フランス在住の娘が、親しくおつきあいしているフランス在住四十年の、私と同世代の日本人女性は、ある年齢になってから、ホスピスでのボランティアを始められました。ホスピスは、回復見込みがなく、本人もその事実を受け入れて、最期のその時までを心穏やかに暮らし、その時を迎える心の準備をし、牧師、医者、看護士、ケアスタッフ、ボランティアなどたくさんの人の支えを受けて過ごすところです。以前私は傾聴ボランティアとして、高齢者施設を訪問し、お話を聴かせて頂いていましたが、同じ最期のその時を迎えるといっても、ホスピスはなかなか他者には立ち入ることは難しいところだと思います。年齢も高齢者ばかりではありません。若い人から働き盛りという人もおられます。あまりにもつらい現場です。そこでその人達を支えるということは、どんなに厳しく大変なことでしょう。
私が傾聴を学んだ先生(日本で初めて傾聴をボランティアとして広めた方)は、経験が浅い頃に、ホスピスにおられる人から「私は生きているんです」と言われて、頭をガ-ンとなぐられたような衝撃を受けたと話されていました。その人の心に寄り添い、心の内を聴かせて頂くという傾聴ボランティアですが、その人になりきることはできません。言葉の一つ一つが、非常に重みを持っています。死に極めて近いところにいる人でも、その時までは生というこちら側にいるのです。私の姉は四十四歳で亡くなったのですが、その人の苦しみを救えるのは信仰しかないのではないかと感じました。傾聴ボランティアの仲間で、ホスピスへも訪問している人がいますが、つらい経験をしている私には行けないところでした。
フランスでホスピスへボランティアとして行っておられる女性は、自身の生活もすべてを剥ぎ落とし、必要最低限の物を所持されているだけとのことです。彼女の今までの人生の経緯は知りませんが、娘は「尼僧のような人」と言います。凡人で、まだまだ俗世間に身をおいている私には、想像もできません。真似もできません。いつの日か、私も脱皮する日が来るのでしょうか。それとも彼女は数少ない特別な人なのでしょうか。
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