2013年7月31日水曜日

台風上陸


 いよいよ明日、我が家に台風が上陸します。台風はフランスからやってきます。二人組です。狭い2LDKのマンションに、大人が五人寝ることになるかもしれません。日本の住宅事情を言い表すまさに「うさぎ小屋」です。私が見上げるほどの背の高いフランス人男性を伴って、娘が久しぶりに帰国します。その準備で大騒動の一ヶ月が過ぎましたが、準備完了というわけにはいかず、明日を迎えることとなりました。

 2011年3月11日の東日本大震災が起こってすぐに、南仏で支援団体を立ち上げた二人です。その行動力と結束力には脱帽します。今回の来日は、一ヶ月のバカンスを利用してのものです。東北地方で行われる「三陸海の盆」に参加します。犠牲になられたたくさんの御霊の慰霊祭が行われるのです。フランスでずっと続けている被災地への支援の報告と、多くのボランティア団体との交流です。この悲しみを風化させないために、また復興を願い被災地と支援地の絆をいっそう強くしようという思いで、今年は三回目の海の盆です。娘はその合い間をぬって、友達にも会いに行く予定を立てています。日本の最も厳しい暑さの中を、東へ西へと飛び回るようで、私達はハラハラしながら見守るしかありません。

 

*そういう事情で、ブログの更新が毎日というわけにはいかないかもしれませんが、できる限り書きたいと思っています。

2013年7月30日火曜日

「もし」


もし 私が十代だったなら

医師を目指そう

人の心を学びたい

見えない人の心を学びたい

 

もし 私が十代だったなら

作曲家になろう

人の心に響く曲を作りたい

人が涙する曲を作りたい

 

もし私が十代だったなら

哲学を学ぼう

人の心の奥深きこと

たくさんたくさん学びたい

 

人の精神世界を学びたい

永遠の命を確信できるよう

広く深く学びたい

 

もし 私が十代だったなら

文筆家を目指そう

紙とエンピツを手に

世界を回ろう

世界の人の心を

書いて書いて

地球家族を作りたい

2013年7月29日月曜日

「恋」


恋は陽炎

恋は蜃気楼

 

それでも人は恋を追い続ける

恋が実在するかのように

 

恋はまやかし

恋は幻想

 

それでも人は恋を信じる

恋は存在しないとわかっていても

 

わたしの恋は片想い

いつもどこでも片想い

 

恋が実ることを望まない

恋する人がふり向いた時

私の恋は終わる

 

恋は宝

恋はビタミン

 

恋は私を成長させる

恋は手の届かないところにあるがよい

 

十代の恋

二十歳(はたち)の恋

 

恋の思い出

美しき思い出

 

恋は陽炎

恋は蜃気楼

 

それでも人は恋を追い続ける

恋が実在するかのように

 

恋はまやかし

恋は幻想

 

それでも人は恋を信じる

恋は存在しないとわかっていても

2013年7月28日日曜日

思い出の中の歌(2)


 雨がしとしと降っている日、外へ遊びにいけない私は、窓の外を眺めながら「今日はうれしいなあ」とニコニコしています。雨が降る日は、母が家にいます。農家なので、雨が降る日は家の中の仕事をします。私は嬉しくてつい歌い出します。

 

「あめあめ ふれふれ かあさんが

 じゃのめで おむかえ うれしいな

 ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

 

 かけましょ かばんを かあさんの

 あとから ゆこゆこ かねがなる

 ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

 

 あらあら あのこは ずぶぬれだ

 やなぎの ねかたで ないている

 ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

 

 かあさん ぼくのを かしましょか

 きみきみ このかさ さしたまえ

 ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

 

 ぼくなら いいんだ かあさんの

 おおきな じゃのめに はいってく

 ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」

 

 雨の降る日は、私は母のあとにくっついています。家の中の仕事を忙しそうにする母の、おじゃま虫になっていました。母が繕い物をする時、私もそばで小さな人形の洋服を作りました。スカート、ズボン、ベスト、簡単な物ばかりです。母の真似をするのが嬉しくて、雨が降る日は上機嫌の私でした。母に甘えられる雨の日が、大好きでした。

 

 先日、テレビから懐かしい私の大好きな歌が聞こえてきました。驚いてテレビを見ると、車のCMで雨の中を車が走っています。そのBGMに流れていたのです。北原白秋作詞、中山晋平作曲「あめふり」です。1925年(大正14年)に発表されました。現代のテレビコマ-シャルに登場するとは、嬉しい驚きです。

2013年7月27日土曜日

親孝行(6)


 以前ブログに短歌として載せた作品です。

 

「生きるって どういうこと」と あどけなき

       

       テレビの声に 我はドッキリ

 

テレビで放映されていたCMですが、この問いかけには、どういうふうに答えたらよいのか、難しくて今もまだ即答できないでいます。

 先日、これによく似た質問を、まんたん(義母)が、私になげかけてきました。

「死にとうない。どうしたらええ」私はドキッとしました。咄嗟に答えねばなりません。私は苦しまぎれに答えました。「百歳まで生きた人が、もっと生きたい、あと百年生きたいと願っても、それは無理な話だものね。百年生きるってすごいことやからね」私の言ったことがわかったのかどうか、まんたんは「そうやねえ」とつぶやきました。いつもは口癖のように「早く死にたい、生きていてもしょうがない」と言っているまんたんが、突然正反対のことを言ったので、私は本当に驚きました。

 ボランティアで出会った八十五歳の男性は、奥さんが二度の脳梗塞で重度の後遺症の状態にあり、夫婦で有料老人ホ-ムに入っておられました。ご主人も十年前に脳梗塞を起こし手術されたそうです。その方は、御自身の体は高齢に伴う弱りだけで、普通の生活をされていたのですが、妻の介護(そばで見守る介護)や心労で、夜は眠れないと訴えられて、心療内科へ通院し誘眠剤や導眠剤をもらって飲んでおられました。徐々にそれも効かなくなってきて、医師に「もっと眠れる薬を出してほしい」言ったところ、医師に「もうそろそろ悟ってください」と言われたと立腹され「医者が患者の訴えや気持ちを理解しないでどうするんだ」と、胸の内を吐露されていました。御子息は他県で医師をされているので、医療についていろいろ知っておられる方です。

 不眠症の患者さんに出す睡眠薬や誘眠剤・導眠剤は、むやみに出すことはできなくて制限がかかることはわかりますが、医師の「そろそろ悟ってください」という言葉にはいろんな意味が含まれていると思います。人間九十年近く生きてきたらそろそろ最期も近いということ。人間として成熟するはずだ。いろんなことも長老は乗り越えられるはずだ。いつまでも同じことばかり言っていては成長がないではないか。など医師の言いたかったことは「薬だけでは改善しない。自らを受容して下さい」ということでしょうか。この方は元々お酒が好きで、眠るために薬を飲んで、それでも眠れないからアルコ-ルを飲んで、酔いつぶれて眠るようなことを繰り返されて、それが致命傷となり急死されました。妻をのこして旅立たれました。

 人間がどんなに望んでも、百十五歳で世界一の長寿です。人間の手ではどうにもならないことを願うのが、人間の性(さが)というものなのでしょうか。そしてそこにまた苦しみが生まれるのだと思います。人間はいつか悟れるのでしょうか。神や仏に近づくことができるのでしょうか。まんたんの難しい質問を受けて、考えさせられました。

2013年7月26日金曜日

「幸せ」


幸せは人の数だけある はず

幸せはどこにでもある はず

 

幸せに気づかない だけ

不平不満ばかり言っている だけ

よかったさがしをしない だけ

 

お金がたくさんあれば

それだけで幸せですか

 

有名人になれたら

それだけで幸せですか

 

幸せは目に見えない

幸せは小さなもの

幸せは手でつかめない

 

幸せは心の中にある

誰の心の中にもある

 

小さな幸せを喜ぼう

当たり前にあることを喜ぼう

 

よかったさがしをしよう

今ある自分に感謝しよう

2013年7月25日木曜日

思い出の中の歌(1)


 祖母は貝拾いが大好きでした。その季節になると何度も出かけました。一人ででも出かけました。海までは家から歩いて一時間ほどかかります。祖母は、籐でできた大きな乳母車を押して出かけます。私は、子供の頃、時々祖母のお供をしました。行きも帰りも、私は乳母車に乗っていきます。乳母車に乗った私は、いつも「うみ」を歌いました。

 

「うみはひろいなおおきいな つきがのぼるし ひがしずむ

 

 うみはおおなみあおいうみ ゆれてどこまで つづくやら

 

 うみにおふねをうかばせて いってみたいな よそのくに」

 

そして海に着いて二人で貝拾いをします。アサリ、ハマグリ、バカ貝などたくさん取れます。途中でお昼ごはんです。祖母が作ったおにぎりを食べます。そのあともまた二人で貝拾いをします。私は、そろそろ飽きてきます。祖母は、黙々と貝拾いを続けています。私は、乳母車に戻ってひと休みします。小さな体は、乳母車の中でも寝ころべます。青い空を見ながら「我は海の子」を歌います。

 

「我は海の子 白波(しらなみ)の 騒ぐ磯辺の 松原に

 煙たなびく 苫屋(とまや)こそ 我が懐かしき 住家(すみか)なれ

 

 生まれて潮(しお)に 浴(ゆあみ)して 浪を子守の 歌と聞き

 千里(せんり)寄せくる 海の気(き)を 吸いて童(わらべ)と なり
  にけり

 

 高く鼻つく 磯の香(か)に 不断(ふだん)の花の 香りあり

 渚の松に 吹く風を いみじき楽(がく)と 我は聞く」

 

 1910(明治43年)に「尋常小学読本唱歌」に発表された曲とのことですが、非常に難しい歌詞で、私は、意味もよくわからず歌っていました。青い空には、白い雲が浮かんでいます。時々カモメが飛んでいきます。私は、誰もいない海辺で大きな声で歌います。

「うみ」「我は海の子」 大好きな歌です。

海、貝拾い、祖母、懐かしい思い出です。

子供時代の私を思い出します。

2013年7月24日水曜日

自己覚知


 自己覚知とは、自分を知ること。自分がどのような行動をとり、どのように考え、感じているかを客観的に意識し、多面的に理解することで、対人援助の場において援助者に求められることの一つです。

 夫はA型、典型的な日本人であると私は思っています。夫に言わせると、私は奇人変人の類だそうです。私はAB型、夫に比べると日本人の中ではだいぶ変わっていると、自分でも自覚しています。

 日本人の民族的特徴として、本音と建て前が挙げられます。本音は「いやだな」と思っても、建て前はみんなに合わせて右にならえとなります。人の目を気にします。ええかっこしいなのかもしれません。

 その点、私は頑固者、しかし強情ではありません。信念を持って自分の強い意志を貫こうとするだけで、人に対して無理に押し通すことはありません。あくまでも自分の中の自分とのたたかいだからです。フランス在住十年の娘は「お母さんはフランス人よりフランス的」と言います。「ケセラセラなるようになる」「GOING MY WAY 我が道を行く」私のライフスタイルです。日本人的な「人にどう思われるか、よく思われたい」という意識が低いのかもしれません。「人にどう思われようと、私は私のやり方で生きていく」といった気持ちです。

 テレビに登場する人達の中で、自分の意見・考え・気持ちをハッキリ、ズケズケ言う人に好感を持ちます。八方美人は嫌いです。本音がわかりません。「本心をそんなに隠してどうするの」と聞きたくなります。素直に正直にあからさまに、自分の心をむき出しにする人が好きです。

 夫は無難な日本人です。如才なく、つきあい上手。器用に生きていきます。会社人間として生きるには、あくが強いと生きづらいかもしれません。人との調和が大切です。私は不器用な生き方です。私は一匹狼、ピアノ教師として独立独歩で四十年生きてきました。厳しく怖い教師だったと思います。でもその根底には、愛情と情熱があるので、生徒達もお母さん達も、私をよく理解してくれていました。長いつきあいの友人もいます。深い友情で結ばれています。私は血液AB型のRHマイナスで、二千人に一人のマイノリティ-な人間です。少数人間です。少数人間の私でも好かれています。

 器用人間と不器用人間の夫婦の日常は、とても面白いものです。縁あっての夫婦ですが、相性というものは同類でないほうがよいのかもしれません。

2013年7月23日火曜日

「けんか」


母とけんかしたことのない私が

今は義母とけんかする

あの優しかった私が

義母とけんかする

腹が立ったら怒ればいい

辛抱することはない

耐えることはない

 

兄弟げんかしたことのない私が

今は夫とけんかする

あの大人しかった私が

夫とけんかする

腹が立ったら怒ればいい

我慢することはない

耐えることはない

 

友達とけんかしたことのない私が

今は娘とけんかする

あの寛大だった私が

娘とけんかする

腹が立ったら怒ればいい

心をむき出しにすればいい

耐えることはない

 

けんかはゴングが鳴るまで繰り広げられる

 

何十年も私の心はベ-ルを被っていたのか

私は賢人を装っていたのか

 

私は今の自分が大好きだ

自分に正直

自分に忠実

素直に自分の心を他にぶつけられる

自分の心をオ-プンにできる

「負けるが勝ち」の言葉さえどこかへ置き忘れてきたようだ

 

けんかのあとは心晴天

けんかのあとは心青天

とっても爽快

明日への元気がわき起こる

明日へのパワ-がみなぎる

 

そして今 ふと気づく

けんかできるのは 元気な証拠

けんかできるのは 両者が正直である証拠

けんかできるのは そういう間柄である証拠

けんかできるのは 仲の良い証拠

 

そして今 私は自分に言い聞かす

「自然人であれ」

「自然人であり続けよう」と

 

人生はバトル

「負けるものか」と心の中で自分を励ます

 

今日もバトルは続く

このバトルがいつまでも続くことを願いながら

2013年7月22日月曜日

嬉しい夏休み


 全国のほとんどの小中学校では、終業式が終わり夏休みに入りました。私も心ウキウキ弾んでいます。少子化になっている日本も、夏休みには子供達の姿が町のあちこちで見られます。子供達の元気な声も聞こえてきます。社会はいろんな世代で構成されています。世界一の長寿国となった日本ですが、高齢者ばかりが目立つというのは淋しい感じです。団塊の世代が仕事から解放されて、元気なシニアとして高齢社会をリ-ドしてくれていますが、何といっても未来を担う若者や子供達の存在が気になります。

 私には孫がいません。私のすべての友人には、孫が何人もいます。夏休には里帰り里帰りと日本中に帰省ラッシュが起こります。友人達は「大変 大変」と言いながらも、子供家族が帰省するのを楽しみにして待っています。

 父、母が健在だった頃は、夏休みになると、東京から車で何時間もかけて帰省しました。行き帰りの道中も旅行気分で楽しいものでした。甘えん坊の私は、子供ともどもこの時ばかりと大いに甘えました。スイカやとうもろこし、フル-ツポンチ、みんなの大好物を用意してくれる母のスケ-ルの大きさには、今も笑いがこみあげます。軽トラックで売りに来る大玉スイカをたくさん買って、納屋にころがせていました。とうもろこしは合宿所のように、田舎の家にはある大きなザルいっぱい茹でてくれました。フル-ツポンチは、何人家族かと思うほどたくさん作ってくれて、みんなお腹いっぱい食べました。楽しい思い出です。

 今、孫のいない団塊夫婦と八十八歳という高齢のまんたん(義母)の三人は、静かな夏休みを迎えています。

2013年7月21日日曜日

人生の節目


 長いようで短く、短いようで長い人の一生ですが、人それぞれに人生の節目はいくつかあると思います。人生の折り返し地点を遥か前に通り過ぎた私は、今立ち止まり、自分の歩いてきた道を振り返っています。いくつの人生の節目を乗り越えてきたのでしょう。

 日本が戦後の混乱期から少しずつ脱皮している時代に生まれた私は、親の愛情、庇護を受け、成人し社会人となりました。幼稚園から始まり、何回もの入学・卒業があり、それも人生の節目ですが、まず人生の大きな節目といえば、やはり結婚です。親の羽の下でのぬくぬくと居心地のよい暮らしから、渦巻く荒波の中へ飛び込みました。何の保証もない愛情という目に見えない絆だけを信じて、まるで薄氷の上を歩くような、人生の大きな節目をくぐり抜けました。

 次の人生の大きな節目は、自分の命をかけて臨んだ新しい命の誕生です。自分の体を通して親になるという人生の大きな節目は、二度くぐり抜けました。神秘的な新しい命の誕生は、過去から現在へ、そして未来へとつながる命の連鎖です。男性には申し訳ありませんが、自分の体を通して親になるという人生の大きな節目は、まるで目に映るすべてが、今迄と違って見えたのでした。親になってからの私は、子供達がそれぞれの人生の節目をくぐり抜ける時、子供のそばにありました。そして姉や父、母、愛犬達、大切な人達との別れという人生の大きな悲しい節目もありました。

 子供達が社会人となり、手の届かないところへ羽ばたいたあとは、親としてできることといえば、子供の健康と無事を願い祈ることでした。子供達が、いつか、共に生きていこうという誰かに出会い、その人生を歩き出す時は、子供にとっても私達親にとっても、人生の大きな節目だと捉えていました。いつの時代でもそうだと思いますが、時代の移り変わりは、この人生の大きな節目の捉え方も、人それぞれ違うということを、私に気づかせてくれています。人はいろいろ、人生の大きな節目の捉え方もいろいろ、一番身近な夫や子供さえ、自分という人間から見れば、己ではありません。

 こんな歳になってこんなことに気づくとは、はたまた私は、世間知らず苦労知らずの箱入りおばあさんなのでしょうか。

2013年7月20日土曜日

「ONARA」


ONARAは屁 

屁はONARA

 

赤ちゃんのONARAはプップップッ

とってもかわいいプップップッ

つぶらな瞳でほほえんで

ニッコリニッコリほほえんで

ほんとにほんとに愛らしい

 

神々しい女性(ひと)

それは新妻

ONARAをしない女神です

 

新郎 豪快ブ-ブ-ブ-

さてさて先は大物か

一国一城 主です

 

手術のあとのめでたいONARA

医師から「よかったですね」とほめられて

堂々快挙の元気なONARA

 

何十年の月日が流れ

結婚記念日 忘れるほどに遠ざかり

新郎新婦も 普通の人となり候

 

その存在さえも忘れがち

威風堂々ONARAが通る

 

ここまで来たら大したものだ

あっぱれあっぱれ

心も体も伸びやかに

 

おまえ百まで わしゃ九十九まで

 

2013年7月19日金曜日

親孝行(5)


 先日、ケアマネ-ジャ-さんの案内で、有料老人ホ-ムへ見学に行ってきました。介護付有料老人ホ-ムなので、最期迄安心して暮らすことができます。まんたん(義母)も一緒に行きました。

 立派な建物で入ってすぐのところに広い応接間があり、そこでパンフレットを見ながら説明を聞きました。超高級有料老人ホ-ムではありませんが、ワンランク上のリタイアメント・ホ-ムということで、入るなりその雰囲気が漂っています。まんたんは「ホテルみたい」と言って興奮しています。実は私は以前この有料老人ホ-ムへボランティアで寄せてもらっていたのでよく知っています。入居されていた何人かの人達と親しくお話をさせて頂いていましたが、皆様高齢の方達だったので、今はもうおられないようです。みなさんのお顔が懐かしく思い出されます。共用施設も広く立派です。廊下もゆったりしています。ダイニングル-ム、大浴場、多目的浴場(ウェルネス温水槽)、フッィットネスル-ム、理美容室、喫茶室、図書室、会議室、パソコンル-ム、カルチャ-ル-ム、カラオケル-ム、麻雀室、屋上庭園、どれを見てもゴ-ジャスです。八階建で102室あります。二人部屋も少しありますが、ほとんど一人部屋です。現在入居されている方は、圧倒的に女性が多いとのことでした。陶芸、俳句、書道、茶道、絵手紙、英会話など、サ-クル活動も活発に行われています。ワンル-ムタイプの居室から夫婦でゆったり過ごせる居室まで、7形式11タイプあります。3タイプの部屋を見せてもらいました。バス・トイレ付きで、家具、冷蔵庫、洗濯機などおける結構な広さでした。和室と洋室がある部屋は、ゆとりがあって一人住まいにはぜいたくな広さでした。このホ-ムは入居一時金のいらない月払い方式なので、年金がある人ならそんなに厳しい支払いではないように感じました。

 家へ帰って、まんたんに感想を聞くと「私には立派過ぎる、身分不相応」とのことで、高齢になり残りの人生を、毎日レストランで食事するようにおいしいものを食べて、好きなことをして趣味を楽しみ、優雅にゆったり過ごせるパラダイスでの生活を推薦しようとした、私達夫婦の目論見は消えました。

2013年7月13日土曜日

知恵比べ


 マンションの12階に住んで早10年になりますが、年々鳩の糞害がひどくなってきました。一週間も留守にすると、ベランダに糞がたくさんたまります。掃除が大変です。きれいにしてもすぐまた元通りになってしまいます。どこの家でもそれぞれ鳩対策を講じています。ネットでスッポリ覆い、まるで人間が籠の中の鳥になっているようなお宅もあります。にぎやかにキラキラギラギラ飾り物をぶらさげているお宅もあります。私の家では、入居した時から、空のペットボトルに水を八分ほど入れてベランダにたくさん並べました。鳩が時々飛んできて時々糞をしていきますが、まあそのぐらいは仕方ないとあきらめて掃除をしていましたが、最近は辛抱できなくなりました。
 

  ホ-ムセンタ-へ行くと、防鳥対策グッズがたくさん並んでいました。その中から鳩がいやがる臭いの薬と、鳩が留まれないようにする突起物がたくさん突き出ているシ-トと、細くて強い糸を買いました。ベランダの端から端へ糸を張り、荷造り用のビニ-ルひもを30センチぐらいに切って糸へくぐりつけ、吹き流しをたくさん作りました。


 


 


 


 薬とシ-トとペットボトルと吹き流しでベランダはとてもにぎやかになりました。吹き流しが風になびいてきれいです。我が家の風物となりました。効果ありで今のところ鳩はベランダへ来ていません。これからも鳩と人間の知恵比べが続きそうです。

2013年7月12日金曜日

遠き日のこと -つづき-


生まれたばかりの我が子は、私の歌う「こんにちは赤ちゃん」に聞き入っている風でした。胎内にいる時から親の声が聞こえているそうで、母親の歌声だとわかって聞き入っていたのかもしれません。

   

「こんにちは赤ちゃん あなたの笑顔

    こんにちは赤ちゃん あなたの泣き声

    その小さな手 つぶらな瞳

    はじめまして わたしがママよ

 

    こんにちは赤ちゃん あなたの生命(いのち)

    こんにちは赤ちゃん あなたの未来に

    このしあわせが パパの希望(のぞみ)よ

    はじめまして  わたしがママよ」

 

 母親になってからは、毎日子供達に童謡を歌ってあげたので、すぐ子供達も一緒に歌うようになりました。ニュ-ファミリーと呼ばれた私達家族は、私のピアノと夫のギタ-でしょっちゅう家族音楽会を開きました。夫は十年間単身赴任をしていたので、私達三人は、寝る時に歌詞の始まりが、あ・い・う・え・お・の順に歌い出すことをゲ-ムのように競い合って歌いました。

 そんな楽しいにぎやかな暮らしが続いていましたが、母の突然の死から、私は歌を忘れたカナリアになってしまいました。毎日の生活の中で鼻歌が出るような心境から遠のいてしまいました。母の旅立ちからもうすぐ二十年です。母から教えてもらった歌の数々、母の大好きだったあの歌この歌、そろそろ懐かしい歌を口ずさんでみようと思っています。

2013年7月11日木曜日

遠き日のこと


 遡ること六十年、幼い私は母に連れられて歌のおけいこに行きました。五歳年上の姉がピアノを習っていたので、その先生に歌を習うことになりました。初めての歌のレッスンは「かもめの水兵さん」でした。先生の言われる通りに大きな声でハッキリと歌いました。

  

「かもめの水兵さん ならんだ水兵さん 

白い帽子 白いシャツ 白い服 

波にチャップチャップ うかんでる

 

かもめの水兵さん かけあし水兵さん

白い帽子 白いシャツ 白い服

波をチャップチャップ 越えてゆく

 

かもめの水兵さん ずぶぬれ水兵さん

白い帽子 白いシャツ 白い服

波でチャップチャップ おせんたく

 

かもめの水兵さん なかよし水兵さん

白い帽子 白いシャツ 白い服

波にチャップチャップ 揺れている」

 

先生に「上手、上手」とほめられおだてられ、いい気分で歌いました。今おぼろげに思い出されるのは、恥ずかしがらずに堂々と元気よく「かもめの水兵さん」を歌った幼い私です。それから週一回の歌のおけいこは一年続きましたが、先生が転居されることになり、私の歌のおけいこはとりあえずそこで終わりとなりました。歌の道をずっと続けていたら、ひょっとして大物歌手になれたかもしれません。(?)

 自意識が芽生えるまでの私は、天真爛漫でした。庭に縁台を出して、祖母と家族同様の隣のおばさんをお客さんにして、私は一人歌って踊りました。二人の観客は.拍手喝采してくれます。私は上機嫌で、自分が飽きるまで歌い踊り続けました。他の家族、父や母、兄や二人の姉達は何をしていたのか記憶がありませんが、観客は二人でした。そんな私は、大人になっても掃除をしながら料理をしながら炊事をしながら、鼻歌を歌うのが習慣になっていました。

 子供が生まれたその日から病院で「こんにちは赤ちゃん」を歌って、子供に聞かせました。

2013年7月10日水曜日

親孝行(4)


 いろんなやっかいな手続きが終わり、まんたん(義母)が介護サ-ビスを受けられることになりました。要介護1と認定され、週二回のデイサ-ビスと月二回のショ-トステイを利用したいと考えています。介護申請をしたあと介護認定を受けるために認定調査員の来訪があり、調査委員会を経てから認定結果が出ます。次にケアマネ-ジャ-と面談し相談しながら、どこの事業所を利用するかを決めます。それから事業所の人とケアマネ-ジャ-の来訪があり細かいことを決めます。いろんな手続き書類書きがあり、これを高齢者が一人でするのは難しいと思いました。

 何日はデイサ-ビスに行くとか、何日はショ-トステイに行くとかを、リビングのカレンダ-に書き入れています。まんたんがカレンダ-を見て、月間スケジュ-ルを把握できるようにと考えてのことですが、これが裏目に出ました。一日のうちに何度も質問するので閉口します。五十回は同じ質問を繰り返します。まんたんの質問に答えたあと、まんたんが自室へ行って5分もすると又同じ質問にやってきます。私と夫で根気よく答えますが、昼間は私一人で対応しなければなりません。認知症の典型的な症状です。

 明日はデイサ-ビスとかショ-トステイに行くという前日は、大騒動になります。デイサ-ビスの連絡帳とショ-トステイの連絡帳はそれぞれ別で、当然持っていく荷物も違います。その二つを混同することと、精神面にも情緒面にも異変が起こります。明日出かけるということを理解したあと、どういうふうに行くのか、何に乗って行くのか、何時にどこでどうするのか、帰りはどうなるのか、全てが気になり自分の頭で考え整理しようとしているのでしょうが、それができません。よくわかるように赤のマジックで、持っていくもの、何時何分に迎えのバスが来ることなどを書いているのですが、まったく興奮状態になります。そのせいで眠れなくなります。大騒動したあと「しんどくてしんどくて明日は行けない、休むと言っといて」のセリフです。まんたんをなだめて落ち着かせるのにまた一苦労します。少しは寝ていると思いますが、朝は早く起き出しごそごそと、前日、寝る前に用意したものを、出したり入れたりの作業が始まります。そんなわけで家を出る寸前にもう一度チェックしないといけません。迎えのバスが来てバスに乗り込み、私に手を振って出かけていきます。バスが遠ざかるのを見送る私は「あ~やれやれ今日も行ってくれた」とホッとすると同時に、疲れがドッと出ます。

 デイサ-ビス、ショ-トステイから帰ってくると、今度は躁状態で、大好物のアイスクリ-ムを食べながら、いろんなことを話してくれます。「昼食は何を食べたの?」と聞くと、キョトンとして「何食べたかなあ、魚やったかなあ」と、返事は曖昧です。記憶できていないのでしょう。しゃべり疲れて、緊張して出かけた行事が終わり、こんな日は早目に床に入り、ぐっすり眠っているようです。

2013年7月9日火曜日

私の好きなことば「いいかげん」


 白か黒か、0か100か、決断を迫られた時、私は「いいかげん」が好きですと答えたいと思います。「いいかげんなやり方」「いいかげんにあしらう」など、無責任で悪い印象の方が強いと思いますが、元々は「好い(よい)加減」好ましい加減という意味でした。「いい加減の湯」は、程よい程度で好ましい意味です。

 人との付き合いにおいて「いいかげん」はできません。真摯な態度が大切です。人と人とが信頼し合うことはとても重要です。「いいかげん」では信じ合えません。命に関わることも「いいかげん」にはできません。大切な命が失われることにつながるからです。仕事においても「いいかげん」はいけません。報酬をもらっている以上、責任と義務が伴います。

 私の「いいかげん」は、家事に表れます。もし私の家事を採点する人が来たならば、私の家事は全部「いいかげん」という評価を受けるでしょう。とても100を目指そうとは思いません。それはプロに任せようと思います。女性の役割はたくさんあります。子供を育てながら仕事をし、家事をこなす女性が「いいかげん」にできるのは家事です。食べることは命に関わるので、根本のところは「いいかげん」にできませんが、掃除などは「いいかげん」で済ませないと体が持ちません。主婦役が倒れたら家庭経営は困難を極めます。夫と妻が力を合わせて自分達にできる範囲で充分です。もっともっとと思えばストレスが募ります。「いいかげん」でよしとする自分を作らねばなりません。肩の力を抜いて「いいかげん、いいかげん、これでよし」と思って毎日を生きることが一番だと思います。

2013年7月8日月曜日

本当の夫婦


 縁あって夫婦となった男性と女性ですが、本当の夫婦になれたカップルは、そう多くはいないのではないかと思います。

 私の母は七十五歳の誕生日を迎えたその月に、心筋梗塞であっけなくこの世を去りました。大百姓の一人息子のところへ嫁ぎ、大家族を抱え、働きづめに働き、わがままで短気な夫に苦労しながらも仕え、まるで良妻賢母を演じたかのように一生を終えました。子としての立場から父と母の夫婦を見ると、優しくおとなしい母の性格に乗じて、父は母に甘えていたのだと思います。母の強靭な精神力、寛容さ、忍耐強さなど、人間力が父を上回っていたのだと思います。腕力、力は圧倒的に男性が上ですが、人間力では母に軍配が上がります。母が良妻賢母を演じずに、自分を押し殺さず、自分の本心をさらけ出し、父とぶつかりあって、ケンカもしょっちゅうしながらの暮らしができたなら、父と母は本当の夫婦になれたかもしれません。母があまりにも自分を抑えすぎて、人間から脱した仏心を持った崇高な女性像を理想としていたのかもしれません。

 そんな父と母の夫婦を見て育った私は、子供の頃から武者小路実篤の「仲良きことは美しき哉」を理想としていました。「愛情で結ばれた二人にケンカなど起こるはずはない」と、苦労知らずの箱入り娘だった私は純粋で、本当にそう思っていました。結婚し一緒に暮らし始めて日も浅いうちから、毎日の生活の中で些細なことで夫から文句が出始めました。何を言われても一方的に言われるだけで、私は口答えもせず、母そっくりの妻となっていました。母とよく似た性格(内向的?)は、良妻賢母のように夫に口答えすることなく、子供達の前でもケンカすることなく、亭主関白の夫とおとなしく従順な妻という夫婦像が、長年続きました。夫の暴言に心傷つき、結婚生活がスタ-トした時から私が考えていた「愛情で結ばれた二人にケンカなど起こるはずはない」という思いが揺らぎ始め、自分一人だけの一人相撲をしているのではないかという思いが芽生えました。

 そして子供達は育ち独立し、夫婦二人きりの暮らしが始まりました。私の心の奥底でずっと燻ぶっていた思いが、少しずつ頭をもたげてきました。母そっくりのおとなしく従順な妻である私は、父がそうであったように、わがままな夫をますます増長させるのではないかということに気がついたのです。この時、私は五十歳を過ぎたところでした。夫の暴言に心傷つきながらも、まるで子羊のような妻だった私は豹変しました。「自分に素直になろう。腹が立ったら怒ろう。夫の言った事にハッキリ自分の気持ちを言うべきだ」そして夫と私のバトルは、日常茶飯事となりました。時にはプロレスのようなことも起こります。ピアノで鍛えた私の握力は夫に負けません。万が一の時には、爪も武器になります。噛むという技も発揮できます。私は人間として成長しました。これからの人生、活火山のように生きていこうと決めました。私はパワフルな妻になりました。同時に夫は恐妻家になりました。

 自分の本心を剥きだすことの爽快さ、五十歳を過ぎてから知った自分への忠実さ、夫とぶつかりあい、ケンカしあい、後に拘りを残さないさわやかさ、やっと本当の夫婦になれたような気がします。母は最期まで心の奥底に夫への不満を持ち続け、父は母亡きあと母への想いに涙し、きっと後悔の念に苛まれていたのではないかと思われてなりません。

2013年7月7日日曜日

日本とフランス


 知り合いのフランス人男性は、フランスで日本の忍術道場へ通っています。忍術とは、現代での一般的な意味では、忍者が扱う特殊な技術の事だそうです。漫画「忍者ハットリくん」は有名ですが、フランスでフランス人が集まって、忍者の数多い特殊な技術の修練をしていると聞いて、私は不思議な気がしました。伊賀流、甲賀流という名前は聞いたことがありますが、その技術を今に伝えている実在する流派もたくさんあるそうです。忍者になるための特殊な技術を磨くのでしょうか。彼は、時々日本にある宗家へ行くこともあるようです。

 フランスでは、日本の武道がたいそう人気を呼んでいるそうです。以前テレビで見ましたが、フランスに正統な柔道を広め、柔道家を育てたフランス柔道育ての親と呼ばれる粟津正蔵氏は、1950年に渡仏しフランス在住60年を超え、指導者として活躍されてきました。現在九十歳で現役です。柔道は、フランスで人気のスポ-ツの第三位に上がっています。登録者数は50万人を超えており、剣道や空手も人気があるそうです。

 日本発祥の代表的スポ-ツ「武道」は、現在、武術の稽古を通して精神を鍛えるものとして発展していますが、古来から日本男子は武道のいずれかを選び、心身の鍛錬をしていたのではないでしょうか。心身の鍛錬という言葉の響きにはどこか郷愁を感じます。現代の日本人が忘れかけているような素晴らしい言葉です。

 先日、ニュ-スの中で報道していたのですが、ある地域のデイサ-ビスで、高齢男性の人気を得ているのが、武道を体操に取り入れたプログラムだそうです。剣道、柔道、空手の中から30項目のストレッチ、筋力トレ-ニングメニュ-を作り、道着、竹刀を使ってされていました。七十代~90歳位までの男性方でしたが、みなさん子供の時に慣れ親しんだ武道で、昔を懐かしみながら楽しそうに竹刀を振り上げておられました。女性に比べてデイサ-ビスに来る男性があまりにも少ないことが問題となり、介護支援員の男性が考え出したとのことでした。今ではこのいきいき道場という名前のデイサ-ビスに参加する人の八割が男性だそうです。このデイサ-ビスでは、みなさん座ったままで竹刀を振り上げておられました。高齢者なのでどうしても足腰は弱っておられますが、武道を取り入れたストレッチで、腕や太ももの筋力がついたり集中力も高まるとの説明でした。いろんな分野で武道が取り上げられているのを知って、頼もしく思いました。

2013年7月6日土曜日

徒然に想ううた 短歌三首


手を振って バスを見送り 思い出す

 

      保育園へか デイサ-ビスか

 

 

気がつけば 義母が子となり 我は母

 

      子育て終わり 日々親育て

 

 

高額の 老人ホ-ム あちこちに

 

    電卓たたき 夢は遠のく