2014年5月11日日曜日

「かじり虫」


私はかじり虫

何でもかじるのが大好きだ

スポ-ツ 勉強 けいこ事

本当にたくさんかじったものだ

どこかに私の仲間がいるのかな


私はかじり虫

何でもかじるのが大好きだ

テニス 水泳 ヨガ

英語 イタリア語 フランス語

音楽療法 ホ-ムヘルパ- 社会福祉 パソコン

茶道 華道 手品 ボランティア 脚本

本当にいろいろかじったものだ

私の仲間に会いたいな


私はかじり虫

何でもかじるのが大好きだ

いろいろかじって大きくなった

たくさんかじってお腹がふくらんだ

今までもこれからも

いろいろたくさんかじるのだ


私の仲間に会えたなら

かじった数を競争しよう

きっと私がチャンピオン

2014年5月10日土曜日

生き物係


 先日娘がメダカを五匹買ってきました。黒メダカという名の日本固有種のメダカです。私は知らなかったのですが、メダカとはいえ安価なものからびっくりするほど高価なものまでいろいろあるそうです。田舎育ちの私は、水ぬるむ季節になるとタモを持って小川でメダカを採りました。懐かしい思い出です。
 


 娘達が小さい頃は、狭いマンションで金魚を飼いました。名前は花子と太郎です。残念なことに十年ほどで、花子と太郎は天に昇りました。家族四人で花子と太郎の小さなお墓を作り埋葬しました。

 上の娘は子供の頃から生き物が大好きで、学校ではいつも生き物係を自発的に買って出ていました。教師になった今も、生き物係を担当しています。小学校では小動物を飼っていますが、ウサギの世話も大変でした。ただエサをやるだけではありません。ウサギの異変を見つければ動物病院へつれていかねばなりません。ウサギの爪や歯も伸び放題にはしておけません。病院で切ってもらえるかもしれませんが、少しでも経費を削減しなければなりません。爪や歯を切るのも生き物係の仕事です。娘は格闘しながらしていました。娘は何匹のものウサギの生死に立ち会いました。延命治療をするか、尊厳死を選ぶか、医者は娘に決断を迫ります。生き物係の仕事は多岐にわたります。子供達と一緒に小さな生き物の世話をしながら、学校生活の中で命の大切さを教えています。

 娘が買ってきた五匹のメダカに、名前をつけてほしいと頼まれた私は考えました。よ-く考えました。小さな小さなメダカも、人間と同じように、自然界この宇宙に生きる仲間です。そして決定しました。メダカの名前は「空くん、海くん、陸くん、心(こころ)ちゃん、和(なごみ)ちゃん」です。いかがでしょうか。

2014年5月9日金曜日

あっという間に


 大変ご無沙汰してしまいました。前回のブログからあっという間に三ヶ月が過ぎました。桜前線は、北海道に上陸しています。ゴ-ルデンウィ-クも終わり、世の中も少し静かになったような感じですが、皆様如何お過ごしでしょうか。

 私はこの春十年暮らした岡山を離れ、京都へ落ち着きました。引っ越しの後片付けも完全には終わっていませんが、少しずつ整理しようと思っています。今迄に何度も引っ越しを経験していますが、今回はその大変さを痛感しました。やはり「無理は禁物」ということを、体は正直に訴えています。

 京都には名所旧跡がたくさんありますが、うろうろキョロキョロ、歩くだけでも楽しいところです。ぜひ京都へお出かけ下さい。追々に京都の穴場を紹介したいと思います。

2014年2月7日金曜日

幸福論(幸せとは)


 先日「幸せとは」というテ-マで幸福論が論じられていました。有名な作家や大学教授など、四人の論客が出演していました。

四人の論客が述べた幸せとは

「人の痛みがわかること」

「本当を確かめあうこと」

「愛する人の幸せを願うこと」

「断念ののちの悟り」でした。

幸せとは何でしょう。以前ブログに書きましたが、カバの子がお父さんに「生きるってどういうこと?」と質問するのですが、この問いに答えるのも難しいことです。これと同様に「幸せとは何か」の答も非常に難しいと思います。

 私の住んでいる地域に大きな宗教法人の本部があります。新興宗教の部類に属すると思いますが、土曜日曜、大祭の日などには、老若男女たくさんの人が列をなしてお参りに集まってきます。自分の心の支えとなる信仰を持つことも、幸せの一つだと思います。宗教でなくても、自分の心の支えとなり心の拠り所となる何かを、一つでも持てることは幸せだと思います。人の幸せを羨んだり妬んだり、自分を不幸せだと思い自分の運命を憎んだりしても、それは幸せからどんどん遠ざかることになるのではないでしょうか。自分にとって大切なことは、感謝と願い、祈りができる人になりたいと、自分の心を成長させる修養を積むことだと思います。

 私が考えた幸せとは「幸せは自分の手の中にあるということを知ること」このことを今現在の私の答にしたいと思います。

 

*いよいよ引っ越しが迫ってきたのでブログをしばらくお休みします。落ち着きましたらまた再開しますのでどうぞよろしく。

2014年2月6日木曜日

新しい命


 私の姪二人に、最近初めての子が誕生しました。二人共四十歳を過ぎてからの第一子誕生です。女性の社会進出が進み、晩婚化、少子化になっている日本の現状です。そんな中での妊娠、出産に挑んだ姪達に拍手喝采です。高齢出産ですが、ぎりぎりまで、できることなら自然分娩でと言う医師の指導の下、予定日まであと少し、順調に辿り着きました。胎児も順調に育っています。3キロになっています。ところが、予定日を目前に控えた日の夕方、姪は突然破水し、入院しました。陣痛が始まったものの、弱くてなかなか強くなりません。少しずつは強くなりましたが、破水から二日以上経つと胎児に影響を及ぼすとのことで、急きょ帝王切開することになりました。手術室へ入って一時間半ほどで、無事赤ちゃんは誕生しました。下半身麻酔なので、母子対面は、何の問題もありませんでした。新しい命の誕生に、胸が熱くなりました。

 新生児室を覗くと、四人の赤ちゃんがいました。男の子、女の子の波があるのでしょうか、みんな男の子でした。顔の表情は豊かで、かわいくて面白くて、つい見とれてしまいます。母親の胎内にいる時は、母と子は一心同体です。そして母体から外へ生まれ出た瞬間から、母と子は二つの人格になります。遺伝子やDNAは、親から子へ受け継がれますが、人格は二人の人間に分かれると思います。新生児は、どんな星の下に生まれたのでしょう。その星に違いはありますが、純白の赤ちゃん達です。父親、母親、祖父母など、養育する者には、大きな責任があります。どんな色にも染めることができるからです。特に幼い間は、愛情をふりそそいでほしいと思います。今生まれた赤ちゃんが、十年先には、小学四年生になります。口も達者になり憎まれ口もきくでしょう。それも成長の過程です。生まれたばかりの赤ちゃん達を見て、この子達に、明るい未来、幸多き将来が待っていることを、切に願い祈りました。

2014年2月5日水曜日

師走の旅(四国へ)-8


 高知市内をあちこち回り、最後に高知駅へ行きました。路面電車が何台か止まっています。駅前に大きな維新三傑の像が立っていました。坂本龍馬と中岡慎太郎、武市半平太です。写真を撮りました。
 


 観光して回っている間は、青空でとてもよいお天気でした。しかしこれから帰途に着くという頃、高速道路情報で、私達が予定していた高速道路が雪のため通行止めと言うのです。青空の下にいる時は、とても信じられませんでした。行ける所まで行こうということで高知道に入りました。30分ほど走ると、予報通り雪がちらついてきました。予定していた高速道路を変更し、一般国道へ出ました。雪降る中、国道32号線を走りました。高知県から徳島県に入ります。深い山の間を縫って、徳島県西部三好市、大歩危(おおぼけ)小歩危(こぼけ)を通ります。面白い地名です。秘境と呼ばれている祖谷(いや)は、ここから山の奥へ入っていきます。祖谷は、平家の落人が住み着いたと言われる古い集落です。平家伝説が語り継がれています。祖谷のかずら橋に代表される見事なつり橋が、いくつかあるそうです。

 いつのまにかすっかり雪景色にかわりました。雪が積もっています。山々は真っ白です。国道の中央部は車が通るのでましですが、側道には5センチほど積もっています。車にチェ-ンは積んでいません。スノ-タイヤでもありません。こんなお天気の中、山の中の国道を走る他府県の車はありません。道路には、すぐにうっすらと雪が積もります。雪と縁の無い地域に住んでいる私達は、こわごわです。ハンドルを握るポアロ(夫)も緊張しています。私も体が強張っています。辺りはずい分暗くなってきました。私達が帰る方向は、峠を越えねばなりません。この調子では危険です。ひょっとしてもう一泊しないといけないかもと話しながら、スピ-ドは落としてこわごわ前に進みました。気がつくと地元の人の車でしょうか、後に5~6台列をなしています。追い越してもらうには脇へそれねばならず、雪が積もっているのでそれもできません。ちょうど大歩危道の駅が見えてきて、何とか駐車できました。お客は、若者四人のグル-プと私達だけです。まあまあの大きさの道の駅で、土産物もいろいろあります。祖谷のかずら橋の大きなポスターが飾ってありました。秋の美しい紅葉の写真です。
 


その時、列車の音が聞こえてきたので、急いでデッキに出ると、吉野川の渓谷の中を、一両の列車が通っていきます。あわてて、雪化粧した渓谷を走る列車の写真を撮りました。祖谷や大歩危、小歩危へは、夏にゆっくり来たいと思いました。
 

 
一息ついて、また雪の中を自宅に向けて走りました。高知道は途中が通行止めになっていて、私達は徳島道に何とか入れました。高速道路に入って少しほっとしましたが、高知道と松山道、徳島道が一つになるところまで行かねばなりません。通行車両は少しです。緊張しながらやっと高松道に入り、これで家へ帰れると本当に安心しました。ここでやっと雪から解放されました。

 今回の師走の旅(四国へ)は、知るを楽しむ旅でした。自分の知らなかったその土地々の歴史・文化にふれ、人間が生き続けて今に至っている大変さ大切さに、考えさせられました。国道から見上げる山の頂上に近い所にも、人は家を建て、家族を作り、子孫を残し、住み続けている、住み続けてきたという事実には感動しました。これこそ旅の醍醐味です。地縁を大切にしながらも、自分の知らない世界を見て、知って、楽しむ。旅は素晴らしいものです。無事に旅を終えられたことに感謝します。

2014年2月4日火曜日

師走の旅(四国へ)-7


 高知県伊野町は、土佐和紙で知られています。街中を走っていると、製紙工場、製紙会社の名が多く見られました。紙の博物館もありましたが、今回はパスしました。伊野から高知市内に向かう途中、多くの路面電車と出会いました。路面電車大好きな私達家族は、たくさん写真を撮りました。その町に根づき、人々に愛され、人々の足になっている路面電車は魅力いっぱいです。


 高知市立龍馬生まれた町記念館を訪ねました。大河ドラマで龍馬が脚光を浴びて、高知へもたくさんの観光客が来ています。この記念館は、2004年にオ-プンしました。龍馬を育てた人と町、高知市上町の歴史と文化、龍馬と家族とエピソ-ド、龍馬その後を継いだ人々など、龍馬の生まれ育った町ならではの、工夫が各所に見られ面白かったです。映像もありました。建物は、建築作品としての評価も高く、数多くの賞を受けています。




 次に高知城を訪ねました。あいにく年末の休みに入っていて、天守や御殿には入れませんでした。城の近くまで散策しました。高知城は1603年の築城で、築城主は山内一豊です。江戸時代に建造された天守や追手門等が現存し、日本百名城の一つです。公園内には、内助の功で有名な一豊の妻、千代の像や板垣退助の像がありました。


 高知城の近くの市場をのぞきました。大きなテントの下では、新鮮な食材を使ったいろんな物が売られており、そこで食べられる屋台もあり、多くの客でにぎわっていました。私達は、まぐろの寿司盛り合わせを買いました。

 お弁当と飲み物を手にして、五台山まで登りました。山頂には展望台があり、高知の町がよく見えました。有名な植物学者牧野富太郎の県立牧野植物園や記念館があります。あいにくここも年末の休みに入っていて、中へは入れませんでした。ずいぶん前のことですが、私達が東京に住んでいた頃、牧野富太郎博士の住まいが一般公開されていて、家族で見学に行きました。博士が座った位置からすべての物に手が届くように工夫されていて、博士の植物への一途な想いを感じたことを思い出しました。





 その後、桂浜へ行き、太平洋と県立龍馬記念館や坂本龍馬像と記念写真を撮りました。年の瀬の押し迫ったこの日、桂浜には、観光客はあまりいませんでした。よいお天気で、キラキラ輝く美しい青と、どこまでも続く太平洋にうっとりしました。



 

2014年2月3日月曜日

師走の旅(四国へ)-6


 旅の二日目後半は、愛媛県宇和町卯之町から、高知県四万十市を目指して走りました。四万十川は、四国最長の大河です。全長196キロあります。主な支流は35あり、四国西南地域を大きく蛇行しながら、落差のない流れとなって、四万十市下田で太平洋に出ます。本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」と呼ばれています。柿田川(静岡県)長良川(岐阜県)とともに日本三大清流と呼ばれています。四万十川には、本流に22本、支流も含めて47の沈下橋があります。


 愛媛県から高知県へ、峠を越えて四万十川に出ました。それから四万十川に沿って走りました。上流から下ってきて最初の岩間沈下橋で車を止め、歩いて沈下橋を渡り、写真を撮り、記念に石を三個拾いました。沈下橋を車で通るには、幅が狭く感じられましたが、地元の人達はスイスイと通っていきました。この日は風が強くて、沈下橋の真ん中で写真を撮る時、吹き飛ばされて川へ落ちるのではないかと思うほどでした。四万十川が大自然の中を悠々と流れる姿には、強く魅かれるものを感じました。
 
 


一番下流の佐田沈下橋は、かわいい感じで、五人ほどの若い女性達が、キャ-キャ-言いながら楽しそうに写真を撮っていました。
 
 


土佐中村の水車群のある「安並水車の里」を見学して、この日の宿、伊野に向かいました。
 


 

2014年1月28日火曜日

師走の旅(四国へ)-5


 朝宇和島城を散策してから、西予市宇和町へ戻りました。旅の一日目が見所いっぱいで遅くなり、宇和町へ寄れなかったのです。高速道路の無料区間を走り、効率よく戻れました。

 宇和町卯之町は、宇和島藩唯一の宿場町としてにぎわい、シ-ボルトの娘イネや二宮敬作(シ-ボルトの弟子)ら、蘭学者たちを育んだ江戸時代の町並みが残っています。

 
 
 
 
 

 

そして明治15年(1882)に建築された、四国最古の木造小学校舎が残っています。明るい未来を開こうという、希望に満ちた名前が付けられた開明学校です。厚さ30センチの白壁に、フランス風ア-チ型の硝子窓、外観は擬洋風で、モダンでお洒落なつくりです。中を見学しました。明治にタイムスリップしたような感覚になりました。教室は、4本の大きな通しの丸柱で区切られ、6教室あったそうです。昔は教科書が高価だったため、買えない生徒がたくさんいたので、代わりに「掛図」を使って授業をしていました。明治初期の大変貴重な「教授用掛図」(文部省刊行)が多数保管されており、その数・種類は全国一だと言われているそうです。

長野県松本市にある有名な旧開智学校は、開校明治6年(1873)ですが、開明学校は、一年早く明治5年(1872)に開校されています。その二つの学校は、昭和62年(1987)に姉妹館提携されたそうです。明治から昭和にかけての教育資料約6000点のうち、600点が展示されており、建築史上・教育史上価値の高いものとして、平成9年に国の重要文化財に指定されました。

 
 
 
 
 
 
 


 卯之町は、天保4年(1833)頃から、二宮敬作、左氏珠山(小説「坊ちゃん」に出てくる漢文の先生のモデル)などの蘭学者・儒学者をはじめ、学問が盛んに行われ、この町の若者の啓発に努めていました。「蘭学といえば宇和島藩」といわれた時代があったほど、学問に熱心な先人たちが大勢集まった町だったのです。宇和町卯之町は、明治4年まで宇和島藩でした。開明学校は、子どもたちに素晴らしい学問を伝えようとする、教育に対する情熱の結晶のような校舎です。開明学校の横には、明治2年築の住民が自発的に建てた私塾申義堂がありました。

  

 そこから「中心街」という名の商店街を北へ少し行ったところに宇和町小学校の旧校舎が移築された「米博物館」がありました。大正4年築の講堂、大正10年築の校舎、昭和3年築の109メ-トルの長い廊下のある校舎など、中へは入りませんでしたが、それぞれの建物を窓越しに中を見て、懐かしい気持ちになりました。109メ-トルもある日本一長い廊下では、平成16年から雑巾がけレ-スが行われているとのことです。この日は雪がチラチラする中を、古い町中を歩き、歴史ある学校や校舎を見て、豊かな気持ちになりました。卯之町は、小さいけれど文化の香る町でした。シ-ボルトといえば、長崎、オランダ、蘭学、医者といったことしか知りませんでしたが、長崎から離れたこの卯之町に、深い関わりがあるという歴史に驚き、今に脈々と伝わっていることには、感慨深いものがありました。

 
 
 
 


*シ-ボルトの娘イネは、日本最初の西洋医学の女性産科医になりました。

 

 

2014年1月26日日曜日

師走の旅(四国へ)-4


 一日目の夕方、雨の中、暗くなって立ち寄った大洲城は、鎌倉時代末期(1331年)に守護として国入りした伊予宇都宮豊房によって築城されたといわれ、その後、藤堂高虎等によって大規模に修築がなされ、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していきました。現在の大洲城の天守は、平成16年(2004年)に復元されたもので、四層四階の木造天守です。残念ながら私達は、大洲城を写真に収めただけでした。

 二日目は、小雨の中、朝食後近くの宇和島城へ登りました。宇和島城天守閣は、標高74メ-トルの丘陵地の山頂にありました。全国現存の天守閣12城の一つです。その起源は中世期にあった板島丸串城の跡に1601年藤堂高虎の築城とされています。今の天守の形に立て替えられたのは、伊達氏になって二代宗利が城の大改修をした1661年からです。その後、伊達十万石の中心としてその威厳を保ってきました。当時の二の丸、三の丸は空襲で焼け落ち、城を取り囲んでいた堀や海は埋め立てられ、今は面影もありません。歴史を語るうっそうと茂る木々や、苔むした石畳の中を歩いて天守閣へ登りました。





 少し登っただけと思いましたが、天守閣からの眺めは素晴らしいものでした。宇和海がきれいに見えていました。途中、朝のウォ-キングをする市民の方、5人ほどに出会いました。1時間ほどの朝の散策を楽しみました。