関ケ原の戦いで負けた豊臣方の真田昌幸・幸村父子は、長男信幸の嘆願により、高野山蓮華定院に蟄居となりますが、そのあと九度山に移り住みます。九度山には真田屋敷跡が残っています。私達は、猛暑の中、道の駅くどやまに車をとめて、真田屋敷跡に建つ寺院、真田庵(善名称院)を訪れました。
門には幸村の旗印である六文銭が刻まれています。境内には、本堂や真田宝物資料館、真田昌幸の墓などがあります。真田父子が高野山に蟄居したのは慶長5年(1600)です。昌幸53歳、幸村33歳の時です。父昌幸は、11年後の慶長16年(1611)65歳でこの地で没しています。幸村は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、息子大助とともに、14年間住んだ九度山から大坂城へ入城しました。
真田庵の境内にある真田宝物資料館を見学しました。長屋門形式、土蔵作りの資料館です。幸村が愛用したと伝えられる槍先や鎧などの武具や書状、真田紐などが展示されています。真田紐と呼ばれる丈夫な紐は、幸村が織機を使い織り上げた紐で、日常生活はもちろん、刀の下げ緒や鎧兜着用時の武具にも使用されたそうです。資金集めと、世の中の情報を探るために、家来に諸国を売り歩かさたとも伝えられているそうです。
真田庵から東へ少し行った所にある真田古墳は、「この穴の向こうは大坂城に続いていて、かつて真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いた」という伝説が残っているそうです。
大坂の陣での活躍により、幸村の生き様はドラマチックに伝えられました。真田十勇士は、幸村のために九度山に集まった志士たちです。史実を参考に生まれた戦国物語です。九度山町が誇る昌幸・幸村・大助の真田三代です。パンフレットには、真田三代ゆかりの里九度山町と書かれています。今年3月には真田ミュージアムが開館となり、大河ドラマ「真田丸」の放送とともに、山に囲まれた静かな九度山にたくさんの観光客が押し寄せています。私達もその仲間です。毎年5月に真田まつりが行われています。真田幸村父子を偲んで、総勢500名の武者行列が町内を練り歩く盛大なまつりとのことです。猿飛佐助を代表とする真田十勇士は人気者だそうです。戦乱の世を生きた名将真田幸村が、14年もの隠棲生活を送り、再起を誓った場所であるとともに、波乱に満ちた生涯の中でおだやかな日々を過ごせた所かもしれません。
幸村は、慶長20年(1615)4月、大坂夏の陣で殿軍を守り奮戦、茶臼山から家康の本陣に突撃し、壮絶な最期を遂げました。49歳でした。炎上する大坂城で淀君と秀頼が自刃し、息子大助はこれに殉じ、真田軍の勇敢な戦いぶりは「真田日本一の兵」と武名は天下にとどろき、真田十勇士となり多くの人に愛され語り継がれています。
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