2012年3月24日土曜日

「おやつ だいすき」


今日のおやつは 何だろな
楽しみ 楽しみ 嬉しいな
ママのお手製 シュークリーム
とろりとろける シュークリーム
とっても とっても おいしいな

今日のおやつは 何だろな
楽しみ 楽しみ 嬉しいな
ママのお手製 アップルパイ
こんがりこげた アップルパイ
とっても とっても おいしいな

今日は日曜 パパがいる
今日のおやつは ぼくとパパとで作るんだ
玉子に牛乳 小麦粉を
まぜて まぜて 焼くんだよ
ほらほらできたよ ホットケーキ
ふわふわホットケーキのでき上がり
お味は ぴかいち 世界一

2012年3月23日金曜日

私の好きな言葉「ど根性」

 「思い込んだら 試練の道を 行くが(   )の ど根性」

 星飛雄馬「巨人の星」のテーマ曲の始まりの部分です。(   )のところは、男女の区別なく、大人・子供の区別なく、(わたし)とかえて、人生の応援歌にしたいと思います。

2005年兵庫県相生市の歩道の脇に生えた大根を、ど根性大根と呼び、有名になりました。そのあと、ど根性ナス、ど根性みかん、ど根性スイカなど、「ど根性」野菜なるものが、次から次と生まれ、話題をさらいました。人々は、堅い石やコンクリートなどを、突き破って成長するという意外性をつかれ、「ど根性」ということばに、胸を打たれるのだと思います。
 ゴルフ、テニス、野球、柔道、卓球、サッカー、水泳、など、スポーツの世界で力を発揮している人達や、音楽の分野で才能を発揮している人達は、幼少の頃から厳しい練習を続け、「ど根性」も、自ずと身についていったのでしょうね。技術や技能だけが、上達するのではなく、ともに、精神的な成長があったと言えると思います。
 私は、小さい頃から習い事として、ピアノを続けてきました。ピアノ科へ進学するまでは、楽しく楽しんでピアノを弾いてきましたが、その道へ入った時から、睡眠・食事・トイレ以外のすべての時間を、ピアノの練習に費やしました。大曲、難曲を弾きこなすには、そうせずにはおれなかったのです。自分が、まさに凡人ということを知りました。しかし、自分の限界まで、努力したと言えることは、自信につながりました。ピアノだけでなく、生きていく上での、諸々の障壁を、乗り越えていこうという力を、持てるようになりました。前向きな姿勢で、どんと来いと、受けて立てるようです。自分に「ど根性」があるのかと問えば、?マークがつきますが、根性はあると言えます。そのうち「ど根性」になるのかは、期待しているところです。

 「ど根性」ということばに、あこがれ、魅力を感じています。

2012年3月22日木曜日

告知、最期のその時について(4)


星野一正氏は、告知に際して重要な点をあげておられます。

    患者が病状や不治の病についての告知を希望するかどうか事前に本人の意思を知る努力が必要である。

    誰であろうと生きる望みを失わせるような表現で告げる資格も権利もない。

    患者に嘘や作り話を言ってはいけない。

    医師を訪れる患者は治ってもっと生きたいと思っていると考えたほうが無難である。

    告知の時期を慎重に選ぶ必要がある。

    真実を知る権利を放棄する人には「真実を知らされたくない」 という自己決定権や「構わないでそっと放っておいてほしい」というプライバシー権を尊重して、告知するべきではない。

    患者の個人的な生き方にまで立ち入る権利は医師にはない。

    誰に告知するのか慎重に考える。本人の同意なくしてする家族への告知はプライバシーの侵害に相当する。病態からやむをえない事情がある場合に限り、家族または代理人に告知してもよいと考えるべきであるが、患者の意思に任せるのも一案である。

    誰が何をどのように告知するのか慎重に考える。

    告知後のアフターケアの必要性を認識する。

告知は大変難しい高度な医療行為であり患者の年齢・性別・既往症・発病以来の経過・現在の病状や予後の見込み・患者の気分・精神状態や感情の起伏など考慮し、患者に適した告知の仕方を研究してから告知するのが好ましい。

                      「医療の倫理」から

 告知後の患者の心理的変化は、否認、怒り、抑うつを、行ったり来たりしながら受容に至りますが、そう簡単なものではありません。どんなに身近な人間でも、当人の心の中を100パーセントキャッチすることはできません。しかし、手を取り合い泣いたり悔しがったり怒ったり、ありのままの思いを受け止めることはできると思います。当人が、一人で残りの日々を孤独で淋しい思いで、過ごすことは避けなければなりません。悲しみを一緒に共有したいと思います。

2012年3月21日水曜日

告知、その最期の時について(3)


私の母は、脳血管性障害による軽い認知症の症状を起こしましたが、姉亡きあと三年もたたないうちに、心筋梗塞であっけなく本当にころっと亡くなってしまいました。四十年間華道の師匠として、最後まで現役を貫いた母でした。

 愛する人の最期のその時に接し、私が持った死生観は、自分の最期のその時への取り組みは、自分で選択し、自分が決定権をもつべきというものです。人は生まれた時から多くの人に支えられて、一生を送りますが、自分の考え自分の意志で生きてきたように、一生のピリオドは、自分が納得して打つべきだと考えます。人が生まれて何年生きるかは、千差万別ですが、命あるものは、遅かれ早かれいつかは最期のその時がきます。必ずその時を迎えるのです。それはどんな人間も逃れられない事実です。富を築いた人も、天才と呼ばれた人も、その時は避けられません。その事実を認めたら、誰でも自分の最期のその時は、自分の手の中にあると思いたいと、私は考えます。悲しいかな、不治の病に冒されているとわかった時、それがイコール即「死」と、つながるものではありません。なぜなら人の寿命は、医学だけでは、計り知れないものがあるからです。

病気について勉強し、どんな治療法があるか、そして、その効果はどうかなど研究し、医師と相談しながら、多くの選択肢の中から、自分が選び、納得し、決定すべきだと思います。自分が納得し、積極的に病気に立ち向かった結果がどう出ようと、病気と共存しながら、命ある限り生きようと思います。と同時に、いつピリオドが打たれることになるかは、自分の力ではどうすることもできないので、後悔することのないよう、一日一日を大切に生きようと思います。

2012年3月20日火曜日

告知、最期のその時について(2)


  私の姉は、四十歳頃から体調をくずし、入退院を繰り返しました。始めの頃はがんを発見してもらえず、子宮を摘出しても症状はよくならず、検査が続きました。そして、膀胱炎と言われていたのが、膀胱がんとわかるまでずいぶん時間がかかりました。姉の時も、義父と同じように、本人への告知はなされませんでした。姉の夫が、最期まで本人には知らせたくないと決めたからです。膀胱を摘出し人工膀胱をつけました。本人も周りの者も、肝心なことにはなるべく近づかないよう、不自然に明るく振る舞いました。それでも皆、一縷の望みを持ち、奇跡が起こることを願いました。
  両親は、六人の子供に恵まれたものの、すでに二人亡くしているので、また子供に先立たれることを恐れ、必死に抵抗しました。神だのみ、漢方、民間療法、あらゆる情報を集め実践しました。それでも義父の時と同様に、膀胱を摘出したにもかかわらず、がんは、すでに転移していたのです。入退院を繰り返していた姉が、激痛に襲われ再び病院へ戻った時、医師は、痛み止めの注射を脊髄にしました。痛みが和らぐと同時に、姉は、半身不随になりました。当時、私の夫が、仕事の関係で大きな病院の先生方とつきあいがあり、最新の医学情報を収集できる立場にあったので、そのことを姉に少し話したことがあります。姉は、転院したいと言いました。ホスピス病棟もあり、一人苦しんでいる姉に、少しでも楽になってもらいたいという気持ちからだったのですが、義兄は、地方から都市へ転院しなければならないこともあり、医師から余命わずかと知らされていることもあり、むやみに姉に期待を持たせることは、本人にとってむごいことだと考えたようで、その話はうやむやになりました。そのあと姉は、希望も失いベッドに縛りつけられたような日々を送りました。私は私で、姉に関する決定権は、義兄が握っていることを思い知らされ、悲しい気持ちになりました。
 自分の命に関して、すべてを知りたいと思うのは当然であり、こうしたいと思うのも当たり前のことで、自分の命に自分が責任を持つことは、当然であり権利でもあると、その時痛感しました。四十四歳という若さのため、頭はしっかりしたままでそういう状態になり、真実は伝えられないまま、姉は、どんどん孤独の世界へ落ち込んでいきました。きっと医師、夫、肉親など周りの人間皆に対し、不信感でいっぱいだったのではないでしょうか。看病している母に「大声を出して叫びたい」と、チラッと心情をもらしました。夫には「あなたは本当の事を言ってくれなかったわね」と、言ったということを、後になって私は知りました。そして亡くなる前日には、二人の子供に「こんなことになってごめんね」と、言い残し意識混濁になりました。最後の入院は、三ヶ月で終わりました。姉が亡くなったのは、二十四年前のことです。

2012年3月19日月曜日

告知、最期のその時について(1)


がん告知について、最期のその時について、愛する人の最期を身近で見つめ、そして体験したことを取り上げます。夫の父、私の姉、そして私の母です。

 義父は、退職と同時に五十五歳で悪性骨肉腫を発病しました。右足を大腿部から切断するまでの治療・検査の連続の日々と入退院の繰り返しは、家族と共につらく長いものでした。今から三十五年前の日本では、まだ本人へのがん告知はほとんど行われておらず、家族が医師から真実を聞かされ、動揺しこの不幸を嘆きながらも、一縷の望みを持ち、奇跡が起こるかもしれないと、患者本人を、そして自分を励まし闘病生活を送りました。義父の場合は、足を切断することを決める段階で、自分はがんなのだと知ったと思います。それでも最期まで医師や家族にそのことを尋ねませんでした。本人も家族も肝心な部分に関しては、各人が心の中でふたをしていました。義父は、足を切断したあと義足をつけ、松葉杖を使い、しばらくは調子よく自宅で過ごしました。片方の足を失うことになりましたが、この調子で生きていくことができたらそれでよいのだと、本人も家族も皆思っていました。しかしがん細胞は着々と進行しており、足を切断したにもかかわらず、すでに転移をしていて肺へ脳へと進行したのです。再び入退院を繰り返すことになり、本人も家族も明るい希望は持てないのではないかと、少しずつ事実を心の中で認めていくようになりました。それでも誰も口には出さないで、日が過ぎていきました。私が結婚する前に義父は発病し、足を切断した頃に、私は妊娠しました。私のお腹の中で、子供が順調に育っていくのと反比例するかのように、義父の病状は、悪いほうへと進んでいったのです。義父が自宅で療養していた時、私は、八ヶ月でお腹もだいぶ大きくなっていました。義父は、「お腹をさわらせてもらってもいいかな」と、私にたずねました。私は、恥ずかしかったのですが、義父の気持ちを察し承諾しました。義父は、目を閉じ静かに私のお腹を撫でていました。「初孫の顔を見ることはできなくても、この子の命の鼓動を、今、自分は確かにこの手に感じている。会えないのは残念だが、生と死は自然の摂理だ仕方がない」と、義父は考えているのだと、私は感じました。そして私は、臨月を迎え実家に帰り出産することになり、最期になるかもしれないと覚悟し、病院へ義父を見舞いに行きました。義父は、もの言わず静かに微笑んでくれました。義父が亡くなり、本当に入れ替わりに長女が生まれました。


2012年3月18日日曜日

「海の詩(うた)」


海眺め

遠い未来を思い

胸を熱くした日々

白い砂浜を

裸足でかけて

海に向かって

大声で叫んだ

我が思い

遠くなりゆき

十代の頃



砂浜に

書いては消され

消えては書いた

君の名前

君に届けと

波に託した

ラブレター

遠くなりゆき

初恋の頃



海眺め

君と語り合った

青春の日々

白い砂浜を

君と手をつなぎ

どこまでも歩いた

楽しい思い出

遠くなりゆき

二十歳(はたち)の頃



たおやかな海は

私の心を癒し

怒濤の響きは

体の底の底まで

打ちまかす

和太鼓のように



私の海は

父であり母であり

そして

広がる海は

輝く未来を

2012年3月17日土曜日

「みんなであいさつ」


あいさつしましょ おはよう

にこっと笑って おはよう

元気な声で おはよう

ほらほら 小鳥も言っている おはよう

みんなで みんなで おはよう 



あいさつしましょ こんにちは

にこっと笑って こんにちは

元気な声で こんにちは

ほらほら お日さまも言っている こんにちは

みんなで みんなで こんにちは



あいさつしましょ こんばんは

にこっと笑って こんばんは

元気な声で こんばんは

ほらほら お月さまも言っている こんばんは

みんなで みんなで こんばんは



あいさつしましょ お休みなさい 

にこっと笑って お休みなさい

元気な声で お休みなさい

ほらほら お星さまも言っている お休みなさい

みんなで みんなで またあした

2012年3月16日金曜日

ナルドとの日々

 ナルドが我が家へ来た時、兄のレオは、三歳でした。
レオは、ナルドをいじめることなく弟分として優しく迎えてくれました。
レオは、シェトランド・シープドッグ(シェルティー)、ナルドは、柴犬の雑種です。
兄のレオと弟のナルドの性格の違いは、とても面白いものでした。
レオは、よその犬に一声吠えられただけで、一目散に家へ逃げ帰るような、お坊ちゃん育ちの、おっとりした優しい性格でした。
雨上がりの公園で、池から出て来たカメにも、レオは、遠くから得体の知れないものを怪訝そうに見るだけで、近づきませんでしたが、ナルドは、自分が納得するまで、カメに近づき何者かをチェックしていました。
ナルドは、成長と共に、柴犬の気性の強さを、時々私達に見せました。
散歩で出会ったピレネー犬に馬乗りになるなど、私達が想像できないことをして、皆を驚かせました。ピレネー犬は体長1メートルほどあり、それに比べてナルドは体長40センチたらずです。気性の強さには、本当に驚きました。
ナルドは、優しい性格のレオを、兄として一目置き、決して出しゃばることはしませんでした。
レオは、シェトランド・シープドッグの牧羊犬のDNAを持っているせいか、追いかけるのが大好きで、又とても早いので、ナルドと追いかけっこをしてよく遊びました。
レオは、十歳で亡くなりましたが、東京へ単身赴任をしていたお父さんが、帰るのを待っていたかのように、家族皆に見送られて旅立ちました。
レオの最期のその時、体中の力をふりしぼり、体をのけ反り、声にならない声を出して「ワン」「ワン」と2回鳴いたのです。本当に「ありがとう」「さようなら」の、言葉でした。
レオの亡骸を車に乗せ、火葬場へ向かう途中、ナルドは、私達が今までに聞いたことのない声で、レオに向かって鳴くのです。「お兄ちゃん、お兄ちゃん、イヤダ、イヤダ」と言っているようで、私達の涙を誘いました。
レオが旅立って七年後、ナルドは、十四歳で亡くなりました。
ナルドの最期のその時も、レオと同じように「ありがとう」「さようなら」と、声にならない声で2回鳴いたのです。
レオとナルドと私達人間との、日々の生活の中でのふれあいは、私達家族に、とても暖かい思いを、育んでくれたと思っています。
そして生と死という垣根を越えて、今でも、いつも、私達を見守ってくれているという気がしています。

「レオ、ナルド、楽しい思い出たくさんありがとう。いつもいつも一緒だよ」
ぼくがナルドです

お兄ちゃんあそぼ!


お兄ちゃんそれなーに

芝生で鬼ごっこ

はっけよい!


ぼくのおもちゃ

棒遊び

ナルド3才になりました

2012年3月15日木曜日

「ぼくの名前はナルド」 (8)

  どこからか、たくさんの子どもたちの声が、聞こえてきた。声のする方へ、歩いていった。小学校の運動場で、子どもたちが遊んでいる。ワーワーキャーキャーとてもにぎやかだ。ぼくは、運動場の中へ入っていった。トコトコ、トコトコ。何人かの子どもが、ぼくを見つけて寄ってきた。「捨て犬かしら」女の子が言った。「迷い犬かもしれないわ」もう一人の女の子が言った。「名前は?おうちはどこ?」二人の女の子は、しゃがんで聞いてくる。ぼくは、しっぽをふって、愛想をふりまいた。「かわいいわね」「でもすごく汚れている。汚いわ」すると、それを見ていた男の子が、「よし、この犬と追いかけっこだ」と、言って、ぼくを追い回し始めた。ぼくは、走った。何人かの男の子に追い回され、疲れてしまった。チャイムが鳴り、子どもたちは、教室へもどり、運動場は静かになった。
ぼくは、公園へもどった。だんだん日が落ち、薄暗くなってきた。向こうから、女の人と大きめの犬が歩いてきた。優しい目をしたシェルティーだった。お父さんのような、お母さんのような、においを感じた。ぼくは、夢中でシェルティーに近寄った。「ああ、やっぱり、お父さんとお母さんのにおいだ。ぼくの探していたにおいだ」ぼくが近寄っていっても、シェルティーは怒らなかった。後をトコトコついていった。お父さんとお母さんのにおいから、離れられなかった。家までついていった。エサも水もミルクももらい一晩泊めてもらった。次の日、女の人は、警察や知り合いに問い合わせた。ぼくが迷い犬かもしれないと思ったようだ。ぼくが、話せたら、「迷い犬じゃないよ、捨てられたんだ」と、言いたかった。捨て犬らしいということで、もらい手を探してくれたが、いなかった。近所の人たちは、「保健所へ、つれていったら」と、言っているようだ。女の人は、ぼくをきれいにシャンプーし、ケガをした足に、薬を塗ってくれた。「この家においてもらえたらなあ」ぼくは、かすかに期待した。東京へ単身赴任をしているお父さんと、ピアノの先生をしているお母さんと、高校生の二人のお姉さんと、シェルティーの家族だ。ぼくは、家族のみんなを大好きになった。家族会議の結果、ぼくは、家族の一員になった。心の底から、この幸運に感謝した。 
シェルティーは三歳上のお兄さん。名前は、レオ。「レオナルド・ダ・ヴィンチ」という偉い人から、名前をもらったそうだ。弟だから、ぼくの名前はナルド。

今日からぼくは、新しく生まれかわった。
あの日から三年が過ぎた。「今、ぼくは、家族の一員として、深い愛情と信頼の、強い絆で結ばれている」と、ボスに伝えたい。

                                         おしまい