2015年10月5日月曜日

夏の思い出(11)舞鶴

 八月の暑さ厳しい中、舞鶴へドライブしました。七月中旬に京都縦貫道が全線開通し、京都から舞鶴まで一時間で行けるようになりました。舞鶴は京都府ですが、京都の中心地から70キロほど離れています。私達は去年の夏も舞鶴へ行っているのですが、西国巡りが優先で時間が遅くなり引揚記念館と赤レンガパークを見学することができませんでした。それで再度行くことにしたのです。
丁度お昼に西舞鶴に着いたので早速「舞鶴とれとれセンター」によって、新鮮な魚をいただきました。


 今年は戦後七十年の節目です。残念なことに引揚記念館は改修工事のため休館中で、赤レンガパーク内で特別展示がされていました。当時使用されていた生活用品、手紙、シベリア抑留体験を描いた絵画など、いろんなものが展示されていました。引き揚げの史実を後世に伝えるため、展示資料の一部をユネスコ世界記憶遺産に登録申請中とのことです。私達が熱心に見ていると、高齢の男性が近づいてこられました。八十歳以上と思われる方です。当時の舞鶴の様子をいろいろお話しして下さいました。ボランティアでの活動とのことです。

 昭和20年(1945)第二次世界大戦の終結にともない、当時海外に残された日本人は660万人以上ともいわれ、舞鶴港は政府が指定した引揚港の一つとして、昭和20年10月~昭和33年(1958)9月まで、13年間使命を果たしました。昭和25年以降は唯一の引揚港として「引き揚げのまち、舞鶴」の名を全国に広めました。舞鶴では主としてソ連、中国などの大陸からの引揚者を迎え入れ、13年間に約66万5千人の引揚者と約1万7千柱の遺骨を受け入れました。終戦時大陸に残された日本人およそ57万人がソ連へ送られ、その内の約47万2千人がシベリア各地のほか、コーカサス、北極圏などの収容所で、長い年月辛い抑留生活を強いられたのです。白樺の皮に和歌などで綴った抑留の記録「白樺日誌」を見ると、戦争体験をしたたくさんの人の苦労が伝わってきます。いまだ帰らぬ息子を待ち続ける母の想いを歌った「岸壁の母」は有名ですが、私が岡山で傾聴ボランティアをしている時に出会った女性は「岸壁の妻」でした。幼い四人の子供をつれて、舞鶴へ何年も通いました。彼女の元に届いたのは、白木の箱に入った紙きれ一枚でした。引揚記念館特別展示を見てから引揚復元桟橋へ向かいました。


 桟橋のそばに「祈りの鐘」がありました。鎮魂と平和の尊さ・平和の祈りをこめて鐘を鳴らしました。第二次世界大戦が勃発する前のことですが、私の両親は満州から舞鶴港へ帰港しています。私にとって舞鶴は身近に感じられる町です。


  そのあと私達は五老スカイタワーへ行きました。標高301メートルの五老岳の頂上にそびえる高さ50メートルの展望タワーです。舞鶴湾と舞鶴市内が一望できるパノラマビューは、近畿百景第一位に選ばれているそうです。素晴らしい眺めでした。美しく広がる海を見て、遠い昔に想いを馳せました。

五老スカイタワーから舞鶴港遠望

舞鶴は日本海につながる天然の良港です

 平和であり豊かになった日本に生きている現代人にとって、悲惨な酷い戦争は遠い昔の話のようです。実感はありません。本を読んだり映画や報道番組を観たりして想像するしかありません。戦争の爪痕が残る現地を訪れ、その地に立ち空気を吸い史実を知り、肌で何かを感じ取ることはとても大切なことだと思います。悲しくつらい過去の歴史が風化されないように、そして永久の平和を願いました。舞鶴には細川、京極など有名な武将が居城とした田辺城やその城下町など、まだまだ見たいところがたくさんあるので、これから何度も行きたいと思っています。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿