2014年1月28日火曜日

師走の旅(四国へ)-5


 朝宇和島城を散策してから、西予市宇和町へ戻りました。旅の一日目が見所いっぱいで遅くなり、宇和町へ寄れなかったのです。高速道路の無料区間を走り、効率よく戻れました。

 宇和町卯之町は、宇和島藩唯一の宿場町としてにぎわい、シ-ボルトの娘イネや二宮敬作(シ-ボルトの弟子)ら、蘭学者たちを育んだ江戸時代の町並みが残っています。

 
 
 
 
 

 

そして明治15年(1882)に建築された、四国最古の木造小学校舎が残っています。明るい未来を開こうという、希望に満ちた名前が付けられた開明学校です。厚さ30センチの白壁に、フランス風ア-チ型の硝子窓、外観は擬洋風で、モダンでお洒落なつくりです。中を見学しました。明治にタイムスリップしたような感覚になりました。教室は、4本の大きな通しの丸柱で区切られ、6教室あったそうです。昔は教科書が高価だったため、買えない生徒がたくさんいたので、代わりに「掛図」を使って授業をしていました。明治初期の大変貴重な「教授用掛図」(文部省刊行)が多数保管されており、その数・種類は全国一だと言われているそうです。

長野県松本市にある有名な旧開智学校は、開校明治6年(1873)ですが、開明学校は、一年早く明治5年(1872)に開校されています。その二つの学校は、昭和62年(1987)に姉妹館提携されたそうです。明治から昭和にかけての教育資料約6000点のうち、600点が展示されており、建築史上・教育史上価値の高いものとして、平成9年に国の重要文化財に指定されました。

 
 
 
 
 
 
 


 卯之町は、天保4年(1833)頃から、二宮敬作、左氏珠山(小説「坊ちゃん」に出てくる漢文の先生のモデル)などの蘭学者・儒学者をはじめ、学問が盛んに行われ、この町の若者の啓発に努めていました。「蘭学といえば宇和島藩」といわれた時代があったほど、学問に熱心な先人たちが大勢集まった町だったのです。宇和町卯之町は、明治4年まで宇和島藩でした。開明学校は、子どもたちに素晴らしい学問を伝えようとする、教育に対する情熱の結晶のような校舎です。開明学校の横には、明治2年築の住民が自発的に建てた私塾申義堂がありました。

  

 そこから「中心街」という名の商店街を北へ少し行ったところに宇和町小学校の旧校舎が移築された「米博物館」がありました。大正4年築の講堂、大正10年築の校舎、昭和3年築の109メ-トルの長い廊下のある校舎など、中へは入りませんでしたが、それぞれの建物を窓越しに中を見て、懐かしい気持ちになりました。109メ-トルもある日本一長い廊下では、平成16年から雑巾がけレ-スが行われているとのことです。この日は雪がチラチラする中を、古い町中を歩き、歴史ある学校や校舎を見て、豊かな気持ちになりました。卯之町は、小さいけれど文化の香る町でした。シ-ボルトといえば、長崎、オランダ、蘭学、医者といったことしか知りませんでしたが、長崎から離れたこの卯之町に、深い関わりがあるという歴史に驚き、今に脈々と伝わっていることには、感慨深いものがありました。

 
 
 
 


*シ-ボルトの娘イネは、日本最初の西洋医学の女性産科医になりました。

 

 

2014年1月26日日曜日

師走の旅(四国へ)-4


 一日目の夕方、雨の中、暗くなって立ち寄った大洲城は、鎌倉時代末期(1331年)に守護として国入りした伊予宇都宮豊房によって築城されたといわれ、その後、藤堂高虎等によって大規模に修築がなされ、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していきました。現在の大洲城の天守は、平成16年(2004年)に復元されたもので、四層四階の木造天守です。残念ながら私達は、大洲城を写真に収めただけでした。

 二日目は、小雨の中、朝食後近くの宇和島城へ登りました。宇和島城天守閣は、標高74メ-トルの丘陵地の山頂にありました。全国現存の天守閣12城の一つです。その起源は中世期にあった板島丸串城の跡に1601年藤堂高虎の築城とされています。今の天守の形に立て替えられたのは、伊達氏になって二代宗利が城の大改修をした1661年からです。その後、伊達十万石の中心としてその威厳を保ってきました。当時の二の丸、三の丸は空襲で焼け落ち、城を取り囲んでいた堀や海は埋め立てられ、今は面影もありません。歴史を語るうっそうと茂る木々や、苔むした石畳の中を歩いて天守閣へ登りました。





 少し登っただけと思いましたが、天守閣からの眺めは素晴らしいものでした。宇和海がきれいに見えていました。途中、朝のウォ-キングをする市民の方、5人ほどに出会いました。1時間ほどの朝の散策を楽しみました。
 

 

2014年1月25日土曜日

師走の旅(四国へ)-3


 今治から松山を通り抜けて、愛媛県喜多郡内子町へ向けて走りました。松山へは以前に二回来ています。司馬遼太郎著「坂の上の雲」がドラマ化され、松山が人気の観光スポットとして、多くの観光客が押し寄せました。町も整備され、松山城、秋山兄弟、正岡子規、夏目漱石、松山中学など見所いっぱいです。道後温泉は、古くから人気ある有名な温泉です。この日は松山の幹線道路で渋滞に巻き込まれ市内を通り過ぎるのにずい分手間取りました。松山は四国最大の都市ということを、改めて認識しました。内子まで国道で行く予定だったのですが、少しだけ高速道路を利用しました。

 内子へ四時過ぎに到着しました。内子には、有名な内子座があります。内子座は、2016年に創建100周年を迎えます。大正5年の創建です。閉館時間も近づいており、見学者は私達の他に若いカップルが一組いただけです。始めにスタッフの方が、ざっと説明して下さり、そのあとは自由に見学しました。開場時間は4時半までとのことで、私達は急いで見学しました。内子座には回り舞台もあります。花道には、すっぽん(忍術使いや妖怪などがせり上がる切穴)があり、興味津々になりました。義太夫席、桝席、大向(おおむこう)があり、奈落(舞台や花道の床下の総称)も面白いものでした。昔は人力で回り舞台を動かす仕掛けがあったそうです。舞台下手に観光客のためのはっぴが何着か用意されていたので、私達は喜んではっぴを着て記念撮影をしました。内子座が約百年前に、多くの人の力によって建てられ、町の栄華と共に歩み、それをまた復元した人々の、昔も今も変わらぬ人間の叡智に感動しました。内子町には、他にもまだまだ見所がたくさんあるので、一泊二日は滞在したいほどでした。国指定重要文化財になっている、往時の栄華を偲ばせてくれる豪商の館がいくつもありました。木蝋資料館や博物館、大きな寺もありました。
 
 内子座・・・この木造劇場は、木蝋や生糸などの生産で栄えていた時代、芸術・芸能を愛してやまない人々の熱意によって建てられた。農閑期には、歌舞伎や文楽、時には映画や落語などが演じられ、当時の人々の心の糧、文化的な拠り所として愛された。内子座は大正天皇即位を祝い創建され、木造二階建て、瓦葺き入母屋造り。ホ-ルとして活用後、老朽化のために取り壊しになるところを、町民の熱意により復元。昭和60年10月劇場として再出発。現在では年間約5万人の人々が訪れ、60日近くを劇場として活用されている。定員は650人。    (パンフレットより)
 
 
 
 
 
 
 

  雨が降り出し、気も焦る中、私達はこの日の宿を宇和島にとっていたので、急いで車を走らせました。それでも途中大洲城に寄り、雨の中、暗くなりライトアップされた夜の大洲城を写真に撮りました。ホテルへは、予定到着時間7時寸前に着きました。

 
 


 

2014年1月24日金曜日

師走の旅(四国へ)-2


 西条市の自噴井を見学してから、今治市へ向けて国道196号線を走りました。今治市は日本一のタオル生産地で有名です。今治タオルの歴史は、明治27年に始まります。キャラクタ-のバリィさんも有名になっています。「ゆるキャラグランプリ2012」で一位になっています。今治へは何年か前にも来ています。その時は広島県尾道市からしまなみ海道を走り、愛媛県今治市へと四国上陸をしました。そして今治城やタオル物産館を見学しました。

 今回はタオル大好き人間の娘の発案で、コンテックスタオルガ-デンへ行きました。たくさんのタオル製造会社がある中に、古いレンガ造りのしゃれた建物が目に入ってきます。人をひきつける佇まいです。1950年に建てられた、のこぎり屋根の古い織物工場を改装し、ファクトリ-ショップとして活用されています。隣の工場は、今も現役でタオルを織り続けています。60年前の事務所を改装したカフェは、こじんまりした広さで、私達はコ-ヒ-や抹茶アイスを食べて、少しの間くつろぎました。

 
 
 


今治タオルはブランド品です。結構いい値です。娘は、友人達へのお土産と自分用を買い求めました。私は、ついつい飾ってあるコ-トに気をひかれ、タオルではなく二枚重ねのちょっとしゃれた感じのコ-トを買ってしまいました。隣の工場も予約を取っておけば見学できたそうですが、私達はあいにく見れませんでした。ここで二時間近く滞在して、次の目的地へ移動しました。
 

 

2014年1月23日木曜日

師走の旅(四国へ)-1



 年の瀬も押し迫った日に、家族で四国へ行ってきました。二泊三日の急ぎ足の旅でした。車で出かけました。一日目は瀬戸大橋を渡り、香川県坂出市に入ります。高速道路を走ったので、丸亀市、善通寺市、三豊市、観音寺市は表示を見て通り過ぎました。讃岐富士は、小さいながらも美しい姿を見せています。愛媛県に入り、四国中央市、新居浜市を通り過ぎ、西条市を目指します。一つ目の目的地は、西条市の自噴水です。「うちぬき」と呼ばれています。日本名水百選の一つです。四国の屋根で、西日本最高峰の石鎚山(標高1982メ-トル)から地下を通り、西条市で自噴井として噴き出ています。水温はこの日で12.9度でした。
 
 
西条市内には自噴井が2000ヶ所もあり、市民に利用されています。一日の自噴量は約90000㎥に及び、一年を通じて温度変化は少ないそうです。私達が写真を撮った場所でも、次から次と市民の方が来られ、大きなペットボトル何本にも水を入れておられました。大自然の恩恵を受けたおいしい水としても有名で、ポアロ(夫)は少し飲んでそのおいしさに感激し「持ち帰りたい」と言っていました。自噴井を数ヶ所回り、西条市を後にしました。
 

 

2014年1月22日水曜日

感動したこと


 先日テレビで仔馬が誕生するその瞬間を、偶然見ました。母馬は誰の助けも借りずに、一人で産みました。薄い膜に被われた仔馬の頭と前足が顔を出し、そのあと勢いつけて、仔馬は母馬の胎内から生まれ出ました。母馬は薄い膜を口で取り除きながら食べ、仔馬の体を優しくなめます。仔馬は自分の足で立とうとしてはこけ、それを何度も繰り返し、5~6回ほどしてからやっと立つことができました。生まれ出てほどなく、よろつきながらも自分の足で立つ仔馬の姿に感動しました。そのあと母馬の体の下に顔をつっこみ、おっぱいを探します。母馬は、自分の顔で仔馬を優しく誘導します。

 広い牧場にはたくさんの馬がいます。仔馬もいます。新参の仔馬の周りに、他の馬が集まってきます。温かく仔馬を仲間に迎えてくれるあいさつです。そして仔馬は母馬のあとをついて、歩いたり走ったりするのです。

 動物の本来持っている自然の姿に感動しました。ところで父馬はどこにいるのでしょう。自分の子が生まれたことを知っているのか、わかっているのか、それともわからないのか。母という偉大な母性は、父性に比べて比べようもないほど、神々しいものだと感じました。人間はたくさんの人の助けを借りて、次世代の命の誕生に辿り着きます。改めて感謝感謝です。

2014年1月15日水曜日

徒然に想ううた 自由句三句


 

成長と 成熟の岐路 五十歳

 

 

賢人の 照らす明かりに 導かれ

 

 

齢増し 友の賀状は 減るばかり

2014年1月11日土曜日

「生きる」


 

生きることは闘うこと

誰と闘うのか

何と闘うのか

自分と闘うのです

 

生きることはつらいこと

誰を頼りにするのか

何を頼りにするのか

自分を頼りにするのです

 

悲しくて苦しくて

どうすればよいかわからない時

自分の内なる声に耳を澄ませてほしい

必ずヒントが見つかるでしょう

 

自分を見くびらないで

自分のパワ-を引っ張り出して

自分を信じて

笑顔を取り戻してほしい

2014年1月10日金曜日

徒然に想ううた 川柳三句


 

いつのまに 孫の自慢か 年賀状

 

 

初春に 懐寒し 孫増えて

 

 

孫と犬 時世語るか 友の文

2014年1月9日木曜日

Big Name


 私は、冬休みに家族から素晴らしいニックネ-ムをもらいました。

ロンドンオリンピックの開会式に出演し、世界に笑いを提供した、イギリスのかの有名な喜劇俳優Mr Beanの女性版Mrs Beanです。

 二十五年前だと思いますが、我が家はMr Beanのファンになって、テレビで見る彼の演技に、涙をこぼして笑いころげていました。たった一人であの笑いを提供する彼に、脱帽していました。

 家族に言わせると、私の言うことすることが、おかしくておかしくて笑いをこらえきれないというのです。私は自分では普通で、特別に他の人と変わっているとは思いませんが、人を笑わせようとかという気持ちは全く無いのに、自然の振る舞いそのものがおかしくて笑えるというのです。自分は一体全体どんな人間なのでしょう。

 以前緊急入院し緊急手術を受けた時の主治医が、ポアロ(夫)に「奥さんは面白い楽しい方ですね」と言われたそうですが、ふとそのことを思い出しました。自分は真面目に言ったりしていることですが、他の人とはどこか違っているのかもしれません。

 「かあこ1年生」では、小学1年生の時の絵日記を載せているのですが、私の素の人間の原点のようで、自分でも笑いがこみあげてきます。今も家族に指摘されて、自分を振り返った時、自分が気づかないうちに面白いことをしているんだと笑ってしまいます。

私のニックネ-ム「Mrs Bean」とても気に入りました。

2014年1月8日水曜日

ある人からの年賀状


 私達が結婚して以来、ずっと四十年以上も年賀状を出している人生の先輩から、今年は心に残る年賀状を頂きました。 

「私達二人は卒寿を迎えました。今回をもって筆を折らして頂きます。長い間有り難うございました」

御主人は九十二歳、奥様は九十歳になられる御夫婦です。日本が世界一の長寿国となり、二人そろって百歳を迎える夫婦も、これからは増えることと思いますが、社交儀礼の線引きをどこでするかは難しいのではないでしょうか。

 今迄の経験では、こちらが年賀状を出して返事が来なくなると「お元気なのかどうか、どうされたのか」と、気がかりになりました。私の母は、心筋梗塞で突然亡くなったので、線引きする前に命が終わりましたが、父の場合は「年賀状どうしよう」と言いながらも、八十八歳の最期まで出し続けました。何度も「年賀状終わりにします。と書こうか」と言っていましたが、自らの線引きはすることなく亡くなりました。

 我が家のまんたん(義母)は、初期の認知症と診断され、現在はホ-ムで暮らしています。去年の年賀状は、私達が代行しました。一人ではできません。しかし体は丈夫です。百歳は越えられそうです。皮肉なことです。今年も年賀状が何枚か、まんたんあてに届きました。そこで私達は、先述の線引きのあいさつを書いて、ポアロ(夫)の名前で返事を出しました。自分で自分のことができる間に、線引きをする必要があると痛感しています。いつ線引きをすればよいのか、先のことは誰にもわからないことで、予測不可能で非常に難しいと思います。これは年齢に関係ないことかもしれません。今年は年賀状で考えさせられました。

2014年1月6日月曜日

新しい年の初めに


 「初春のお慶びを申し上げます」 

 新しい年がスタ-トして、六日が過ぎようとしています。我が家の元日は、毎年同じですが、ゆっくり目に起きて、お屠蘇とおせちとお雑煮で新年のあいさつを交わします。たくさん食べてお腹がいっぱいになり、後片付けをすませてから、おもむろに年賀状をポストに取りに行き、目を通します。出していない人からの年賀状があれば、急いで書いて、それから家族で初詣に出かけます。

 今年は京都で初詣に行きました。まずは有名な平安神宮へお参りしました。いつものことながらたくさんの人でにぎわっています。

 
 


その次に粟田神社へお参りしました。ここはそれほど知られていないので、地味な静かな感じでした。大きな神馬の像があったので、記念写真を撮りました。今年の干支は午です。感慨深く眺めました。

 
 


そして帰り道に、東三条大将軍神社というのがあったので、お参りしました。樹齢八百年の大きな銀杏があり、感動しました。
 


 朝食と昼食を兼ねての食事を済ませているので、初詣はゆっくりのんびりした気持ちで、キョロキョロしながら、新しい年のスタ-トを味わいました。

 天皇陛下のお言葉の通り「日本そして世界が安寧でありますように」と、祈りたいと思います。