三沢市にある泊まったホテルは、広大な敷地です。創業者は、時の人、令和の新しい紙幣の顔となられる渋沢栄一の秘書をされていた方だそうです。ホテルの建物も大きいですが、隣の22万坪の公園は庭園散策するのにふさわしい場所です。たくさんの木々が生い茂り、広い池の周りには、食事もできる南部曲屋や足湯、ふれあい牧場もあります。公園を一周する馬車も出ています。私たちは、朝食のあと40分ほど庭園散策をしました。
公園の一角に渋沢栄一の立派な住まいを移築して、ほぼ完成しています。もう少しすれば見学できるようになると思います。創業者からは手を離れ、現在の経営者は直接渋沢栄一と関わりはありませんが、ホテルの歴史として渋沢栄一との所縁を宣伝の一つに出していくのだと思います。
ホテルを11時頃に出て、三沢の市内を通り抜けました。
青森県三沢市には、三沢基地があります。三沢市内の従来の商店街はシャッター商店街になりつつあるようですが、基地関連のお店は元気そうです。桜は丁度満開でした。
基地に隣接されて造られた青森県立三沢航空科学館へ行きました。前には大空広場が広がっています。約11haの広さです。11機の航空機が展示されていて、コックピットに搭乗できるものもあります。ちょうどこの日は、三沢基地内にある幼稚園児たちが見学に来ていました。子供たちも引率の先生も、全員アメリカ人のようです。目のくりくりした子供たちに「ハロー!」と声をかけると元気よく「ハロー」と応えてくれました。飛行機のことは何も知りませんが、戦闘機が多くありました。
大空広場にいる時に、訓練飛行が始まりました。3機ずつ飛び立ちます。その時のすごい大きな音は、爆音のようです。突然の大きな音に耳を塞いでしまいました。基地の近くに暮らす人たちのことを想いました。
大空広場で大きなカメラを持って熱心に訓練飛行を見ておられる男性がおられました。航空ファンの常連さんのようでポアロがいろいろお話させてもらって、三沢基地、三沢飛行場、三沢空港、航空機のことを知りました。最近墜落して行方不明になった飛行機のことも知りました。大空広場から航空科学館へ移動しました。展望デッキに上がりました。より遠くを高い位置から望むことができます。しかし展望デッキから基地内の施設は見えないように造られていました。
初めて訪れた三沢で今まで知らなかった歴史を知りました。太平洋無着陸横断機ミス・ビードル号のことです。大正から昭和の初め世界は冒険旅行全盛期だったそうです。リンドバーグの大西洋単独無着陸飛行が成功し(昭和2年)長距離飛行が一層注目されるようになり、「世界一周早回り飛行」と「太平洋無着陸横断飛行」が世界中の飛行士にとっての挑戦目標となりました。世界一周早回り飛行を目的として飛んだ米国のミス・ビードル号ですが、ロシアでトラブルが相次ぎ、記録更新を断念することになりました。日本の大手新聞社が太平洋無着陸横断飛行に懸賞金を出すと発表し、ミス・ビードル号の飛行士パングボーンとハーンドンは挑戦することになりました。三沢の人たちの熱意と好意、優しさが、この人類初の壮挙を生む後押しにもなりました。昭和6年10月4日に飛び立ったミス・ビードル号は、太平洋を無事渡りました。機内には三沢の人たちの優しい想いを伝える5つのリンゴが残されていました。サンドイッチなどと共に機内食として渡した一部だったのです。翌年リンゴの産地ワシントン州ウエナッチから新種のリンゴの穂木が送られてきました。大切に育てられ青森県内に広がっていったそうです。残念なことに、この後、日本と米国は敵対関係となり、この壮挙は次第に語られなくなっていったのです。しかし偉業から50年後両市は姉妹都市を締結し、毎年相互の訪問交流を重ねているそうです。平成23年には、三沢飛行場において、ミス・ビードル号の復元機による再現飛行も行われたそうです。航空科学館の前には、飛行士二人の銅像が建っています。
モニュメントの高さは、ミス・ビードル号が飛んだ1931年にちなみ19.31メートルです。今まで知らなかったことを知るのは、旅の収穫です。大空を飛行する人間のロマンはどこまでも続いていきます。
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