2013年6月30日日曜日

終の住み処


 先日テレビで「最期を迎える所は病院か施設か」という内容を放送していました。家族、医師、医療従事者、介護従事者が集まって会議を重ねた結果、本人(九十四歳女性)は「最期は家で迎えたい」との希望を持っていましたが、結局は施設で最期を迎えました。病気の場合は選択の余地がありませんが、それでも本人が「最期は家で」と望めばひょっとして叶えられるかもしれません。

 終の住み処を考える時、結局はお金です。超高級老人ホ-ムは、億のお金がかかります。高級老人ホ-ムは、五千万ほどかかります。年金で賄おうとすれば、入居できるところは、レベルを下げなければなりません。たくさんの入居希望者で入りたい時にすぐ入れるわけではありません。自宅におれる限りはおりたいのがみんなの心情です。しかし子供に迷惑をかけたくない、自分のことは最期迄自分で何とかしたいと思えば、仕事を終える頃には青写真を作っておかねばなりません。

 以前私がボランティアで訪問していた有料老人ホ-ムは、入居金は低くしてありますが、月払いが高くなります。入居されている方は、経済レベルが高い人達でした。みなさん自宅はそのままにして入居されています。年金だけでは賄えません。上乗せ分を貯蓄から切り崩していかねばなりません。費用が高い分、中身は充実しています。老後を楽しく過ごせることができます。子供に頼らず自分の力で最期迄生きていこうと、考えておられる人達でした。有料老人ホ-ムですから、最期迄安心して暮らせてみとりまでしてくれます。

 世界一の長寿国日本、少子高齢社会を突き進む日本では、これからはホ-ム、施設で最期を迎える高齢者がどんどん増えていくのではないでしょうか。

2013年6月29日土曜日

早いものです


 一年が過ぎるのがあっという間です。一年を感じる速さは1/年齢です。年齢を重ねるごとにその速さは早くなります。子供の時に感じた一年の速さを懐かしく思い出します。ゆっくりとゆったりと時間が流れていました。その時間達に包まれて子供達は成長していきます。
 一年前の今頃、ブログに書いた泰山木は、今年も美しく大輪の花を咲かせています。梅雨の季節によく似合うあじさいの花も満開です。私の家から、父や母が愛した泰山木やあじさいの花がよく見えます。泰山木の花とともに思い出される父と母の笑顔です。あじさいの花とともに思い出される父と母の優しさです。




2013年6月28日金曜日

「手」


私は自分の手をつくづく眺める

太い指 ごっつい手

ふしくれだった手 かっこ悪い手

でもこれが私の手

母によく似た手

働き者の手

私の大切な手

私の愛する手

 

私は自分の手に見入る

何十年も働き続けてきた手

鉛筆を握り勉強に明け暮れた手

ピアノを恋人に弾きまくった手

私の大切な手

私の愛する手

 

私は自分の手を撫でる

荒れてカサカサした手

年輪を刻んだ手

愛する人と仲良くつないだ手

愛する子らを抱きしめた手

愛しい私の手

長いつきあいの手

 

私は手を組む

ピアノで鍛えた私の手

私は右利き

右手に負けない左手

同格の右手と左手

その手を組んで私は祈る

たくさんの人との絆を結んだ私の手

過ぎ行く人々に感謝

そして未来に願う

2013年6月27日木曜日

学ぶを知る(2)


 先日、華道の家元へ第二期の勉強に行ってきました。第一期の緊張もほぐれ和気藹々と五日間の研修が終わりました。前回はみんなの様子もわからず、自分だけが落ちこぼれるのではないかと心細く心配しましたが、みんなが似たり寄ったりの経験と実力で、楽しく参加できました。

 親子以上の年齢差もある若者達からは、親世代、祖母世代と幅広い年齢の人達が集まっているので、いろんな意味でとても面白いクラスです。前回も親睦食事会がありましたが、今回はビアパ-ティーです。飲んで食べてしゃべるだけではありません。英語の歌詞で歌い踊るのです。これにはちょっと気後れがしました。若い人達についていけません。それにアルコ-ルも飲めません。参加すれば見ているだけでもきっと楽しかったと思いますが、折角出席して見ているだけではみんなが興醒めするでしょうし、今回は欠席しました。

 十二年前、五十代の私は、ホ-ムヘルパーの資格を取るために学校へ行きましたが、その時も若い人達と一緒に勉強しました。そして居酒屋での食事会にも参加しましたが、その時の私に比べやはり十二年の歳月には大きな違いを感じます。講義を受ける中で、今回は視覚聴覚の衰えを感じました。先生の声が聞き取れないという場面がありました。先生の冗談に皆が笑う時、聞き取れなかった私は意味もわからず苦笑いするだけです。恥ずかしい限りです。講義には板書がいっぱいです。メガネをかけていても小さな文字それも癖のある字は読みづらかったです。

 修了アルバムのための記念撮影が早々とありました。最前列の中央に教授陣が五人座られたのですが、私は名簿が二番なので最高齢の教授さんの隣に座りました。写真ができてきたら、私は生徒達より先生方に年齢が近いので、きっと教授と間違われるだろうなと、心の中でおかしくて噴き出してしまいました。

 いけ花をいける時、まず自分はどんないけ花をいけたいのか考えます。そしてどんな花材を選ぶのか決めます。もちろんテ-マが頭にあります。先生の話された中に「自分の好きな花を好きなようにいけて下さい」というのがありました。私はくちなしの花が大好きです。みずばしょう、カラ-も真っ白な花です。純粋無垢を思わせる花です。そのことをイメ-ジして、カラ-を「主」と決め足元に低くいけ、シマフトイを「主」に呼応する「用」とし、ナツハゼをあしらいにしました。優しい感じの自然的表現のいけ花ができあがりました。そして先生の手直しを受けました。先生は私がいけた優しい感じのナツハゼを幹の太い面白い枝振りのものに変えました。そこで手直しを見に来ていたクラスメイト達から拍手がわき起こり「感動して涙が出る」「神の手のよう」「宗教的」という言葉が出ました。先生がたった一本のナツハゼを入れ替えただけで、私のいけたいけ花は生命力あふれるものに変わりました。先生から頂いた言葉は「山の中を歩いている時、小さな湖を見つけ、そこに真っ白なみずばしょうがひっそりと清楚に咲いていたのですね」でした。私が思い描いていけたいけ花を、その通りの言葉で言ってもらって本当に嬉しかったです。

  いけ花は文化です。その時代に生きる人々と共に成長します。変わります。いろんなきまりごとがあるのはそれぞれの流派によって違いますが、根本はいける人の思いをいけ花に表現することだと思います。

 午前は九時から講義で、午後は五時まで実技です。たった五日間ですが凝縮された中身で、疲れはあるものの気持ちはとても爽快でした。

2013年6月25日火曜日

親孝行(3)


 日本が世界一の長寿国となり、少子高齢社会を突き進む中、2000年に介護保険制度がスタ-トしました。高齢者の介護を家族だけに任せるのではなく、国で社会でお世話をしましょう。そして財源として介護保険料を国民に負担して下さいとの主旨です。介護保険料を払っている国民は、その一割を負担して、堂々と誰にも気がねすることなく、国や社会に世話をしてもらえるのです。

 私の友人、知人達も、親を施設、ホ-ムに預けています。昔言われた「親の世話は長男がするもの」は、今は死語になっています。しかし私達夫婦の心の内は複雑です。認知症と診断されたまんたん(義母)は、高齢者とはいえ体は立派なものです。私達と同じ食事を完食し、足は達者で思うように動け歩けます。外見は健康体そのものです。そのことが逆に災いして、まんたんは自分の病気(認知症)を受け入れることができません。「自分は八十八歳の今も何でもできる。一人暮らしもできるはず」と思っています。先日も大きな旅行バッグを肩からかついで「さあ、よ-いどんだ」と言いながら走り出したのには、驚きとともに笑いがこみあげました。

 人間は年齢を重ね、足腰が弱くなり身体全体が徐々にいたんでくると、老いを意識し最後のステ-ジを考え、その心づもりや準備をしようと思うのでしょうが、まんたんは、頭と体のあまりにも違うアンバランスが問題です。友人、知人達の親は、一般的によくある全身への老いのいたみです。しかし一人暮らしができなくなったという状況は同じです。それなのに私達夫婦の心境は何故複雑なのか。いつももやもやした気持ちが渦を巻いています。意を決して高齢者支援包括センタ-へ相談に行ってこようと思います。

2013年6月16日日曜日

親孝行(2)


 ラジオから聞こえてくる「親孝行」について、私はふと立ち止まり考え始めました。自分が親になって、子供に親孝行を期待する、望むなど少しも頭にありませんでした。ただただ子供の健康と幸せを願い祈るだけでした。子供からの見返りを期待する、望むなど考えられませんでした。親の子供への愛は無償の愛だととらえていました。しかし世の中、一般的には、どちらの親が多いのでしょう。親が経済的に、あるいは健康でなくなり身体的にも困窮し、子供に余裕がある場合は、親は子供に期待し望むかもしれません。私が子供の健康と幸せを願い祈り、子供に見返りを求めないということは、現在の自分がある意味恵まれているからかもしれません。

 まんたん(義母)と一緒に暮らし始めて早四ヶ月が過ぎ、少しずつ三人暮らしに慣れてきましたが、心の奥底に「私達は親の犠牲になっている」という思いが潜んでいます。まんたんは、夫が亡くなった時には、二人の息子は独立していて、その後約四十年間、独身に戻り、自分の好きなこと、したいこと、いろんな趣味を楽しみ、旅行も楽しみ、生きてきました。ところが突然初期の認知症と診断され一人暮らしができなくなり、私達と一緒に行動を共にすることになりました。私達はあと少しで定年を迎え、これから自分達のしたいこと趣味を楽しみたいと考えていましたが、現在の状況では、私達のこれから先が閉ざされたようで、暗い気持ちになります。このままでは、親の犠牲になって、私達のセカンドライフが消えてしまいそうです。今の私達は、無理をして親孝行をしているのかもしれません。無理は続きません。何かいい方策をと目下夫婦で考えているところです。

2013年6月15日土曜日

親孝行(1)


 先日、ラジオで親孝行について話していました。現代の人は、親孝行するにも

  お金がない

  時間がない

  何をしたらよいかわからない

というアンケ-ト結果が出たと言っていました。

「孝行のしたい時分に親はなし」とよく言われますが、子がお金、時間、に余裕ができる年齢になれば、親は高齢となりそろそろ去る頃になるからでしょう。
 

 私は結婚する日の前夜、親に手紙を書きました。今までの感謝と、自分が幸せになることが親孝行につながることだと書きました。そして旅行に飛び立つ寸前に母に手渡しました。飛行場からのバスの中で母は手紙を読み、涙がこぼれて泣けて泣けてと、数年経った頃に私に言いました。二十代の私が書いた手紙は、長年母の手元に大切にしまわれていたことを母亡きあとに知り、今は私が思い出の品として持っています。

 結婚してからは、母の日、父の日、中元、歳暮とささやかなものを贈りました。決して高価なものではありません。親に心配をかけないように、私のことで親に苦労をさせないという私の気持ちは、父、母を見送る時まで揺るぎませんでした。

 自分が親になって、親は一生子供のことを心配し気にかけているということを痛感しています。親業は自分が生きている限り続きます。親の立場から見れば、子供がお金や時間を使い、何かをしてくれることを期待するなどありません。とにかく健康で子供が自分の思うように生きていってくれることを望んで願っているだけです。

2013年6月14日金曜日

私の好きなことば「底力」


「底力」とは「いざというときにでる強い力」と辞書にあります。

普段の平穏な暮らしの中では表面に出てこない、誰もが内に備えている見えない力だと思います。 

二年前の東日本大震災で、言葉で言い表せないほどの打撃を受けた人達も「底力」を出して闘っています。人間が持っている「底力」は無限大のように思えます。

「人生楽ありゃ苦あり」

「楽は苦の種苦は楽の種」と言われているように、人の一生には楽と苦が積み重ねられているのではないでしょうか。 

誰もが持っている「底力」であれば、人生の困難に負ける人はいないはずです。ところが日本では年間三万人ほどの人が自ら命を絶っています。本当に残念なことです。 

自分の前に大きな壁が立ちはだかった時、自分の内に秘められている「底力」はどんなものなのか、それを客観的に見ることができたらいいなと思っています。

2013年6月13日木曜日

「かあこちゃんの毎日」


 「大好きな美しい虹をつかむために、虹のようにきれいな心になりたい。きれいな心になるために、あたたかい心とかんがえる心を持ちたい」そうかんがえるかあこちゃんは、「されていやなことはしないように、されてうれしいことはするように」と心がけています。虹の七色と同じ七色のふうせんを、いつもそばにかざっています。「あいさつ」はとても大切なことばです。「ありがとう。ごめんなさい」も大切なことばです。笑顔も宝物です。かあこちゃんにとって、大切なもの、宝物が増えてきました。かあこちゃんは、困っている人がいたら自分にできることがしたいと思っています。お手伝いは家でも学校でもどこでもできました。 

 学校でマラソン大会がありました。スタ-トからゴ-ルまで、走り続けるのはとてもしんどいことです。かあこちゃんは、走りながらかんがえています。「しんどくても最後まで頑張って走り抜くというのも、お母さんが言っていたかんがえる心につながっているんだわ。毎日の中に、いくらでもあることなのね。あたたかい心とかんがえる心を持ちたい。そしてきれいな心になりたい。そうすればいつかきっと大好きな美しい虹をつかむことができる」かあこちゃんの瞳は、いつもキラキラ輝いています。

2013年6月12日水曜日

「かあこちゃんと七色のふうせん」


 大好きな美しい虹をつかむために、虹のようにきれいな心になりたい。きれいな心になるために、あたたかい心とかんがえる心を持ちたい。そうかんがえるかあこちゃんは「されていやなことはしないように、されてうれしいことはするように」と心がけています。  

 

大好きだったおじいちゃんが、病気になり何ヶ月も病院へ入院しとうとう亡くなってしまいました。かあこちゃんは、悲しくて涙がとまりません。「おじいちゃんはどこへ行ってしまったの」お母さんにたずねました。

「おじいちゃんは、空で、あの美しい虹につつまれて、空からみんなを見守っていてくれるのよ」

「おじいちゃんは、美しい虹をつかまえたのね。あたたかい心とかんがえる心を持っていたおじいちゃんは、きれいな心の人だったのね。虹のようにきれいな心の人だったのね。わたしもおじいちゃんのような人になりたい」かあこちゃんの涙は、かがやきに変わりました。

 

 かあこちゃんは、虹の色と同じ七色のふうせんを作ることにしました。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色のふうせんです。いつも七色のふうせんを、自分のそばにかざるようにしました。美しい虹に手は届きませんが、七色のふうせんをさわっていると、何だか虹に手が届くような気がします。「おじいちゃんは、虹につつまれて、空からみんなを見守っていてくれるのね」かあこちゃんは、おじいちゃんとの楽しい思い出を思い出しています。おじいちゃんが、いつもそばにいてくれるような気がしています。

 

 七色のふうせんは、かあこちゃんの宝物になりました。かあこちゃんのそばで、七色のふうせんがフワフワゆれています。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、七色のふうせんです。虹の七色と同じ七色のふうせんです。かあこちゃんは、あたたかい心とかんがえる心の一歩を歩き始めました。「あたたかい心とかんがえる心をもちたい」かあこちゃんは、きれいな心の道を歩いています。

2013年6月11日火曜日

「かあこちゃんの探しもの」


 かあこちゃんの大好きな七個の虹のふうせんが、空へ上がって消えてしまってから、かあこちゃんは、いつも七個の虹のふうせんのことを考えています。

「虹のふうせんはどこへ行ってしまったのかしら。きっと大きな虹の七色にくっついてしまったんだわ。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」かあこちゃんは、七色の名前を思い出しながら言いました。

 

 かあこちゃんは、お母さんにたずねます。

「なぜ美しい虹の色は、きれいな心の色と同じなの」

「人のあたたかい心を、赤、橙、黄であらわしているの。人のかんがえる心を、緑、青、藍、紫であらわしているのよ」お母さんは、教えてくれました。

 

「あたたかい心が、赤、橙、黄で、かんがえる心が、緑、青、藍、紫なのね」

虹のようにきれいな心になりたいと思っているかあこちゃんは「きれいな心になるには、あたたかい心とかんがえる心がいるんだわ。あたたかい心ってどんな心かしら」

(されていやなことはしないように、されてうれしいことはするように)と心がけているかあこちゃんは、このことがあたたかい心になるのだと思いました。

 

「もう一つのかんがえる心ってどんな心かしら」かあこちゃんは、いつもかんがえるようになりました。でもそれはとてもむずかしいもののような気がしてきました。

かあこちゃんは、お母さんにたずねました。

「かんがえる心ってどんな心なの」

「それはね、かあこが大きくなって、大人になっても、ずっと持ち続ける心なの。いろんなことがあるでしょうし、起こるでしょう。どんなことが起ころうと、倒れないで頑張ろうとする心なの」

かあこちゃんは、少し大人になったような気がしました。

 

「大好きな虹をつかむために、虹のようにきれいな心になりたい。きれいな心になるために、あたたかい心とかんがえる心を持ちたい」

かあこちゃんは、一歩ずつ大好きな虹に近づいているような気がしました。

2013年6月10日月曜日

「かあこちゃんの大好きなもの」


 かあこちゃんは、美しい虹が大好きです。いつも虹のようにきれいな心になりたいと思っています。

「されていやなことはしないように心がけよう。されてうれしいことはするように心がけよう」かあこちゃんは、いつもニコニコしています。あいさつはいつも大きな声で言います。「ありがとう」も大きな声で言います。「ごめんなさい」も大きな声で言えます。かあこちゃんの周りには、お友達が集まってきます。
 

 かあこちゃんは「いつかきっと虹のようにきれいな心になりたい」と思っています。かあこちゃんは、虹をつかんでみたいと思いはじめました。どうしたら虹をつかむことができるのでしょう。かあこちゃんは、お母さんにたずねました。

「どうしたら虹をつかむことができるの」

「虹のようにきれいな心になったらつかめるのよ」

かあこちゃんは、早く虹をつかみたいと思いました。虹のようにきれいな心に早くなりたいと思いました。
 

 ある日、お母さんが七個のふうせんを買ってくれました。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、虹の色です。かあこちゃんは、大喜びです。まるで虹をつかんでいるみたいです。かあこちゃんは、いつも七個のふうせんを持って散歩に行きました。

 

 七個のふうせんを空高く上げると虹のようです。かあこちゃんは、うれしくて何度も手を上げたり下げたりしました。その時です。ふうせんのひもが、かあこちゃんの手から離れてしまいました。「あっ」かあこちゃんは、叫びました。七個のふうせんが、ふわりふわりと空へ上がっていきます。かあこちゃんは、両手を上げて「あ-っ」と叫びました。もう手が届きません。かあこちゃんは、空を見上げています。ふうせんがどんどん小さくなっていきます。「私の虹のふうせんが空へ飛んでいってしまった」かあこちゃんの目から大粒の涙があふれています。

2013年6月8日土曜日

「かあこちゃんのしつもん」


 かあこちゃんは、いろんなことをお母さんにたずねます。

「お母さん、教えて、いじわるしたらどうしていけないの」

「かあこは、いじわるされたらどんな気持ちになるの」

「う-ん、いじわるされたら悲しくて涙が出る」

「そうね、されていやなことはしないようにしようね」

「わかった、そうする」かあこちゃんは、明るく大きな声で言いました。

 

 またかあこちゃんは、お母さんにたずねます。

「お母さん、教えて、うそをついたらどうしていけないの」

「かあこは、うそをつかれたらどんな気持ちになるの」

「う-ん、うそをつかれたら悲しくて涙が出る」

「そうね、されていやなことはしないようにしようね」

「わかった、そうする」かあこちゃんは、明るく大きな声で言いました。

 

 またかあこちゃんは、お母さんにたずねます。

「お母さん、教えて、わるくち言ったらどうしていけないの」

「かあこは、わるくち言われたらどんな気持ちになるの」

「う-ん、わるくち言われたら悲しくて涙が出る」

「そうね、されていやなことはしないようにしようね」

「わかった、そうする」かあこちゃんは、明るく大きな声で言いました。

 

 ある日かあこちゃんは、お母さんと散歩に行きました。

その時、大きな美しい虹が出ました。かあこちゃんは、生まれて初めて見る虹です。

「お母さん、虹ってとってもきれいね、虹大好き」

「かあこも虹のようにきれいな心になろうね」

「虹のようにきれいな心になれるの」

「されていやなことはしないように、されてうれしいことはするように心がけてたら、きっといつか虹のようにきれいな心になれるのよ」

「いつかきっと虹のようにきれいな心になりたい」かあこちゃんは、明るく大きな声で言いました。

2013年6月7日金曜日

「夫への手紙」


何年ぶりのことだろうか

今 私は夫に手紙を書いている

まず始めにごあいさつ

「その後 体の調子はどうですか」

義母の介護が始まり夫の一人暮らしがスタ-トした

仕事を終え食料を買いにス-パ-へ寄る

家へ帰れば自分のために料理をする

食事が終われば後片付け食器洗いが待っている

お風呂へ入ったあとは洗濯だ

洗濯干しにアイロンかけ

夫は単身赴任十年ベテラン選手

夫は一人前の主夫

段取りよくサッサと家事をする

 

しかし四十代の単身赴任とは大違い

還暦越えての単身赴任はつらいもの

 

一ヶ月過ぎたところで体調不良勃発

みぞおち部分に痛みあり

親のためといっても体が悲鳴をあげてはそれまでだ

 

今は人生百年

まだまだ旅の途中

慈愛深き妻が馳せ参じましょう

2013年6月6日木曜日

梅雨の晴れ間


 先日、用事があって、岡山県と広島県との県境に位置する岡山県笠岡市へ行ってきました。車で国道二号線を走り、一時間半ほどかかりました。梅雨の晴れ間のとてもよいお天気で、風もあり気持ちのよいドライブを楽しめることができました。

 道の駅、ポピ-畑の案内表示に誘導され、国道から少しそれて、花を見にいこうということになりました。そこには一面のポピ-畑が広がっています。赤、白、ピンク、かわいらしい色とりどりのポピ-が満開です。今までポピ-の花が咲いているのは見ていますが、ポピ-畑は初めてです。群生のポピ-をバックに記念写真を撮り、ブログ用にも数枚撮りました。
 
 

 ポピ-畑から少し離れたところには、一面黄色の菜の花畑があり、こちらも見事なものでした。一面に広がる黄色の菜の花と、近くの山々との組み合わせは、都会では見ることのできない風景として、私の心にしみこんでいきました。私は田舎生まれの田舎育ち、田舎に来ると田舎の風景が、自分にぴったりだという気がしてとても癒されます。
 
 

 帰りは、瀬戸内海を見ながら、数多くの島々を見ながら、海岸線を走り帰途につきました。

2013年6月5日水曜日

一大事(4)


 荷物を発送した翌日の朝八時に荷物が到着しました。発送した時もそうでしたが、運送屋のスタッフは若者です。リ-ダ-を入れて総勢三人ですが、皆二十代のようです。体育系の人達でハキハキ、テキパキ、爽やかな笑顔を見せて好感度の高い人達でした。若者のきびきびと動く姿、かけ声かけてのチ-ムプレイは、見ている私達を気持ちよいものにしてくれました。こんな若者達に日本の将来を託したいと思わせてくれました。荷入れが終了して、三人の若者は礼儀正しく挨拶し、爽やかな笑顔を残し、トラックに乗り込み手を振って去って行きました。

 翌々日の九時から三時迄トラックを借り、自分達でゴミ出しゴミ運びをしなければなりません。粗大ゴミ、可燃ゴミ、不燃ゴミに分別し、袋に入れたりヒモでくくったりして、夜遅く迄準備をしました。娘も手伝ってくれました。まんたんも少しはできることがありました。翌々日の朝、夫はレンタカ-屋へ行き、予約しておいたトラックに乗り戻ってきました。それからはまた時間との闘いです。三時にはトラックを返す予定で、タンス、食器棚、本箱、大きい物からトラックに乗せます。市のゴミ処理場が山側、海側の二ヶ所に分かれているので、まずは山側の粗大ゴミ処理場へ運びます。一回で運べるかと心配しましたが、トラック満載でロ-プをかけ、夫、私、娘がトラックに乗り、粗大ゴミ処理場へ向かいました。まんたんは留守番です。二十分ほど走った山の中に、粗大ゴミ処理場はありました。

 むせかえるような鼻をつく薬のにおいの中、トラックの荷台からたくさんの粗大ゴミがコンベア-に乗って落ちていきます。マスクをかけた作業員が数人いてゴミをうまく荷台から押し出してくれました。まんたんと四十年近く共にあったたくさんの物達が別れていきました。トラック一台分の粗大ゴミは六千円ほどかかりました。

 急いで戻り、今度は資源ゴミと不燃ゴミをトラックに積み込み、車で十五分ほどのところにある海側の不燃ゴミ処理場へ向かいました。そこでも作業員が数人いてゴミ出しを手伝ってくれました。最後は資源ゴミです。たくさんの本とダンボール箱や紙類です。第二の勤めと思われるシルバ-人材のような男性二人が、愛想よく車の横付けを許可してゴミ出しも手伝ってくれました。こちらの方は四千円ほどかかりました。ちょうど午前の部で二つの大きなゴミ出しが終了しました。

 隣に住んでいる姉が、まんたんと一緒におにぎりと豚汁を作ってくれて、姉宅でお昼を頂きました。何も飲まず食べずに必死にゴミ出しをした私達三人は、久しぶりのおにぎりがおいしくて、豚汁とおにぎりのおいしさに感動し、作ってもらったおにぎりを全部平らげました。

 束の間の休憩のあと、今度は電気屋へ家電リサイクルに出すテレビ二台と冷蔵庫を運びます。トラックを借りたので一回で運べます。書類を書くので少し時間がかかりましたが、計一万二千六百円で引き取ってもらいました。


 急いで帰宅し夫と私でトラックを返しに行きました。ちょうど三時前に返すことができました。レンタカ-代は八千円でした。トラックに数回乗ったことがありますが、お腹にひびく乗り心地も時には面白く、娘は「軽トラックを買おうかな」とまで言い、私達は「農家の手伝いに行くの?」と大笑いしました。

 やっとのことで引っ越し、ゴミ出しが終わり、ホッとしましたが、これから荷ほどきをして、荷物の整理をして、落ち着くまでにはまだまだ時間がかかると思います。

 昔から引っ越し貧乏と言われていますが、今回の引っ越しも三十万ほどかかりました。

 恐れ入りました。

2013年6月4日火曜日

一大事(3)


 荷物を見送り、後片付けに大掃除とてんやわんやです。そこへまんたん(義母)の五十年来の仲良しの女性が訪ねて来られました。九十歳になられる方です。子供が中学生の頃に一緒にPTA役員をした仲間です。その方もずっと一人暮らしをされています。最近は足が弱くなり一人で遠出は出来なくなったと言われます。足が弱くなったとはいえ、大きな声で面白おかしくおしゃべりされるのは昔のままです。私達も結婚以来親しくおつきあいをさせて頂いています。八十八歳のまんたんと九十歳の友人とは、今度いつ再会できるかわかりません。ひょっとして今日が今生の別れになるかもしれません。皆が瞼を熱くしてしばらくおしゃべりに花が咲きました。お互いに「お元気で」の言葉を交わしさよならをしました。

 都市近郊の下町では、現在高齢者それも独居老人それも女性の一人暮らしが増え続けています。昭和三十年代一家に子供が三~四人もいて、たくさんの子供達が元気に遊び回る声が町中に聞こえていました。高度経済成長時に子供達は成人し就職し結婚し、地元を離れていきました。三世代が同居できるような住宅事情ではありません。住宅事情も原因ですが、日本がどんどん核家族化していった時代です。子供達が出て行った町は、親世代だけが残り、夫婦二人暮しを経て、多くの場合夫を見送り、女性の一人暮らしとなりました。そしてその女性達が高齢となり、まんたんのように子供のところへ身を寄せるか、あるいは施設、またはホ-ムへ入所することになります。まんたんの友人も「息子はマンション暮らしで私が行く場所もなく、ここで最後までいられるか、いられなくなったらホ-ムへ入るしかない、それは覚悟している。できることならここでポックリ逝きたい」と言っておられます。近所周辺では、一人暮らしをされてきた方が入所されて、戸閉めの家が増えています。

 日本が世界一の長寿国となり、少子高齢社会になって、日本のあちこちでこんな状況が見られています。夫が生まれ育った町は、子供達の声もなくシ-ンと静まりかえっています。家の中では独居老人が一人静かにテレビの前に座っておられることと思いますが、悲しい淋しい現実です。

2013年6月3日月曜日

家の歴史


 今日、裏の家では地鎮祭が執り行われました。私が中学一年生の頃に建てられた家なので築五十年が過ぎています。私より少し年上の息子さん二人と娘さん二人の家族六人で、家を新築し引っ越してこられました。初代主さんは教員、二人の息子さん達も教員の教育者一家です。息子さんや娘さんが結婚されて家を出て、長男の元へお嫁さんが来て、女の子が三人生まれ、三世代同居が始まりました。長い歳月の中で、おじいさんが亡くなり、次いでおばあさんが亡くなり、孫娘二人は結婚して家を出ていきました。末の孫娘さんは独身でしばらく三人暮らしの平穏な生活がありましたが、一年前に御主人が病気で亡くなられ、家族は二人になりました。そして最近築五十年が過ぎた家は解体されました。大家族の家は、増築を重ねずいぶん大きな家でした。元の母屋から三棟に増えていたのです。解体工事が終わり、更地になり新しい土が運び込まれ、今日の地鎮祭になったのです。

土地は次の世代に受け継がれ、家は新しく生まれ変わります。五十年という長いようで短い家の歴史です。人が生まれ、育ち、共に生きて、一人去り二人去り、家は皆を見守り続けてきました。更地になった裏隣の家の跡を見て、感慨深くなり、人の一生を考えてしまいました。(裏隣の家に新しい家族が増えることを願って)

2013年6月2日日曜日

「春の雨」


春の青空のあとの雨

耳を澄ませば雨の音

目をつぶれば仲間達の笑顔

 

大樹も花達も草達も

春の雨に喜んでいる

お日さまも友達

雨も友達

風も友達

みんな友達

 

しとしと静かに雨が降る

私の心もしっとりと

そっと仲間に呼びかける

みんな雨が降って嬉しいね

虫さんカエルくん どうですか

うれしいうれしい みんなの声がする

 

雨がだんだんやんできた

雲の間から お日さま顔を出し

チュンチュン すずめが鳴き出した

さあさあみんな仕事だよ

鳥達元気に飛び出して

しばしのくつろぎタイム また今度

2013年6月1日土曜日

「マ-ガレット」


庭の白いマ-ガレットが満開です

そよ吹く風に揺れています

気持ちよさそうです

私の心も軽やかになりました


庭の白いマ-ガレットはどこから来たのでしょう

ある日 一輪の花を咲かせました

その日から 来る年ごとにマ-ガレットの花は増え続けています


庭の白いマ-ガレットは あの人からの贈り物

この季節になると美しい花を咲かせます

私に大きな花束を届けてくれます


それはあの人からのメッセ-ジ

いつも見守っているよ

大地にしっかり根を張り

どんどん大きくなって

元気に花を咲かせておくれ


私の心は明るくなりました

私は元気になりました

私の心は強くなりました


庭の白いマ-ガレット

あの人に伝えてほしい

私は前を向いて歩いていくと

私は胸を張って生きていくと

どんな風にも負けないで立ち向かっていくと