2016年9月29日木曜日

「心模様」














秋というのに
毎日毎日 雨が降る
しとしと しとしと 雨が降る
静かに 静かに 雨が降る
私の心も雨模様

秋というのに
青空がない
どんよりした空
灰色の空
私の心も曇り空

天高く馬肥ゆる秋
秋晴れの空
真っ青の空
澄み渡る空
私の心も晴れ渡る

大好きな秋
収穫の秋
味覚の秋
最高の季節

秋の夜長
人は皆 文学者になる
人は皆 哲学者になる




2016年9月28日水曜日

徒然に想ううた(俳句三句)


はっとして 振り向けばそこ 曼珠沙華


誰想う 彼岸に咲きし 曼珠沙華



歳重ね 心に迫る 曼珠沙華

2016年9月27日火曜日

日々雑感(ブログ1,000回達成)

 今回のブログで1,000回を達成しました。私のつたないブログを読んで下さる読者がいることが、励みとなりここまでくることができました。ありがとうございます。
 リオ・オリンピック、パラリンピックも終わり、日本選手団の活躍ぶりは見事でした。感動をもらいました。パラリンピックでは胸があつくなりました。本当に感動しました。四年後の東京開催に向けていよいよ始動です。楽しみです。
 先週9月17日は敬老の日でした。百歳以上の方が6万5000人余となり、女性が88%を占めています。46年連続の増加です。男性8,167人、女性5万7,525人で、最高齢は鹿児島県在住の116歳の女性です。百歳以上の高齢者が増加していることについて「医療技術の進歩と健康意識の高まりが相乗効果となっているのではないか」と厚生労働省は分析しています。百歳を迎える方への国からのお祝いの品は、純銀製の銀杯を銀メッキ製に変更しました。7年前に銀杯の大きさを一回り小さくしたのに続いての策です。4割ほど低くなるコストダウンです。人生五十年と言われた時代から、2倍の百年です。一世紀を生きるということのすごさに驚きます。一つの肉体、いろんな臓器が百年以上働き続けるのです。本当に超絶技巧です。人間を超えていくみたいです。悲惨な状況のもとでの長寿もあったりするので、「ご長寿おめでとうございます」と言っていいのかどうか戸惑ってしまう場合も多々あります。しかし生まれることも旅立つことも自分の意志ではありません。人間が目指した長寿が実現したのです。これからはいかに楽しく最期を迎えることができるかの探求・追求になるのかもしれません。長生きするための最大のポイントは、小さい事にこだわら、くよくよせず、のんきに、大らかに、楽天的に、少しぼけたぐらいに鈍感に、日々を暮らすのがよいように思われます。

 

2016年9月16日金曜日

徒然に想ううた(自由句三句)


一世紀 生きてもらうは 銀メッキ


百超える 人増え続け 国パンク



生命の (つわもの)いずこ (おうな)増え

2016年9月15日木曜日

「行き違い」

時には
人と人との心の行き違いが起こる
悲しいことだ
悪意を持っていないのに
人と人との心の行き違いが起こる

誤解もある
勘違いもある
人間だから仕方ない

心の行き違いが起きないために
時には
自分を見つめる目を持ちたい

自分の態度はどうだったのだろう
自分の言葉はどうだったのだろう
人の心を傷つけてはいないだろうか

気づいたらあやまろう
素直にあやまろう

親しき仲にも礼儀あり
親しい間柄なのだから
仲良しだからと
自分を甘やかせてはいけない

どこに落とし穴があるか
誰にもわからない

出会った人と
自分の周りの人と
いつも仲良く
ニコニコ笑顔で
気持ち良い人間関係を持ち続けたい

「人は悲しみが多いほど人には優しくできるのだから」
「涙の数だけやさしくなれる」

素晴らしい歌がたくさんある
時には口ずさんでみよう

人を想う気持ちがあれば
心の行き違いは起こらない

人を想う気持ちこそが
心の行き違いを起こさない

いつの日か
大輪の花を咲かせたい

心の大輪の花を

2016年9月13日火曜日

「こころコロコロ」


こころコロコロ踊り出す
私のこころが躍り出す
楽しい時には踊り出す

こころコロコロ回り出す
私のこころが回り出す
嬉しい時には回り出す

こころコロコロ動かない
私のこころが石になる
悲しい時には石になる

こころどんどん重くなる
私のこころが重くなる
苦しい時には重くなる

こころは踊る
こころは回る
こころは止まる

あなたのこころは生きている
私のこころも生きている

こころは踊る・回る・止まる
こころは飛び跳ねる
こころは空を大地を飛び回る

こころは沈む
深く深く
湖底に沈む

こころは時には踊る
こころは時には回る
こころは時には止まる

どんなこころも私のこころ

元気なこころ
強気のこころ
弱気のこころ

悲鳴をあげるこころ

時には休もう
時には静止しよう

私のこころを解き放そう

どこまでもどこまでも
続く青空のように

こころよ自由に
大空へ飛んで行け


そして再び私のもとへ

2016年9月12日月曜日

「一つだけ」


「一つだけ望みを叶えてあげよう」
全能の神が言う

一つだけ
一つだけ

私は考える
よーく考える

人間の苦しみ
四つの苦しみについて

生きる苦しみ
老いる苦しみ
病の苦しみ
死の苦しみ

人間誰もが欲しいもの
不老長寿
不老不死

これはどんなに望んでも叶えられることはない

望みが叶うなら
大富豪?
権力者?
地位?
名声?

「一つだけ望みを叶えてあげよう」
全能の神が言う

一つだけ
一つだけ

私は考える
よーく考える

ふと思い出した

出会った高齢の方々が
いつも言っておられたこと

皆さんの望み
それはP・P・K
ピンピンコロリ

一つだけ
望みが叶うなら
私も望もう
P・P・K

ピンピンコロリ

2016年9月9日金曜日

プチ旅(高野山へ-3)高野山


 一泊二日の高野山へのプチ旅は、真田幸村が14年間暮らした九度山を一日目の終わりとし、予約しておいた高野山の宿坊へと向かいました。高野山へは今までに二回来ていますが、宿坊へ泊まるのは初めてです。高野山には宿坊寺院が52あります。ネットで見る情報ではホテルと同じですが、違うことといえば食事や入浴の時間が早いのと、早朝に法話があることです。私達は、中央部にある普門院に泊まりました。庭園が自慢の宿坊です。



高野山のマスコット「こうやくん」

 宿坊に着いて部屋に落ち着いてすぐ、娘カップルは、6時の夕食まで近くを散策しに出かけました。猛暑の中のプチ旅一日目の最後は、上品な精進料理をいただきました。


  プチ旅二日目は、7時の朝食から始まりました。6時の法話には参加できませんでした。朝食のあと、宿坊から歩いていける金剛峯寺へお参りしました。もと青厳寺といい全国に四千余の末寺をもつ高野山真言宗の総本山です。文禄2年(1593)に豊臣秀吉が建立したものです。豊臣秀吉の甥の豊臣秀次が切腹したのはこのお寺です。そのシーンは大河ドラマ「真田丸」で最近観たばかりなので、秀次が思い出されます。拝観順路に沿っての見学ですが、広いので1時間ほどかかりました。




  金剛峯寺を見学したあと、根本道場大伽藍へ向かいました。伽藍とは、本来僧侶が集い修行をする閑静清浄な所という意味だそうです。たくさんの建物があります。その中心にあたる建物は、根本大塔です。35年ほど前に家族で来た時に、この前で記念写真を撮ったのを思い出しました。金堂は高野山一山の総本堂で、年中行事の大半がここで行なわれるそうです。東塔から西塔まで、たくさんある建物の中を進みます。まさに壇上伽藍です。弘仁7年(816)に弘法大師によって開創された高野山は、1200年の歴史があります。




不思議な色のコガネムシがたくさんいました




大伽藍の見学にもっともっと時間をかけられたらと思いましたが、時間制約があるので、軽い昼食をとり、宿坊に戻り、車で移動することにしました。
 広い高野山は見どころいっぱいです。広すぎて全部を歩いてというのは無理だと思います。たくさんの歴史ある寺院の中を通り、徳川家霊台へお参りしました。三代将軍家光公により建てられた家康霊屋と秀忠霊屋があります。この建物は東照宮形式として、高野山に残る唯一のものだそうです。



徳川家の家紋である葵がありました
 次に今回のプチ旅の主人公、真田幸村が父昌幸とともに蟄居した蓮華定院へ寄りました。真田氏の高野山での菩提寺となっているこのお寺にお参りしたかったのですが、残念なことに一般客は入れませんでした。


  かつて女人禁制であった高野山は、女性はここまでという女人堂がありました。私達は女人堂で折り返し、大門まで行って戻り、中の橋駐車場へ車をとめて、歩いて弘法大師御廟のある奥の院を目指しました。




 前に来た時は、一の橋から歩いたのですが、今回は二回目ということで中の橋からとなりました。歴史に残るそうそうたる人物の供養塔や霊屋が並んでいます。奥の院の休憩所で、僧侶の法話を聞くことができました。開祖弘法大師への尊敬と親しみを込めて、お大師さまと呼ぶのだそうです。蓮の花に8枚の花弁があるように、高野山は八つの山に囲まれた高地にある盆地です。真言宗の霊場にふさわしい場所を探して旅を続けていた弘法大師は、白い犬に導かれて辿り着いたこの地こそ、自分が探し求めていた場所だと確信したそうです。奥の院で身代わりお守りをいただいて、真田幸村の足跡を辿る一泊二日の「プチ旅高野山へ」を終え、帰路につきました。




追記  高野山でもたくさんの外国人と出会いました。関西国際空港から高野山へ直行のリムジンバスが出ているそうです。

    何年か前までは、林間学校で高野山へ来る小学生が多かったのですが、どんどん減り続けているとのことです。

2016年9月8日木曜日

プチ旅(高野山へー2)九度山

 関ケ原の戦いで負けた豊臣方の真田昌幸・幸村父子は、長男信幸の嘆願により、高野山蓮華定院に蟄居となりますが、そのあと九度山に移り住みます。九度山には真田屋敷跡が残っています。私達は、猛暑の中、道の駅くどやまに車をとめて、真田屋敷跡に建つ寺院、真田庵(善名称院)を訪れました。





  門には幸村の旗印である六文銭が刻まれています。境内には、本堂や真田宝物資料館、真田昌幸の墓などがあります。真田父子が高野山に蟄居したのは慶長5年(1600)です。昌幸53歳、幸村33歳の時です。父昌幸は、11年後の慶長16年(1611)65歳でこの地で没しています。幸村は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、息子大助とともに、14年間住んだ九度山から大坂城へ入城しました。








 真田庵の境内にある真田宝物資料館を見学しました。長屋門形式、土蔵作りの資料館です。幸村が愛用したと伝えられる槍先や鎧などの武具や書状、真田紐などが展示されています。真田紐と呼ばれる丈夫な紐は、幸村が織機を使い織り上げた紐で、日常生活はもちろん、刀の下げ緒や鎧兜着用時の武具にも使用されたそうです。資金集めと、世の中の情報を探るために、家来に諸国を売り歩かさたとも伝えられているそうです。





 真田庵から東へ少し行った所にある真田古墳は、「この穴の向こうは大坂城に続いていて、かつて真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いた」という伝説が残っているそうです。






 大坂の陣での活躍により、幸村の生き様はドラマチックに伝えられました。真田十勇士は、幸村のために九度山に集まった志士たちです。史実を参考に生まれた戦国物語です。九度山町が誇る昌幸・幸村・大助の真田三代です。パンフレットには、真田三代ゆかりの里九度山町と書かれています。今年3月には真田ミュージアムが開館となり、大河ドラマ「真田丸」の放送とともに、山に囲まれた静かな九度山にたくさんの観光客が押し寄せています。私達もその仲間です。毎年5月に真田まつりが行われています。真田幸村父子を偲んで、総勢500名の武者行列が町内を練り歩く盛大なまつりとのことです。猿飛佐助を代表とする真田十勇士は人気者だそうです。戦乱の世を生きた名将真田幸村が、14年もの隠棲生活を送り、再起を誓った場所であるとともに、波乱に満ちた生涯の中でおだやかな日々を過ごせた所かもしれません。


 幸村は、慶長20年(1615)4月、大坂夏の陣で殿軍を守り奮戦、茶臼山から家康の本陣に突撃し、壮絶な最期を遂げました。49歳でした。炎上する大坂城で淀君と秀頼が自刃し、息子大助はこれに殉じ、真田軍の勇敢な戦いぶりは「真田日本一の兵」と武名は天下にとどろき、真田十勇士となり多くの人に愛され語り継がれています。