記憶を辿れば幼稚園時代の思い出です。男の子が四人、女の子が三人、同じ歳の子七人が毎日登園しました。線路が続く際の道を、この幼い七人の子どもは逞しく2.5キロの道のりを歩いて登園しました。雨の日も雪の日も。遊びながらの登園は、きっと一時間はかかったことでしょう。今の時代では考えられないことです。親の車での送り迎え、スクールバスでの送迎、車社会となった現代は危険が溢れています。幼稚園時代の集合写真を見ると笑ってしまいます。ほとんどの子が運動靴をはいているのに、なんと私は下駄をはいているのです。足を前へ伸ばしてのポーズなのでまる見えです。どういう理由で下駄だったのかは覚えていませんが、ぞうりの子もいるので面白い写真です。家へ帰ればこの仲良し七人組は、村中を駆けまわって遊びました。天真爛漫な私は、祖母や隣のおばさんを前に、歌って踊って拍手喝采を浴びました。
小学校に入ると少し事情が変わってきます。校区の編成があり、私は町の子が多い中での学校生活です。田園地帯で走り回っていたのが、どういうわけか町の子に対して田舎の子というコンプレックスのようなものを持ち始めたのです。家へ帰ればのびのびと、ターザンごっこで遊び回ったのですが、学校ではおとなしくなってしまいました。しかし走ることに関しては、生まれながらの俊足でしょうか、カモシカのようと言われました。運動会ではたくさんの賞品をもらいました。六年生の時には、マラソン大会で一等になりました。器楽クラブではアコーディオンを担当し、地域の大会で良い成績をおさめ、名古屋のテレビに出演しました。六年生は放送当日スタジオで生収録するので、緊張して名古屋の放送局へ出かけました。テレビに出演したのは、後にも先にもこの時だけです。楽しい思い出です。小学校一年生の時に書いた絵日記は、今も私のそばにあります。昭和30年代の時代背景がよくわかります。その絵日記は私の宝物となっています。一年生の時には、ピアノを習う姉のあとについて、歌のレッスンに通いました。「かもめの水兵さん」を元気よく歌ったのを覚えています。そして小学校時代、母の口癖だった「楽は苦の種、苦は楽の種」を私の座右の銘としていました。
(まるこ記)
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