京都市役所の西庁舎はすでに解体されていますが、北庁舎は分庁舎が出来次第引っ越しとなり、そのあと解体されます。北庁舎の北側、道路を挟んで駐輪場と駐車場があったところに分庁舎が新築されます。そこで、今大々的な発掘調査が行われています。買い物帰りに隙間から覗くと、発掘調査がほぼ終わりに近づいた感じで、ほうきで掃き清めたように美しく歴史の痕跡が浮き彫りになっています。
道路からみたところ、深さは3m位ありそうです |
発掘調査が終われば、新築工事が始まります。この歴史的痕跡を目にすることはもうありません。見ることはできません。そう思うと焦ってきました。これは大変、早く写真に収めないとと思い、ポアロに連絡しました。そして北庁舎の四階に上がり写真を撮ってもらいました。北側が廊下になっているので、見晴らしの良い場所から撮ってもらいました。
昨年まで駐車場でした |
大きな穴は何でしょうか? |
この地には、かつて妙満寺がありました。豊臣秀吉が築いた御土居(おどい)の内側、寺町通の東側に沿って設けられた寺院街区にあたり、南に本能寺、北に要法寺が接していました。平安京の東京極大路東側に面する場所だったそうです。妙満寺は、1583年(天正11年)に四条堀川からこの地に移転してきました。昭和43年に京都市北部の岩倉へ移転するまでの約400年の間この地にありました。発掘調査によって妙満寺の約400年間の変遷が明らかになってきました。昨年、京都市埋蔵文化財研究所が、発掘調査現地説明会を開いたそうですが、残念なことに私達は参加できませんでした。江戸時代から明治にかけての、妙満寺の本堂跡が確認されました。本堂跡は、東西約16m、南北約10m以上ということがわかりました。柱間は約4mもあったそうです。内陣、脇陣、外陣、東西約5mの後拝、建物外周には幅約2メートルの縁がめぐらされていたという痕跡が確認されたそうです。寺町形成期の整地とそれ以前の耕作地の痕跡も確認されているそうです。出土遺物は土師器・輸入陶磁器・瓦などがあるそうです。妙満寺所蔵の「妙満寺志稿」には、江戸時代から明治時代の絵図があり、本堂の規模や構造が絵図と遺構でほぼ同じということがわかり、近世から近代へと続く妙満寺の姿を発掘調査からも明らかにすることができたということです。この地の調査面積は、約565㎡だそうです。
70m×80m位でしょうか |
自分の身近で思いもよらず良い経験をすることができました。何も知らずに過ごしているこの地には、長い歴史がありその恩恵を受けて今があるのだとつくづく思います。今自分が生きているこの瞬間も、一つの点となって過去・現在そして未来へと続いていきます。歴史が大パノラマとなって迫ってくるようです。「歴史を知る」という楽しみが少しわかった気がします。
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