2016年4月28日木曜日

徒然に想ううた(自由句三句)


母去りて 父去りて今 一人立ち



親がいる 古稀なる我は まだ子供



親越えて 人育つ道 家無き子

2016年4月27日水曜日

私の好きな言葉「ドンマイ」

 英語で「Don’t mind」「気にしない」「平気、平気」という意味です。エラーをしたこともさることながら、それにこだわり萎縮したりしてはいけない。ミスは早く忘れろ。という励ましです。エラーより、それをくよくよ気にするほうがいっそういけない。早く、心機一転、つぎに備えよ。というやさしいかけ声です。
 ずいぶん前のことになりますが、私がテニスに燃えている頃のことです。気楽な気軽な友人が集まり、時々ですがダブルスの試合もどきを楽しみました。その中にいつも「ドンマイ、ドンマイ」と大きな声で言ってくれる人がいたのです。私はまだ経験も浅く、サーブも思うように入りません。プレーもミスをしがちです。そのたびに「ごめんなさい」を連発していた私です。その人の「ドンマイ、ドンマイ」にいつも気持ちが軽くなりました。

最近読んでいた本に登場していた懐かしい言葉に、いつも私を励ましてくれたあの人の、優しい言葉と人柄を思い出しました。

2016年4月25日月曜日

寄り道(本満寺のぼたん)

 私の日常の食料品のお買い物は三つくらいのパターンがあります。週一くらいは車で大型スーパーへ、その他は近くの小型スーパーかデパ地下、そして時々は気分を変えて自転車で少し離れた商店街へ行きます。今回は御所の北東にある出町柳の商店街へお買い物に行くのに合わせてその近くにある本満寺へ寄り道しました。地元のテレビで「ぼたん満開」のニュースを見たからです。本満寺は日蓮宗の本山ですが観光寺院ではないので、前を通っても中に入ることはありませんでした。
 門を入るとすぐにぼたんの花が見えます。大きないろんな色の花が満開を迎えています。







普段は入れない本堂裏にも庭がありぼたんがメインに植えられていました。その庭の隅に紫色の野草が群生してきれいに咲いていました。名前を忘れたので家に帰って調べました。キランソウの仲間の十二単(ジュウニヒトエ)という野草です。道端で時々見かけますが、こんなに群生して一斉に咲いているのは見事です。







 秀吉が計画した寺町は京都駅の北側から鞍馬口まで南北長く続いています。この本満寺はその北の端に近いところで裏の墓地からは比叡山がよく見えます。




そのあと近くの出町枡形商店街で買い物をして帰りました。

2016年4月22日金曜日

九転十起広岡浅子

 NHK連続テレビ小説「あさが来た」が、高視聴率で先日終わりました。連続ドラマは苦手な私ですが、今回は広岡浅子という実在の女性を取り上げたというところに魅かれて、最後まで夢中になって観ました。バイタリティー溢れる強い女性、広岡浅子に人間的な大きな魅力を感じています。どんな時代でもこういう女性がいたということに感動しました。
 先日京都市上京区堀川通りに面しているホテルのロビーで、「広岡浅子女史展」が催されているという情報を得て出かけました。







このホテルは、広岡浅子の実家(出水三井家)の跡に建っています。浅子はここで生まれ育ちました。ドラマでは浅子が木に登って落ちた場面があったところです。写真やパネルが展示されていました。出水三井家の広大な敷地の一部に、現在はホテルが建っています。




京都府立総合資料館企画展示として「明治・大正の出水三井家界隈など」があったのですが、それを見ると、遠いようで近い、近いようで遠い、近代の歴史が面白くて興味をもちました。ホテルの敷地内に、石の常夜灯といくつかの庭石が残っており、少しですが昔の面影を感じました。



 三井家は、私の故郷伊勢の国は松阪が発祥の地です。江戸時代初期、慶長年間(1596~1614)に、当主高俊がそれまでの武士を廃業して、松阪に質屋兼酒屋「越後屋」を開きました。妻殊法は、商いの才覚があり店を発展させました。長男俊次は、寛永年間(1624~1643)の初め頃、江戸本町に小間物店「越後屋」を開き、これは後に呉服屋となります。次男弘重、三男重俊も江戸や松阪に自分の店を開きます。四男高利は兄俊次の手伝いをしていましたが、兄の死後江戸本町に「三井越後屋呉服店」を開業、京都に仕入れ店を開き、松阪でも采配を振るったそうです。高利は、幕府の納戸御用、元方御用、為替御用を務め、大きな力を発揮しました。十一人の子に「身代一致」を遺言し、総領の指揮の下で共有財産とすることを命じたそうです。これが「三井十一家」設立のもととなりました。浅子は、十男高春「三井出水家」の六代当主高益の四女として生まれました。松阪と所縁のある浅子が身近に感じられます。松阪には三井家発祥の地として、保存されている場所もあります。今も何かにつけて三井家は登場します。最近では立派なシンボルであるライオンの像も建ちました。
 ドラマの最終回で、あさが女子学生らに語った言葉は胸を打つものでした。


「みんなが幸せになる武器は爆弾や悪口ではなく、人を幸せにする頭脳と柔らかい心。社会のため、人のために大いに女性の力を発揮していきましょう」

2016年4月21日木曜日

「もし・・・」


振り返れば
数え切れないほどの分岐点
右へ行こうか
左へ行こうか

三叉路もあった
右へ行こうか
左へ行こうか
それとも真っ直ぐ行こうか

もしあの人と結婚していたら
社長夫人の私

もしあの人と結婚していたら
院長夫人の私

もしあの人と結婚していたら
若後家さんの私

もし作家なら
幾通りもの物語ができたであろう

あそこを少し変えてこんな人生に
ここも少し変えてこんな人生に

人の生きる道はただ一つ
自分の意志で進む道
後戻りはない
前へ進むのみ

前を見よう
未来を見よう

もしやる気があるなら
こうしよう

もし元気があるなら
ああしよう

もしお金があるなら
あれもしたい
これもしたい

夢はふくらむ
妄想はふくらむ

どんどんふくらむ

風船のように

気球のように

そうだ気球に乗って飛び立とう

どこまでも

どこまでも

2016年4月20日水曜日

思いがけない珍客(2)

 お天気がいいので昨日報告した鴨川にいた鹿の写真を撮ろうと出かけました。一昨日遭遇した丸太町橋から北に進みました。荒神橋をすぎ、府立医大裏の大木がある岸辺を進むと数人の人たちがカメラを構えていました。川岸の草むらに2頭の鹿がいました。白い斑点が少し残った若鹿のようです。そのうちの一頭には10cmほどの角が生えかけています。人間が見ていても落ち着いて草を食べています。数キロ川上の山から下ってきたのでしょうか、奈良の鹿に比べて少しやせているようです。


牡鹿のようです小さな角があります

こちらは雌鹿のようです、優しい目をしています
 
昨日報告した鴨川公園の八重桜の写真も撮れました。この川沿いの公園には小さなサッカー場、府立医大のテニスコートなどがあり若者の声が響いています。



春真っ盛りの鴨川ではカラスの子供たち、カルガモのおかあさんと赤ちゃんたち、大きなアオサギ、アユの遡上を待つ魚道などキラキラした風景が見られます。









2016年4月19日火曜日

思いがけない珍客

 先日鴨川のほとりを散歩している時のことです。丸太町通りの橋「丸太町橋」の下の草の中に、二頭の鹿がいたのです。こんな街中に鹿がいるなど想像もしていなかった私は、本当に驚きました。急いで携帯電話を取り出し、今まで使ったことのない携帯電話のカメラで、初めて写真を撮りました。何とか写真を撮らねばという必死の思いで、わけもわからずシャッターを押しました。どんなふうに撮れるのか心細かったので、3枚撮りました。そのあと荒神橋、今出川橋、葵橋まで北方向へ歩き、Uターンして戻ってきました。鴨川公園に、いろんな春の花が美しく咲いていたので、鹿の写真を撮った続きで、花の写真も撮りました。さきほど鹿のいた場所まで戻ったので、また鹿の写真を撮ろうと思いましたが、もう鹿の姿はありませんでした。少しの時間に、二頭の鹿は移動したようです。家へ帰り、ポアロ(夫)に鹿との遭遇を一部始終話し、携帯電話のカメラで初めて写真を撮ったと、得意げに携帯電話を見せました。ところが何と鹿の写真は一枚もなかったのです。かろうじて花の写真はありました。焦点のずれたぼけたものです。初めてのこととはいえ、誰でも撮れるものと思っていた私は、非常にショックでした。意気消沈です。
 鹿と遭遇した日の翌日、私は興奮して英会話教室でそのことを話しました。するとイギリスから来ている男性講師は、鴨川に出現している鹿のことを、多くの人から聞いていると言うのです。イギリスでは、捕獲して食べるそうです。またクラスメイトの一人は、新聞に載っていて読んだとのことです。知らなかったのは私だけでした。情報キャッチが遅れていたことも、またまたショックでした。インターネットで調べると、写真付きでいろんな情報が出ていました。

 残念ながら今回は鹿の写真を載せることができませんでしたが、再度チャレンジしてお見せしたいと思います。

2016年4月18日月曜日

仁和寺御室桜

 先日ニュースで仁和寺御室桜が見頃になっているとの情報を得て、自転車で出かけました。この日はお天気も良く、風もなく、気温は20度あり、サイクリングに最適でした。紫外線に注意をはらい、帽子を深くかぶり、手の甲には日焼け止めクリームを塗って出発しました。久しぶりのチャリダーくらぶで、あるはずの紫外線防止の手袋が見つからなかったのです。京都御苑の西側に位置する下立売通りを通り、途中から下長者町通りへ移り、一路仁和寺へと向かいました。上長者町通りを通り、千本通り、西大路通りを横断し、仁和寺街道へと入ります。そして妙心寺北門の前を通り、仁和寺二王門へ到着です。たくさんの人でにぎわっています。人の流れにのって御室桜の庭園を目指しました。

堀川沿いの八重桜が満開です

西大路の交差点

仁王門に到着

 仁和寺は、京都市右京区御室にあります。真言宗御室派の総本山です。宇多天皇(867~931、第五十九代天皇)の開基です。二王門から中門を通り、御室桜の庭園へ入ります。御室桜は、約200本あり、満開のもの、すでに散り始めたものもあり、いろいろでした。八重桜で、樹高は低く、ソメイヨシノとはずいぶん違った趣きです。この土地の岩盤が固く、深く根を張れないために樹高が低いのだそうです。御室桜の向こうに五重塔が見えて、素晴らしい光景です。多くの観光客が、この眺めに感動して写真をたくさん撮っておられました。


寺内にあった緑色の桜、「御衣黄」という桜



根が浅く背が低い御室桜

五重塔をバックに御室桜

庭園から出てくると、金堂の前でちょうど法話が始まる寸前で、僧侶が立っておられました。桜の名所の多い京都で、最後を飾るのが御室桜といわれています。仁和寺は、世界文化遺産登録されています。

 帰りは下り道で、心地よい春の風を頬に受けての帰途となりました。今日の走行距離は13キロ、所要時間は3時間でした。

2016年4月15日金曜日

移りゆく季節

 今日鴨川を見ながら散歩した時のことです。京都の夏の風物詩である川床の取り付け工事が行われていました。もうそんな季節なのだと、時の流れの早さに驚いています。鴨川川床は、五月一日~九月三十日まで行われます。去年は、初めて家族で川床料理に挑戦し、ブログに写真も載せました。お料理に感動したことを思い出します。もしも、またまたそのチャンスが訪れたなら、ぜひ再度挑戦したいと思います。



  また昨日の夕方のニュースで、鴨川の四条大橋の近くで、1m近くのオオサンショウウオが目撃されたと報じていました。気温が25度近くに上がり、珍客が登場したとのことです。 
 帰り道の二条大橋から鴨川をのぞくと、80cmくらいの大きな黒い鯉が何匹もいたので驚きました。私は初めて見たのです。今頃岸辺に寄ってきて卵を産むそうです。

花たちも、生き物たちも、自然界にいるすべてのものたちが、春を謳歌しているようです。歳を重ねるということは、一年が自分の年齢分の一ということから、時が早く過ぎるように思うのだと、以前何かで読みましたが、今はそれは真実だと感じています。

2016年4月14日木曜日

移りゆく花の姿

 日本の春、四月のお花見も終わり、ソメイヨシノは葉桜となりました。春の嵐が通り過ぎた翌日、家の近くを散策したのですが、二条通りに植えられたハナミズキも開花し、かわいい花が顔を出しています。


 そしてソメイヨシノにかわって、八重桜が満開を迎えています。


 京都市役所前の御池通りのケヤキは、美しい新緑となりました。


鴨川の両岸も遠くの山々も緑に変わりつつあります。


 誰かに教えられたわけでもなく、誰かに指示されたわけでもなく、自然界のものたちすべてが、冬から春へ、春から初夏へと、刻々と姿をかえていきます。私達はその恩恵を受けて、楽しませてもらい、感動を頂きます。輪廻転生を考える時、人間も自然界に存在する小さな一つということを、身にしみて感じます。

2016年4月13日水曜日

思い出の中の歌「朧月夜」

 春の宵、空を見上げると朧月が出ていました。月光という明るさはありません。ぼんやりとかすんでいます。朧月を見ると、子供の時に歌った「朧月夜」が思い出されます。ふるさとの山、ふるさとの川、ふるさとの田園地帯、ふるさとの人々が、映像のように頭に浮かんできます。そしてにぎやかな蛙たちの大合唱が聞こえてくるようです。


 私が子供の頃は、菜種油をとるために、たくさんの菜の花畑があり、黄色一色の美しい光景は、春の風物詩でした。時は流れ、いつのまにか菜の花畑は姿を消していきました。今では、川原や土手、畦道などに、自然に生えた菜の花を見ますが、菜の花畑が広がる景色はないように思います。


 唱歌「朧月夜」は、日本の原風景のようです。作詞高野辰之(1876~1947)、作曲岡野貞一(1878~1941)の名曲です。高野辰之は長野県中野市、岡野貞一は鳥取県鳥取市の出身です。「故郷(ふるさと)」「春が来た」「春の小川」「紅葉(もみじ)」など有名な唱歌が、二人のコンビで生まれています。

   「朧月夜」

菜の花畠に 入日薄れ
見渡す山の端 霞深し
春風そよ吹く 空を見れば
夕月かかりて 匂い淡し

里わの火影も 森の色も
田中の小道を 辿る人も
蛙(かわず)の鳴く音(ね)も 鐘の音(おと)も

さながら霞める 朧月夜 

2016年4月8日金曜日

庭の雑草(八重葎)

 我が家の小さな庭にも、季節折々にいろんな種類の雑草が顔を出します。雑草もかわいい花を咲かせます。その一つ八重葎(ヤエムグラ)について、少し知識を得ることができました。
先日のことです。ポアロ(夫)が一本の草を手にして「この草の名前知ってる?」と聞くのです。雑草について何も知らない私は「よく見る草だけど名前は知らないわね」と答えると、ポアロの蘊蓄(うんちく)が始まりました。

八重葎の密生、4月になって急に出てきました

ドクダミと八重葎

名前は八重葎、和歌にも詠まれているというのです。同じ年齢の私達です。対抗心が沸き起こってきた私は、早速タブレットで調べました。小さなタブレットですが、何でも教えてくれる強い味方です。
 
   「八重葎 しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり」


  恵慶法師(えぎょうほうし・十世紀頃の歌人)の作で、百人一首にもあります。「つる草が何重にも重なって生い茂っている荒れ寂れた家。訪れる人は誰もいないが、それでも季節だけは移り変わり秋はやってくる」というものです。ここに登場する八重葎は、家などが荒れ果てた姿を表すときに象徴的に使われる言葉だと知りました。タブレット勉強を進めていくと、京都の河原院で詠まれたということも知りました。はて河原院とは?河原左大臣と呼ばれた源融(みなもとのとおる・822~895)が、京都六条に造営した豪邸で、大庭園として有名だったとのことです。恵慶法師の時代には河原院は荒れ果て、廃園を好む歌人たちがよく訪れていたと書かれています。鴨川のほとりの五条大橋の近辺で、遺跡として標識が立っているそうなので、早速訪ねてみようと思います。源融は、嵯峨天皇の皇子で「源氏物語」の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれるそうです。源融の和歌も百人一首にあります。

   「みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに」


 百人一首といえば、高校時代の学習でいくつかは記憶に残っています。父の趣味であり、お正月のカルタとりでなじみのあるものでした。子供達も大好きになり、夢中で遊んだものです。父はいつも詠み番で、父の朗々とした声を懐かしく思い出します。

我が家の年季の入った百人一首

  庭の雑草から発展したタブレット勉強は、またまた私の興味・関心・好奇心を呼び起こしました。家の近く京都寺町には、小倉百人一首の撰者、京極殿と呼ばれた藤原定家(1162~1241)の京極邸址もあります。藤原定家の詠んだ歌

   「来ぬ人を まつ帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」



近々百人一首を巡る旅をスタートさせたいと思います。九州から東北まで広がっているようです。また京都に残る百人一首ゆかりの遺跡も訪ねたいと思います。チャリダーくらぶで颯爽と。