2016年6月3日金曜日

お出かけ東京へ(5)鎌倉

 円覚寺を出て踏切を渡ると東慶寺です。東慶寺へは30年ほど前にも来ています。御朱印はもらっているので、山門前で写真だけ撮ってパスすることにしました。


  
私達と同世代と思われる4~5人の女性グループから「写真撮ってもらえますか」と頼まれ、ポアロ(夫)が撮ってあげました。すると「奥さんとお二人、写真撮りましょか」と言って下さったのですが、「ここは縁切り寺ですからいいですわ!」とポアロが言うと「え-そうなんですか」と驚かれて、皆で大笑いしました。東慶寺は北条時宗の夫人が1285年(弘安8年)に開創しました。別名駆込み寺です。封建時代女性の側から離婚できなかった時代に、この寺に駆け込めば離縁できるという女人救済の寺でした。明治に至るまで600年ほどその役割を担いました。

私の若い頃からの愛唱歌の一つです。
「今日鎌倉へ行ってきました
 二人で初めて歩いた町へ
 今日のあの町は人影少なく
 想い出に浸るには十分過ぎて
 源氏山から北鎌倉へ
 あの日と同じ道程で
 たどりついたのは縁切寺」

そうなんです。東慶寺は歌にも歌われる縁切寺なのです。
「ちょうどこの寺の山門前で
 君は突然に泣き出して
 お願いここだけは止してあなたとの
 糸がもし切れたなら生きてゆけない
 あの日誰かに頼んで撮った
 一枚切の一緒の写真
 収めに来ました縁切寺」

いつでも歌詞がスラスラ出てきます。
「君は今頃幸せでしょうか
 一度だけ町で見かけたけれど
 紫陽花まではまだ間があるから
 こっそりと君の名を呼ばせてください
 人の縁とは不思議なもので
 そんな君から別れの言葉
 あれから三年縁切寺」
しみじみする歌です。心の中で歌いながら東慶寺をあとにしました。

次に東慶寺の南側にある浄智寺へお参りしました。



浄智寺へは初めてきました。浄智寺が創建された13世紀終わりごろの鎌倉は、北条氏の勢力がきわめて盛大で禅宗がもっとも栄えた時期です。執権として有名な北条時頼の三男宗政が29歳の若さで1281年(弘安4年)に亡くなり、その後政宗夫人が一族の助けをえて寺を起こし、亡夫と幼少の師時を開基にしたのだそうです。室町時代ごろには主要な建物や数多い塔頭が建ちそろっていたものの、戦国時代から江戸時代にはいると、鎌倉は農漁村になってさびれ、寺院の多くもしだいにかつての繁栄ぶりを失います。江戸時代の後期ごろには残っていた建物も、1923年(大正12年)の関東大震災でほとんどが倒潰し、現在は三門・楼門と新しい仏殿があります。寺の奥丘には洞窟がいくつも掘られてそれぞれに仏像が祀られており、長い歴史を感じました。時代とともに移り変わる寺の姿は、感慨深いものがあります。


上階に鐘があるめづらしい門









  最後に庫裏へ伺い御朱印をもらいました。大黒さんが書いて下さったのですが、私は予め予習しておいたことを尋ねました。「このお近くに映画監督の小津安二郎さんが住んでおられたと聞いているのですが近くですか?」大黒さんは「横の道をずい分入っていった所ですが、今は別の方が住んでおられるのでわからないと思いますよ」とおっしゃいました。小津安二郎監督が亡くなられたのは、1963年(昭和38年)のことで、すでに50年以上経っています。でもその家は今もその姿をとどめているとのことで、今回の鎌倉への旅に大満足の私です。小津安二郎監督の愛した鎌倉、住んだ鎌倉です。まるで追っかけをしているような気分で、古都鎌倉を歩きました。 

寺の横にある源氏山へ続く道を後にして次の寺へ向かいました。



この道の奥に小津安二郎さんが住んでいた家があるそうです

0 件のコメント:

コメントを投稿