最近私は面白いことに気づきました。比較言語学という一見難しそうな学問が、世界を舞台に展開されていますが、一番身近な私の家庭の中で、長年交わされている言葉自体が、言語比較論そのものだということに気づいたのです。
私、ポアロ(夫)、娘、の三者の出身地が違います。ポアロは難波の国、私は伊勢の国、そして娘は多国籍です。私は夫の転勤に伴い、いくつかの土地で暮らしましたが、その土地の個性的な言葉が方言として継承されています。そしてその方言には、他の土地に暮らす人々に、時には通じない言葉もあります。十年暮らした岡山では、語尾に「じゃろ」をつけて、老いも若きも、小さな子供から高齢者まで話されていました。その言葉が聞こえてくると、ほほえましい印象を持ちました。私は伊勢弁を連発します。ポアロは大阪弁です。娘はどこの出身かわからないほど、いろんな言葉を発します。はんなりした京都弁、きりっとした標準語、奈良独特の奈良弁など、その時に応じていろんな言葉が飛び出します。地方出身の私から見れば、東京で交わされる標準語といわれる言葉は、少しすました言葉のように聞こえます。気取っているようにも思います。これは私の偏見だと思いますが。私が伊勢弁で、語尾に「が」をつけて発言すると、ポアロと娘はびびります。「荒っぽくてきつくて怖い」と言うのです。私が何げなく発した言葉が、人に悪い印象を与えているとすれば、それは問題です。発する言葉に注意を払わねばなりません。また私が発した言葉が「おかしい、面白い」と言って、笑いころげるようなものもあります。その土地で何の気兼ねもなく交わしてきた言葉について、いろいろ指摘されると、私は萎縮してしまいます。これからは声の調子も変えて、すました顔で、標準語をしゃべろうかとも思いますが、それを思い描くと、自分らしさがなくなり、よそ行きの顔になるようで、やっぱり自分は自分、あるがままにをモット-にしていこうと思います。ポアロや娘に揶揄されても「負けないぞう-」の心境です。
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