2012年6月4日月曜日

墓参


 先日、義母を誘ってお墓参りに行ってきました。義父が眠っている墓所は、私の実家と同じ菩提寺にあります。私の嫁ぎ先のお墓は、新家なので義父だけが眠っています。二百年続く実家のお墓は、私が同じ時を過ごした祖父や祖母、そして父と母が眠っているお墓以外に、多くのご先祖様が眠っている苔むした素朴なお墓があります。
 お墓の前に立つと、現在日本で問題になっているお墓、檀家、寺問題を考えてしまいます。実家は今のところ、兄、甥がいるので、しばらくは墓守ができそうですが、先のことはわかりません。
 地方から都会に出て働き、結婚し、子どもを育て、マイホームも建てて、定年を迎える頃、田舎の親は介護が必要になってきます。そして親が亡くなり、生まれ育った家とお墓が残ります。そうなった時、墓守はいつまでできるでしょうか。子の代では何とかできるかもしれません。でも孫の代では、田舎のおじいちゃんおばあちゃんが元気だった頃、親に連れられて遊びに行ったくらいで、そんなに強い絆があるわけでもありません。そうなるとお墓は無縁仏になるか、子、孫が都会にコインロッカーのようなお墓を作るか、それともお墓を持たず散骨で終わりにするか、これからの日本は今迄と違う形で、亡き人を弔うようになるのかもしれません。
 一昨年夫を亡くした友人は、新家です。一人娘は結婚していますが、今日本で増え続けている子どもを持たないカップルです。友人は仏壇を買いましたが、お墓については悩み迷っています。娘に墓守の負担をかけたくないけれど、高額なお墓を買っても二代で無縁になるのがわかっているから、無駄なことをするのではないかと。彼女が悩み迷うのはよくわかります。先のことを考えれば考えるほど、決断はそう簡単ではありません。
 私は、一年に4回~5回しか行けませんが、お墓参りをすると心が落ち着きます。義母も私も、ぼんやりですがこの先が見えてきています。終焉がそう遠いものではありません。そう思うと、このお墓に眠っている人達と一緒に自分も眠れる所として、終の棲家として愛着が湧いてきます。
 お墓の前に立つと、亡き人たちと生きている者たちとをつなぐ唯一の場所に思えて、心が安らぎます。こんな私の思いから考えると、生きている者が、死後の自分の姿を知るための所として、お墓はとても大切に思えます。

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