NHK連続テレビ小説「あさが来た」が、高視聴率で先日終わりました。連続ドラマは苦手な私ですが、今回は広岡浅子という実在の女性を取り上げたというところに魅かれて、最後まで夢中になって観ました。バイタリティー溢れる強い女性、広岡浅子に人間的な大きな魅力を感じています。どんな時代でもこういう女性がいたということに感動しました。
先日京都市上京区堀川通りに面しているホテルのロビーで、「広岡浅子女史展」が催されているという情報を得て出かけました。
このホテルは、広岡浅子の実家(出水三井家)の跡に建っています。浅子はここで生まれ育ちました。ドラマでは浅子が木に登って落ちた場面があったところです。写真やパネルが展示されていました。出水三井家の広大な敷地の一部に、現在はホテルが建っています。
京都府立総合資料館企画展示として「明治・大正の出水三井家界隈など」があったのですが、それを見ると、遠いようで近い、近いようで遠い、近代の歴史が面白くて興味をもちました。ホテルの敷地内に、石の常夜灯といくつかの庭石が残っており、少しですが昔の面影を感じました。
三井家は、私の故郷伊勢の国は松阪が発祥の地です。江戸時代初期、慶長年間(1596~1614)に、当主高俊がそれまでの武士を廃業して、松阪に質屋兼酒屋「越後屋」を開きました。妻殊法は、商いの才覚があり店を発展させました。長男俊次は、寛永年間(1624~1643)の初め頃、江戸本町に小間物店「越後屋」を開き、これは後に呉服屋となります。次男弘重、三男重俊も江戸や松阪に自分の店を開きます。四男高利は兄俊次の手伝いをしていましたが、兄の死後江戸本町に「三井越後屋呉服店」を開業、京都に仕入れ店を開き、松阪でも采配を振るったそうです。高利は、幕府の納戸御用、元方御用、為替御用を務め、大きな力を発揮しました。十一人の子に「身代一致」を遺言し、総領の指揮の下で共有財産とすることを命じたそうです。これが「三井十一家」設立のもととなりました。浅子は、十男高春「三井出水家」の六代当主高益の四女として生まれました。松阪と所縁のある浅子が身近に感じられます。松阪には三井家発祥の地として、保存されている場所もあります。今も何かにつけて三井家は登場します。最近では立派なシンボルであるライオンの像も建ちました。
ドラマの最終回で、あさが女子学生らに語った言葉は胸を打つものでした。
「みんなが幸せになる武器は爆弾や悪口ではなく、人を幸せにする頭脳と柔らかい心。社会のため、人のために大いに女性の力を発揮していきましょう」
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