない島も存在するとのことです。小豆島へ行った時は、壺井栄作「二十四の瞳」の映画ロケ地となった小学校も訪ねました。私が音楽教室の講師をしていた時、私が乗って帰るバスや船を、教え子たちが追いかけて、見えなくなるまで手を振ってくれた光景は、「二十四の瞳」の大石先生になった気がしたものです。

本州と四国を結ぶ、本四架橋全てが完成したのは、1999年です。
瀬戸大橋(岡山県倉敷市児島と香川県坂出市を結ぶ)が1988年、

明石海峡大橋の夜景
明石海峡大橋(兵庫県神戸市垂水区舞子と淡路市岩屋を結ぶ)が、1998年、
しまなみ海道(広島県尾道市と愛媛県今治市を10本の橋で結ぶ)が、1999年です。

しまなみ海道の来島海峡大橋

  
本州と四国が橋で直結されるという、四国の人々の夢が実現されたのです。1988年に瀬戸大橋が開通した時には、愛犬二匹をつれて、家族四人で渡りました。そのあとも数回通っています。四国一周の旅をした時には、尾道からしまなみ海道を走りました。フェリーで、瀬戸の海を渡ったことも、数回あります。1998年に明石海峡大橋が開通し、その夏には、淡路島を通りぬけ、徳島まで阿波踊りを見に行きました。

淡路島からの瀬戸の夕焼け

中国地方から、瀬戸の海を眺めたことは、岡山県、広島県、山口県、それぞれの地から何回もあります。どこから見ても、瀬戸の海は、穏やかで静かな流れです。瀬戸内海を行き交うたくさんの船を眺め、ロマンに浸り、未来に夢を広げてしまいました。

2012年7月25日水曜日

やさしさについて(2)


 母には、異母兄が二人、妹が二人、そして弟がいました。実母は、弟を産み、そのお産が原因で亡くなり、その時、母は、十歳でした。異母兄二人は、家を出て働いており、生まれたばかりの弟は、親戚に預けられ、母は、長女として父を助けて生きますが、その実父も、六年後には病死します。若くして母を、父を、亡くし、それでも悲しみを乗り越え、妹達の世話をしながら女学校へ進みます。異母兄二人は、すでに所帯を持っていて子供のある身です。母は妹達の親代わりとなって頑張ります。頑張り屋の母は、女学校を卒業する時、卒業生代表として答辞を読むほどのものでした。それから数年間銀行へ勤め、二十二歳で結婚します。幸せと思える結婚も戦争まっただ中のものです。二人目と四人目の子供を病気で亡くし、そのあと、五人目、六人目を産み、戦中戦後の激動期を、四人の子供を育てながら生ききります。家業の農業も、乳牛や鶏を飼育し事業を拡大しますが、うまく行かず失敗、そして夫の政界に出て活躍したいという願いを叶えるため、大きな支援をしそれを実現させます。そんな生活の中でも、若い時からの華道の勉強は続け、末っ子の私が小学校へ入った頃から、自宅でも教室を開き、あちこちの教室へも教えに行っていました。支部長としても活躍し、多忙な日々を過ごしていました。四人の子供も成長し、次々と結婚し、孫が一人二人と生まれ、母の人生の最も平和な時期が続きますが、それもつかの間、三番目の娘がガンを発病し、それからは必死の看護が続きます。娘を救うことに命をかけますが、四年目に又も子供を失うことになります。そんな中でも母を救ったのは、華道でした。その悲しみも乗り越え頑張っていた母は、心筋梗塞で突然亡くなる迄、現役のいけ花の教授として生きました。

 四十五歳を過ぎた私は、母の怒った顔を見たことがありません。いたずら盛りの幼い日、母が、どんぐり目を丸くして、ギュッとにらみつけるだけで事は足りたものです。七十五年の母の人生を見て、本当のやさしさというものは、己に厳しい人にしか持てないのではないだろうかと思います。今の世の中、自分の事で頭がいっぱいで、人のことなど考えるゆとりがないのではないでしょうか。日常の些細なことの中にも、なんと身勝手な人間が多いのだろうかと驚かされます。自動車の中から、信号で止まっている間に、ゴミや空き缶を、窓から投げる人。公園へ、ネコや犬の赤ちゃんを捨てる人。犬の散歩で糞の始末をしない人。本当のやさしさを持つ人は、人への思いやりがいつもあるので、人に迷惑をかけることなどとても考えられません。もっと自分に厳しく生きてほしいと、声を大にして叫びたいと思います。

                           四十五歳の記

2012年7月24日火曜日

やさしさについて(1)


 やさしさについて述べる時、私は、母を思わずにはいられません。慈愛に満ちあふれた母は、まるでやさしさのかたまりのような人でした。子供の頃からずっと、母のこのやさしさは、どこからくるのだろうかと、不思議に思い、どうしたら母のようになれるのかと、考えさせられたものでした。母があまりにも突然、私達に別れを告げたその日から、早四ヶ月が過ぎ、いまだに母の仏さまのような人格を、分析できないままの私です。子供とか、夫という家族に対してだけでなく、母の周りの全ての人に対して、いつも慈愛を注いでいた母。人間に対してだけでなく、花も木も草も鳥も犬も、命ある全てのものにも、愛情を持っていた母。人間として、いろんな感情があるのは当然のことなのに、怒りや悲しみ、憎しみは、どういうふうに心の中で昇華していたのでしょう。母のやさしさの根源は、どんなものだったのでしょうか。子供から、大人に成長する私の目に焼きついている母の姿は、観音さまそのものでした。

 大百姓の一人息子のところへ嫁ぎ、朝早くから夜遅くまで働き、六人の子供を産み育て、いつ体を休めるのかと思うほど働き続け、親に仕え最後を看取り、近所に病気の人がいればその世話に走り、農村新婦人の会のリーダーとして、生活改善の為に活躍し、自分を頼ってくる人の為に、自分のことは後回しにしてその人の為に全力を注ぎ、本当にがむしゃらに人生を生き抜いた人です。スーパーウーマンの如く、母は、不可能ということばを、生涯持ちませんでした。母の口癖は「成せば成る」でした。女性であり、妻であり、母であり、嫁であり、いくつもの肩書きの中でも、半世紀もの間いけ花の教授として、華道の道を邁進し、その道においても大きな功績を残した偉大な人間です。「人は、悲しみが多いほど、人にはやさしくできるから」という歌がありますが、まさに母は、いくつもの悲しみを、乗り越えて生きてきたのです。

2012年7月23日月曜日

いのちの大切さを考える


 現役100歳の医師である、聖路加国際病院理事長日野原重明氏は、聴診器と心臓の模型を携え、「いのちの授業」を、4年ほど前から全国各地で行っておられます。書店には、たくさんの著書が並んでいます。「いのち」とは何か、「生きる」意味とは何か。「いのち」の重みを知り、「生きる」意味を知り、大切な「いのち」について「生きる」ということについて、考えるきっかけを提示されています。

 「いのちの授業」では、子供たちに自分の心臓の音を聴かせ、心臓はどういうふうに動いているのかなど、子供たちが、真剣に関心を持って「いのち」について考えています。

「人は一人では生きることはできない。心は人間の体のどこにあるのか。時間や空気など、目では見えなくても、とても大切なものがたくさんある」と、話されています。

戦後の日本が豊かな国へと発展成長し、国民はその恩恵を受けていますが、教育については、今一度考える時期が来ているように思います。日野原重明氏は、述べておられます。

「これまでの教育は、出来上がったデータを記憶させる教育であった。困難な問題にぶつかった時に、問題解決が出来るような能力を与えられていない。本当に学ぶべきなのは、問題とどう取り組むか、どういう戦略を立てるべきかということである。学校を出てからも、自分で出来るような頭の仕組みを作る、そして、その仕組みに従って生活をし、行動することが必要なのである」と。

 また「人間形成にとって、最も重要な基本は家庭である」とおっしゃっています。

「家庭は畑、学校は肥料。良い肥料をまいても畑の土が弱っていたら作物(子ども)も弱ってしまう」と。

 基本である家庭が子どもたちをしっかりと支え、地域全体で子どもたちの成長を見守る環境を整えていかねばなりません。もちろんそこには、学校も行政も国も入っています。

日野原重明氏のメッセージ「自分は愛されている存在である」「他人をゆるす勇気を持つことが大切である」「自尊心と他者への尊敬心を高めていくことの大切さ」「自分の命を大切に思うのと同じくらい周りの人の命も大切に思ってほしい」などがあります。

 自分の命が誕生するずっと前から、たくさんの命のリレーが続けられて、今、自分がここにいるということ。自分一人だけの命ではありません。自分の命も、人の命も、赤ちゃんも子どもも、少年少女も、若者も大人も、人生の先輩である人たちも、みんな共に、大切な命を紡いでいきましょう。

2012年7月22日日曜日

「子守歌」




あなたは いくつ歌えますか

子守歌を いくつ歌えますか

遠い記憶の中に ある歌を

思い出して下さい 一つでも



そして 大きな声で 歌いましょう

きっと 思い出します 母の背中を

2012年7月21日土曜日

徒然に想ううた 俳句三句




「月満ちて 産声あげし 我が宝」





「月光を 弾きしあの子は 幼稚園」





「月に立ち 旅行も間近 叡智なり」

2012年7月20日金曜日

夏休み到来


 梅雨が明け、夏本番となり全国各地で猛暑日が続いています。昨日は、家の近くの小学校も終業式で、子供たちの元気な弾んだ声が、いつもより早い下校時刻に、にぎやかに聞こえてきました。約40日間の長い夏休みです。子供たちが家にいる日が続く夏休みは、お母さんも大変です。昼食の世話も毎日となると大変です。

 私の場合は、ずいぶん前のことですが、子供たちが夏休みになるのが楽しみでした。自分も子供たちと一緒に遊べることが嬉しく、夏休み、冬休み、春休み、それぞれの休みが来るのを、カレンダーに記して待ちました。父親は仕事で忙しく、土日しかいません。平日に二人の子供をつれて、今日はどこどこへ、翌日もどこどこへと出かけました。もちろん買い物ツァーもあります。子供たちが小学生の時は、そんなふうに長い休みを楽しみましたが、中学へ高校へと進学すると、部活、勉強にと子供たちは忙しくなり、母親の相手をする時間もなくなり、淋しい思いをしたものです。

 夏休みは、何といっても少し長いお盆休みがあります。日本列島を、里帰り民族大移動がかけめぐります。おじいさん、おばあさんとの久しぶりの再会です。お墓参りも大切な行事です。子供たちにとっては、普段できない経験をすることがあるかもしれません。田舎の花火大会や、親戚が一堂に会することもあるでしょう。楽しい思い出がたくさんできるといいですね。

2012年7月19日木曜日

7月の花


 7月の花として、私の大好きな花の一つである、ねむの木をとりあげたいと思います。高速道路を走っていると、両側の山の中に、かわいい薄いピンク色の花を咲かせたねむの木を、あちらこちらで見ます。本当に可憐な風情のある花です。可憐とは「愛らしくて、いたわりたい気持ちを起こさせるようす」と、辞書に書かれていましたが、まさにねむの木の花を見ると、そんな気持ちになります。



 そして、ねむの木で思い出される歌があります。「ねむの木の子守歌」です。

美智子皇后さまが、作詞された曲です。優しい歌詞と美しいメロディーが、聴く人の心を和ませてくれます。初めて聴いた時から、私の愛唱歌となりました。たぶん高校生の頃だと思います。

美智子皇后さまが、高校生時代に書かれた詩ですが、1965年秋篠宮殿下の誕生を記念して、この曲が作られたそうです。
 2009年にイギリスの女性歌手ヘイリー・ウェステンラが、この曲を歌いアルバムを出しています。たくさんの人に歌われ、世界へ飛び立っていったこの曲に拍手を送ります。

2012年7月18日水曜日

考えるということ(2)


 ずいぶん前のことですが、子供達が小学校2年生の時の、国語の教科書に、とてもよいお話が載っていました。題名は「スイミー」です。1910年オランダのアムステルダムに生まれた絵本作家レオ・レオニの作品です。

 広い海のあるところに、小さな赤い魚の兄弟たちが、暮らしていました。その中に一匹だけ黒い魚がいました。名前はスイミーです。泳ぐのはとても速いスイミーです。ある日、兄弟たちは大きな魚に襲われ、小さな赤い魚たちは、みんなのみこまれてしまいました。スイミーは、速く泳いで逃げて助かりました。スイミーは、独りぼっちになって、悲しい淋しい日々を過ごしていました。でもスイミーは、海にはたくさんのいろんな友達がいることを知りました。そして、兄弟たちとそっくりの小さな赤い魚たちに、出会いました。みんなは、大きな魚に食べられる恐怖で、隠れていました。スイミーは、何とかしなくちゃと思いました。スイミーは、考えました。いろいろ考えました。うんと考えました。そして、ついによい方法を考えつきました。みんなで一緒に泳いで、海で一番大きな魚のふりをしようというのです。離れ離れにならないで、もちばを守って大きな魚に見せるのです。みんなで力を合わせて、大きな魚みたいに泳げるようになりました。スイミーだけが、黒い魚です。「ぼくが、目になるよ」スイミーは、大きな魚の目になりました。そして、海で一番大きな魚になったスイミーと小さな赤い魚たちは、怖い大きな魚を追い出したのです。

 作者レオ・レオニが、言いたかったこと。それは「考える、いろいろ考える、うんと考える」ということの大切さ。そして、どんな困難にも、逃げないで立ち向かうということ。一人一人の力は小さくても、みんなの力を合わせれば、大きな大きな力となって、どんな困難も乗り越えられるということ。小さな魚のスイミーが、うんと考え、勇気を出して行動を起こしたことは、このお話を読んだ子供達の心の中に、いつまでも記憶されることでしょう。そして、それが生きていく上での羅針盤に、なってくれることを願います。

2012年7月17日火曜日

夢のような光景


 信じられないような体験をしました。うそのような本当の話です。それは11月のことでした。叔母の49日の法事に、夫婦で出かけた帰り道のことです。ずいぶん遅くなり、少しでも近道をしようと思ったことが、不思議な体験につながることになったのです。
 琵琶湖の東に位置する彦根市から、三重県に向かって国道を走っていました。鈴鹿峠を越えなければなりません。国道1号線に出るのに近道だということで、最短距離で1号線に抜ける道を選び、走り続けました。時間は夜の10時を過ぎ、両側に民家が続くその道をどんどん走りました。だんだん民家が少なくなり、ついに集落は終わり、山道になっていきました。「この道を選んだのは、間違いだったかもしれない」と二人で話しながら、それでも、もうそこから戻ることは時間のこともあって、無理だと判断し、恐る恐るこわごわ前へ進みました。もう山の中です。こんなところから国道1号線へ出られるのかと、半信半疑です。大木が立ち並び、うっそうとしています。この道を夜遅くに通る車はなさそうです。私達は、早くこの山の中を通り過ぎたいと、あせり始めました。
 その時です。突然目の前にたくさんの小さな明かりのようなものが、現れたのです。すぐには、それが何かわかりませんでした。よく見ると、真っ暗な中に、たくさんの動物がいて、小さな明かりのようなものは、動物達の眼でした。数えられないほどのたくさんの動物が、まるで夜中のパーティーをしているかのように、集まっているのです。シカ、ウサギ、さる、カモシカ、フクロウ、本当にたくさんの種類のたくさんの動物や鳥達が、私達の車のライトの中に登場しました。私達もびっくりしましたが、彼らも、まるで「だるまさんがころんだ」の鬼が、後を振り向いた時にピタっと静止するように、動きを止めて立ちつくしているのです。夜中のパーティーに訪問者があるとは、さぞかし驚いたことでしょう。夜中にその道を通る車などなく、車のライトを見たのも初めてのことだったかもしれません。私達も、彼らも、一瞬たじろぎましたが、私達は、その場を静かに通り抜けようと、速度を落とし静かなエンジンで進み出しました。すると私達の車の前を、ウサギがピョンピョン道案内するかのように、跳び始めました。私達は、その後ろをそーっとそーっと進みました。「ごめんなさい。夜中のパーティーのおじゃまをしました」とつぶやきながら、そーっとそーっと進みました。
 驚くことに、動物達と出会ったところから、10分もかからずに国道1号線に出たのです。思わず二人が顔を見合わせました。「今のは何だったの、まるで桃源郷のようね」「そうだパラダイスだ」と話しながら帰りました。
 人間の住んでいる場所がどんどん広がり、動物達の生きる世界が隅へ隅へと追いやられている現代ですが、人間のすぐそばで、動物達が楽園を保ち続けていることに感動しました。この話をすると、みんなが「そこへ行ってみたい、連れて行って」と、感嘆の声をあげます。

2012年7月16日月曜日

「私とお友達になりましょう」


あなたは どうして いつも泣いているのですか
毎日毎日 悲しいことばかり あるのでしょうか
私と お友達になりましょう
きっと あなたの涙は 喜びの涙に かわるでしょう

あなたは どうして いつも暗い顔をしているのですか
毎日毎日 つらいことばかり あるのでしょうか
私と お友達になりましょう
きっと あなたは 幸せの笑顔で 輝くでしょう

2012年7月15日日曜日

徒然に想ううた 短歌三首



「元気かと 異国に暮らす 女性(ひと)想い

      地球の裏を ネットが結ぶ」


「父の日に 泰山木の 花咲きて

      何か語りし 大輪の華」


「雲上に 今も顔出す 天守閣

     何を伝える 現代人(びと)に」

2012年7月14日土曜日

スペインで遭遇した出来事(3)


 いつでもどんな時でも大きなジェスチャーと大きな声があがります。私達二人の日本人は、静かにみんなのあとをついてバスに乗りました。これでやっと知人の待つモンペリエへ帰れると思い、本当にホッとしました。雨は一向にやみそうにもありません。激しく降る雨の中、高速道路を南仏のモンペリエまで走ります。
 バスの運転手は、若い男性です。私達は、前から三列目の席に座っていたのですが、いつからともなく、人が入れ替わりに運転手のそばへ来て、大きな声でしゃべるのです。緊急事態発生で、激しい雨の中、隣国とはいえ外国へ向けてバスを運転するのです。にぎやかなスペインの人達が、同胞の運転手を励ましているのです。緊張し硬くなっている運転手に、面白いことをしゃべってリラックスさせようとしています。だんだんモンペリエが近づいてきました。高速道路を出てモンペリエの町へ入り、モンペリエの駅へ向かうのですが、モンペリエも豪雨だったようで、道路があちこち冠水しています。多くのスペイン人達は、モンペリエへ出稼ぎに来ている人達で、バカンスを故郷で過ごす為に母国へ帰っていたようです。モンペリエの町のこともよく知っていて「この道がダメなら、あっちの道へ行こう」と運転手を案内しています。
 やっとのことでモンペリエ駅へ到着しました。バスに乗っていた人達から、歓声と拍手が起こりました。「運転手さんありがとう。本当にお疲れ様でした。」150キロほどの、2時間強のバスの旅でしたが、距離も時間も、もっともっと長く感じられました。
 夜中の3時です。駅周辺もあちこち水に浸かっています。フランスの軍隊も警察も出ています。私達は、知人に連絡したくても、携帯電話を持っていません。途方に困り、うちのポアロ(夫)は、若い警察官に「1分だけあなたの携帯電話を使わせてほしい」と頼み、何とか知人に連絡がとれ、駅まで迎えに来てもらえました。道路冠水の為、遠回りしなければならず、知人の家から駅まで、通常の三倍ほどの時間がかかりました。
 生まれて初めてのスペインへの旅の帰りに遭遇したこの経験は、思い出深く、民族性も知ることができ、貴重な体験となりました。スペインの人達のたくましさ、厚い人情、人なつっこさを目の当たりにして、スペインという国、スペインの人達が、好きになりました。これをドキュメンタリーとしてフィルムを回していたら、どんなに素敵な作品が出来たことでしょう。

モンペリエ駅

追記 ヨーロッパの金融不安の中、スペインも現在大変な状況ですが、何とか少しでも早く安定する日が来ることを、遠くから願っています。
                                おわり

2012年7月13日金曜日

スペインで遭遇した出来事(2)

 車内のアナウンスが流れていますが、私達は言葉がわかりません。その上、人のどよめきで、声もよく聞こえません。でも何か緊急事態が発生したのだということは、感じとれました。同じ列車に乗り合わせた人達が、網棚から荷物を下ろし、降りる準備をしているようです。何が何だかわからないまま、私達もみんなの真似をして、降りる準備をしました。そのころになると車内は騒然となり、人々が動き回り、大声で叫び回り、本当に難民の民族大移動のような感じになりました。そして列車はジローナで停車し、みんなが降りました。もちろん私達もみんなの後をついて降りました。長距離国際特急なので、人々は大きな荷物をたくさん持っています。駅のコンコースで人々は並びます。どこにでもリーダー的な人がいるものです。その女性はさっさと駅員室へ行き、これからどういう段取りになっているのか、交渉を始めました。その概要は「行き先別に高速バスを出すので、ここからはバスに乗って下さい」というものでした。フランスも広いので、各都市別に分かれるのです。私達は、ただ「モンペリエ」という地名だけを頼りに、耳をすませていました。どうやら1グループがモンペリエ行きのバスに乗るということを知り、バスが到着するのをベンチに座って待ちました。雨はあいかわらず激しく降っています。
隣に座った男性(私達よりもだいぶ年上に見える)が、英語で話しかけてきました。私達は、英語もあやふやですが、人間のコミュニケーション能力は大きいものです。「あなた達は日本人ですか?私は若い頃にベトナムへ行ったことがあります。ベトナムで日本人と友達になり、日本語も教えてもらい、富士山の写真も見ました。こんにちは、ありがとう、さよなら、を覚えています。今日はバレンシアからマルセイユの息子のところへ行くのです」もっといろいろ話されたように思いますが、記憶が定かではありません。お手洗いに行ってくるので荷物を見ていてほしいと頼まれ、そのあと行き先が違うのでそこで別れました。
もう一人記憶に残った50歳位の男性がいました。多くのにぎやかなスペイン人の中で、静かに物事を見ているような知的な雰囲気の紳士でした。私達は、言葉ができないという気後れでしゃべれませんでしたが、その人はイギリス人のようでした。
ジローナ駅でも2時間ほど待ち、やっとバスが到着しました。


                        

2012年7月12日木曜日

スペインで遭遇した出来事(1)


今からちょうど6年前の夏のことです。夫婦で、フランス、スペインへ旅行しました。南仏に住んでいる知人を訪ねたあと、スペインのバルセロナへ、国際特急に乗って出かけました。フランスとスペインの国境では、列車の中で検問がありました。生まれて初めてのスペインへの旅です。二人とも緊張し興奮しています。スペイン語は、しゃべれません。旅行ガイドブックに載っているわずかなことばを言えるようにと、俄か勉強です。20年前にバルセロナオリンピックで有名になった、バルセロナです。スペインの二番目の大都市で、建築家ガウディや画家ピカソやダリ、ミロでも有名ですが、遠く離れた日本では、何といってもバルセロナオリンピックで、日本のすみずみまで知れわたりました。

私達は、一泊二日のあわただしい旅で、着いた日は、周遊バスに乗り、バルセロナの町を回りました。ミロ美術館や、ガウディのサグラダ・ファミリア教会を見学し、一度ホテルへ戻り、夕食は町でと思い、にぎやかな町の中心にある古いレストランで、スペイン料理として有名なパエリアを食べました。その頃から激しい雨が降り始め、雷鳴も響きわたり、ひどい夕立になったものだと、私達は、雨にぬれながら走り、地下鉄に乗りなんとかホテルへ戻りました。2日目も、雨が激しく降っています。お天気が悪くても、遠い日本からバルセロナへ来た私達は、雨もなんのその、精力的に観光に出かけました。最後にピカソ美術館を見ておこうと向かったものの、近くまで来ているのに、当の美術館がなかなか見つかりません。小さな裏通りにある小さな美術館でした。美術館へやっと辿り着いたものの、時間切れとなり、中へ入ることもなく、あわただしく帰路に着きました。




 バルセロナの駅で、前もって買っておいた国際特急の列車が、なかなか到着しません。何が起こっているのか、言葉がわからない私達は、だんだん不安になってきました。予想していなかったことが起きたのです。うちのポアロ(夫)が、何とか英語で駅員から情報を得ました。「国際特急が、始発駅から豪雨のために、出発が遅れていて、いつ到着するかわからない」というのです。前もって買った切符の列車がいつ到着するのか、まったくわからないと言われ、私達はただ呆然と、自分達の乗る列車の到着を待ちました。2時間ほど遅れて、その列車は到着しました。列車に乗って、座席に座り、私達はホッとし、これでフランスへ戻れると安堵したのも束の間、何やら車内がざわざわし始めたのです。

                               つづく

2012年7月11日水曜日

主夫


 主夫ということばが生まれてもうずい分経ちますが、日本ではそんなに誕生しませんでした。もちろん期間限定の主夫はいますが、従来からの主婦に対する主夫は、日本ではまだ珍しい存在だと思います。ところが完全なる主夫が身近にいたのです。出会ったのは12年前のことでした。その人は、うちのポアロ(夫)と同じ年齢で、団塊の世代です。結婚が遅かったせいか、出会った時は、まだ保育園へ預ける年齢の子供が二人いました。奥さんは、ずいぶん年下で、地方公務員をされています。朝、奥さんを見送り、二人の子供を保育園へ送ったあと、炊事、洗濯、掃除などの家事をします。そのあと買い物に行き、夕食の準備です。夕方、子供達を保育園へ迎えに行き、子供達の世話をしながら、奥さんの帰るのを待ち食事です。

 主夫の一日の暮らしぶりを、ざっと書きましたが、収入につながる仕事は一切されていません。完全な主夫です。奥さんの働きによる収入で、家族四人が生活されています。働き盛りの男性から見れば、何ともうらやましい限りです。古い日本人には、とても実行できそうもない暮らしです。たくさんあるカップルの中では、数少ないパターンですが、人生いろいろ、人もいろいろ、夫婦もいろいろ、両者が納得し最善の道を選べばいいのです。主婦がいれば主夫もいるということですが、日本では増える可能性は、まだまだ低いような気がします。

2012年7月10日火曜日

「こころ」

 

こころは生きている

あなたのこころも

私のこころも

みんなのこころも 生きている



今 こう思ったことが

数秒後には もう変わっている

ころころ こころは進化する

いつも同じところに こころはいない



つらい時 悲しい時 悔しい時

苦しい時 そして嬉しい時も



どんどん こころは 成長する



一人の人の 心の中で

どんどん こころは 成長する



小さな 子どもも

大人の人も

年輪刻んだ 男の人も 女の人も



自分のこころと 仲良くしよう



泣いた赤子がもう笑う



そうです そうです それでいいんです

2012年7月9日月曜日

考えるということ(1)


 「人間は考える葦である」有名なパスカルのことばです。

ブレーズ・パスカル(1623~1662)は、フランスの哲学者、思想家、数学者、物理学者、宗教家です。人間は自然の中では矮小な生き物にすぎないが、考えることによって宇宙を超える。人間に無限の可能性を認めると同時に、一方では無限の中の消えゆく小粒子である人間の有限性をも受け入れている。パスカルにとって人間とは天使でも悪魔でもない。                     出自 Wikipedia

人間を弱々しい葦にたとえ、強い風が吹くと身を任せすぐしなってしまうが、風が去るとまた元のように立ち上がる。運命、逆境の中でも、敗北することなく柔軟に生きている葦。そして人間は、考えることができる、思索することができる。それは精神を持つことです。パスカルは、病の苦しみの中でも、思索や研究を続けたそうです。パスカルが、自分の人生において貫いた精神だと思います。

子育てでも、介護でも、周りの人が、先に先にと手を出さないように心がけねばなりません。時間がかかっても、当人がじっくり考え、自分で決断し、実行するのを、辛抱強く待たねばなりません。深い愛情を持って見守る姿勢が大切です。そんな小さな日々の積み重ねが、「考える葦」になる道ではないでしょうか。

2012年7月8日日曜日

「足あと」


自分の 足あとを 見たことがありますか
ちっちゃな ちっちゃな あの足あとを
かわいい かわいい あの足あとを

自分の 足あとを 見たことがありますか
ごっつい ごっつい あの足あとを
大きな 大きな あの足あとを
きれいな きれいな あの足あとを

たまには 自分の足あとを 見て下さい
私の足あとは 小さな 小さな 足あとが
いつのまにか 大きく 大きく なっただけ

2012年7月7日土曜日

「清水」



みんなで 山へ登った あの夏の日
こんこんと わき出る 清水に
足をつけたら みなとびあがったね
あまりの冷たさに

あんなに きれいな水は
どこから くるのかな
きっと いくつもの 山の下を
旅して くるんだよね

2012年7月6日金曜日

徒然に想ううた 俳句三句




夕焼けの 向こうで生きる 女性(ひと)は朝





群生の 蕺草(どくだみ)の花 白さ映え





マーガレット やさしくゆらす 微風かな

2012年7月5日木曜日

私の好きなことば「親の心 子知らず」


 昔から「這えば立て 立てば歩けの親心」と言われてきたように、子を思う親の心は、言葉で言い尽くせないほど、広く深く、その愛情は、見返りを求めない、純粋な無償の愛です。子の命、新しい命が、自分の体の中に芽生えた時から、一人の人間であると同時に、子の親として、愛情、責任、義務をしっかりと認識し、人生を歩み始めます。まさに「這えば立て 立てば歩けの親心」です。子が一年一年と成長するのは楽しみですが、当の親は、本当に必死に子育てをしているので、無我夢中の毎日です。そして子が、親元から離れて行く日が来るのです。子の巣立ちです。親としての責任、義務を果たし、肩の荷が下りたようで、ホッとするのは事実ですが、嬉しいというより、心にぽっかり穴があいて、寂しさがつのります。空の巣症候群です。子が成人し、社会人になり、一人の人間として生きていくのを、親は、子の幸せを願い祈り、遠くから見守っているのです。

 自分が、子の立場から親の立場になった時、親の愛情の広さ深さ、子を育てる大変さが身にしみ、ただただ親に感謝するのみです。最後の別れのその時まで、できる限りの孝行をしようと思っていましたが、その時は、本当に突然やってきました。母は心筋梗塞で、父は入院中痰が喉につまり、あっけなく永遠の別れとなりました。「孝行のしたい時分に親はなし」と、昔からよく言われていますが、立派に育ててもらって、自分も親となり、次世代を担う子を無我夢中で育てている間に歳月は流れ、そろそろゆっくり親と向かい合えると思う頃になると、親は旅立って行くものなのですね。

2012年7月4日水曜日

我が家の歴史

 我が家には、扇風機が計五台あります。卓上ファンの極小サイズから、その兄弟分のサイズ、そして普通サイズ、大物顔の最大サイズまで、大きさはいろいろです。

最も古いものは、私が学生時代に寮で使っていた、小型のスイッチON,OFFだけのシンプルなもので、45歳になります。今は、たまにしか使いませんが、健在です。寮は、四畳の広さで、畳2枚とピアノが置けるように、板の間がついていました。その頃は、冷暖房のエアコンはありません。夏は、かわいい扇風機、冬は、小さなストーブで、暑さも寒さもしのげました。私と青春時代をともに過ごした、このかわいい扇風機は、とても愛着があり、なかなか用済みにはできません。

 卓上ファンの極小サイズのものは、下の子が中学生の頃、父親にせがんで買ってもらったものです。勉強する時に机に置いて使うと言い、決めゼリフは「勉強の能率が上がるから」というものでした。子供に甘い父親は、すぐその言葉にのりました。そばで見ていた私は、父親の子供に対する甘さに、笑わされました。

 25年前建売分譲住宅に入居した際、16畳のリビングに、冷房のみのエアコンを、1台設置しただけでした。それで普通サイズの扇風機を、2台購入したのですが、そのあと大きな扇風機を、竣工記念に頂いて、計5台になりました。

 今は一軒の家に、冷暖房のエアコンが何台もあるのが、普通みたいになっていますが、日本が高度経済成長し、豊かな国になり、国民の生活水準も上がり、ぜいたくになったのだと思います。昨年の東日本大震災後、原発問題も起こり、電力不足となり、節電が大切になってきました。国民が、少し前の暮らしに慣れれば、何とか乗り越えられるのではないでしょうか。

2012年7月3日火曜日

「ツバメ」


今年も 我が家に ツバメがとんできました

二羽のツバメは 一生けん命 巣作りをしています

古い巣に 新しいベッドを 作っています

ベッドが でき上がったのでしょうか

お母さんツバメは 巣から出てきません

お父さんツバメは 一生けん命 エサを運びます



いよいよ ヒナが かえりました

お父さんも お母さんも 忙しくなりました

ヒナも ピイチクパーチク にぎやかになりました



いよいよ 巣立ちの日が 来たようです

お父さんとお母さんの まねをして

ヒナたちは 巣から とび出しました

少しずつ 少しずつ とんで

屋根へ やっとこさ 上がりました

そして 電線に 一列に並びました

「さあ ここまでとんでおいで」

「さあ 勇気を出して」

ヒナたちの 特訓が始まります

お父さんとお母さんが 見守る中で

2012年7月2日月曜日

「父さん母さんへ」



父さん 母さん 元気ですか
ケンカせずに 仲良くやってますか
金婚式 おめでとう

私達も やっと錫婚式です
父さん母さんに 比べれば
私達は まだまだ ひよこです
ひよこの 卵が やっと一年生になりました

父さん母さんを 見習って
金婚式を めざします

金婚式 本当に本当に おめでとう
心を込めて お祝い贈ります

2012年7月1日日曜日

懐かしい場所

 先日、40年ぶりに、うちのポアロ(夫)が、生まれ育った町へ、二人で行ってきました。その町を離れるまでの、思い出がたくさんある町です。少年時代、青春時代、自転車に乗って、よく通った町です。模型屋さん、本屋さん、楽器屋さん、耳鼻科など、昔のなじみの店を探しながら歩きましたが、40年という年月は、町の面影をずい分変えています。唯一本屋さんだけは、今も健在で営業をしていましたが、模型屋さん、楽器屋さん、耳鼻科は、他の商売をしているお店に変わっていました。私は、ポアロ(夫)の説明を聞きながら「今はこんなお店だけど、40年前はそんなお店だったのね」と、町の変容に感心していました。40年前は、映画館が四つもあり、町の人々の娯楽として、映画は大きな存在でした。その四つの元映画館は、今はマンションになり、一階部分はスーパーマーケットとか、スポーツジムになっていました。
 全国の商店街が、時代の流れで、衰退の一途を辿って、シャッター商店街と呼ばれ、社会問題になっていますが、ここの商店街は、中身は変わりつつも、今も地域住民の生活の基盤として活躍しています。
 不思議なことがありました。第二次世界大戦中、疎開道路と呼ばれ、住民を強制的に転居させ、空襲による延焼を防止するために、広い道幅の道路を作ったのだそうです。そして戦後は、市の計画道路として都市計画はできていたものの、40年たった今も、何の進展もなくそのままの姿を留めているのです。どうしてこんな無駄なことがなされているのか、本当にあきれかえりました。