がん告知について、最期のその時について、愛する人の最期を身近で見つめ、そして体験したことを取り上げます。夫の父、私の姉、そして私の母です。
義父は、退職と同時に五十五歳で悪性骨肉腫を発病しました。右足を大腿部から切断するまでの治療・検査の連続の日々と入退院の繰り返しは、家族と共につらく長いものでした。今から三十五年前の日本では、まだ本人へのがん告知はほとんど行われておらず、家族が医師から真実を聞かされ、動揺しこの不幸を嘆きながらも、一縷の望みを持ち、奇跡が起こるかもしれないと、患者本人を、そして自分を励まし闘病生活を送りました。義父の場合は、足を切断することを決める段階で、自分はがんなのだと知ったと思います。それでも最期まで医師や家族にそのことを尋ねませんでした。本人も家族も肝心な部分に関しては、各人が心の中でふたをしていました。義父は、足を切断したあと義足をつけ、松葉杖を使い、しばらくは調子よく自宅で過ごしました。片方の足を失うことになりましたが、この調子で生きていくことができたらそれでよいのだと、本人も家族も皆思っていました。しかしがん細胞は着々と進行しており、足を切断したにもかかわらず、すでに転移をしていて肺へ脳へと進行したのです。再び入退院を繰り返すことになり、本人も家族も明るい希望は持てないのではないかと、少しずつ事実を心の中で認めていくようになりました。それでも誰も口には出さないで、日が過ぎていきました。私が結婚する前に義父は発病し、足を切断した頃に、私は妊娠しました。私のお腹の中で、子供が順調に育っていくのと反比例するかのように、義父の病状は、悪いほうへと進んでいったのです。義父が自宅で療養していた時、私は、八ヶ月でお腹もだいぶ大きくなっていました。義父は、「お腹をさわらせてもらってもいいかな」と、私にたずねました。私は、恥ずかしかったのですが、義父の気持ちを察し承諾しました。義父は、目を閉じ静かに私のお腹を撫でていました。「初孫の顔を見ることはできなくても、この子の命の鼓動を、今、自分は確かにこの手に感じている。会えないのは残念だが、生と死は自然の摂理だ仕方がない」と、義父は考えているのだと、私は感じました。そして私は、臨月を迎え実家に帰り出産することになり、最期になるかもしれないと覚悟し、病院へ義父を見舞いに行きました。義父は、もの言わず静かに微笑んでくれました。義父が亡くなり、本当に入れ替わりに長女が生まれました。
0 件のコメント:
コメントを投稿