先日久しぶりにポタリングに出かけました。朝から素晴らしいお天気です。雲一つない青空が広がっています。見上げる大空に思わず「天高く馬肥ゆる秋」を口ずさんでしまいました。私の生まれ月の秋は大好きです。お天気に誘われて、市中見回りのポタリングとなりました。きょろきょろしながら、懐かしさをかみしめながらのポタリングです。
車でスーッと通り抜けるのとは大違いです。ふるさとを離れて半世紀、奈良、東京、名古屋、京都、大阪、岡山、など、あちこちへ移動し暮らしました。どこへ行っても縁を感じました。土地、人、風土、歴史、興味関心好奇心の旺盛な私は、いろんなことが面白くどこでも楽しく過ごせました。楽しい思い出がいっぱいです。そんな中で時々頭に浮かぶふるさとは、遠い存在となっていました。今回の市中見回りのポタリングは、忘れていたことを思い出す機会となりました。メインストリートさえも、昔の面影は消えています。市民の交通の要となっていた駅も、影の薄い姿になっています。駅の隣にあった百貨店も今はありません。青春時代には、よく通いいろいろと買ったお気に入りの店がありました。ファッションも物も時代を先取りした百貨店でした。そんな百貨店が無くなり、駅前ががらんとしています。大通りに面した店も、シャッターが目立ちます。高齢化、少子化、など理由はいろいろありますが、売る人も買う人も、時代の変化をまともに受けています。
夏の祇園祭の花形となっている三社の一つである八雲神社の前を通りました。神社の前にあった化粧品やさんもわかりません。おじさんおばさんとのご縁で、足繁く通い親しいおつきあいがありました。おじさんおばさんの笑顔が思い出されます。手広く商いをされていた蜂蜜やさんもわかりません。ふるさとでは老舗だった呉服屋さんもわかりません。それらのお店は、地元の有名店でした。親世代のみなさんは、千の風になられていることでしょう。ポタリングをしながら、いろいろ考えてしまいました。すべてのものの命を、そして変わらないものはないということ。不変であり続けるということ。ザ・フォーク・クルセダーズの曲「悲しくてやりきれない」の歌詞「悲しくて悲しくてとてもやりきれないという」フレーズを口ずさんでしまいました。時の流れ、時代の変化、刻々と移りゆくすべてのものに涙が溢れます。
(まるこ記)
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