2012年2月29日水曜日

「五行歌でつづる思い出の歌」


小さな手

かわいい足跡

ママーと言いながら見上げていたね

いつのまにママは小さくなったのかしら

今はママが君を見上げています





振り返れば足跡が見える

ずっとずっと遠くまで続いている

私は追っかける

どこまでもどこまでも追っかける

ちっちゃなちっちゃな足跡に辿り着くまで

2012年2月28日火曜日

「永久に(とわに)」


聴こえますか  私のピアノが
見えますか   私の心が
感じますか   私のぬくもりが

あなたが旅立って もう五年
いえ まだ五年
私は あの日
時が止まったまま 流されています

 「永久に誓う 君への愛を
永久に  君を幸せにする」
いつも言っていたあなた

「永久に」 「永久に」 「永久に」
呪文のように つぶやいている私

この世界に 永久のものがあるのでしょうか

花も木も すべてのもの すべての命
いつか消え 無になるのです

ただ一つ あなたへの思いは「永久に」 です
私の命が消えても  思いは「永久に」 です

毎年 二人で見た 五山送り火
今も 私のそばにあなたはいます
今年は 灯篭流しであなたを送ります

空を見上げれば 星に
花や木々にも あなたを
小鳥のさえずりにも あなたを

いつも いつも感じています
あなたのぬくもりを

2012年2月27日月曜日

「わたしのお家 変かしら」 (2)


  かあこちゃんは、とても不思議な気持ちがしていました。わたしのお家は、変なのかしら、みんなの家と違うのかしら、と考え始めました。わたしの家では、みんなが働いている。子供も大人も、黒牛も乳牛も、にわとりもねこも、犬もやぎも。子供達に、滋養があるやぎのおっぱいを飲ませる為に、やぎを飼ったのだと、お父さんが、話していたし、ねこは、ネズミを追っかけて、犬は、留守番をしてくれる。わたしの家では、いろんな食べ物を作っている。米、麦、そうめんやひやむぎ、みそしょうゆ、梅干しらっきょうたくあん、梅酒、おもちかきもちあられ、きなこにおはぎ、パンもケーキも、お母さんが作ってくれる。かあこちゃんは、考えました。町で買う物は何かしら。魚と肉と、とうふあげ。洋服やセーターは、お母さんとおばあちゃんが、作ってくれる。でも、お正月には、町で洋服を買ってもらっていることを、思い出しました。みんなの家では、ほとんどの物を店で買っているんだわ、だからあんなに驚いていたんだわ。かあこちゃんは、いろいろ考えました。お兄ちゃんは、朝早く起きて、しぼった乳を、お父さんと牛乳屋さんへ運び、殺菌してビンにつめて配達している。わたしは、お姉ちゃん達と卵を集めて、汚れをとり箱につめる。それをお父さんが、店へ持って行く。かあこちゃんは、一年生のわたしも、ちゃんと仕事をしているんだよと、胸を張りました。
レオは、レオナルドダヴィンチからもらった名前です。レオと散歩している時、捨て犬と出会いました。赤ちゃん犬が、ヨチヨチと後をついてきます。もらい手を探しましたが見つからないので、大家族の一員になりました。レオの弟なので、ナルドです。来てすぐナルドは、重い病気になり、入院しました。かあこちゃんは、毎日病院へ通い励まし、一生けんめい祈りました。ナルドは元気になり、三人で追いかけっこしたり遊び回りました。   
元気だったおじいちゃんが、秋の終わりに病気でなくなりました。かあこちゃんの家には、二百年も前から、家の守り神だと言い伝えられている、大きなくすの木があります。
「おじいちゃんは、どこへ行ったの?」お母さんに聞くと、「お空に昇り、このくすの木へ帰ってきて、いつもみんなを見守っていてくれるのよ」と、言いました。
 今、かあこちゃんは、くすの木を見上げています。あれから何年たったのかしら。みんなみんなレオもナルドも、くすの木に行ってしまった。「ありがとうみんな。いつもいっしょよ。ずーっとずーっといっしょよ」かあこちゃんは、孫の手をギュッと握りつぶやきました。                                

                                       おわり

2012年2月26日日曜日

「わたしのお家 変かしら」 (1)


かあこちゃんの小さい時のお話です。

かあこちゃんは、一年生。
 とっても元気な女の子。
 家族は、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、お兄さん、二人のお姉さん、黒牛のタロ、乳牛のハナとモモ、やぎのメリ、たくさんのにわとり、ねこのミイ、大の仲良しの犬のレオ。
 学校で家の話をする時、かあこちゃんは大きな声で、身ぶり手ぶり一生けんめい話します。家族みんなの話をすると、とても時間がかかります。でもクラスのみんなは「それでどうなったの?教えて教えて」と、かあこちゃんの話を、楽しみにしています。
 ある日「みんなで、かあこさんの家へ、見学に行きましょう」ということになりました。かあこちゃんは、びっくりして恥ずかしくなって、胸がドキドキしてきました。でも、ちょっぴり得意な気もしました。
 その日は、とってもよいお天気でした。ハナとモモの乳しぼりを、お母さんが、見せてくれました。お母さんの手に握られたおっぱいから、勢いよくシューシューと音をたてて、お乳が出ています。どんどんバケツが、いっぱいになっていきます。みんなは「ワーッワーッ」と、歓声をあげています。ハナもモモも、目をパチパチさせて、小さなお客さんに驚いています。でも、おっぱいをしぼってもらって、気持ちよさそうです。
 次に、お父さんが、たくさんのにわとりがいる鶏舎を、案内してくれました。生まれたばかりの卵が、ならんでいます。お父さんは、われないように、ていねいに集めます。「ワーッあったかいよ」誰かが、卵にさわりました。「生みたてだからね」お父さんが、言いました。みんなは町の子なので、店で売っている卵しか知りません。「かあこちゃんずるいー」ブーブー言っている子もいます。
 次に、田んぼへ行きました。おじいさんが、タロと働いています。力を合わせて、耕しています。タロは、力もちです。田植えの準備です。みんなが見ている間に、どんどん耕されていきます。「タロは、すごいなあ」と、みんなは感心しています。
 次に、畑へ行きました。おばあさんが、働いています。草をとる仕事も大変です。おばあさんは、体を起こし「よう来たなあ、ゆっくり見ていってなあ」と、言いました。
 かあこちゃんは、畑でとれるいろんなものの名前を言いました。「人参じゃがいもたまねぎ、ねぎ大根きゅうりかぼちゃ、トマトピーマン白菜キャベツ、いんげんえんどうさつまいも、落花生とうもろこし、スイカメロンイチゴ、にんにく大豆小豆、えーっとそれから」「すごーい、八百屋さんみたい」みんなが叫びます。「やぶでは、柿栗みかん夏みかん、ゆずびわいちじく、それから竹の子、えーっとそれから」「すごい、すごい」歓声があがります。かあこちゃんは、鼻高々です。この日の見学は、終わりました。みんなは、興奮して帰りました。                             つづく
 

2012年2月25日土曜日

昭和のヒロイン

激動の昭和を生き抜いた日本の母

 戦後生まれの私が、お話を聴くボランティアで出会った九十歳の女性は、私が考える昭和のヒロインである。激動の時代を生き抜いた日本の母である。男達が引き起こした戦争によって、大切な人を失い、深い悲しみ大きな苦しみを胸に、歯をくいしばり、昭和を生き抜いた。彼女達にはただただ頭が下がる。平和で豊かな今の日本からは、想像するのも難しい彼女達の人生。昭和のヒロインは、このような多くの彼女達である。
 彼女の夫は、終戦になっても消息不明で生死もわからず、引き上げ船が帰るたびに、幼い四人の子供をつれて、舞鶴まで何度も出かけた。戦争という恐ろしい渦に巻き込まれ、悲しみ苦しみを押し付けられ、それでもそれに負けず、歯をくいしばって生きてきた。負けるわけにはいかない。子供達を立派に育てあげねばならない。一番下の子は父親の顔を知らない。生まれてすぐ写真を撮り夫のもとへ送った。夫はとても喜んでいたと、後で人づての聞いた。この子は父に一度も抱かれることはなかった。戦争が終わった。いろんな仕事をして、必死で子供達を育てた。とにかく夫が帰るまで頑張らなければと一生懸命だった。子供達の元気な姿を、夫に見せたいという思いで必死だった。いつかきっと帰ってくると信じ、元気で帰ってくれることを信じ、無事を祈り続けて十一年。遺骨が還った。名前を書いた木の札のみの遺骨だ。他に何もなかった。夫が出征した日から六十余年の歳月が流れた。四人の子供は亡夫から託された彼女の宝物だった。夫を見送った最後の時に「子らをたのむよ」と言った夫の言葉と、手の熱い感触を胸に生きてきた。「子供達も立派に成人し、夫に自慢したいと思います。現世での生活は、七年足らずでしたが、あの世で会えるのを、楽しみにしています」と話す彼女が、夫に会える日はそう遠くではない。
 激動の昭和を生き抜いた、彼女達の踏ん張りの上に、今の日本がある。

2012年2月24日金曜日

ふるさと

 思えば遠くへ来たもんだ  

今、私の住まいは山陽本線のそばにある。生まれて初めて、鉄道のそばに住んでいる。いつも、列車の通る音があるという生活の中で、深夜聞こえてくる夜行列車の音は、心に深くしみ入って聞こえてくる。子供が、幼稚園の時に合奏した、「線路は続くよどこまでも」の歌が聞こえてくるようであり、青春時代に結びつく「思えば遠くへ来たもんだ」のメロディーが、若かりし頃の映像と共に、甦ってきたり、列車の通る音が、格別な意味を持って、私に語りかけてくる。山陽本線、東海道本線、関西線、紀勢線を乗り継いで、私のふるさとへ線路は続いている。広島へ来て始めの半年間、私は、父の介護に毎週末ふるさとへ通った。父は米寿を超えたものの、いつなんどき別れの時が来るかもしれないという思いで一生懸命介護した。そして別れは突然訪れた。最後のその時には、立ち会えなかった。十年前に母が去り、そして父が去り、ふるさとが淋しいものになった。他県に嫁ぎふるさとを離れて三十年。いつも私達家族が帰るのを待っていてくれた父と母。「ふるさと」イコール「父と母」の存在だった。父と母のいないふるさとは、淋しさを感じる場所となり、年二回のお墓参りだけが、ふるさとへ足を運ぶ日となった。しかし四半世紀の間、私を育ててくれたふるさとは、心の中に生涯変わることなく記憶されている。ふるさとは自分の原点である。父と母から、そしてふるさとからたくさんの愛情をもらって私は育った。自意識が芽生えるまでの、無邪気で天真爛漫だった子供時代、そして悩み多かりし青春時代。懐かしい恩師や友人達と、一瞬にして学生時代にタイムスリップできるふるさとである。時には、恥ずかしい自分を思い出させてくれるふるさとである。

 結婚して、大阪、東京、名古屋、京都、広島へと、転勤で移り住んだが、私の心の中には、ふるさとが生まれ育った場所として、しっかり根を張っている。しかし二人の娘にはそれがない。娘達は、「ふるさとはどこ?」と聞かれた時、答えに困ると言う。私が「ふるさとはここ」と即答できることを、うらやましいと言う。私のふるさとは、娘達にとって、おじいさんおばあさんが暖かく迎えてくれたところ、生まれた時から何度も足を運んだなじみの土地であり、特別の場所ではあるが、ふるさとではないらしい。また違う見方をすれば、「心のふるさと」は、実際に生まれ育った場所をさすものでなく、自分がふるさとのように思う場所である。そういう意味では、娘達も自分の「心のふるさと」を、見つけることであろう。

 今、山陽本線のそばに住んで、列車の通る音を聞きながら、ふるさとへ思いを馳せる。ふるさとから出発した私の旅が、人生が、線路と重なる。喜び、悲しみ、苦しみ、いろんなことがあったけれど、まだまだ未来へ向かって列車は走る。線路は未来へ続く。未知の世界がまだまだこの先にある。

 「今は過去、未来は今」このことばを、胸に刻み、人は旅人、人生という旅を、自分の旅を、しっかりと歩いていきたい。

父と母に「ありがとう」ふるさとに「ありがとう」と、感謝の気持ちを持って歩いていきたい。時々、ふるさとを振り返りながら。

2012年2月23日木曜日

「約束」


 今から三十年前、嫁ぐ日の前夜、二十五歳の私は、日記に記した。

「明日から新しい人生がスタートする。愛し合い共に生きていきたいと思う二人なんだから、どんなことが起ころうと乗り越えられる。いろんなことがあるだろうが、頑張ろう。結婚とは、愛情、信頼、尊敬、責任の、四本柱の家屋のようなもの。最後の別れの時に、自分は愛した、愛されようと努力した。そう思えるように生きていこう」愛し合う二人が結ばれる喜びに、満ちあふれていた。結婚する前に、人間について、愛についてなど、たくさん読んだ本の中で、見つけたことばを胸に刻み、私は、結婚という人生の大事業を歩き出した。
 結婚した翌月から仕事も始めた。自宅でピアノを教える仕事なので、家事との両立も可能だった。長女が生まれ、次女が生まれ、家事、育児、仕事を、とにかく無我夢中でやり通した。ピアノひと筋で生きてきた不器用な私が、必死に生きた。その日々の中で、愛し合う二人が結婚したという喜びを、胸に秘めながらも、どこか違和感を感じていた。二人の子供を何とか育て上げねば、という責任と義務が、私を頑張らせる原動力となった。もちろん、子供の成長は、人生の喜びであり、二人が築いた家族四人が、健康に暮らせていることには、感謝した。愛し合っている二人という私の思いが、相手からの何気ない言動で傷つき、自信を無くしていった。愛し合って結婚したのではないか、何故、こんな思いをするのか。そんな時、私は、ピアノに自分の心をぶつけて、乗り越えてきた。嬉しい時、悲しい時、悔しい時、ピアノは私の心を暖かく包み込んでくれた。愛し合った二人が言い争い、けんかするなど、想像できなかった私は、理想の夫婦を演じていたのかもしれない。そして二人の子供は、成人し巣立って行った。これからは、夫婦二人仲良く、最後の時まで、支え合って生きていこう。そんな思いで気持ちも新たに、五十代に突入した。ところがそんな時に、夢にも想像していないことを知った。単身赴任を十年していた夫は、私と違う方向を向いて歩いていたのだ。
 「結婚とは、愛情、信頼、尊敬、責任の、四本柱の家屋のようなもの。最後の別れの時に、自分は愛した、愛されようと努力した。そう思えるように生きていこう」と信念を持って生きてきた私の土台が、根っこから崩れ去った。私が最も大切にしてきたものが、崩れ去った。結婚の土台が崩れ去ったのでは、砂上の楼閣だ。愛し合う二人、共に生きる、イコール結婚ととらえていた私。自分だけがどんなに真摯に生きていても、二人の絆はもろく、簡単に崩れ去ることを知った。未熟な人間が、結婚し共に生きていくことの、難しさを痛感した。自分の心が傷つくたびに、愛し合っているならば、相手の長所も短所も受け入れねば、お互いさまなのだから、と考えていた私だが、こればかりはそう簡単には、乗り越えられなかった。夫は、夫婦再生を願った。命あるものはすべて、いつか終わりの時が来る。その時まで、どう生きるべきか、信念を持って生きてきた私は、この最大の難関も、その信念で乗り越えてしまいそうだ。人間は弱いもの、愚かなもの、目の前にいる人のありのままの姿を、愛し抜こう。なにより愛し合った二人が、共に生きていこうと結婚したのではないか。最後の別れの時に、思い出の一つとして、二人の歴史をふり返ることができるのかもしれない。

 私の「約束」は、嫁ぐ日の前夜、日記に記した自分との約束である。

 「恋は一瞬、愛は二人で育てるもの。

  今は過去、未来は今」と、つぶやきながら、歩いていこう。
 

2012年2月22日水曜日

母の習慣


私が子供だった頃、母と一緒にお風呂に入ると、いつも目にすることがありました。母は、湯船につかり出る前に、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」を、十回も繰りかえすのです。私は、子供心に不思議でおかしく、ある日「毎日、毎日、どうして同じことをしているの?」と、母に尋ねました。すると母は「仏さまに今日一日どうもありがとうございましたとお礼を言うのよ。また明日もよろしくおねがいしますもね。なむあみだぶつを十回言うと、一日の疲れが体中から溢れ出て、大きなあくびが出るの」と言い、本当に気持ちよさそうにあくびをするのでした。子供の頃、私も、母のまねをして「なむあみだぶつ」を、十回繰りかえして言ってみましたが、あくびは出ませんでした。

 十二歳で母親を亡くし、十九歳で父親を亡くした私の母は、二人の妹と一人の弟の母親代わりとして、頑張って生きてきました。二十二歳で、大百姓の一人息子に嫁ぎ、したこともない野良仕事に、朝は暗いうちから、夜は暗くなるまで働き、子供を六人産み育て(その内の二人は幼くして亡くす)、がむしゃらに働き続けました。また好奇心旺盛な母は、当時の農村部の新婦人の会の会長も務め、最先端のパン焼きや料理に挑戦しました。小さな体のどこに、そんなパワーが秘められているのかと思うほど、エネルギッシュに人生を走り続けました。毎日自分の全力以上のパワーを使い果たす母は、湯船につかり「なむあみだぶつ」を十回繰りかえし、体中の疲れをはきだしていたのだと、大きくなった私は、理解できるようになりました。

 その母の習慣を受け継いだのか、形は違いますが、私は、寝る前に床の中で、感謝と願いを、大いなる宇宙、眼には見えない大いなる者に、念じています。

2012年2月21日火曜日

叔母の遺した言葉

    叔母の口ぐせは「ええこと、ええこと」でした。どんなささいなことでも「ええこと、ええこと」でした。私は、内心「もう、叔母さんは、ほめてばかりで困るな」と思っていました。

 叔母は、三歳で母親を亡くし、十歳で父親を亡くし、二人の姉と一人の弟の四人で、肩を寄せ合って生きてきました。もちろん親戚の支援を受けながらですが。兄弟四人は、深い愛情と強い絆で結ばれ、長女である私の母を、母親のように慕い、また私の母は、妹や弟の面倒をよく見ていました。私たち子供の目には、本当に仲の良い素晴らしい兄弟に映っていました。二人の姉が結婚し、叔母は、義務教育を終えると就職し、寮に入り、一人で歩き出しました。結婚し子供を育てながらも、最後まで仕事をやり続けた頑張りやの叔母は、経済的にも恵まれたと言えると思います。しかし最愛の息子を早く亡くすという、つらく悲しいことも起こりました。

 叔母の人生を考える時、小さい時からどれほどたくさんの苦労があったことでしょう。多くの苦労を乗り越え生きてきた叔母の目には、いつからか、拡大鏡がついたのだと思います。どんなに小さな良いことも、見逃さないで拡大鏡で大きくし「ええこと」にするという叔母の対処の仕方は、本当に強く逞しく、頭が下がります。人生には、良いことは少なく、むしろ悪いことの方が多いかもしれません。しかし、悪いことばかりに目を向けているより、小さくても良いことを見つけられるような人間になりたいものです。
 私の母も叔母も、心不全で突然に亡くなり、今は天国で、兄弟四人が仲良く楽しく過ごしていることでしょう。

2012年2月20日月曜日

はじめまして


 おくればせながら今日からブログをスタートします。

 18日に天皇陛下が心臓の手術をされましたが、順調に回復されているとのことで安堵しています。天皇、皇后、両陛下のお姿を映像から拝見するたび、私は胸が熱くなります。深い愛情、揺るぎない信頼でむすばれておられるご夫婦のお姿は、まさに理想の夫婦像です。支え合い助け合い励まし合い手を取り合い、人生の道をゴールに向かって旅を続ける人間の本来の有り様だと考えます。そして親子愛についても、いつも感動しています。子を思う親の愛、親を思う子の愛、国民にお手本を示されているかのような印象さえ抱きます。本当に心の底から溢れ出てくる、人間性なのですね。両陛下の優しく慈愛に満ちた笑顔は、私達をほっこりとした気持ちにさせてくださいます。東日本大震災で被災されたたくさんの人々は、どんなに大きな励ましを頂いたことでしょう。
天皇陛下のご快復を、心よりお祈り申し上げます。