私の母は、脳血管性障害による軽い認知症の症状を起こしましたが、姉亡きあと三年もたたないうちに、心筋梗塞であっけなく本当にころっと亡くなってしまいました。四十年間華道の師匠として、最後まで現役を貫いた母でした。
愛する人の最期のその時に接し、私が持った死生観は、自分の最期のその時への取り組みは、自分で選択し、自分が決定権をもつべきというものです。人は生まれた時から多くの人に支えられて、一生を送りますが、自分の考え自分の意志で生きてきたように、一生のピリオドは、自分が納得して打つべきだと考えます。人が生まれて何年生きるかは、千差万別ですが、命あるものは、遅かれ早かれいつかは最期のその時がきます。必ずその時を迎えるのです。それはどんな人間も逃れられない事実です。富を築いた人も、天才と呼ばれた人も、その時は避けられません。その事実を認めたら、誰でも自分の最期のその時は、自分の手の中にあると思いたいと、私は考えます。悲しいかな、不治の病に冒されているとわかった時、それがイコール即「死」と、つながるものではありません。なぜなら人の寿命は、医学だけでは、計り知れないものがあるからです。
病気について勉強し、どんな治療法があるか、そして、その効果はどうかなど研究し、医師と相談しながら、多くの選択肢の中から、自分が選び、納得し、決定すべきだと思います。自分が納得し、積極的に病気に立ち向かった結果がどう出ようと、病気と共存しながら、命ある限り生きようと思います。と同時に、いつピリオドが打たれることになるかは、自分の力ではどうすることもできないので、後悔することのないよう、一日一日を大切に生きようと思います。
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