2012年3月20日火曜日

告知、最期のその時について(2)


  私の姉は、四十歳頃から体調をくずし、入退院を繰り返しました。始めの頃はがんを発見してもらえず、子宮を摘出しても症状はよくならず、検査が続きました。そして、膀胱炎と言われていたのが、膀胱がんとわかるまでずいぶん時間がかかりました。姉の時も、義父と同じように、本人への告知はなされませんでした。姉の夫が、最期まで本人には知らせたくないと決めたからです。膀胱を摘出し人工膀胱をつけました。本人も周りの者も、肝心なことにはなるべく近づかないよう、不自然に明るく振る舞いました。それでも皆、一縷の望みを持ち、奇跡が起こることを願いました。
  両親は、六人の子供に恵まれたものの、すでに二人亡くしているので、また子供に先立たれることを恐れ、必死に抵抗しました。神だのみ、漢方、民間療法、あらゆる情報を集め実践しました。それでも義父の時と同様に、膀胱を摘出したにもかかわらず、がんは、すでに転移していたのです。入退院を繰り返していた姉が、激痛に襲われ再び病院へ戻った時、医師は、痛み止めの注射を脊髄にしました。痛みが和らぐと同時に、姉は、半身不随になりました。当時、私の夫が、仕事の関係で大きな病院の先生方とつきあいがあり、最新の医学情報を収集できる立場にあったので、そのことを姉に少し話したことがあります。姉は、転院したいと言いました。ホスピス病棟もあり、一人苦しんでいる姉に、少しでも楽になってもらいたいという気持ちからだったのですが、義兄は、地方から都市へ転院しなければならないこともあり、医師から余命わずかと知らされていることもあり、むやみに姉に期待を持たせることは、本人にとってむごいことだと考えたようで、その話はうやむやになりました。そのあと姉は、希望も失いベッドに縛りつけられたような日々を送りました。私は私で、姉に関する決定権は、義兄が握っていることを思い知らされ、悲しい気持ちになりました。
 自分の命に関して、すべてを知りたいと思うのは当然であり、こうしたいと思うのも当たり前のことで、自分の命に自分が責任を持つことは、当然であり権利でもあると、その時痛感しました。四十四歳という若さのため、頭はしっかりしたままでそういう状態になり、真実は伝えられないまま、姉は、どんどん孤独の世界へ落ち込んでいきました。きっと医師、夫、肉親など周りの人間皆に対し、不信感でいっぱいだったのではないでしょうか。看病している母に「大声を出して叫びたい」と、チラッと心情をもらしました。夫には「あなたは本当の事を言ってくれなかったわね」と、言ったということを、後になって私は知りました。そして亡くなる前日には、二人の子供に「こんなことになってごめんね」と、言い残し意識混濁になりました。最後の入院は、三ヶ月で終わりました。姉が亡くなったのは、二十四年前のことです。

0 件のコメント:

コメントを投稿