2016年2月17日水曜日

歴史街道(和歌山街道)

 先日、松阪と和歌山を結ぶ和歌山街道のほぼ中間地点にあたる飯高町へ行ってきたのですが、小津安二郎資料室を見学したあと、25キロほど先にある波瀬宿まで足を延ばしました。国道166号線を西へ約一時間走りました。
 波瀬宿は、国道から少し入った旧道にあります。大きな家が建ち並び、昔の街道の雰囲気です。山のふもとの静かな村で、人の気配が感じられないほどの、静かで淋しい印象を受けました。本陣であった大きな屋敷には、その面影があります。和歌山街道にはいくつもの宿がありますが、波瀬宿だけを見ても、今は訪れる人もなく、昔の栄華はまさに歴史に残っているだけのように思います。どれほど多くの人が、和歌山街道を行き来したのでしょうか。想像すると胸がワクワクします。和歌山のお殿様も、籠に揺られて松阪を目指したことでしょう。伊勢神宮へ参拝する多くの人の、賑やかな話し声が聞こえてきそうです。





 波瀬宿には、波瀬神社があります。誰もいない本殿へお参りしました。伊勢神宮を遠くから拝む、遥拝所がありました。長い長い歴史を感じる波瀬神社でした。



 波瀬宿を後にし、いよいよ今回のプチ旅は終わりです。波瀬宿を出て少し走ったところの高台に素敵な建物が見えたので近寄ってみました。波瀬小学校と書かれていますが現在は使われていません。立派な建物ですが子供が少なくなってしまい、休校となっているそうです。日本の少子高齢化と過疎化を目の当たりにしました。



次に飯高道の駅へ寄りました。三重県で最初に登録された道の駅です。天然温泉施設があり、お茶・野菜など特産品の販売所やレストランもあります。この日は土曜日だったので、多くの人で賑わっていました。埼玉や千葉、静岡ナンバーなど遠くからの車もあり、驚きました。


 広大な茶畑が見えてきたので、写真を撮りました。とても美しい景色です。三重県はお茶の生産量国内第三位とのことで、一位は静岡県、二位は鹿児島県だそうです。美しい茶畑が連なるその近くに、茶倉という道の駅があったので寄りました。展望台からは、櫛田川の美しい流れや渓谷が見えて、のどかで風光明媚な所です。





昭和7年に建てられた元郵便局舎

 日本中にたくさんの街道がありますが、実際に走った街道は少ないものです。高速道路が整備され、どこへ行くにも高速道路を利用します。司馬遼太郎著「街道をゆく」は、家族全員が大好きな本ですが、この本に登場する街道を少しずつでも走りたいと思っています。それぞれの街道に伝わる歴史や地理を、知る楽しみを楽しみたいと思います。

2016年2月16日火曜日

読書の楽しみ(3)「飯高オーヅ会」

 西村雄一郎著「殉愛(原節子と小津安二郎)」をあと少しで読破します。先日三重県松阪市飯高町にある小津安二郎資料室へ行ってきました。小津安二郎が代用教員として務めた小学校の跡地に建てられた、かつての役場の一室が資料室となっています。時代は移り、その役場は市町村合併により、老人福祉センターになりました。駐車場の隅に記念碑が建立されており、小津安二郎が、教え子からもらった暑中見舞いへの返事が彫られていました。




 小津安二郎が代用教員を務めたのはたった一年でしたが、若き教師は子供達と密度の濃い学校生活を送りました。子供達と裸のつきあいをして、川や山へと教え子達をつれ出し、マンドリンを弾いて聴かせたり、映画の話を面白おかしく話して喜ばせたり、子供達に「オーヅ先生」と呼ばれ慕われました。その教え子達が発起人となり、平成五年に「飯高オーヅ会」が発足したのです。 


来訪者の色紙

 資料室には、小津安二郎ゆかりの品がたくさん展示されています。小学校の模型があり、当時の小学校の様子がわかります。





小津作品に出演された女優さんも訪問されています


写真や直筆の手紙、書もたくさんあります。遺族から寄贈された生活用品も多くあり、愛用のカバンや白いシャツも展示されています。卒業写真には、十九歳の小津安二郎と二十五人の子供達がうつっています。


 小津安二郎は、小学校の隣の家に下宿していたのですが、その家は今も現存しています。


小学校のすぐ裏が下宿でした

学校の近くにある櫛田川や花岡神社や、標高1029mの局ヶ岳(つぼねがだけ)は、子供達とともに慣れ親しんだ場所です。局ヶ岳は、伊勢三山のひとつで、尖った山の形状から「伊勢の槍ヶ岳」とも呼ばれているそうです。「オーヅ先生は、下駄で登った」と、かつての教え子達は証言しています。花岡神社の入口正面には、大銀杏の木があり、草創は八百年以上前と伝わっているとのことです。


 小津安二郎資料室には、年配の女性がおられて、親切に丁寧に案内・説明してくださいました。かつての教え子で発起人の一人である、「飯高オーヅ会」の初代会長をされた方の娘さんでした。御存命のかつての教え子は、もう誰もいらっしゃらないとのことです。

かつての教え子達が「オーヅ先生」とのいっぱいの思い出を記しています。
*オーヅ先生は、いつも着物に羽織、袴に下駄履きやったなあー。
*オーヅ先生は、ニキビ顔で体格のええやさしい先生やったなあ。
*オーヅ先生は、体操の時間は厳しかったなあ。
*オーヅ先生からローマ字を教えてもろて仕事に役にたったんサ!
*マンドリンを下宿で聞かせてもろた。
*花岡神社ではオーヅ先生とようすもうをとった。
*オーヅ先生のお話は面白て面白て身を乗り出して聞いたワ!

資料室に、二時間も長居してしまい、小津安二郎の飯高での一年間の軌跡に浸りました。

和歌山街道沿いの建物


飯高町は、松阪と和歌山を結ぶ和歌山街道のほぼ中間にあります。三重県と奈良県の県境は、高見山・高見峠です。三重県側が飯高町で、峠を越えると吉野です。江戸時代、紀州藩主の参勤交代の道として、また伊勢神宮への参詣道として、多くの人々が行き交いました。江戸時代には本陣が置かれ、国道166号ができる昭和の時代までは、旅館や商店が建ち並ぶ、この地域のメインストリートでした。小津安二郎が暮らした頃も、何軒もの旅館があり、芝居小屋もあり、宿場として賑わっていたのです。かつての賑わいを思わせてくれる写真もあり、古い建物もいくつか残っているようです。

2016年2月12日金曜日

読書の楽しみ(2)

 今、西村雄一郎著「殉愛(原節子と小津安二郎)」を夢中で読んでいる途中ですが、先日三重県松阪市にある小津安二郎青春館へ行ってきました。



 日本の映画史上に名を残す名監督小津安二郎のルーツは、「伊勢商人」だと著者は書いています。小津安二郎は、東京深川で生まれましたが、先祖は松阪市の豪商です。江戸店を持つ松阪商人です。子供は郷里で育てたいという父親の方針で、安二郎は九歳の時に母と兄弟と共に松阪へ移住して、十九歳までの思春期を過ごしました。松阪での暮らしは十年でしたが、彼の生涯を決定づけることになる松阪十年でした。小津安二郎青春館は、彼の生誕百年を記念して、十四年前につくられました。市が開設し、運営に当たっています。青春館は、小津一家が暮らした住居跡にあります。賑やかな町の中にあった住居は、1951年(昭和26年)の昭和の松阪大火で焼失しましたが、庭には木登りをして遊んだ夏みかんの木が、大木となり歴史を伝えています。小津安二郎は、1903年(明治36年)に生まれています。松阪での暮らしは、1913年(大正2年)から1923年(大正12年)で、最後の1年は、代用教員を務め、十九歳で蒲田松竹撮影所に入ります。戦前に39本、戦後に15本、計54本の映画を残し、1963年12月還暦を迎えた誕生日に亡くなりました。

 青春館には、「小津家の文化」コーナー、「明治時代・東京での暮らし、家族の絆」コーナー、そして小津安二郎監督作品パネルなど、いろんなものが展示されています。彼が書いた絵や書もあります。親友に出した手紙には、映画を作りたいという夢が綴られています。青春館のパンフレットには、「名監督小津安二郎を生んだ土壌は何であったのか。安二郎の感性を育てたであろう彼を取り囲んだ親族が持っていた文化に、紡ぎ出された名作の源流を探る」とあります。本を読んで小津安二郎の人間像に魅力を感じています。もっともっと知りたいという思いで、胸を熱くしています。

2016年2月11日木曜日

強風去って

 三日間強い風が吹き荒れましたが、今日は穏やかな暖かいお天気となり、春の兆しがあふれています。ふるさとの山々は、青空の下、澄んだ空気の中で太陽の光を浴びて、際立つ美しさを見せてくれています。

家の2階から南西方向(左が堀坂山)

「ふるさとの山に向かいて言うことなし
       ふるさとの山はありがたきかな」

石川啄木(1886明治19年~1912明治45年)が、詠んだ歌が頭に浮かびます。

 ふるさとの山は、いくつもの山が連なっていますが、それぞれの山の名前は知りません。小学校、中学校の遠足で登った山だけは、かろうじて知っている山です。最近知ったことですが、その中の一つ「白米城跡」(桝形山)からは、富士山が見えるのだそうです。知人は何度も登っておられますが、一回だけ富士山を見ることができたとおっしゃっています。良いお天気の日でも、雲や風などの気象条件の影響もあり、富士山を見ることができるのは少ないとのことです。山のふもとまで車で行き、そのあと徒歩で一時間弱で登れるので、何度も足を運ぶ愛好家は多いらしいです。

麦畑から連山が一望できます、左から堀坂山、観音岳、鉢ケ峰、
右端の桝形山(320m)頂上が白米城

桝形山を望遠レンズで見ると白米城跡の石碑と登山の人が見えます

 富士山といえば日本一高い山です。昔から富士信仰は盛んだったそうで、日本中のあちこちに富士山が見える場所があります。以前住んでいた東京都保谷市(現在西東京市)の社宅のベランダから富士山が見えました。都内23区には、富士見町とか富士見台とかいう地名があります。富士山は日本人が誇りとする山であり、国民に愛されている山です。遠く離れた三重県から富士山を見ることができる場所として、伊勢市二見浦の夫婦岩は昔から有名ですが、家の近くの山に登れば富士山が見えるとは驚きです。いつかぜひ登りたいと思います。

2016年2月10日水曜日

思いでの中の歌「仰げば尊し」

 全国の学校では、そろそろ卒業式を迎える準備が始まっていることと思います。私はこの時期になると「仰げば尊し」を歌った若き日が、懐かしく思い出されます。歌い出したところですぐに、胸にジーンときて、目がうるうるしてきます。一番多感な時に歌ったからでしょうか。卒業式の思い出が、鮮やかによみがえります。卒業式には欠かせない歌として歌い継がれてきましたが、いつの頃からか姿を消したようです。卒業式にふさわしい新しい歌が、次から次へと生まれて、その時代々にマッチした歌が選ばれ、歌われているのでしょう。「仰げば尊し」は、数多い兄弟たちや、父や母とも、家族で歌える歌でした。明治17年の小学唱歌集が初出で、詞、曲とも、作者は不詳とのことです。歌詞は難しく、道徳的な言葉は、若い人達には通じないかもしれません。「わが師の恩、日ごろの恩、やよ忘るな、身を立て名をあげ、やよはげめよ」などは、若い人達から「ナニソレ、フーン」といった言葉が返ってきそうです。しかし、私は大好きな歌です。恩を忘れず、感謝の気持ちを忘れないで生きていくことこそ、人間にとって大切なことだと考えています。春を目前にして、ピアノで弾き歌いする曲が増えてきています。

   「仰げば尊し」

仰げば尊し    わが師の恩
教の庭にも    早幾年
思えばいと疾し  この年月
今こそ別れめ   いざさらば

互いにむつみし  日ごろの恩
別るる後にも   やよ忘るな
身を立て名をあげ やよはげめよ
今こそ別れめ   いざさらば

朝夕馴れにし   学びの窓
蛍のともし火   積む白雪
忘るる間ぞなき  ゆく年月

今こそ別れめ   いざさらば

2016年2月9日火曜日

ダイアモンド堀坂山

 富士山では太陽や満月がちょうど頂上に乗っかったように見えるとき、ダイアモンド富士やパール富士と呼ばれています。故郷の南西方向には堀坂山(ほっさかさん)という1000mクラスの山があります。この季節、夕方5:00頃の日没にちょうどダイアモンド状態となるのが分かりました。2月に入ると日の入りの位置がだんだんと頂上に近づき、6日ごろからほぼ頂上に太陽が沈む状況です。毎日太陽の落ちる場所が少しずつ移動しているのがよくわかります。2階の窓から観察し、夕日がきれいになるようですと川沿いの公園に出ます。南西の山の方向は阪内川の川筋なので山まで遮蔽物がなくよく見えます。夕焼けはその日の気象条件で大いに変わります。冬は快晴の日はあまり紅くならないようです。少し薄雲があると真っ赤になり、また雲の変化も面白いものです。

2月6日は少し雲が多くて太陽の輪郭が不鮮明です

2月7日は快晴で太陽が輝いて輪郭不明です

2月8日丁度いい感じになってきました17:04

2月8日これがダイアモンド堀坂山! 17:05

 いくつか日没後の夕景を見てください。夕焼け、雲の変化は地球の雄大な自然を感じさせてくれます。
これらは2月6日のものです。




 2月8日にダイアモンド堀坂山に感動した後、ふと下を見るとカワセミがいました。昨年夏にカワセミのひな鳥が2羽いるのを家の前の堰堤で見つけたのですが、そのどちらかでしょうか?カワセミに出会うとその色形に感動して幸せな気持ちになります。30秒ほど川面を観察した後、さらに川上に狩りに飛び去りました。

暗くて見にくいですが、ブルーの背中、オレンジのお腹、白い首巻が印象的です

  パール(満月)堀坂山は何時見ることができるのか、家からは無理なのかどこから見えるのか、この1年間観察してみようと思います。満月が出る方向は大体わかっています(城跡の上)がどちらへ落ちていくのかは記憶にありません。次回の満月の日から観察します。


2016年2月8日月曜日

メダカの越冬、ホテイアオイの冬越し

 数年前から我が家の「いきものがかり」がメダカを飼っています。メダカは2,3年の寿命だと言われていますが2年前まで冬越しをさせることができませんでした。そこでいろいろ調べた結果、昨年は発泡スチロールの容器を購入して越冬に成功しました。今年も十数匹いるはずですが寒くなってからは下のほうでじっとしているようです。まだ春は先ですが日差しのある日中は蓋を開けて日差しを入れています。

発泡スチロールの容器を2つ、ホテイアオイはほぼ枯れています

 もう一つの挑戦はホテイアオイの冬越しです。産卵と日陰づくりのために毎年購入していますが冬になると毎年からしてしまします。15℃より温度が下がると上の写真のように枯れてしまうようです。今年はポアロがいろいろ調べた結果、鉢に移して家の中の日当たりのよいところで越冬させています。水草が土の中で育つのかと不安でしたが、今のところ何とか緑を保っています。春分のころまでもてば冬越し成功となりそうです。

11月に鉢に移して室内の窓側で冬越しです



2016年2月6日土曜日

寒中の庭

 立春は過ぎましたが寒い日が続きます。今日2月6日は初午に当たります。稲荷神社では祭事が行われているようです。お稲荷さんは五穀豊穣の神様ということでこの時期には西日本では「田起こし」をして土に春の息吹を吹き込みます。我が家の小さな庭でも寒さに負けずいくつか花が咲いています。冬の代表的な花である水仙はお正月から咲き始め、そろそろ最終です。


金のなる木(カゲツ)はこの寒い時に満開となります。




アロエの花は予告もなく時期も決まらず咲くようです。



万年青は赤い実が印象的です。



チューリップは数センチの目が出てきました。桜と同じ時期に花が咲くと思います。



2016年2月5日金曜日

立春

 日本のあちこちの神社やお寺で節分の行事が行われ、いよいよ立春を迎えました。景色がキラキラとしてきました。

1か月前に雪が積もった瓦がキラキラしてきました

小川もキラキラ

水草が緑に

例年、鶯がなく川端柳も少し芽が出てきたような気がします

 立春と聞くと私はそわそわしてきます。雪が降る日があっても暦の上では春です。春を迎える前の人の気持ちは明るくなるようです。何事も前向きに考えられるようになり、ポジティブになります。この時期になると、毎年のことながら口ずさむ歌があります。「早春賦」です。難しい歌詞ですが、ずっと歌い継がれてきた名曲です。立春にぴったりの歌です。

「早春賦」   
吉丸一昌作詞   
中田 章作曲

春は名のみの   風の寒さや
谷の鶯      歌は思えど
時にあらずと   声も立てず
時にあらずと   声も立てず

氷解け去り    葦は角ぐむ
さては時ぞと   思うあやにく
今日もきのうも  雪の空
今日もきのうも  雪の空

春と聞かねば   知らでありしを
聞けば急かるる  胸の思いを
いかにせよとの  この頃か
いかにせよとの  この頃か

 楽譜の参考のところに書かれていたのですが、「森繁久弥作詞作曲の「知床旅情」は、最初の8小節が「早春賦」に似ているところから、この曲を下書きにして作られたともいわれている。しかし「早春賦」もまた、モーツァルト作曲の後期の作品「春の歌(春へのあこがれ)」をヒントにしているといわれている。明治時代の音楽家はヨーロッパ音楽への憧憬が深く、その憧れがこんな形になって現れたのであろう。唱歌というよりは、むしろ芸術歌曲といった方がふさわしい曲で、難解な歌詞だが、歌詞に忠実な曲付けがしてある」とあります。私はこのことは知らなかったので、モーツァルトの曲をヒントに作曲されたとは驚きです。久しぶりにピアノで弾き歌いをしようと思います。


追記   「早春賦」を作曲した中田章は、作曲家中田喜直の父です。中田喜直は「ちいさい秋みつけた」「めだかの学校」「夏の思い出」「雪の降る町を」など、多くの人になじみのある曲を作曲しました。20世紀の日本を代表する作曲家の一人です。